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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1950年の関連文献・資料

1950
『キネマ旬報』No.809 第七十三号(1950年1月1日発行、キネマ旬報社、66頁)

表紙:Greer Garson
「日本映画監督名鑑 1950年版」(1―8頁)
※五十音順に、79名の映画監督のプロフィールが掲載されている。小津監督は、以下の通りである。「明治36年12月12日、東京に生る。宇治山田中学卒業後、大正十二年松竹蒲田に入社、昭和二年監督に昇進、現在にいたる。第一回作品は昭和二年の「懺悔の刃」で、「東京の合唱」、「生まれてはみたけれど」、「東京の女」、「出来ごころ」、「浮草物語」、「東京の宿」、「大学よいとこ」、「一人息子」、「戸田家の兄妹」、「父ありき」、「長屋紳士録」、「風の中阿野牝鶏」、「晩春」その他の作品がある。ペンネーム、ジェームス・槙。」(2頁)

『スターアルバム』1950年版内外映画スター名鑑(1950年1月1日発行、アメリカ映画文化協会出版部、36頁)

「1949年想い出の映画 『晩春』の原節子と笠智衆」(16頁)

『スクリーン・ステージ』第192號(1950年1月10日発行、スクリーン・ステージ新聞社、8頁)

「映画アカデミイ賞!小津安二郎の”晩春”に!」(1頁)

日本映画人同盟編『百万人の映画知識』(1950年1月10日発行、解放社、228頁)

表紙裏:映画人サイン(印刷)小津安二郎もあり
「内外映画傑作場面集 松竹作品『晩春』」(1頁)
小津安二郎「場面の構成と演技指導」(8‐9頁)
※「この本は、日本の映画を、もっとずっとよいものにしようとして、皆さんに呼びかけた本です。この本は、映画をよくするために、皆さんに映画界の事情を、何から何まで、表も裏もありのままに知っていただくために作られた本です。‥‥」とある。
 小津論文の冒頭を引用してみよう。「場面の一つをとって、絵画的に美しいということは、動きのある映画では、美しいということにはならない。絵はがきの羅列ではないからである。問題は、場面の接続のしかたで、私は、それ故に、アップとロングのつぎ目が目立たないように苦心している。そして、私の好みは、キャメラを縦深に移動する事で、横にはあまり移動しない。横に長い手法をみると、並び大名舐めているような感じをうける。その好みのために、私は、セットも、奥ゆきのある、幅の狭いのを作って貰っている。そこに独特な悩みも出てくるわけで、背景の描きかたも変わってくる。」
 

『映画監督』(日本映畫監督協會機関紙)第三号(1950年1月20日発行、映画監督編集部、6頁)

題字 松竹・小津安二郎
「正倉院御物拝観-第一回見学会記-」
1949年11月14日、博物館勤務の竹内尚次氏の厚意を得て、会期後に鑑賞する機会を得た。写真に、後列、左に小津監督(5頁)

『新映画』第七巻第二号(1950年2月1日発行、日本映画出版、80頁)

「田中絹代渡米の余波 映画界批評」(25頁)
※一部抜粋する。「彼女が渡米して間もなく、こんな話が出た。「田中絹代の渡米に際して新東宝では五十万円を餞別に贈ったのに、永年つくした松竹からは僅かしかくれなかった。田中は心の中に松竹の薄情さをうらんで旅立った。」と言うのである。それに端を発してか、田中絹代本人のいない田中問題は、益々紛糾して行ったのである。新東宝が餞別に贈った五十万円は、それが新東宝作品になるであろう「宗方姉妹」の出演内諾金になるのではあるまいかと。これを機会に田中は松竹を離れるのではあるまいか。」

『スタア』第5巻第2号(1950年2月1日発行、スタア社、62頁)

表紙:マレーネ・デートリッヒ
「スタア・ベストセレクション 
★作品 第1位 青い山脈、第2位 野良犬 第3位 晩春 
★監督 第1位 木下恵介、第2位 黒澤明 第3位 小津安二郎
★主演男優 第1位 三船敏郎 第2位 森雅之 第3位 笠智衆
★主演女優 第1位 原節子 第2位 高峰秀子 第3位 田中絹代」(52-53頁)
上野一郎「第一線監督論2 小津安二郎論」(56-57頁)

『キネマ旬報』No.813 第七十七号(1950年3月1日発行、キネマ旬報社、62頁)

表紙:Esther Williams
「小津安二郎作品集 監督アルバムその1」(20―21頁)
※「美人哀愁」、「出来ごころ」、「大学よいとこ」、「生まれては見たけれど」、「東京の宿」、「一人息子」、「風の中の牝鶏」、「戸田家の兄妹」、「晩春」、「父ありき」、「長屋紳士録」のスチルあり。
小津安二郎「処女作前夜 ライス・カレー」(20頁)
※冒頭を紹介する。「この頃の若い人たちが演出家として一本になるのは、なかなか困難だが、私は誠に恵まれていて、ライス・カレーのおかげで監督になった。蒲田に撮影所があった頃、私は大久保忠素氏の助手であった。監督は大変いばっていたが、助手となると下働き同様で、何から何までやらねばならなかったから煙草を吸う暇さえない位の重労働で、いつも腹をへらしていた。楽しみといえば食べることしかなかった。」
「小津作品抄史」(21頁)
杉山平一「日本映画監督論・1 小津安二郎論」(28―29頁)
※冒頭を紹介する。「小津安二郎の映画画面は、縦のストウリを物語ることができない。凝視し分析し、それをつみかさねて行くことによって意味が沁みだし、横に広がり画面独自の世界を物語る。それが市シナリオの縦のストウリと、ぶつかり、くるしんでいる。」(28頁)
小津安二郎監督作品目録(28頁)

『キネマ旬報』No.815 第七十九号 (1950年4月1日発行、キネマ旬報社、102頁)

表紙:Moureen O`Hara
「春宵放談 -映画藝術の特性をめぐって-」小津安二郎、野田高梧、北川冬彦、水町青磁、飯田心美(38―43頁)
※一部抜粋する。北川「小津さんがねばっている。その間、いろいろ外の人が実験していた。それを静かに見ていたということでいい結果もなかったですか。」小津「やはりほかがトーキーを撮っている間僕はひそかにトーキーを勉強していたが、やはりトーキーを撮らないとわからないですね。だから「一人息子」というのは大変サイレント的だと思う。科白もわかったと思う。」

『映画世界』第3巻第4号通巻第24号(1950年4月1日発行、映画世界社、90頁)

「インタビュー談話室 源平時代を天然色映画に 夢を語る 大佛次郎氏」(42-43頁)
※冒頭を引用する。
 大佛氏の「宗方姉妹」が映画化される。主人公節子を帰朝後問題の田中絹代が扮することになった上、上原謙、木暮實千代、高峰秀子等の豪華キャストが組まれ、小津安二郎が演出を担当するのだから期待は大きい。大佛氏は原作者としてこの映画化に対してどう考えられているだろうか。
『この前も小津君が来て、話していったのだが、あれは登場人物が”かげ”を持っているから、むつかしいだろうね。だからあれをこわして、時間的にもうまく展開していって、小津流に組み立ててくれといっておいたんです。小津君にすべて任せました。こわし方にも色々あると思う。僕ははじめ、姉妹を主にしてたのが、書いているうちに亮助に興味がわいてきた。引揚者の気持ちなどという彼の持っているものにね。だから映画にする場合、彼を心棒にして、そのぐるりを節子や宏やらがめぐって話をすすめてみてはどうかな、とも考えてみたけれど、これは僕の一案で、小津君はやはり三人の女性を中心にして行くらしいね。まあ小説の「宗方姉妹」は僕のものだが、映画は小津君の「宗方姉妹」だという気持ちです。』

大佛次郎『宗方姉妹』(1950年4月10日発行、朝日新聞社、478頁)

装填:恩地孝四郎
口絵:生澤 朗

『映画物語』第5年第5號第四十三號(1950年5月1日発行、スクリーンステージ新聞社、76頁)

表紙:折原啓子
飯田心美「『宗方姉妹』はどんな作品か」(32-34頁)

『映画ファン』第10巻第6号通巻第106号(1950年6月1日発行、映画世界社、102頁)

表紙:原節子
「期待される『宗方姉妹』特集(6―11頁)
「原作者 大佛次郎氏に訊く」(6頁)
小津安二郎「節子と満里子」(7頁)
大黒東洋士「小津安二郎への期待」(7頁)
田中絹代「節子の言葉」(8頁)
上原謙「青白きインテリの言葉」(8―9頁)
高峰秀子「『宗方姉妹』の本読みの日」(9―10頁)
「物語」(11頁)

『高田保対談集 二つの椅子』(1950年6月20日発行、朝日新聞社、358頁)

装填・挿画:清水崑
「17 小津安二郎・野田高梧」(317―334頁)
※一部抜粋する。野田「君は近ごろの撮影所なんて、あまり覗かんだろう。時折りはやって来給えよ。面白いんだ。小津組の撮影の時なんか見ていると、「もうチョイ鎌倉」とか「もうチョイ東京」というふうなことを言ってるんだ。何のことか分かるかい。」高田「「いざ鎌倉」なら分かるけれども、「いざ東京」なんて判らん。(笑)。野田「撮影所のあるのが東海道の大船だろう?だから「チョイ鎌倉」は鎌倉の方角へちょいと寄せろという意味なんだ。つまり方角だよ。壁に囲まれた撮影所の中では、東だの西だの言っても通用しない。」小津「右とか左とかいってもね。こっちからいう右なのか、向うからいう左なのか、こんがらがるんでね。」、
 小津「ぼくが松竹へ入ったのは震災ちょっと間でだったが、あの当時三十を越してた人は野村芳亭さんだけで、ほかにはいませんでしたね。ぼくは二十歳であそこへ入って、それから兵隊に行ったんだ。うちじゃ、どうしても学校へいって勉強しろといって許さなかったんだが、学校へ入るだけの金を使わせてくれるなら、活動屋にして使わせろといって頑張ってね。やっぱり頑張らなければ通れない道でしたよ。その頃うちのおばあさんが映画館へいって、島津さんの作品を見たんですね。それでね。「うちの安二郎は活動屋になったが、やっぱり活動屋なんて恥かしいとみえて小津安二郎という名前を島津保次郎と変えてたよ」といったそうです。(笑)高田「で、おばあさんはその後に島津保と小津安の区別を知ったの?」小津「いや、知らずに死んでしまった。」
 高田「そこですよ。何の雑誌だったかで君の肖像写真を見たら、君は茶室の炉端でキチンと座り込んで、陶器か何か、とにかく骨董をいじくってるんだ。それを見てぼくは、こういう骨董の美というような味の不かいものを映画に持ち込もうとしたら、ずいぶん困るんじゃないかナと考えた。」小津「だから私は日本人の生活を撮りながら、床の間というものを出したことがないんですよ。床の間を画面に入れないんです。」

『宗方姉妹』暑中見舞い葉書(1950年7月発行、新東宝)

「製作、原作、脚色監督、撮影、俳優」

『映画ファン』第十巻第七号通巻第百七号(1950年7月1日発行、映画世界社、102頁)

表紙:木暮實千代
グラビア「薬師寺五重塔前で田中絹代と高峰秀子、『宗方姉妹』ロケ」(2頁)
双葉十三郎「監督のいる風景 『宗方姉妹』の小津安二郎」(23頁)
「懐かしの顔ぶれ 『宗方姉妹』に出揃う」(24―25頁)
※グラビア「京都御所で右から小原キャメラマン、小津監督、田中絹代、高峰秀子、上原謙が並んで歩くショット」、「『宗方姉妹』演出風景」他
「毎日新聞主催日本映画コンクール授賞式 日本映画賞「晩春」、脚本賞「野田高梧」、監督賞「小津安二郎」、女優賞「原節子」(74―75頁)
※1950年で4回目、さる4月20日に、1949年度コンクール授賞式が有楽町毎日会館内のセントポール・クラブで開催された。

『山のかなたに 特別無料試写会』(1950年7月26日発行、新東宝、4頁)

「完成近し 新東宝大作、小津安二郎監督作品、宗方姉妹」(4頁)

『映画評論』第7巻第7號(1950年8月1日発行、日本映画出版株式会社、102頁)

特集演出研究
表紙裏「宗方姉妹」全面広告
グラビア「宗方姉妹・顔合わせ」「宗方姉妹・ロケーション」「宗方姉妹・セット」(1―3頁)
荻昌弘「小津演出を見るの記-『宗方姉妹』より-」(8‐17頁)
「セット平面図」(10頁)
※本誌には、「今井正 演出談義 聞く人 清水晶」(18‐27頁)があり、23~24頁において、今井正の小津評が掲載されている。

『レポート』第5巻第8号(1950年8月1日発行、時事通信社、62頁)

表紙「日本映画界の宗匠 小津安二郎」
「小津安二郎と『宗方姉妹』」(50―52頁)
松竹をとび出した「巨匠」小津安二郎監督。田中絹代帰国第一回主演。その「宗方姉妹」の周囲には、さまざまな問題が渦巻いている。日本映画界の縮図がここにある。

『映画新報』創刊第一號(1950年8月1日発行、映画新報社、46頁)

「新作映画紹介(グラビア)宗方姉妹」(6頁)
※「宗方姉妹」スチル2葉、「演出する小津監督・上原謙他」
※冒頭を紹介する。「小津と黒澤の近作 大佛文学と芥川文学の映画化 『宗方姉妹』は、『長屋紳士録』、『風の中の牝鶏』、『晩春』につぐ小津安二郎の千五第四回作品である。『晩春』で廣津和郎の『父と娘』に手を付けた小津は今度は大佛次郎の新聞小説を映画化しようというのである。」
北川冬彦「『宗方姉妹』の演出と小津安二郎」(20―21頁)
※一部抜粋する。「私は昭和十年に、小津安二郎が『母を戀はずや』を松竹蒲田撮影所で撮っているところを見せてもらったことがある。今度十五年ぶりに『宗方姉妹』の演出を見た訳だが、『宗方姉妹』の演出ぶりは十五年前と殆ど変わっていないと思った。いや殆どどころか全く同じであると思った。」
北川冬彦「追悼 水町青磁 惹かれる別れ」(24頁)
※一部抜粋する。「彼が奇禍に遭った前日、茅ケ崎の小津・野田両氏が仕事をしていた旅館で、両氏を囲んで、彼、飯田心美、僕とで座談会があった。終わってから、折から来合わせた田中絹代、『宗方姉妹』のプロデューサー肥後博、兒井英男、荒田正男、斎藤良輔なぞ一座になって酒宴が始まり小津氏自慢のスキヤキ料理の馳走になった。」
「一面広告 宗方姉妹」(裏表紙裏)

『新東宝映画宣傳資料 宗方姉妹』(1950年8月8日発行、新東宝、4頁)

「イラスト・文字カット」(1頁)
「宣傳文案、スター順位」(2頁)
「宣傳ポイント、場内放送原稿、街頭宣伝放送原稿、上映時間表」(3頁)
「原作より 節子から宏への手紙、シナリオより」(4頁)

『新東宝 宗方姉妹』(1950年8月8日発行、新東宝株式会社)

解説、物語、製作、配役
小津安二郎「私の”宗方姉妹”を」
野田高梧「「宗方姉妹」雑感」
田中絹代「節子の言葉」
高峰秀子「本読みの日」
上原謙「青白きインテリの言葉」
兒井英生「プロデューサーとして」
肥後博「良心的な仕事」

『新東宝STUDIO NEWS』「宗方姉妹」(1950年8月8日発行、新東宝宣傳課、1頁)

「皆様の新東宝映画!皆様の撮影所の最も新しい製作ニュース!! 宗方姉妹 スタッフ、キャスト、物語」
発行日がないので、封切日とした。

『新東宝STUDIO NEWS』「宗方姉妹」(1950年8月8日発行、新東宝宣傳課、1頁)

「名匠小津安二郎監督と新帰朝の田中絹代を迎え、新東宝が全能力を挙げて製作する世紀の豪華超大作! 宗方姉妹 クランク快調!」
発行日がないので、封切日とした。

『新東宝号外 宗方姉妹』(1950年8月8日発行、新東宝配給中部支社、4頁)

「宗方家にしのびよる静かな悲劇の調べ 名匠!小津安二郎の精魂こって 芸術映画の真髄!ここに極まる キャスト アウトライン」(2-3頁)
小津安二郎「私の宗方姉妹を!」(4頁)
田中絹代「節子の言葉」(4頁)
高峰秀子「私は満里子の抜けがら」(4頁)

『新東宝号外 宗方姉妹』(1950年8月8日発行、國際劇場、4頁)

「宗方家にしのびよる静かな悲劇の調べ 名匠!小津安二郎の精魂こって 芸術映画の真髄!ここに極まる キャスト アウトライン」(2-3頁)
小津安二郎「私の宗方姉妹を!」(4頁)
田中絹代「節子の言葉」(4頁)
高峰秀子「私は満里子の抜けがら」(4頁)

『Piccadilly7宗方姉妹』(1950年8月8日発行、ピカデリー劇場、13頁)

「『宗方姉妹』特別披露公開にあたりて-鑑賞メモから-」(1頁)
「製作スタッフ・解説」(2頁)
「物語」(3頁)
小津安二郎「私の”宗方姉妹”を」(4頁)
「「宗方」における出演者」(5頁)
野田高梧「映画 宗方姉妹 雑感」(6頁)
田中絹代「節子の言葉」(6頁)
高峰秀子「本読みの日」(7頁)
上原謙「青白きインテリの言葉」(7頁)
兒井英生「プロデューサーとして」(8頁)
肥後博「良心的な仕事」(8頁)
「小津安二郎小伝、小津安二郎の輝く足跡」(9頁)
「ピカデリー興行方式と宗方姉妹について」(10頁)
Credits、Cast、Synopsis(11頁)
「ピカデリー余滴」(12頁)
尾々井武「宗匠気質のことなど -小津安二郎雑記-」(13頁)

『宗方姉妹』(1950年8月8日発行、新東宝、4頁)

「解説・物語」(2-3頁)
「製作・配役」(4頁)

『宗方姉妹』(1950年8月8日発行、新東宝、6頁)

「解説、物語」(2頁)
「シナリオより スタッフ、キャスト」(3頁)
「宗方姉妹 関西ロケ記」(4頁)
小津安二郎「私の”宗方姉妹”を」(4頁)
田中絹代「節子の言葉」(5頁)
高峰秀子「本読みの日」(5頁)
上原謙「青白きインテリの言葉」(5頁)
「広告 京都新京極ロンドンヤ他」(6頁)

『スメル・ニュース』No.2(1950年8月8日発行、金澤新東宝、2頁)

「宗方姉妹 キャスト、解説」(1頁)

『アサヒグラフ』(1950年8月9日発行、朝日新聞社、22頁)

「映画ごらく地帯 ”宗方姉妹”」(20―21頁)
グラビア6点
「スチールを撮るためこの日初めて四大スターの顔合わせがあった スチールだからといってオザナリにするような小津監督ではないので一時間半もこれに費やした 左から上原、高杉、高峰、田中」
「特別のはからいでアメリカから輸入された最新型ミッチェルの撮影機は 一千万円以上といわれ日本には二台しかない カメラの位置には各自の好みがあるが小津監督は専ら定位置を好む 左は照明の藤林甲 中央は撮影の小原譲治 右は小津監督」
「ウイスキーを前にしてハイお客さんですといったスチールを一枚 証明のためバーの裏板をはずすことになったが、そこはセットの有難さ 今度は真面目な顔でとの監督さんの注文に一瞬静寂」
「新東宝第二撮影所では二つのセット場を交互に一本の映画に集中できるので非常に落ち着いた仕事ができると初めて他社で撮る小津監督も大恐悦」
「美しく飾られたセットの中から一歩外に出れば全く雑然とした相貌 証明小道具の人たちは見えざる影の力としてたえず汗だくの活躍を続けている」
「バー・アカシアのセット 向うが田中絹代、手前が堀雄二、チョットした道具にも口やかましい小津監督ゆえ、このセットに使った小道具はすべて銀座など一流のバーから借り集めた」
※本文冒頭を引用する。「製作費は今までの最高といわれる『細雪』を凌ぎ五千二百万円に達している、と新東宝が自負する超大作『宗方姉妹』(大佛次郎原作)は四月末神戸ロケに始まってエンエン三ヶ月。姉妹になる田中絹代と高峰秀子の顔あわせは十五年ぶりである。」

『宗方姉妹』(1950年9月1日発行、日寶社、12頁)

「製作、配役」(2頁)
小津安二郎の「私の”宗方姉妹”を」(3頁)
野田高梧「宗方姉妹 雑感」(3頁)
「解説、物語」(4頁)
「グラビア」(5頁)
田中絹代「節子の言葉」(6頁)
高峰秀子「本読みの日」(6-7頁)
上原謙「青白きインテリの言葉」(6-7頁)
兒井英生「プロデューサーとして」(6頁)
肥後博「良心的な仕事」(6-7頁)
「原作より 節子から宏への手紙」(8頁)
「シナリオより」(9頁)
「朝日新聞より」(10頁)
「グラビア」(11頁)
「広告 東京銀行」(12頁)

『浅草國際劇場』No.44(1950年9月1日発行、編輯発行:松竹株式会社事業部、印刷:日宝社、14頁)

「名作映画と豪華バレエの2本立番組
小津安二郎監督の巨篇 大佛次郎原作 朝日新聞連載 宗像姉妹」(3頁)
「映画 宗方姉妹 解説 制作 
小津安二郎(談)「私の”宗方姉妹”を」(9頁)
「物語 配役」(10頁)
野田高梧「「宗方姉妹」雑感」田中絹代「節子の言葉」(11頁)
寺田勉「田中絹代の今後」(12頁)

『田中絹代歸朝第一回作品 宗方姉妹』(1950年9月4日発行、甲府市連合未亡人會、4頁)

救済事業 場所:セントラル劇場
製作、配役、解説、物語「宗方姉妹」

『映画と歌劇』第一號(サンデー映画別冊)(1950年9月15日発行、記者同人出版、34頁)

北川冬彦「小津安二郎の轉期」(14頁)
※冒頭を抜粋する。
「小津安二郎は、いま「宗方姉妹」を撮っている。完成も近いようだが、現在日本の監督として、恐らく最高の好条件の下に仕事をすすめている、と云っていいだろう。スタッフは誰でも知っているように、俳優は田中、高峰(秀)、上原というスター揃いであるし、シナリオは、昨年の毎日シナリオ賞をとった野田高梧、撮影機は新輸入のミッチェル、原作は大衆作家としては、インテリジェンスの持主として好評の大佛次郎のものだし、本人は「晩春」で毎日コンクールに映画賞受賞、いまや再び調子の上り坂にある。先日、三回ほど撮影現場を見に行ったが、余裕しゃくしゃくとして、凝りながら、スケジュールを確実に進んでいる。現場の人々は、皆、小津監督を尊敬し、小津監督の仕事に参加していることを自らの喜びとしている様子が、ひしひしと感じられた。このことは、松竹にあって以前からそうであtったが、他社での仕事であるだけに眼だった。小津安二郎ほど好運な映画監督は先ずないという印象も誰もが抱くに違いない。

『日本評論』<特集>映画王国(1950年10月1日発行、日本評論社、162頁)

表紙写真・土門拳
「《日本の顔・8》五千万円の風俗作家 小津安二郎」今井正談(124頁)
※今井正談であるので、今井正がここに書かれていることをそのまま述べているかどうかを疑う必要があるが、当時の小津安二郎監督に関する社会的評価の一端を知ることのできるものである。

『映画世界』第3巻第5號通巻第25號(1950年10月15日発行、映画世界社、58頁)

表紙:ジャネット・リイ
大黒東洋士「『宗方姉妹』と『羅生門』の検討」(40―42頁)
※一部抜粋する。「例えば小津安二郎の作品と言えばまず当たらんというのが通り相場だった。それが『晩春』あたりから外れてきた。結構な外れ方である。敢えて観客への迎合策を弄さない小津クラスの作品が当たり出したということは、一般大衆の鑑賞眼が高まりつつある一つの誕生とみていいだろう。」「『宗方姉妹』は新東宝起死回生の大作として前例のない五千二百万円乃至五千四百万円の巨費を製作費に投じ、宣伝にも特に力を入れた。」

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