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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料
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書誌情報
1927
『蒲田週報』第九十七號(1927年9月4日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「◇小津安二郎 大久保組の助監督で敏腕を振はれていたが今度(時代劇)監督心得に昇進した。近く第一回作品を発表すべく既に本読みも終了したので不日着手する筈(八月十日附)」(4頁)

『蒲田週報』第九十八號(1927年9月11日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

『懺悔の刃』(3‐4頁)
原作 監督 小津安二郎
脚色    野田高梧
撮影    青木勇
配役
解説 小津監督が昇進第一回作品として発表する時代劇で、改悛せる前科者に與へられたる皮肉な運命を巧みに取り扱った江戸巷説である。渥美、小波、花柳の三新進女優を特に抜擢し、青木技師は小田濱太郎技師の助手より抜擢された人であるなど所謂新人揃ひである。ロケーションは流山方面を選定し土蔵や家並に往昔の気分を見せるに苦心している。
略筋
抜擢された二新進として、渥美英子と小波初子のポートレートも掲載されている。
※『小津安二郎全集』(2003年、井上和男編、新書館)は、小津作品の脚本を網羅的に集めているが、脚本の現存しない作品については、キネマ旬報に掲載された略筋が転載されている。キネ旬の内容と比較すると、『蒲田週報』の方がより詳細に書かれていることが分かる。
画像:©松竹株式会社。

『電気館ニュース』No.37(1927年9月24日発行、浅草電気館、12頁)

「蒲田だより 小津監督の『懺悔の刃』は、近く完成されます。それが完成次第丘組で次の作品にかかります。」(8頁)

『おかめ/懺悔の刃』チラシ(1927年9月)

「近日完成 小津安二郎監督昇進第一回作品
 懺悔の刃 脚色 野田高梧
      撮影 青木勇
      主演 吾妻三郎、小川國松」

『電気館ニュース』No.38(1927年9月30日発行、浅草電気館、10頁)

「小津安二郎監督昇進作品 懺悔の刃 吾妻三郎・小川國松主演」(8頁)

『キネマ旬報』No.275八周年記念特別号(1927年10月1日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:ルイズ・ブルックス
広告(縦半分)「懺悔の刃」(小津安二郎監督昇進第一回作品)(79頁)
「各社近作 日本映画紹介 懺悔の刃」(83頁)
松竹蒲田時代映画
 原作者並監督者 小津安二郎氏 
 脚色者 野田高梧氏
 撮影者 青木勇氏
 主要役割
 木更津の佐吉 吾妻三郎氏
 弟木鼠の石松 小川國松氏
 同心眞鍋藤十郎 河原侃二氏
 山城屋庄左衛門 野寺正一氏
 娘お八重 渥美映子嬢
 乳母お辰 花柳 都嬢
  居酒の娘お末 小波初子嬢
  くりからの源七 河村黎吉
解説 今回監督に昇進した小津安二郎氏の第一回作品である。
略筋
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(9月27日)小津安二郎氏監督(ママ)の「懺悔の刃」は殆ど完成。」(118頁)

『電気館ニュース』No.39(1927年10月7日発行、浅草電気館、10頁)

「小津監督の『懺悔の刃』ファースト・シインを残して三週間の兵営生活、そこでその場面を斎藤監督が代理して完成いたしました。」(8頁)
「新進小津安二郎監督昇進第一回力作 懺悔の刃」(9頁)

『炎の空・懺悔の刃』(1927年10月14日発行、浅草電気館、両面)

表:『炎の空』(清水宏監督)
裏:『炎の空・懺悔の刃』(小津安二郎監督昇進第一回力作)

『電気館ニュース』No.40(1927年10月14日発行、浅草電気館、10頁)

「『懺悔の刃』原作監督 小津安二郎 脚色 野田高梧 撮影 青木勇 配役、梗概」(5-6頁)

『懺悔の刃・珠を抛つ』(1927年10月14日発行、九條花園倶楽部、1頁)

大阪九條花園倶楽部チラシ「小津安二郎監督昇進第一回原作監督第作品 江戸巷談大捕物秘録 懺悔の刃」
発行日がないので、封切日とした。

『帝興週報』Vol.3 No.44(1927年10月21日発行、新宿松竹館、6頁)

「プログラム
A 実寫 南洋群島現況 二巻
B 時代劇 懺悔の刃 七巻 説明 國井潤、大河豊
C 奏樂 「ローマンチック」指揮 サダキチ中野
D 現代劇 炎の空 十一巻 説明 高浪暁光、松平鶴聲」(1頁)
「懺悔の刃 梗概 配役、スタッフ」(3-4頁)

『蒲田』第六巻第十一號通巻六十四號(1927年11月1日発行、蒲田雑誌社、106頁)

表紙:柏美枝
グラビア「懺悔の刃」(35頁)
※小津安二郎氏が監督昇進第一回作品として着手した時代劇で、改悛せる前科者に興へられた皮肉な運命を巧みに取り扱った江戸巷説である。」スチル3枚掲載。
「蒲田新聞 小津安二郎氏は愈々時代劇の監督に昇進 大久保忠素監督の許に、助監督として久しくその敏腕を振るっていた、小津安二郎氏は監督心得に昇進した。併してその第一回作品として、氏自身原作、野田高梧氏脚色の『懺悔の刃』の監督に着手して、近く完成の域に近付きつつある。本映画は、改悛せる前科者に興へられたる皮肉な運命を巧みに取り扱った江戸巷説で、渥美、小波、花柳の三新進女優を特に抜擢し、技師は小田濱太郎氏の助手より抜擢されたる青木勇氏であるなど、所謂天晴れの新人揃いである。」(101頁)
「スタヂオ通信 小津安二郎氏は大久保素氏の助監督から昇進して氏自身の原作野田高梧氏脚色の『懺悔の刃』を吾妻三郎、小川国松の主演、青木勇氏のカメラで完成しました。」(102頁)

『蒲田週報』第百三號(1927年11月20日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)

『キネマ旬報』No.280(1927年11月21日発行、キネマ旬報社、64頁)

表紙:ローラ・ラ・プラント
内田岐三雄「主要日本映画批評 編輯部 懺悔の刃」(59頁)
※「これは、その映画の大部分を「キック・イン」に仰いでいる。そして、その他に「レ・ミゼラブル」からはミリエル僧正の件りを。「豪雨の一夜」”Cassidy”からが最後の一巻を、及びこのほかに色々の外国映画から、色々の気持ちと描写を借りて来ている。と、云ったら此の映画は随分と下らないもので、つぎはぎだらけの疑似物だと云った感じを或いは受けるかもしれない。が、映画そのものは、そうした借り物の跡は明らかに、時には何となく覗はれ様とも、しかもそれは、脚色者なり、監督者なりに、よく噛みしめられた上での(ニ三の個所を除いては)改作なのである。」

『蒲田週報』第百四號(1927年11月27日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)

『蒲田週報』第百五號(1927年12月4日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)

『蒲田週報』第百六號(1927年12月18日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)
「◆吾妻三郎  本年三月蒲田入社以来時代劇部の主脳として十餘本の力作を発表したが今度時代劇部の解散と共に現代劇に出演する事になり東(あずま)三郎と改名した来る新春早々第一回主演の制作に着手する筈。」(4頁)

1928
『蒲田週報』第百八號(1928年1月15日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)

『蒲田週報』第百九號(1928年1月29日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)

『蒲田週報』第百十號(1928年2月5日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)

『蒲田週報』第百十二號(1928年2月19日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、6頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)

『蒲田週報』第百十三號(1928年3月4日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)

『蒲田週報』第百十四號(1928年3月11日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、6頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)

『蒲田週報』第百十五號(1928年3月18日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)

『蒲田週報』第百十六號(1928年3月25日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組次回作品準備中」(4頁)

『蒲田週報』第百十七號(1928年4月1日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 次回作品準備中」(4頁)
※表紙の発行日が前号と同じ、4頁では正しい表記となっている。

『蒲田週報』第百十八號(1928年4月15日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 監督自ら原作脚色の學生喜劇『若人の夢』に着手齋藤達雄、雲井鶴子、吉谷久雄、久米順子、阪本武、大山健二の大共演。」(4頁)

『蒲田週報』第百十九號(1928年4月22日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「若人の夢
原作脚色監督 小津安二郎
撮影     茂原英雄
配役
W大學生岡田長吉 齋藤達雄
その戀人美代子 若葉信子
W大學生加藤兵一 吉谷久雄
その戀人百合子 松井潤子
岡田の父 阪本武
洋服屋古川 大山健二
解説
学校外に於ける学生気質を最も巧みに描写された映画で流石に学生生活に体験のある原作者だけに細緻な点までも注意されている。新人連の大共演で銀座街頭、非日比谷公園、井の頭公園、早稲田の学生街、靑バスなど取り入れられ、ユーモアな喜劇である。
略筋」(2-3頁)
「スタヂオ通信 ◆小津組 『若人の夢』撮影中。」(4頁)

『高千穂館ニュース』No.90(1928年4月28日発行、高千穂館、4頁)

廣島市高千穂館「松竹キネマ蒲田特作映画『若人の夢』全六巻 原作脚色監督:小津安二郎 撮影:茂原英雄 キャスト」(2-3頁)
発行日がないので、封切日とした。

『蒲田週報』第百二十號(1928年5月6日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 『若人の夢』撮影中」(4頁)

『蒲田週報』第百二十一號(1928年5月13日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタヂオ通信 ◆小津組 『若人の夢』を完成し続いて『女房紛失』の制作に着手した。これは映画時代誌の募集に当選せる物で、脚色は吉田百助である。」(4頁)

『蒲田週報』第百二十二號(1928年5月20日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「女房紛失 
原作 高野斧之助
脚色 吉田百助
監督 小津安二郎
撮影 茂原英雄
配役
彼(譲次)  齋藤達雄
彼女(由美子)岡村文子
名探偵(車六芳明)國島荘一
泥棒(有世流帆)菅野七郎
伯父(外科院長)阪本武
探偵の助手 關時男
譲次の妻曜子 松井潤子
バナナ屋 小倉繁
解説 映画時代(本年四月號掲載)の懸賞脚本に当選せる物で、劇筋は變轉奇抜の最もスピードある一種の喜劇化された探偵劇とも見られる。千駄ヶ谷原宿、青山の山の手方面へロケーションに出かける筈。尚新進の茂原技師が鮮やかなキャメラワークで愉快なトリックを用いるという。
略筋」(4頁)
「スタヂオ通信 ◆小津組 『女房紛失』撮影中。」(4頁)

『キネマ旬報』No.298(1928年6月11日発行、キネマ旬報社、82頁)

表紙:リア・デ・ブティ
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(6月2日調査) 小津安二郎氏は、引き続き既報「女房紛失」の監督中である。」(77頁)

『横濱角力常設館』第五巻第二十六號(1928年6月15日発行、横浜角力常設館、4頁)

「女房紛失 
原作 高野斧之助
脚色 吉田百助
監督 小津安二郎
撮影 茂原英雄
配役
梗概 曜子という美しい妻があるにも関わらず日夜遊蕩気分に浸っている不埒な青年彼の名は譲次と呼ばれた彼の妻曜子は夫のこの頃の放蕩に持て余し泣いて伯父に訴えた。」(3頁)

『電気館ニュース』No.76(1928年6月15日発行、浅草電気館、12頁)

「映画順序 一女房紛失 説明 近江錦堂、菊池一郎」(3頁)
「女房紛失 映画時代懸賞当選脚本
 原作 高野斧之助
 脚色 吉田百助
 監督 小津安二郎
 撮影 茂原英雄
 配役 彼(譲次)    齋藤達雄
    彼女(由美子)  岡村文子
    名探偵(車六芳明)國島荘一
    泥棒(有世流帆) 菅野七郎
    伯父(外科院長) 阪本武
    探偵の助手  關時男
譲次の妻曜子  松井潤子
バナナ屋  小倉繁    
梗概

『ロイドのスピーディ・高杉晋作・女房紛失』(1928年6月15日発行、基隆劇場、1頁)

「蒲田独特映画 監督・小津安二郎 齋藤達雄・松井潤子主演 女房紛失」
発行日がないので、封切日とした。

『さっぽろ、たぬきこうぢ遊楽館週報かがやき』第八十二號(1928年6月15日発行、遊楽館、8頁)

「映画時代募集 第一等当選脚本 かまた喜活劇 女房紛失 全巻 原作:高野斧之助 脚色:吉田百助 監督:小津安二郎」(7頁)
発行日がないので、封切日とした。

『蒲田週報』第百二十三號(1928年6月17日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

スチル『女房紛失』岡村文子・斉藤達雄(3頁)
「スタジオ通信 小津組『女房紛失』を完成。」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『蒲田週報』第百二十四號(1928年6月24日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『蒲田週報』第百二十五號(1928年7月1日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 池田、大久保、蔦見、重宗、五所、齋藤、佐々木、小津の各組は次回作品準備中。」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『映画』第四巻第七号(1928年7月1日発行、大正通信社、46頁)

表紙:都さくら
現代劇『女房紛失』グラビア(13頁)
※立派な奥様があるにも拘らず、モガと合乗りで、ドライブしたり、踊ったり、日夜遊蕩気分に浸っている青年彼‥斎藤達雄さん、それを苦にして、家庭をまもり乍ら様々と心を砕く、お気の毒な賢夫人彼女‥松井潤子さん、新人小津安二郎氏が監督した、變轉奇抜な而もスピードある正喜劇です。」
岡村文子さん『女房紛失』(16頁)

『THEATRE DE TOYO』VOL.4 NO.30通號第百九十三號(1928年7月5日発行、廣島千日前東洋座、4頁)

「松竹蒲田特作 女房紛失全六巻 映画時代所載 原作:高野斧之助 シナリオ:吉田百助 デレクター:小津安二郎 キャメラ:茂原英雄 解説:吉見健一郎 キャスト」(2-3頁)

『蒲田週報』第百二十六號(1928年7月8日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『キネマ旬報』No.301(1928年7月11日発行、キネマ旬報社、92頁)

表紙:ルネエ・アドリイ
北川冬彦「主要日本映画批評 女房紛失」(74頁)
※一部抜粋する。「現代笑劇。このストオリイは「映画時代」(本年四月)の懸賞募集当選作なのであるが、これでは決して募集当局者を満足せしめえたものではなかろう。凡作である。脚色も一寸気が利いているが(ラストの字幕の如き)あへて推賞するほどのものではないし、監督もいたづらにディテイルに凝りすぎて失敗している。」「とは言え、この映画は所謂「蒲田独特の五巻もの」としては、決してわるい出来のものではない。」
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(7月1日調査)小津安二郎氏の次回作品は未だ決定に至らず」(83頁)

『蒲田週報』第百二十七號(1928年7月15日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『蒲田週報』第百二十八號(1928年7月22日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『蒲田週報』第百二十九號(1928年7月29日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「撮影中の各組如左 野村組、牛原組、島津組、大久保組、清水組、五所組、齋藤組、佐々木組(小津組記述なし)」(2頁)
画像:©松竹株式会社

『蒲田週報』第百三十號(1928年8月5日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『蒲田週報』第百三十一號(1928年8月12日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 『カボチャ』撮影中」
画像:©松竹株式会社

『蒲田週報』第百三十二號(1928年8月19日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「笑劇 カボチャ」(2‐4頁)
原作監督 小津安二郎
脚色 北村小松
撮影 茂原英雄
配役 山田藤助 齋藤達雄
   その妻かな子 日夏百合繪
   長男一男 半田日出丸
   妹ちえ子 小櫻葉子
   社長 坂本武
解説 巧みに南瓜を取り扱った喜劇で、小津監督苦心の原作である。手凡な内容ではあるが下級社員の生活を如実に見せ、諷刺、比喩笑いの裡に観者に力強い何ものかを暗示し訓諭している映画である。
略筋
画像:©松竹株式会社

『キネマ旬報』No.305(1928年8月21日発行、キネマ旬報社、92頁)

表紙:メエリー・ピックフォード
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(8月13日)小津安二郎氏は「女房紛失」を製作して以来久しく休養を続けゐたるが此程氏自ら原作したものを北村小松氏脚色の下に撮影を開始した。モダンボーイ、モダンガールが南瓜を取り巻いて演ずる滑稽の数々を描いたもので題名は「南瓜」主演は新進の珍優齋藤達雄、その他助演の顔ぶれとしては日夏百合繪、半田日出丸、小櫻葉子、坂本武等でキャメラマンは小原譲治氏である。」(84頁)

『歌舞伎座週報』第三十七號(1928年8月24日発行、歌舞伎座、4頁)

「上映順 2 女房紛失 説明 清水大海」(1頁)
「松竹蒲田映画 懸賞当選脚本 女房紛失 シナリオ‥吉田百助 デレクター:小津安二郎 キャメラ:茂原英雄
配役」(3頁)

『蒲田週報』第百三十三號(1928年8月26日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

スチル「カボチャ」(齋藤達雄、日夏百合繪、小櫻葉子、半田日出丸)(2頁)
「完成せる組 小津組『カボチャ』」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『高千穂館ニュース』No.106(1928年8月31日発行、高千穂館、4頁)

「松竹蒲田特作現代映画 或る無能な會社員の話 カボチャ
ストーリー:小津安二郎
シナリオ:北村小松
キャメラ:茂原英雄
キャスト、解説」(2-3頁)

『狼藉者・夏の日の恋・カボチャ』(1928年8月31日発行、九條花園倶楽部、1頁)

大阪九條花園倶楽部チラシ「諷刺大哄笑劇 カボチャ 全巻」
発行日がないので、封切日とした。

『キネマ旬報』No.307(1928年9月11日発行、キネマ旬報社、102頁)

表紙:グウェン・リー
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(9月3日調査) 小津安二郎氏は、「カボチャ」を完成した。(97頁)

『THEATRE DE TOYO』VOL.4 NO.40通號第二百三號(1928年9月13日発行、廣島千日前東洋座編輯部、4頁)

「或る無能な會社員の話 カボチャ
ストーリー:小津安二郎
シナリオ:北村小松
キャメラ:茂原英雄
キャスト、解説」(3頁)

『蒲田週報』第百三十四號(1928年9月16日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 齋藤、佐々木、小津各組 作品準備中(4頁)
画像:©松竹株式会社

『キネマ旬報』No.308(1928年9月21日発行、キネマ旬報社、84頁)

表紙:エスター・ラルストン
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(9月12日調査)小津安二郎氏は「カボチャ」を完成し目下休養中である。(80頁)

『蒲田週報』第百三十五號(1928年9月23日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 原作菊池一平、潤色伏見晃の喜劇『引越し夫婦』に着手した。主演は渡邊篤、助演者は吉川満子、大國一郎、中濱一三、浪花友子、大山健二」(3頁)
画像:©松竹株式会社

『新宿松竹館週報』Vol.4 No.41(1928年9月28日発行、新宿松竹館、6頁)

「スタジオだより 小津安二郎監督は、渡邊篤、吉川満子、中濱一三、大山健二、浪花友子という顔ぶれで『引越し夫婦』という例に依ってのナンセンス喜劇を撮影中ですが、直ぐ完成の予定です。」5頁)
「蒲田独特 奇妙奇天烈 爆笑連発 諷刺滑稽 大喜劇!
小津安二郎監督 天下一品渡邊篤主演 引越し夫婦 近日上映」(6頁)

『蒲田週報』第百三十六號(1928年9月30日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、6頁)

「引越し夫婦」
原作 菊池一平
潤色 北村小松
監督 小津安二郎
撮影 茂原英雄
配役
 藤岡英吉 渡邊篤
 その妻千代子 吉川満子
 家主甚兵衛 大國一郎
 その息子精一 中濱一三
 薬屋の娘春子 浪花友子
 集金員服部 大山健二
解説 小津監督が『カボチャ』以来久方振りに作る喜劇で軽快洒脱、ナンセンスコメディの中にも若夫婦の生活を風刺しているという作品である。清水組の『愛戀二人行脚』で活躍した中濱一三の出演、新進の大山健二、大國一郎や最近頓にその進境を認められた浪花友子など何れも新鋭を集めた物だけに興味が深い。
略筋
「スタジオ通信 小津組『引越し夫婦』完成」(4頁)
スチル「引越し夫婦」2葉
画像:©松竹株式会社

『キネマ旬報』No.309(1928年10月1日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:ビリー・ダブ
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(9月22日)小津安二郎氏は「カボチャ」に次ぐものとして菊池一郎氏原作、伏見晃氏潤色にかかる諷刺喜劇「引越し夫婦」を製作中である。主演は渡邊篤氏で、吉川満子、中濱一三、浪花友子、大山健二等が助演しているキャメラは茂原英雄氏が担当である。

『蒲田週報』第百三十七號(1928年10月7日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『THEATRE DE TOYO』VOL.4 NO.44通號第二百七號(1928年10月10日発行、廣島千日前東洋座編輯部、6頁)

『引越し夫婦』原作:菊池一平 脚色:伏見晃 監督:小津安二郎 撮影:茂原英雄(4頁)

『キネマ旬報』No.310(1928年10月11日発行、キネマ旬報社、88頁)

表紙:ドロシー・ガリヴァー
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(10月3日調査) 小津安二郎氏は前號所報「引越し夫婦」を完成し、目下次回作品の選定中。

『蒲田週報』第百三十八號(1928年10月14日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(3頁)
画像:©松竹株式会社

『蒲田週報』第百三十九號(1928年10月21日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(3頁)

『キネマ旬報』No.311(1928年10月21日発行、キネマ旬報社、106頁)

表紙:リア・トーラ
「各社近作 日本映画紹介 引越し夫婦」(66頁)
松竹蒲田映画
 原作者 菊池一平
 潤色者 伏見晃
 監督者 小津安二郎
 撮影者 茂原英雄
 主要役割
 藤岡英吉 渡邊篤
 その妻千代子 吉川満子
 家主甚兵衛 大口一郎
 息子清一 中濱一三
 薬屋の娘 浪花友子
 集金員 服部 大山健二
解説 小津安次(ママ)郎氏の「かぼちゃ」に次ぐ監督作品である。
略筋
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(10月12日)小津安二郎氏は「引越し夫婦」に次ぐ作品の脚本選定中である。」(92頁)

『蒲田週報』第百四十號(1928年10月28日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(4頁)

『キネマ旬報』No.312(1928年11月1日発行、キネマ旬報社、112頁)

表紙:アリス・ホワイト
岡村章「主要日本映画批評 カボチャ」(102頁)
※一部引用する。「近ごろ問題の短篇喜劇中の優秀作品である。小津作品はほとんど駄作をみせない、そしてこれは良き作品である。ストウリイがよき題材を捉えている点、ギャッグの利用、そして、「落ち」の巧さ等、讃えられてよい。小津作品の特長ともいえるのは、キャメラのコンポジッションが丹念なことである。セットが簡潔なことである。そして、映画的なものを多分に持ち合わせている。」
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(10月23日)小津安二郎氏も次回脚本選定中。」(104頁)

『蒲田週報』第百四十一號(1928年11月4日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

本號 スタジオ通信欄なし
画像:©松竹株式会社

『蒲田週報』第百四十二號(1928年11月4日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「肉體美」(1-2頁)
原作脚色 伏見晃
監督 小津安二郎
撮影 茂原英雄
配役
 高井一郎 齋藤達雄
 その妻律子 飯田蝶子 
 大倉傳右衛門 木村健兒
 学生遠山勇 大山健二
解説
 美術シーズンに際して女流画家とその夫との生活を喜劇化した物である。久方に蒲田の喜劇女王飯田蝶子が最近頓に人気を得つつある新進の斎藤達雄と主演して円熟巧緻の演出で笑いに終始せしめている。然して又その笑いの中に夫婦間を諷刺しているのも単なる笑劇とその軌を異にしている處である。」
略筋
「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『キネマ旬報』No.313(1928年11月11日発行、キネマ旬報社、100頁)

表紙:メエリー・ブライアン
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(11月2日調査)小津安二郎氏が「引越し夫婦」に次ぐ作品は、伏見晃氏原作脚色にかかる「肉體美」と決定、直ちに製作に着手した。渡邊篤、飯田蝶子の主演で木村健兒、大山健二が助演している。キャメラは茂原英雄氏が担当している。」(91頁)

『蒲田週報』第百四十三號(1928年11月18日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

スチル『肉體美』(高井一郎の齋藤達雄、妻律子の飯田蝶子)(1頁)
「スタジオ通信 小津組 『肉體美』撮影中猶ほ電信工夫墜落の場は下に網を張っての冒険撮影である。
画像:©松竹株式会社

『キネマ旬報』No.314(1928年11月21日発行、キネマ旬報社、94頁)

表紙:ジョン・ギルバート
岡村章「主要日本映画批評 引越し夫婦」(77頁)
松竹蒲田作品(三巻)
※一部引用する。「これは優れた蒲田短篇喜劇である。この監督者が送り出す短篇ものの殆どが、娯楽価値に優れ、その内容に於いては映画的エレメントを備えている点、近く普通作品の発表が待たれねばならない。」
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(11月13日)小津安二郎氏は尚既報「肉體美」の撮影中である。」(84頁)

『蒲田週報』第百四十四號(1928年11月25日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 『肉體美』撮影中」(3頁)
画像:©松竹株式会社

『キネマ旬報』No.315(1928年12月1日発行、キネマ旬報社、108頁)

表紙:エブリン・ブレント
「各社近作日本映画紹介 肉體美」(90頁)
松竹蒲田映画
 原作並脚色者 伏見晃
 監督者 小津安二郎
 撮影者 茂原英雄
 主要役割
  高井一郎 齋藤達雄
  妻律子  飯田蝶子
  大倉傳右衛門 木村健兒
  學生遠山 大山健二
 解説 小津安次(まま)郎氏の「引越し夫婦」につぐ作品である。
略筋
「日本各社撮影所通信 蒲田通信(11月22日調査)小津安二郎氏は尚「肉體美」を監督中である。」(103頁)

『蒲田』第七巻第十二號通巻第七十七號(1928年12月1日発行、蒲田雑誌社、124頁)

表紙:栗島すみ子
グラビア「引越し夫婦」(26頁)
伏見晃「兵隊プロダクション」(70-72頁)
※一部を引用する。「兵隊プロダクション即ち小津組の監督、小津ちゃん即ち小津安二郎君は近衛四聯隊で鍛え上げた国家の干城、陸軍歩兵伍長である。そして、カメラマンの茂原英雄君、これは少々遠走りで朝鮮の兵隊さん、国境警備の唄かなんか高らかに唄った所の陸軍歩兵上等兵なのである。助手の栗林君が麻布三聯隊で叩き上げた、これ亦頑丈な歩兵上等兵。同じく助手の厚田君が、カメラ等担ぐのはお茶の子である輜重兵の一等卒と言う顔ぶれである。」
「蒲田・下加茂・太秦 封切記録 引越し夫婦」(96頁)
「スタヂオ通信 小津安次(ママ)郎氏は、既報の『カボチャ』を完成後、久しく休養の處、菊池一平氏原作、伏見晃氏潤色の『引越し夫婦』と決定し、目下撮影中です。」(109頁)

『電気館ニュース』No.100(1928年12月1日発行、浅草電気館、10頁)

「肉體美
 原作脚色:伏見晃
 潤色監督:小津安二郎
 撮影編輯:茂原英雄
配役、梗概」(7頁)

『蒲田週報』第百四十五號(1928年12月2日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 『肉體美』完成」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『蒲田週報』第百四十六號(1928年12月9日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(4頁)
画像:©松竹株式会社

『キネマ旬報』No.316(1928年12月11日発行、キネマ旬報社、104頁)

表紙:ループ・フェレス
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(12月1日調査)小津安二郎氏は既報「肉體美」を完成した。次回作品は伏見晃氏原作脚色にかかる喜劇「寶の山」と決定しているが、主演はまだ発表に至らない。」(99頁)

『蒲田週報』第百四十七號(1928年12月16日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(3頁)

『映画科學研究』第二巻(1928年12月18日発行、映画科學研究會、206頁)

第二回座談會 映画時事雑談の夕 昭和三年十一月十七日 於レインボー・グリル 158―176頁
出席者
松竹蒲田監督 牛原虚彦(1897~1985)
同   同  五所平之助(1902~1981)
同   同  清水宏(1903~1966)
同   同  小津安二郎(1903~1963)
同   俳優 鈴木傳明(1900~1985)
同   同  環泰子
同   技師 三浦光男(1902~1956)
同   同  佐々木太郎
同   脚本部 村上徳三郎
葵館     徳川夢声(1894~1971)
中央映画社  柳澤保篤
同      森岩雄(1899~1979)
映画研究會  田中三郎(1899~1965)

※座談会時、小津監督は25歳。『懺悔の刃』、『若人の夢』、『女房紛失』、『カボチャ』、『引越し夫婦』と5作品が封切され、12月1日に封切される『肉体美』を待つころである。

『蒲田週報』第百四十八號(1928年12月23日発行、松竹キネマ蒲田撮影所企画部、4頁)

「スタジオ通信 小津組 次回作品準備中」(4頁)
画像:©松竹株式会社

1929
『キネマ旬報』No.318(1929年1月11日発行、キネマ旬報社、120頁)

表紙:ルイズ・ブルックス
内田岐三雄「主要日本映画批評 肉體美」(108頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(12月26日調査)小津安二郎氏は、「肉體美」に次いで此の程氏自ら原作し、伏見晃氏が脚色した喜劇「寶の山」に着手した。小林十九二、日夏百合繪、靑山萬里子、岡村文子、飯田蝶子、浪花友子、若見多喜子、糸川京子等が共演している。キャメラは茂原英雄氏である。」(116頁)

『松竹ニュース』第三百六十二號(1929年1月15日発行、金澤松竹座、4頁)

「二十日より上映の名篇 肉体美 蒲田独特の正喜劇 小津安二郎監督 飯田蝶子 齋藤達雄主演」(4頁)

『松竹ニュース』第三百六十三號(1929年1月20日発行、金澤松竹座、4頁)

「肉体美
 原作脚色 伏見晃
 監督 小津安二郎
 撮影 茂原英雄
 役割
 梗概 高井一郎は妻の律子に対しては頗る権威がなく、妻が油絵を描くので貧弱な肉体でそのモデルになっていた。金持の爺さん大倉傳右衛門は註文の絵がどの位まで出来上がっているかを見に来た時、高井がいたのでおかしな顔をした。それ故高井はたばこを買いにやられたりして全く夫としての権威を認められなかった或るバーの内部である。高井が大倉に届ける絵を持って這入って来たのを見た。‥」(2-3頁)

『キネマ旬報』No.319(1929年1月21日発行、キネマ旬報社、109頁)

表紙:ナンシー・キャロール
「各社近作日本映画紹介 寶の山」(85頁)
 松竹蒲田作品
原作者 小津安二郎
脚色者 伏見晃
監督者 小津安二郎
撮影者 茂原英雄
 主要役割
丹次郎 小林十九ニ
藝妓 染吉 日夏百合絵
同 麥八 青山万里子
モガ 蝶子 岡村文子
芸者家の女将 飯田蝶子
芸妓 小浪 浪花友子
同 若勇 若美多喜子
女中 おたけ 糸川京子
解説:小津安二郎氏の「肉體美」に次ぐ作品である。
略筋
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(1月12日調査)小津安二郎氏は、尚既報「寶の山」を作成中である。」(102頁)

『横常週報』第十四號(1929年2月、横濱常設館、8頁)

「小津安二郎監督 伏見晃脚色・茂原英雄撮影 寶の山 近日独占封切」(2頁)

『キネマ旬報』No.320(1929年2月1日発行、キネマ旬報社、166頁)

表紙:チャールズ・ロヂャース
「旬報グラフィック 小林十九二「僕が凧を上げて遊んでいるのに、君なんか来て誘惑しちゃ困るよ。」
日夏百合繪「だからさ、ちょっと百圓ばかり貸して下さりあ、妾、直ぐ帰るからって言っているじゃないの、ケチね」松竹蒲田作品「寶の山」」84頁
見開き広告「寶の山」(110-111頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(1月24日調査)小津安二郎氏は、引き続き「寶の山」の制作中である。」(132頁)

『東洋座』NO.226(1929年2月8日発行、廣島千日前東洋座宣傳部、4頁)

表紙:「憧れの鈴木傳明・田中絹代突如來廣 十日、十一日の晝夜親しく御挨拶致します。」
「松竹蒲田作品 寶の山 原作監督:小津安二郎 脚色:伏見晃 撮影:茂原英雄 キャスト、梗概」(3頁)

『高千穂館ニュース』No.90(1929年2月22日発行、高千穂館、4頁)

「松竹蒲田作品 寶の山
原作監督:小津安二郎
脚色:伏見晃
キャスト、略筋」(3頁)

『新宿松竹館週報』第五巻第十號(1929年2月22日発行、新宿松竹館、8頁)

「すたでぃおだより ◇小津監督『寶の山』を完成して、次回は伏見晃氏脚色の『思い出』と題するものに着手。出演者は渡邊篤。齋藤達雄。松井潤子などで近く雪の赤倉方面へロケーションに出かける予定であります。」(6頁)

『加賀見山 寶の山 きづな』(1929年2月22日発行、末廣座、1頁)

「花柳 珍喜劇 寶の山」
発行日がないので、封切日とした。

『新宿松竹館週報』第五巻第十二號(1929年3月8日発行、新宿松竹館、8頁)

「『宝の山』配役 原作監督:小津安二郎 脚色:伏見晃 撮影:茂原英雄 略筋」(4頁)
※「略筋 丹次郎は下宿か居候か梅迺家という藝妓屋の二階にヤニ下って毎日意味ない日を明かし暮していた。藝妓の麥八、小浪など、各々彼に思召はあったが、彼は染吉と相愛の仲であった。」

『帝國館ニュース』No.1(1929年3月15日発行、浅草帝國館、12頁)

「御挨拶 支配人 玉木長之輔」(3頁)
「スタジオだより 小津監督の『思ひ出』雪の赤倉からまだ帰りません。しかし素晴らしいスチールを送ってよこしましたから必ず好いものが出来る事と思はれます。そのスキーの爲めに結城も松井潤子も雪焼けで殆どインデアンのやうになって困っているそうであります」(6-7頁)

『松竹ニュース』第三巻第十四號(1929年3月22日発行、浅草松竹館、8頁)

「次週公開 松竹キネマ蒲田独特喜劇
原作脚色 伏見晃
監督 小津安二郎
珍優 齋藤達雄 主演
肉體美 飯田蝶子・木村健兒・大山健二助演
彼のワイフは立派な美術家です。
彼のワイフに対しては頗る権威のないハズでした。ところが俄然ここに素晴らしい大珍事が起こり彼は‥」(6頁)

『帝國館ニュース』No.2(1929年3月24日発行、浅草帝國館、14頁)

「スタジオだより 小津監督の『思ひ出』雪の赤倉から帰って参りました。そしてセットの準備中であります。」(6頁)
「雪の思い出懐かし大學生スキーローマンス 新進気鋭小津安二郎監督 独特の持味発揮大傑作 青春學生スポーツ劇 思ひ出」(9頁)

『蒲田』第八巻第四號通巻第八十一號(1929年4月1日発行、蒲田雑誌社、116頁)

表紙:栗島すみ子
グラヒック「寶の山のスナップで右は小津監督岡村文子で一番はぢは小林十九ちゃん。」(43頁)
村岡義雄「新進三監督よ」(56-57頁)
※冒頭を引用する。「蒲田スタヂオの監督中で、先ず相当な興味を以てその将来を期待するものに、五所平之助と佐々木恒次郎と小津安二郎の三人がいる。」
伏見晃「『思い出』脚色雑記」(63-64頁)
※冒頭を引用する。「赤倉温泉に十日間位居る間にスキーの物語を作り上げて、帰って来てから脚色する、と言う。まことに都合のいい口実で、家の方もうまく騙したつもりがなんかで、暮れの三十日、スキーを担いで、大久保、小津両監督の主催する一行に、まぎれ込んで赤倉へ滑りに行ってしまった。」
「映画物語 小津保次(ママ)郎作品 思い出」(78-79頁)
「スタヂオ通信 小津安次(ママ)郎氏は、既報「寶の山」に次ぐ作品として伏見晃氏原作脚色のスキー映画「思い出」を結城一朗、松井潤子、齋藤達雄等の共演にて撮影中です。」(101頁)

『帝國館ニュース』No.4(1929年4月6日発行、浅草帝國館、14頁)

「スタジオだより 小津監督の『思ひ出』漸く完成しました。最初六巻位の予定で着手致しましたが、監督の細心がトウトウ九巻という大物になってしまいました。あまり長いといふ所長よりのお目玉を恐れて断然カットする考えで整理室に這入って見たが、撮影方法が細かいのでどうにもカットが出来ないので頭を下げました。」(4頁)
「雪の思い出懐かし大学生スキーローマンス 小津安二郎監督大傑作思ひ出改題若き日」(12頁)

『キネマ旬報』No.327(1929年4月11日発行、キネマ旬報社、108頁)

表紙:ベティー・カムプスン
「半面広告 思い出改題若き日」(82頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田(4月4日調査)小津安二郎氏は、「思い出」をほとんど完成したが公開に際しては、「若き日」に改題さるるとい云う」(94頁)

『野良犬 若き日 鳥鵆月白浪』(1929年4月13日発行、末廣座、1頁)

「新進花形結城一郎 珍優 齋藤達雄 姫百合 松井潤子 大競演 英才小津安二郎監督 妙腕発揮近来の傑作(思ひ出)改題若き日」

『高千穂舘ニュース』No.122(1929年4月13日発行、高千穂館、4頁)

「松竹蒲田作品 若き日 スタッフ、役割、梗概」(2-3頁)

『キネマ旬報』No.329(1929年5月1日発行、キネマ旬報社、118頁)

表紙:マーナ・ケネディ
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏は『若き日』に次ぐものとして野田高梧氏原作脚色にかかる喜劇「和製喧嘩友達」を撮影することとなった。渡邊篤、吉谷久雄、結城一朗、浪花友子、若葉信子、高松栄子、大國一郎が共演し、茂原英次氏が撮影を担当している。」(90頁)

『蒲田』第八巻第五號通巻八十二號(1929年5月1日発行、蒲田雑誌社、124頁)

表紙:田中絹代
グラヒック「思い出」(12、26-27頁)
グラヒック「赤倉へロケーションした『思い出』のスナップで伏見晃、小津安二郎、齋藤達雄、茂原英雄のミナサンのお顔が見える」(41頁)
グラヒック「脚本部の御大、ノダ・高梧先生のマブシ相なカホ」「大きいのが二人、小津安二郎と清水宏の両監督、クワエタバコが似合います。」(42頁)
「松竹キネマ蒲田下加茂封切記録 寶の山」(89頁)
「スタヂオ通信 小津安二郎氏は、既報「思い出」のロケーションを了し、目下セット進行中なれば近日完成の予定です。」(109頁)

『横常週報』第二十六號(1929年5月10日発行、横濱常設館、8頁)

広告「近日封切乞御期待 小津安二郎監督獨得の喜劇 和製喧嘩友達」(7頁)

『キネマ旬報』No.330(1929年5月11日発行、キネマ旬報社、108頁)

表紙:カミラ・ホルン
中川信夫「寄書欄 「若き日」私評(賞)」(53頁)
※冒頭引用する。「小津安二郎はデリケイトな神経を働かせる監督の一人である。精密なコンティニュイティのように末梢神経の尖っている一人である。日本にもかように克明な描法をもつ監督を有つことは慶すべきである。「寶の山」はその克明さの極点の如き美を就した。」
内田岐三雄「主要日本映画批評 若き日 紹介」(92頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(5月2日調査)小津安二郎氏は、前號所報の「和製喧嘩友達」の撮影中である。」
T・K生「宇治山田通信」(101頁)

『帝國館ニュース』No.10(1929年5月18日発行、浅草帝國館、16頁)

文字広告「和製喧嘩友達」(9頁)

『キネマ旬報』No.331(1929年5月21日発行、キネマ旬報社、90頁)

表紙:ローラ・ラプラント
「旬報グラフィック 一作品毎に進境を示す。蒲田の新人小津安二郎の新作「和製喧嘩友達」に於ける結城一朗と浪花友子」(56頁)
「各社近作日本映画紹介 和製喧嘩友達」(68頁)
※小津安二郎氏の「若き日」に次ぐ監督作品である。
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(5月13日調査) 小津安二郎氏は、引き続き既報「和製喧嘩友達」を撮影中である。」(80頁)

『松竹座週報かがやき』第百十四號(1929年5月30日発行、松竹座、4頁)

「雪の思ひ出!懐かしの學生時代!恋と運動火華となって夢現なる素晴らしきローマンス
思い出改題 若き日 愈々来週 一九二九年度の彗星兒 小津保次郎(ママ)大傑作」(1頁)
「思い出 若き日 悪魔の曲芸團 萬花地獄第一篇 萬花地獄第二篇」(4頁)

『ちゆうあう・にゆうす』第壹百號記念號(1929年5月30日発行、名古屋広小路中央舘企画部、4頁)

「今週の映画 若き日 小津安二郎監督 配役、梗概」(3頁)

『キネマ旬報』No.335(1929年7月1日発行、キネマ旬報社、122頁)

表紙:コリーン・ムーア
「和製喧嘩友達」(一面カラー広告)(83頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(6月24日調査)小津安二郎氏は、豫て監督中の「和製喧嘩友達」を此の程完成に至った。」(108頁)

『面影 和製喧嘩友達 大空の凱歌 劍侠乱舞』(1929年7月5日発行、末廣座、1頁)

「近代諷刺劇 和製喧嘩友達」
発行日がないので、封切日とした。 

『東洋座』NO.249(1929年7月11日発行、廣島千日前東洋座宣傳部、4頁)

「松竹蒲田作品
和製喧嘩友達 原作脚色:野田高梧
       監督:小津安二郎
       撮影:茂原英雄
       キャスト・梗概
       解説:川路健」(3頁)

『キネマ旬報』No.338(1929年8月1日発行、キネマ旬報社、132頁)

表紙:ジューン・コリアー
「各社近作 日本映画紹介 大學は出たけれど」(83頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(7月23日調査)小津安二郎氏は、尚「大學を出たけれど」を撮影中である。」(112頁)

『キネマ旬報』No.339(1929年8月11日発行、キネマ旬報社、100頁)

表紙:ルネ・アドレー
「旬報グラフィック 大學は出たけれど」(62頁)
岡村章「主要日本映画批評 和製喧嘩友達」(92頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(8月3日調査)小津安二郎氏は、既報「大學は出たけれど」を殆ど完成したが、毎日晴天続きのため、降雨のシーンが撮れないので、雨天を待って完成する筈」(94頁)

『帝國館ニュース』No.25(1929年8月30日発行、浅草帝國館、12頁)

快郎たるユーモア溢れる清新溌溂秀麗佳篇
大學を(ママ)出たけれど 近日帝國館独占封切
名花 田中絹代、美男 高田稔 主演
小津安二郎監督巧妙細緻の手腕発揮斯界期待渇仰の大傑作(10頁)

『キネマ旬報』No.341、十周年記念特別号(1929年9月1日発行、キネマ旬報社、380頁)

表紙:ナンシー・カロール
「松竹キネマ特作映画 大学は出たけれど」(広告)(194頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏は南の東京駅前の一シーンだけを残して全部完成」(212頁)

『月刊映画と演藝』第六巻第九号(1929年9月1日発行、東京・大阪朝日新聞社、64頁)

表紙:ローラ・ラ・プラント
「松竹映画 『大學は出たけれど』(23頁)
※「再び小津安二郎氏による近代人的のスマート・コメディ大学はでたけれど、どうも職が思はしくない彼が、職を求めるためにどんな痛快な月日を送ったかのストオリイで高田稔(左)と田中絹代(右)とがうまい芝居をやって退ける」
伏見晃「蒲田のモボ、モガ」(36-37頁)
※「俳優以外でモボ、モガ的色彩の濃厚な人々をピックアップして見せろ、という御注文、宜しいと引受けたもの、さて見廻して見ると、いささか慌てざるを得ない。居そうで居ないのが、このモボ・モガである。案外撮影所などにはモボもモガも居ないんじゃないかしら、という懸念さへ湧いて来る。が、しかし引受けた以上、義理にも一渡り当たってみる必要がある。で、先ず一番主脳部の監督から始める事にする。野村芳亭氏、牛原虚彦氏、池田義信氏、島津保次郎氏と、どうも皆ボーイではなさそうだ。そこへ行くと若手監督の中には、ボツボツ御注文に近い人が居そうでもある。先ず、五所平之助、重宗務、清水宏、佐々木恒次郎、小津安二郎、豊田四郎の諸監督。そこで第一に白羽の矢が立つのが、燻屋鯨平こと小津安二郎監督だろう。拳闘家(ボクサー)の様な立派な体格を明るい灰色(グレイ)がかったスマートな服と真白なワイシャツに包んで、ニコニコと現れる。靴はちょっと痛いのを我慢しては居るが、撮影所広しと言えども、清水監督と彼氏と、かく言う私の三人だけが用いている。コードバン。其処で持ち物を検査する。第一に目につくのが、ダグラスの點火器(ライター)にカギ巻きの懐中時計。そして、彼氏の嚢中(のうちゅう:財布)は、…元来モダン・ボーイなんてあまりお金を持って居ないキソクになって居るんだが、彼氏はそのキソクを破って、時折月給より多い金を持って居ることがある。そしてフレーデルマウスの顧客であり、彼氏の知人が行く度に、そのマウスのお清さんと言うのが『小津さんに宜しく』と言うのである。が以上は、彼氏が仕事をしていない時の話で、もし一度仕事が始まると、フレーデルマウスの顧客は、忽ち珍々軒の顧客となり参観の女学生が『まあなんて汚い監督でせう』と囁き合ったと言ふ、いみじくも変わり果てた姿となって炎熱百有餘度のステージのなかでハイ!である。が、仕事が終われば、明るいグレイの洋服と真白のワイシャツが彼氏の拳闘家のような見事な身体を包んで、靴は少々痛いが『さっき働いていた汚い監督は誰だい』と言った顔で、サッソウとして撮影所を出ていくのである。」
フレ-デルマウス:ドイツ語で「こうもり」を指す「フレーデルマウス」 、「カフヱ通」(1930)を著わした酒井眞人は「まっとうなバー」として紹介しており、雑誌「ドノゴトンカ」の昭和4(1929)年7月号も同店を「お客をあまり構わないバア」(つまり干渉しない)としており、日本のバー好きの評価は高かった。
 小さくて隠れ家的な店だったことは当時の店内を描いた織田一磨のリトグラフ「画集銀座 第一輯/酒場 フレーデルマウス」(1928年)からも偲ばれる。紫煙たなびく薄暗い店内のシェードで覆われた電燈の灯りのむこうに白いメスジャケット(バーコート)に身を固めたバーテンダーの姿が見える。ドイツ人ボルクの経営で、輸入物のドイツビールを出していたという。

『KABUKIZA NEWS』(1929年9月6日発行、上京都新京極歌舞伎座編輯部、6頁)

「蒲田撮影所超特作映画 ”大學は出たけれど”」
原作:清水宏
脚色:荒牧芳郎
監督:小津安二郎
撮影:茂原英雄
配役・梗概」(2頁)
発行日がないので、封切日とした。

『伊勢音頭 柳咲子十八番舞踏集 大學は出たけれど 無理矢理三千石』(1929年9月6日発行、末廣座、1頁)

「憧憬の名花田中絹代、美男高田稔大競演 大學は出たけれど」

『松竹ニュース』第三百九十四號(1929年9月12日発行、金澤松竹座、4頁)

広告「蒲田超特作映画 小津安二郎監督作品 原作:清水宏 撮影:茂原英雄 大學は出たけれど」(4頁) 

『東洋座』NO.259(1929年9月20日発行、廣島千日前東洋座宣傳部、4頁)

「松竹蒲田映画 大學は出たけれど
 原作:清水宏 脚色:荒牧芳郎 監督:小津安二郎 撮影:茂原英雄
 配役・略筋 解説:川路健」(2頁)
  

『蒲田』第八巻第十號通巻第八十七號、蒲田撮影所創立十周年記念號(1929年10月1日発行、蒲田雑誌社、146頁)

表紙:田中絹代
グラビア「大學はで出たけれど」(24-25頁)
グラヒック「大學は出たけれど」の田中絹代と高田稔の両人。(46頁)
グラヒック「大學は出たけれど」の撮影に横浜の海岸公園にロケーションした時のもの。監督・技師・俳優の一同。一寸一服といったところです。右から小津監督、高田稔、茂原技師、大山健二、その他の面々」(48頁)
「スタヂオ通信 小津安二郎氏は、既報の「大學は出たけれど」を完成後次回作未定です。」(131頁)

『キネマ旬報』No.344(1929年10月1日発行、キネマ旬報社、148頁)

表紙:バーバラ・ケント
岡村章「主要日本映画批評 大學は出たけれど」(107-108頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(9月13日調査)小津安二郎氏が「大學は出たけれど」に次ぐ作品は野田高梧氏の原作脚色になる諷刺喜劇「會社員生活」と決定。直ちに製作を開始した。主演は斎藤達雄で、吉川満子、阪本武、小藤田正一、加藤清一等が共演している。キャメラマンは茂原英雄氏である。」(126頁)

『松竹ニュース』第三百九十七號(1929年10月3日発行、金澤松竹座、4頁)

広告「大學は出たけれど」(3頁)

『帝國館ニュース』No.31(1929年10月17日発行、浅草帝國館、12頁)

「會社員生活の表裏を朗らかに描く快心の作 會社員生活 鬼才小津安二郎監督 巧妙細緻の手腕発揮 獨特秀麗佳篇」(9頁)

『新宿松竹館週報』第五巻第四十四號(1929年10月25日発行、新宿松竹館、8頁)

「小津安二郎原作監督
 脚色:野田高梧
 撮影:茂原英雄 會社員生活
 珍型齋藤達雄大珍演 近日上映」(7頁)

『世界館ニュース』第49號(1929年10月31日発行、世界館、4頁)

「會社員生活 原作・監督・キャスト・梗概」(2頁)

『月刊映画と演藝』第六巻第十一号(1929年11月1日発行、東京・大阪朝日新聞社、48頁)

表紙:グレタ・ガルボ
「松竹映画集 『會社員生活』(小津安二郎作品)」(15頁)
※「斎藤達雄が會社員塚本信太郎先生、吉川満子が同福子令夫人、小藤田正一が長男で、加藤清一が次男で、以下ズラリと列んで、先生の月給が百二十圓で-と、微笑ましきは會社員生活よ、モダン・ライフよ、人生よ!と、蒲田随一の才人小津安二郎氏が物した小品。都会的教養のあるファンにはジャンジャン受けた事である。」

『東洋座』NO.267(1929年11月7日発行、廣島千日前東洋座宣傳部、4頁)

「會社員生活 松竹蒲田映画
 原作監督:小津安二郎
 脚色:野田高梧
 撮影:茂原英雄
 配役・略筋 解説:川路健」(3頁)

『帝國館ニュース』No.35(1929年11月15日発行、浅草帝國館、12頁)

「スタジオだより 小津安二郎監督 齋藤達雄主演『突貫小僧』完成、高田稔、川崎弘子主演『朗らかに歩め』撮影中」(6頁)
「小津安二郎監督 突貫小僧 齋藤達雄主演」(7頁)

『キネマ旬報』No.349(1929年11月21日発行、キネマ旬報社、112頁)

表紙:リチャード・バーセルメス
「旬報グラヒック 人攫い商売の野呂間の悪人が純真な子供心にほだされて知らず知らずに真人間に立ち戻るというお話。ユーモアと皮肉たっぷりな蒲田の小品喜劇。小津安二郎監督作品。齋藤達雄と青木富夫」(77頁)
「各社近作 日本映画紹介 突貫小僧」(96頁)
※解説 小津安二郎氏の『會社員生活』に次ぐ作品である。
岡村章「主要日本映画批評 會社員生活」(103頁)
※冒頭を引用する。「一小市民の生活をリアリスティックにスケッチした極めて軽いものであるが、これほど如実に社会層を示し、そうして一つの生活を描いた主題を未だ見たことがない。」
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(11月13日調査)小津安二郎氏は前號所報の「突貫小僧」を殆ど完成した。これに次ぐものとしては前號に一時中止を報じた「生きる力」を引き続き製作することとなるべく従って「朗らかに歩め」はこれが完成後着手することとなった。」(106頁)

『松竹座ニュース』Vol.2 No.45 (1929年11月23日発行、札幌松竹座、8頁)

「突貫小僧は最近メキメキと売出した小津安二郎監督の得意の掌篇喜劇、ピリッとした味のよさを味わって下さい。」(3頁)
「突貫小僧
 原作 野津忠二
 脚色 池田忠雄
 監督 小津安二郎
 撮影 野村昊
 配役 人攫い文吉 齋藤達雄
    鐵坊 青木富夫
    親分權寅 阪本武
 梗概
 解説 柳楓昭 
 曲目選定 原田強二 」(5頁)

『横常週報 増刊號』(1929年12月1日発行、横濱常設館、8頁)

「突貫小僧 
 原作 野津忠二
 脚色 池田忠雄
 監督 小津安二郎
 撮影 野村昊
 配役 人攫い文吉 齋藤達雄
    鐵坊 青木富夫
    親分權寅 阪本武
 梗概 」(6頁)

『新宿松竹館週報』第五巻第四十九號(1929年11月29日発行、新宿松竹館、8頁)

「突貫小僧
 原作 野津忠二
 脚色 池田忠雄
 監督 小津安二郎
 撮影 野村昊
 配役 人攫い文吉 齋藤達雄
    鐵坊 青木富夫
    親分權寅 阪本武
 梗概 」(3頁)

『帝國館ニュース』No.39(1929年12月15日発行、浅草帝國館、12頁)

「新春映画中の大偉観蒲田が世に誇る大傑作 ”センチメンタル・ワイフ”改題 結婚學入門 鬼才小津安二郎監督全力傾注大傑作」(8頁)

1930
『キネマ・ニュース』No.118(1930年1月1日発行、影繪社、198頁)

一面広告「結婚學入門 センチメンタルワイフ改題 大熊敏雄現作 野田高梧脚色
小津安二郎監督 茂原英雄撮影 栗島すみ子 龍田静枝 奈良眞養 高田稔 齋藤達雄」(156頁)

『裏切り義十郎 結婚学入門 影法師』(1930年1月5日発行、末廣座、1頁)

「蒲田の至寶 栗島すみ子、高田稔、龍田静江共演 結婚学入門 センチメンタルワイフ改題」

『結婚学入門・オイコラ行進曲・吹雪の一夜』(1930年1月5日、マキノ直営・松竹特約演藝館)

松竹蒲田1930年超特作品 小津安二郎傾注監督作品
栗島すみ子・高田稔主演 奈良真養・岡村文子・龍田静枝助演
結婚学入門 全十巻
夫婦生活の倦怠から生れる誤解‥夫の放蕩、然し一切が氷解した時に彼等は何を教えられたか。結婚学入門は平凡なる家庭に刺激を與える興奮剤である。

『いけぶくろ・むさしの』第百九十八號(1930年1月5日発行、池袋武蔵野館、6頁)

「センチメンタルワイフ改題 結婚學入門 鬼才小津安二郎監督全力傾注大傑作 明星栗島すみ子大熱演 (近日大公開ご期待あれ)」(4頁)

『キネマ旬報』No.354(1930年1月21日発行、キネマ旬報社、124頁)

表紙:メリー・ノーラン
「高田稔 小津安二郎監督「朗らかに歩め」より」(85頁)
岡村章「主要日本映画批評 結婚學入門」(105頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(1月14日調査)小津安二郎氏は、既報通り「朗らかに歩め」を高田稔、川崎弘子主演の下に監督中である。」(108頁)

『帝國館ニュース』No.46(1930年1月26日発行、帝國館、12頁)

「昭和四年度封切映画一覧表 其六
 十一月二十三日より 小津安二郎監督作品 突貫小僧 齋藤達雄主演」(4頁)
 十二月二十五日より 小津安二郎監督 朗らかに歩め 高田稔、川崎弘子主演」(6頁)

 帝國館ニュース集頒布
  当館開館より昨年迄のニュース集合本頒布予約募集。僅々百部!総クロース表紙、革背金文字入。ご希望の方は、実費送料共金二圓十銭小為替にて当館宣伝部宛御送付下さい。一月下旬製本出来次第、申込順に発送致します。

『帝國館ニュース』NO.49(1930年2月14日発行、浅草帝國館、12頁)

「緊張と魅惑に終始する大都會の暗黒街奇譚
純情の乙女を繞って展開する愛と誠の物語
 朗らかに歩め 好漢高田稔 川崎弘子 無比の大熱演
近日封切 小津安二郎監督堅実快朗の手腕大躍動」(裏表紙)

『帝國館ニュース』No.50(1930年2月22日発行、浅草帝國館、12頁)

「緊張と魅惑に終始する大都会の暗黒街奇譚 朗らかに歩め 小津安二郎監督熱血傾注大傑作名篇」(9頁)

『道頓堀朝日座』(1930年3月1日発行、道頓堀朝日座、4頁)

「松竹キネマ蒲田春季二十大作品、”朗らかに歩め” 暗黒街映画 高田稔主演、川崎弘子助演、小津安二郎監督」(1頁)

『三人吉三 朗らかに歩め 赭土 1940年』(1930年3月1日発行、末廣座、1頁)

「緊張と魅惑に終始する大都會暗黒街奇談 朗らかに歩め 小津安二郎監督熱血傾注稀有の豪華版」

『ASAHIZA NEWS』NO.11(1930年3月8日発行、朝日座、6頁)

「蒲田撮影所超特作映画”朗らかに歩め” 
 原作:清水宏
 脚色:池田忠雄
 監督:小津安二郎
 撮影:茂原英雄
 配役・解説」(2頁)

『金澤松竹館週報』第四百二十二號(1930年3月14日発行、4頁)

「近日上映の燦爛篇 緊張と魅惑に終始する大都会の暗黒街奇譚 朗らかに歩め 小津安二郎監督熱血傾注大傑出名篇」(4頁)

『キネマ旬報』No.360(1930年3月21日発行、キネマ旬報社、102頁)

表紙:シャロン・リン
西川英一郎「編輯部・選・寄書欄 『朗らかに歩め』-小觀-(賞)」(50頁)
岡村章「主要日本映画批評 『朗らかに歩め』」(78頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏が「朗らかに歩め」に次いで着手するものは蒲田脚本部の合作になるものから野田高梧氏が脚色した『女性に栄光あれ』と内定している。配役は未定であるがキェメラマンは茂原英雄氏である。」(96頁)

『Shochikuza NEWS』第二巻第十號(1930年3月27日発行、札幌松竹座、8頁)

「次週六日より公開 松竹キネマ蒲田本年度超特作 結婚學入門 鬼才小津安二郎監督 明星栗島すみ子主演 再び現れたり小津安二郎によるデリカシイそのもののような心境物春の映画界に「戀愛第一課」とともに十分「映画的な」これを得たファンの喜びは何に比すべきでせうか。蒲田物特有のトーン、小津物らしい好ましさ役者たちののびのびした動き―「戀愛第一課」同様皆様にこの味を味わっていただきとう思います。」(7頁)

『週刊ウヘノ』第百卅二號(1930年4月4日発行、上野廣小路鈴本キネマ、4頁)

「朗らかに歩め 九巻 松竹蒲田春季廿大作品の二」(3頁)

『帝國館ニュース』No.56(1930年4月3日発行、浅草帝國館、16頁)

「快郎たるユーモア溢れる青春学生ロマンス
落第はしたけれど
小津安二郎監督巧妙細緻の手腕大躍動秀麗名佳篇
現代の就職難を巧みに取り扱い、これに学生生活の表裏を面白く交錯した清新溌溂諷刺正喜劇」(4頁)

『日本映画年鑑ー第五年版ー』(1930年4月15日発行、東京大阪朝日新聞社、164頁)

「松竹映画 會社員生活」(40頁)
「小津安二郎 日本にその昔のアール・C・ケントンが生れた。ひと頃のエディ・サザーランドが再生した。蒲田の小津安二郎、オッちゃん、彼が昭和四年度に発表した「若き日」、「大學は出たけれど」、「會社員生活」、「思い出」等の諸作は、どれもこれも特種のスマートネスと都会人的ユーモアと近代人的情感とにいみじくも飾られていたのだ。日本にこの種のシネアストの生れる日を只管に待ち焦がれていたファンの一部は、モダン・ボーイ「オッちゃん」小津安二郎に満腔の謝意を表する事を忘れてはならない」(83頁)
※同ページには、もう一人、清水宏について書かれている。
中代富士男「昭和三年四年度 日本映画界 四年度日本映画界 各社各説 松竹 蒲田映画の本年度における最大の収穫は、小津安二郎監督の出現である。『思い出』から『會社員生活』に至るまでの進展は目覚ましい。」(136頁)

『KABUGIZA NEWS』(1930年4月17日発行、KABUGIZA、4頁)

「松竹蒲田特作品 落第はしたけれど
 脚色 伏見晃
 原作監督 小津安二郎
 撮影 茂原英雄
 配役 梗概」(2頁)

『新宿松竹館週報』(1930年4月18日発行、新宿松竹館、8頁)

「落第はしたけれど 配役・梗概・説明」(4頁)

『キネマ旬報社』No.363(1930年4月21日発行、キネマ旬報社、104頁)

表紙:ベティー・カムプスン
「日本映画紹介 落第はしたけれど」(79頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(4月15日調査)小津安二郎氏は「落第はしたけれど」を完成し、一時中止したる「女性に栄光あり」に取りかかった。」(97頁)

『キネマ旬報』No.364(1930年5月1日発行、キネマ旬報社、152頁)

表紙:メエリー・ブライアン
友田純一郎「主要日本映画批評 落第はしたけれど」(116頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(4月24日調査)小津安二郎氏は、既報「女性に栄光あれ」を一時中止し、次回作品準備中。」(118頁)

『帝國館ニュース』No.60(1930年5月2日発行、浅草帝國館、12頁)

「文字広告 小津安二郎監督 女性に榮光あれ オール・スター・キャスト」(4頁)
※『キネマ旬報』No.360の「松竹蒲田通信」には、「朗らかに歩め」の自作が蒲田脚本部の合作になるものを野田高梧が脚色した「女性に栄光あれ」と内定しており、キャストは未定だが、キャメラは茂原英雄」とある。No.363の「松竹蒲田通信」には、「落第をしたけれど」を完成し、一時中止したる「女性に栄光あれ」に取り掛かった」とあり、No364の「松竹蒲田通信」には、「既報「女性に栄光あれ」を一時中止し、次回作品準備中」とある。この作品は映画化には至っていない。

『横常週報』第七十九號(1930年5月23日発行、横濱常設館、8頁)

「新青年・所載傑作小説 岡田時彦・八雲恵美子主演 小津安二郎監督作品 その夜の妻」(6頁)

『帝國館ニュース』No.64(1930年5月30日発行、浅草帝國館、12頁)

「鮮烈なる昂奮裡に感激溢るる愛と誠の物語 その夜の妻 小津安二郎監督熱血傾注大傑作 近日独占封切」(8頁)

『キネマ旬報』No.367(1930年6月1日発行、キネマ旬報社、112頁)

表紙:ビリー・ダブ
「日本映画紹介『その夜の妻』」(81頁)
広告「『その夜の妻』」(86頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏は本作第三回作品として、オスカー、シスゴール原作、野田高梧氏脚色『その夜の妻』の制作に着手した。これは曾て新青年誌上にて好評を博せるもの、配役は周二(岡田時彦)まゆみ(八雲恵美子)みち子(岩間てる子)須田(斉藤達雄)香川(山本冬郷)にて、岡田、八雲の初顔合わせも興味の中心である。キャメラは例によって茂原英雄。」(96頁)

『帝國館ニュース』No.65(1930年6月7日発行、浅草帝國館、12頁)

「スタジオだより 小津組 岡田時彦、八雲恵美子主演『その夜の妻』の準備愈々整って撮影が開始されました。」(5頁)
「その夜の妻 小津安二郎監督熱血傾注大傑作 近日独占封切」(9頁)

『キネマ旬報』No.368(1930年6月11日発行、キネマ旬報社、112頁)

表紙:ジョーン・クローフォード
「旬報グラフィック その夜の妻」(松竹蒲田随一の新人小津安二郎が岡田時彦を主役として作った「その夜の妻」相手役は、これも岡田とは初顔合わせの八雲恵美子、期待すべき作品の一つ)(59頁)
「全面広告 その夜の妻」(74頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(6月3日調査)小津安二郎氏は、「その夜の妻」撮影中。配役中みち子(岩間てる子)を市村三津子に変更した。」(88頁)

『Shochikkuza NEWS』第二巻第二十五號(1930年6月12日発行、札幌松竹座、10頁)

「名匠小津安二郎原作監督 松竹蒲田二十大作中の傑作 落第はしたけれど」
「何がこの映画を作らしたか? 監督の小津、脚色の伏見、主演の斎藤諸君の落第の会話からまづまづ 
小津「君落第したことがあるかい?」
伏見「ウウン」
小津「何て返事をするんだ、ハッキリしないじゃないか」
伏見「実は一度ばかり‥」
小津「一度ばかり?」
伏見「勿論一年につきさ」
小津「さうだろう‥でこんな物語があるんだ”落第はしてけれど”て題なんだがね落第必ざしも悲観すべからずと言った様なテーマなんだ」
伏見「落第礼讃かい」
小津「さう云っちゃいかんよ」
この時齋藤達雄登場、斎藤「落第のコトならスベテ僕に任せて貰いたいなあ」
小津「任せるよ、大いに任せるよ、これは君でなきゃ出来ない役だよ」
斎藤「一寸待って呉れ、何だかホメられた様な気がしないぜ」
伏見「で卒業生の面々は誰だろう」
小津「さてと、一渡り見わたしても撮影所にや卒業顔は少ないなあハハ‥」(9頁)

『帝國館ニュース』No.66(1930年6月13日発行、浅草帝國館、12頁)

「その夜の妻 小津安二郎監督熱血傾注大傑作」(2頁)
「スタジオだより 小津組『その夜の妻』準備全く成って撮影を始めました。真夜中から朝迄の事件ですが、同監督の克明な手法と岡田の巧みな演技は必ずや絶好のクルックプレーを成し遂げる事と信じます。最初五六巻の予定でしたが、力の入った十巻の大作となる模様」(4頁)

『本郷座ニュース』第十一号(1930年6月20日、本郷座、6頁)

広告「小津監督力作 その夜の妻」(5頁)
「(巻数制限超過のため、大學は出たけれど、一時延期、同監督獨特の名喜悲劇上映 小津安二郎監督 繊細明朗愛すべきユーモリスト 齋藤達雄主演 會社員生活」

『Shochikuza NEWS』第2巻第26号(1930年6月21日発行、札幌松竹座、8頁)

「お待ち兼ね次週大名画『幸福の星』と同時公開 『大學は出たけれど』の姉妹篇 落第はしたけれど
 1930年の尖端を行く憧れのカレッジマンの生活!ヒョロ長いの、でっかいの、コマカイの足並よろしき「五人組」の颯爽さよ!」(5頁)

『帝國館ニュース』No.68(1930年6月26日発行、浅草帝國館、12頁)

「その夜の妻 鬼才小津安二郎監督熱血傾注大傑作名篇」(2頁)
「スタジオだより 小津組『その夜の妻』の完成は目睫に迫りました-貧のためペンキ畫を描いて生活費を得ている畫家が主人公なので、撮影に巨大なペンキ畫が必要です。凝り性の同監督の事インチキなペンキ畫では満足できず、美術部の山田氏を労して製作させました。」(5頁)

『本郷座ニュース』第十二号(1930年6月27日、本郷座、6頁)

「會社員生活
 原作脚色:野田高梧
 監督:小津安二郎
 撮影:茂原英雄
 塚本信太郎:齋藤達雄
 妻 福子:吉川満子
 友人岡村:阪本武
 長男:小藤田正一
 次男:加藤清一
 三男:青木富夫
 四男:石渡輝明
 梗概」(2-4頁)
広告「大學は出たけれど」(5頁)

松竹キネマ株式會社『續々公開さる、松竹映画』(1930年7月発行、松竹キネマ株式會社、6頁)

 「その夜の妻 スタッフ、配役、梗概」
※他に、「抱擁」(清水宏監督)、「続編 母」(野村芳亭監督)、「奪われた唇」(斉藤寅次郎監督)の紹介

『KABUKIZA NEWS』NO.33(1930年7月発行、KABUKIZA、4頁)

「近日公開 蒲田特作探偵劇、小津安二郎監督、その夜の妻」(1頁)

『Shochikuza NEWS』第2巻第36號(1930年7月発行、札幌松竹座、8頁)

「突如公開の松竹蒲田大傑作 その夜の妻」(7頁)

『BENTENZA WEEKLY』3.1(1930年7月1日発行、BENTENZA、8頁)

「次週封切 松竹映画の大名編 その夜の妻」(7頁)

『映画評論』第9巻第1號「小津安二郎研究」(1930年7月1日発行、映画評論社、90頁)

関野嘉雄「心境物の破産と小津安二郎の前途」(20-24頁)
筈見恒夫「小津安二郎の小市民性」(24-26頁)
福井桂一「小津安二郎と其の作品」(26-30頁)
大塚恭一「『落第はしたけれど』」(30-31頁)
清河廣「小津安二郎作品目録」(32頁)
 

※雑誌による初の「小津安二郎監督特集号」である。この時期の『映画評論』は、毎号、特集を組んでおり、同年8月号は、「ヨーエ・マイ研究」、同年9月号は、「五所平之助研究」、同年10月号は「北村小松研究」、同年11月号は、「発声映画監督研究」、同年12月号は、「日本映画脚色家研究」である。

『新宿松竹館週報』第六巻第二十八號(1930年7月5日発行、新宿松竹館、8頁)

「鬼才 小津安二郎監督 その夜の妻 近日上映」(2頁)

『帝國館ニュース』No.69(1930年7月6日発行、浅草帝國館、12頁)

「その夜の妻」(表紙)
小津安二郎「その夜の妻」(3頁)
「その夜の妻 キャスト、配役、梗概」(4頁)

『難行苦行 相馬の金さん 其の夜の妻』(1930年7月6日発行、末廣座、1頁)

「岡田時彦、八雲恵美子、齋藤達雄、山本冬郷大競演
 鮮烈なる昻奮裡に感激溢る、愛と涙の物語り、鬼才小津安二郎監督巧妙精緻の手腕を発揮せる大名篇! 其の夜の妻」

『新宿松竹館週報』第六巻第二十九號(1930年7月13日発行、新宿松竹館、8頁)

「その夜の妻 小津安二郎監督 岡田時彦・八雲恵美子主演」(6頁)

『TOYO NEWS』NO.32(1930年7月17日発行、廣島市千日前東洋座宣傳部、4頁)

「その夜の妻 
  原作 オスカー・シスゴール
  監督 小津安二郎
  俳優・略筋」(2-3頁)

『本郷座ニュース第十五號』(1930年7月20日発行、本郷座、6頁)

「二十七日公開 その夜の妻 新青年所蔵「九時から九時まで」より翻案したもの、スリルと父性愛を巧みに織った好箇のクルック・プレイでよき心境映画を物してゐた小津監督の野心的な作品である。」(表紙)
八雲恵美子「次週上映『その夜の妻』について」(2頁)
「エロ神の怨霊 小津安二郎作品」(6頁)

『新宿松竹館週報』第6巻第30號(1930年7月20日発行、新宿松竹館、8頁)

その夜の妻 翻案脚色:野田高梧 撮影:茂原英雄
『新青年』掲載 小津安二郎監督作品
岡田時彦・八雲恵美子主演

生きて行くためには全てが許されるであろうか。瀕死の病児、疲れ切った妻、若き画家が銀行を襲って遂に曳かれ行くまで、この戦慄すべき或いは感激極まりなき一篇を前にして私たちは人生を考え直さねばならない。
次週公開

『キネマ旬報』No.372(1930年7月21日発行、キネマ旬報社、80頁)

表紙:アリス・ホワイト
友田純一郎「主要日本映画批評 其夜の妻」(65頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(7月13日調査)小津安二郎氏は、尖端怪談「エロ神の怨霊」の撮影に着手した。原作石原清三郎氏、脚色は、野田高梧氏、配役は左の如く決定した。山路健太郎(齋藤達雄)、石川大九郎(星ひかる)、ダンサー夢子(伊達里子)、その恋人(月田一郎)」(68頁)

『本郷座ニュース』第十七號(1930年7月27日発行、本郷座、6頁)

「エロ神の怨霊 新人小津安二郎のエロ怪談、齋藤達雄・星ひかる・伊達里子の 
 エロだ エロだ 素敵な エロだ 桃色の 夏の宵 桃色の 蠱惑よ」(6頁)

『歌舞伎座ニュース』NO.36(1930年7月27日発行、歌舞伎座、4頁)

「1930年型怪談の最先端
 原作 石原清三郎
 脚色 野田高梧
 監督 小津安二郎
 撮影 茂原英雄
 ストーリー 夜である。断崖の絶頂に二つの人影が見える。健太郎と夢子とが、今生の別れと、センチメンタルの最先端に踊る。泣く。石川が山路のアパートを訪れると、石川宛の遺書!愕いて断崖へ駆けつけ、危うく山路の一命をとり止めた。愛人のみを死なせた事はかなり山路を悩ませた。が石川の言葉に夢子が生きていると知った山路はその夜草木も眠る丑満時、モダン幽霊に早がわり。夢子の部屋はエロと鬼氣と怨霊に落花狼藉!その結果は?」(2-3頁)

『松竹館ニュース』NO.34(1930年7月31日発行、浅草松竹館、12頁)

「近日独占上映 その夜の妻」(12頁)

『松竹』第一巻第一號、八月創刊号(1930年8月1日発行、豊国社、118頁)

表紙:栗島すみ子
グラビア「その夜の妻」
八雲恵美子「その夜の妻 演出雑記」(62-63頁)
「ゴシップ全集」(88頁)※小津監督の『その夜の妻』に出るアメリカ帰りの山本冬郷
齋藤達雄「世相を穿った喜劇」(94-95頁)

『TOYO NEWS』NO.35(1930年8月7日発行、廣島市千日前東洋座宣傳部、4頁)

編輯 藤田静夫・松竹ファン聯盟同人
「松竹蒲田特作映画 エロ神の怨霊
 原作・脚色・監督・撮影・配役
 解説 平清作
 選曲 河村敏雄」(2頁)

『新宿松竹館週報』第六巻第三十三號(1930年8月8日発行、新宿松竹館、8頁)

「エロ怪談 エロ神の怨霊
 脚色 野田高梧
 監督 小津安二郎
 撮影 茂原英雄
 配役 山路健太郎 齋藤達雄
    石川大九郎 星ひかる
    ダンサー夢子 伊達里子
    その戀人 月田一郎 」(3頁)

『キネマ旬報』No.376、十一周年記念特別号(1930年9月1日発行、キネマ旬報社、204頁)

表紙:ビリー・ダヴ
グラビア「足に触った幸運」(134頁)
「日本映画紹介 足に触った幸運」(141―142頁)
友田純一郎「主要日本映画批評 エロ神の怨霊」(176頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏は『足に触った幸運』撮影中。」(186頁)

『月刊映画と演藝』第七巻第九号(1930年9月1日発行、東京・大阪朝日新聞社、68頁)

表紙:カスリン・クロフォード
小津安二郎「朝鮮飴」(38頁)
※俳優の演技について述べている。

『松竹座ニュース』第二巻第三十七號(1930年9月4日発行、札幌松竹座、8頁)

「松竹蒲田特作現代映画 その夜の妻
新青年所蔵 オスカー・ゴールド原作 ”九時から九時まで”より
翻案脚色 野田高梧
監督 小津安二郎
撮影編輯 茂原英雄
伴奏選曲 山本明
説明担当 林秀峰
配役・梗概」(4頁)

『新宿松竹館週報』第六巻第三十九號(1930年9月19日発行、新宿松竹館、8頁)

「興趣満々快郎たるユーモア獨特の名篇 足に觸った幸運 鬼才小津安二郎監督
 彼の作品 ●会社員生活、●大学は出たけれど、●結婚學入門、●落第はしたけれど、●その夜の妻 等の名篇を発表して独り鬼才の名を謳われる小津監督が、再び最大の良心と細緻の技巧を凝らして作る傑作。『会社員生活』の諷刺を哀感を遥かに凌駕して現代世相の半面を深刻に剔抉し盡す。」(7頁)

『蒲田週報號外』(1930年10月)

「お嬢さん リアルコメディ映画製作には、蒲田監督中独自の境地を有する小津安二郎監督の作るもの。原作脚色は北村小松。単なる喜劇にあらず簡単なる題名の語る所、人情の真髄、生活の核心。吾人の胸に鋭く触れる何物があろう。チャップリン、ロイドの作品にその例を見得るも本邦には未だその例を見ず、監督原作者数字の鳩首によって漸く構想なれる映画界空前のリアルコメディ。」

『歌舞伎座ニュース』No.46(1930年10月、歌舞伎座、4頁)

「足に触った幸運 松竹キネマ蒲田撮影所超特作品
 原作脚色 野田高梧
 監督 小津安二郎
 撮影 茂原英雄
 物語のあらまし 郊外の小住宅に住む腰辯の古川はある朝大金を拾った、早速交番へ届けると間もなく落し主の久保井が訪れてお礼を云い三百圓置いて行った。この事件はすぐ會社に広がった。同僚の吉村老人は早速古川の許へ来て散々ほめちぎった挙句恐縮ですが十圓債券二枚買って頂けないでしょうかと切り出した。吉村の妻が十一人目の子供を近くに産むのだときいて古川も頼みを容れてやった。不時の収入で古川を取り巻く大井と山野はバーから待合へとすっかり散財させた。翌朝古川の妻は新聞で夫が大金を拾ったことを知り大喜び、然し夫の話をきき残金百七八十圓と知って柳眉を逆立てるのであった。翌日会社で課長から養鶏が儲かるから譲ろうとの話喜んだ彼は還って来た妻に話すともう金は妻が使った後であった。翌朝彼が力なく歩いていると新聞包みが落ちていた。彼はそっと拾って開いてみた。しかし残念にも中は飯粒だった」(2頁)

『キネマ旬報』No.381(1930年10月21日発行、キネマ旬報社、88頁)

表紙:ノーマ・シアラー
小津安二郎「僕のコンティニュィティの実際」(43頁)
友田純一郎「主要日本映画批評 足に触った幸運」(73頁)
「蒲田週報号外 お嬢さん リアルコメディ映画製作には、蒲田監督中独自の境地を有する小津安二郎監督の作るもの。原作脚色は北村小松。単なる喜劇にあらず簡単なる題名の語る所、人情の真髄、生活の核心。吾人の胸に鋭く触れる何物があろう。チャップリン、ロイドの作品にその例を見得るも本邦には未だその例を見ず、監督原作者数字の鳩首によって漸く構想なれる映画界空前のリアルコメディ。」(80頁)
「蒲田週報号外 足に触った幸運 所謂現代社会相の一面たる哀れな劇筋を如何に巧みに描写しているかが、この劇の真髄である。主人公は薄給の会社員夫婦で拾得した莫大な金が喜劇を生んでいく。原作脚色は野田高梧。監督は小津安二郎、徒らに低劣卑猥の傷に観客を抱腹せしめず、『明日の喜劇は須くかくなるべし』と訓へている前作『會社員生活』に匹敵する力作」(81頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(10月13日調査)小津安二郎氏は次回作品準備中。」

『帝國館ニュース』No.85(1930年10月27日発行、浅草帝國館、12頁)

「スタジオだより 『お嬢さん』喜劇映画をものして喜劇映画製作に独自の境地を持つ蒲田撮影所が単なるプログラムピクチャーとしての喜劇より躍進して大作喜劇をものすることは既報の如くでありますが、愈々その準備全く成り、ユーモア物にかけて異色ある作家として北村小松原作脚色の『お嬢さん』が選ばれ監督は心境映画をものして一作毎に確実に名声を勝ち得ている小津安二郎監督がメガホンをとる事と決定しました。」((6-7頁)
「近日封切 時代の尖端を行く本邦最初の本格的大作喜劇 涙の女王栗島すみ子、岡田時彦、齋藤達雄、競演 其他オール・スター・キャスト」(11頁)

『帝國館ニュース』No.86(1930年11月1日発行、浅草帝國館、12頁)

「スタジオだより 小津監督、栗島すみ子、岡田時彦、田中絹代、齋藤達雄主演の紳士淑女一千一夜物語『お嬢さん』を本邦最初の本悪的大作喜劇たらしむべく大々的の撮影を敢行して居ります。」(5頁)
「鬼才小津安二郎監督稀有の大傑作名篇 お嬢さん」(11頁)

『帝國館ニュース』No.87(1930年11月10日発行、浅草帝國館、12頁)

「お嬢さん 鬼才小津安二郎監督大傑作名篇 近日封切」(2頁)

『帝國館ニュース』No.88(1930年11月15日発行、浅草帝國館、12頁)

「鬼才小津安二郎監督稀有の大傑作」(12頁)
牛原虚彦サイン

『新宿松竹館週報』第六巻第四十八號(1930年11月21日発行、新宿松竹館、8頁)

「お嬢さん 蒲田が全智恵を絞って作る時代最尖端の革命的本格大喜劇」(8頁)

マッチラベル『お嬢さん』(1930年12月、浅草帝國館)

「近日封切 お嬢さん 小津安二郎監督」

『お嬢さん』(1930年12月発行、浅草帝國館)

表:「お嬢さん 小津安二郎監督大傑作 」
裏:「お嬢さん 時代の尖端を行く本邦最初の本格的大作正喜劇十二巻 鬼才小津安二郎監督稀有の力作/薩南総動員 冬島泰三脚色監督溌溂たる巨豪篇」

『キネマ旬報』No.385(1930年12月1日発行、キネマ旬報社、118頁)

表紙:ロイス・モーラン
「松竹キネマ特作 お嬢さん」(カラー1面広告)(78頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(11月23日調査) 小津安二郎氏は「お嬢さん」撮影中。」(94頁)

『帝國館ニュース』No.90(1930年12月4日発行、浅草帝國館、12頁)

「時代の尖端を行く本邦最初の本格的大作喜劇 堂々十巻 お嬢さん 鬼才小津安二郎監督大傑作 愈々来週封切」(12頁)

『帝國館ニュース』No.91(1930年12月12日発行、浅草帝國館、12頁)

「お嬢さん  
 原作脚色 北村小松
 ギャグマン 伏見晃
 同 ヂェームス・槇
 同 池田忠雄
 監督 小津安二郎
 撮影 茂原英雄
 配役
 お嬢さん 栗島すみ子
 岡本時雄 岡田時彦
 斉田達次 齋藤達雄
 キヌ子 田中絹代
 社会部長 岡田宗太郎
 古参記者 大國一郎
 俳優学校の校長 山本冬郷
 同教師 小倉繁
 不良マダム 龍田静江
 美青年 毛利輝夫
 その妻 浪花友子
 ダルメニヤ公爵 三倉博
 侍従長 横尾泥海男
 モダン・ガール 光喜三子
 梗概」(4-5頁)

『歌舞伎座ニュース』No.54(1930年12月12日発行、歌舞伎座、4頁)

「お嬢さん
 原作脚色 北村小松
 ギャグマン 伏見晃
 同    池田忠雄
 同    ヂェームス槇
 監督   小津安二郎
 撮影   茂原英雄
 活躍する人々
 物語のあらまし
 解説担当 」

『TOKIWA NEWS』(1930年12月12日発行、堀川常磐座、4頁)

「紳士淑女・千夜一夜 お嬢さん スタッフ、梗概」(2-3頁) 

『本郷座ニュース』第三十九號(1930年12月31日発行、本郷座、12頁)

「お嬢さん スタッフ、配役、梗概」(4頁)

『帝國館ニュース』No.93(1930年12月31日発行、浅草帝國館、12頁)

「近日封切 岡田時彦主演至藝發揮 淑女と髯 鬼才小津安二郎監督 薀蓄傾倒大傑作名篇」4頁)

1931
『キネマ旬報』No.387(1931年1月1日発行、キネマ旬報社、280頁)

表紙:ジャネット・ゲイナー
「髯と淑女」(カラー全面広告)(159頁)
「映画人住所録 小津安二郎 東京市深川区龜住町二(本所一〇二五)」(262頁)

『芝居と映画 名流花形大寫眞帖』冨士新年號(第四巻第一號)附録(1931年1月1日発行、大日本雄辯會講談社、358頁)

「芝居の部」(1-154頁)
「映画の部」(155-316頁)
「外国映画の部」(317-357頁)
※小津組の俳優は、「岡田時彦」(166頁)、「渡邊篤」(167頁)、高田稔(168頁)、結城一朗(169頁)、齋藤達雄(170頁)、吉谷久雄(171頁)、横尾泥海男(172頁)、青木富夫・小藤田正一(175頁)、栗島すみ子(177頁)、飯田蝶子(179頁)、八雲恵美子(180頁)、田中絹代(182頁)、川崎弘子(193頁)、吉川満子(194頁)など。

『帝國館ニュース』No.94(1931年1月5日発行、浅草帝國館、12頁)

「岡田時彦巧妙細緻の至芸發揮 淑女と髯 鬼才小津安二郎監督大傑作名篇」(11頁)

『帝國館ニュース』No.95(1931年1月10日発行、浅草帝國館、12頁)

「岡田時彦主演巧妙細緻の至藝發揮 淑女と髯 近日封切 鬼才小津安二郎監督薀蓄傾注諷刺正喜劇」(11頁)

『サンデー毎日』第十年第四號(1931年1月18日発行、大阪毎日新聞社、44頁)

表紙:マリー・プレヴオ
誌上映画「松竹蒲田映画 淑女と髯 小津安二郎監督」(16-17頁)

『帝國館ニュース』No.97(1931年1月22日発行、浅草帝國館、12頁)

「岡田時彦主演巧妙細緻の至藝發揮 淑女と髯 近日封切
 『お嬢さん』の名トリオ、岡田、北村、小津が再び凝って玆に送る玲瓏無比の感激の名篇」(4頁)

『キネマ旬報』No.390(1931年2月1日発行、キネマ旬報社、128頁)

田中敬三「読者寄書欄 編輯部選 解剖「お嬢さん」(又は村上氏に寄す)」(68頁)
「淑女と髯」(カラー広告、河野鷹思デザイン)(83頁)
「銀河」(カラー広告)(82頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(1月21日調査)小津安次郎(ママ)氏。「淑女と髯」完成後、次回作品準備中。」(105頁)

『キネマ旬報』No.391(1931年2月11日発行、キネマ旬報社、156頁)

表紙:グレタ・ガルボ
「昭和五年度優秀映画投票総得点発表
二位 お嬢さん 687
八位 落第はしたけれど 48
10位 足に触った幸運 34
13位 その夜の妻 25
28位 結婚學入門 5」(74頁)
中川信夫「読者寄書欄 北村小松と小津安二郎」(106-107頁)
「日本映画紹介 銀河」(122頁)
一面広告「銀河」(128頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(2月3日調査)小津安二郎氏。「淑女と髯」完成後、鋭意次作品の選定中、此程漸く決定した。発表はニ三日の中」

『新宿松竹館週報』第七巻第八號(1931年2月13日発行、新宿松竹館、10頁)

北村小松「髯について」(2頁)
「淑女と髯 
 原作脚色 北村小松
 ギャグマン ヂェームス槇 
 監督 小津安二郎
 撮影 茂原英雄
 編輯 栗林實
 配役 梗概」(4頁)

『銀河 先代萩』(1931年2月14日発行、末廣座、1頁)

「銀河 十八巻上映 原作 加藤武雄氏 
 監督 清水宏、小津安二郎

 小津安二郎監督や成瀬巳喜男監督が応援監督をしていることについては、『キネマ旬報』No.392(1931年2月21日号)106頁の「撮影所通信:松竹蒲田通信」に、「小津安二郎氏。清水宏監督の「銀河」のスキーシーンを撮影することを委嘱され、一行三十餘名を率いて赤倉スロープに出発した。尚、小津氏は、一昨年「若き日」において、スキーシーン撮影に独特の手腕を発揮した故、斯界から非常に期待されている。」一方で、「成瀬巳喜男氏は引続き休養中。清水組の「銀河」の特別シーンの撮影を応援した。」と書かれている。
 この資料によって、銀河を小津安二郎が監督したことをはっきりと確認することができる。

『新宿松竹館週報』第七巻第九號(1931年2月20日発行、新宿松竹館、8頁)

北村小松「髯について 原因、結果」(3頁)
「淑女と髯 キャスト、配役、梗概」(4頁)

『キネマ旬報』No.392(1931年2月21日発行、キネマ旬報社、120頁)

表紙:グロリア・スワンソン
「小型映画らん 紹介と批評『大學は出たけれど』16ミリ400尺 制作マーベルグラフ」(72頁)
友田純一郎「主要日本映画批評 淑女と髯」(104頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏。「淑女と髯」完成後、鋭意次作品を選定中。清水宏氏監督の「銀河」のスキーシーンを撮影することを委嘱され、一行三十餘名を率いて赤倉スロープに出発した。猶、小津氏は、一昨年「若き日」に於て、スキーシーン撮影に独特の手腕を発揮した故、斯界から非常に期待されている。」(106頁)
※清水宏『銀河』の一部シーンを小津監督が撮影したことが分かる。

『新宿松竹館週報』第七巻第十號(1931年2月27日発行、新宿松竹館、8頁)

「今週のプログラム 南国太平記、独唱淡谷のり子、銀河」
「銀河(主題歌)」(3頁)
「銀河 スタッフ、配役、梗概」(4-5頁)

『大井館ニュース』第十號(1931年2月27日発行、大井館、4頁)

「淑女と髯
 原作脚色 北村小松
 監督   小津安二郎
 撮影   茂原英雄
 編輯   栗林實
 配役
 梗概  」(3頁)

『帝國館ニュース』No.110(1931年4月24日発行、浅草帝國館、16頁)

「スタジオ往来 『美人哀愁』これは、私の一の試みです。私の今迄の作品とは毛色の異なった、極めて浪漫的な作品です。それだけに希望もあり、懸念もあるのです。しかし近代人岡田時彦君、井上雪子嬢、よきカメラ茂原君の熱心さは私を希望的にさせずには置きません!とまれ私の一の試みです。御期待を裏切らねば幸甚!」小津安二郎」(5‐6頁)
「美人哀愁」(14-15頁)

『朝日座ニュース』(1931年5月、朝日座、8頁)

「蒲田ゴシップ集 美人哀愁」「美人哀愁スナップ キャメラ茂原英雄、台本を手にする監督小津安二郎 吉川満子、岡田時彦」(2頁)
「岡田時彦・井上雪子主演映画 美人哀愁」(7頁)

マッチラベル『美人哀愁』(1931年5月)

「美人哀愁 小津安二郎監督作品 近日封切」

櫻井祐吉編『郷土の本居宣長翁』(1931年5月1日発行、郷土會館出版部、161頁)

「宣長翁の生家小津氏に就て」(17-26頁)
「本居氏中興の祖たる小津七右衛門道印の事」(27-31頁)
「小津家(本居家となりし)江戸店興廢の顛末」(31-39頁)

『松竹座ニュース』第五百八十四號(1931年5月8日発行、金澤市香林坊松竹直営松竹座、4頁)

「「お嬢さん」「淑女と髯」などの制作者鬼才小津安二郎監督が在来の心境物よりロマンティシズムへの転向を示す最も野心的なる作品 アンリ・ド・レニエ原作の『大理石の女』より 小津安二郎監督作品 美人哀愁」(4頁)

『帝國館ニュース』No.113(1931年5月11日発行、浅草帝國館、12頁)

「近日封切 美人哀愁」(12頁)

『新宿松竹館週報』第七巻第廿一號(1931年5月15日発行、新宿松竹館、8頁)

「近日封切 美人哀愁」(2頁)

『新歌舞伎座週報』(1931年5月31日発行、新歌舞伎座、16頁)

「美人哀愁 スタッフ、配役、梗概」(4-5頁)

『キネマ旬報』No.403(1931年6月11日発行、キネマ旬報社、100頁)

表紙:フィフィ・ドルセイ
和田山滋「主要日本映画批評 銀河」(82-83頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(6月4日調査)小津安二郎氏は、『美人哀愁』完成後、休養中。」
「蒲田の岡田時彦と小津安二郎監督が日活の伏見直江と共に帝キネスタジオを訪れた時のスナップ」(87頁)

『キネマ旬報』No.404(1931年6月21日発行、キネマ旬報社、82頁)

表紙:ケイ・フランシス
黒木川喬「編輯部選・読者寄書欄 『巴里の屋根の下』と『美人哀愁』に就いて (賞)」(53頁)
和田山滋「主要日本映画批評 美人哀愁」(75頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏は『美人哀愁』完成後、暫らく休養。」(78頁)

『丸の内帝國劇場 番組』(1931年8月発行、丸の内帝国劇場、12頁)

「社會劇 東京の合唱 
  スタッフ、配役、梗概」(6‐11頁)

『松竹座ニュース』第三巻第三十九號(1931年8月発行、松竹座、8頁)

「近日封切 笑いと涙の蒲田名篇 東京の合唱」(1頁)
「蒲田が秋を飾った絶対名畫 鬼才小津安二郎監督 東京の合唱」(2頁)

『松竹座ニュース』第三巻第四十號(1931年8月発行、松竹座、8頁)

「蒲田絶対名画 東京の合唱 最近封切
 生活都市・失業都市・東京の合唱!
 彼は大学を出て、世間並みの会社員だ
 それからおかみさんを貰って、三人の子供の父だ。
 それから もう それから、何もする事はなくなった。
 百二十圓の月給で、子供を育てる事と會社へ勤める事と。
 -それから馘になたらどうする?サラリーマンが馘になると
 いうのはそんなに現実と掛け離れた問題ではない。
 社長の命は絶対服従だ!
 彼岡島眞二はこれに反抗した。
 東京―
 二百五十萬の失業者の中の一人に、彼も今日から加えられた。」(1頁)
「東京の合唱 鬼才小津安二郎監督蒲田特作 これこそ心境ものに独自の怪腕を恣に奮ふ悩めるモダン日本の赤裸々なる半面だ!今日の小市民階級のいつはらざる描破だ 学生篇、社会篇、同時封切」(8頁)

『キネマ旬報』No.408(1931年8月1日発行、キネマ旬報社、96頁)

表紙:ビリー・ダウ
「旬報グラフィック 蒲田小津安二郎作品「東京のコーラス」より」(60頁)
見開き広告「東京の合唱」(72-73頁)
「各社撮影所通信 松竹蒲田通信(7月24日調査)小津安二郎氏は、岡田時彦、齋藤達雄、八雲恵美子等の「東京の合唱」の撮影中八月中旬に完成の予定。」(80頁)

『帝國館ニュース』No.125(1931年8月8日発行、浅草帝國館、12頁)

「近日封切 東京の合唱 小津安二郎監督薀蓄傾注笑いと涙の社會諷刺劇」(12頁)

『キネマ旬報』No.409(1931年8月11日発行、キネマ旬報社、108頁)

表紙:フイリップス・ホームス
「日本映画紹介 東京の合唱」(78頁)
松竹蒲田映画
 原作者 北村小松
 脚色者 野田高梧
 監督者 小津安二郎
 撮影者 茂原英雄
主要役割
 岡島伸二 岡田時彦
 妻君すが子 八雲恵美子
 長男 菅原秀雄
 長女 市村美津子
 老社員山田 阪本武
 社長 谷麗光
 秘書 宮島健一
 大村先生 齋藤達雄
 その老妻 飯田蝶子
 医者 河原侃二
 会社の同僚 山口勇
解説 小津安二郎氏の「美人哀愁」に次ぐ作品である。
略筋
「全面広告 東京の合唱」(83頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(8月4日調査)小津安二郎氏は、「東京の合唱」撮影中、中学生のエキストラ数百名を募集して中学校校庭の場面を終了した。」(94頁)

『松竹キネマ超特選楽譜』No.150 「松竹映画主題歌 東京の合唱」(1931年8月21日発行、松竹キネマ楽譜出版社、6頁)

「東京の合唱 「春はくるくる」
 作詞 サトウハチロー
 作曲 松竹蒲田音楽部
 ハーモニカ編曲 仲谷安一

『キネマ旬報』No.412(1931年9月11日発行、キネマ旬報社、82頁)

表紙:ノーマン・シアラー
飯田心美「主要日本映画批評 東京の合唱」(78頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏の次回作は未だ決定を見ず。」(88頁)
「編集後記 小津安二郎の進むべき、彼の進もうとした、その頂点に「東京の合唱」に於て遂に到達した事は彼の為に喜ぶべきか、悲しむべきかは判らないが、とにかく「美人哀愁」のそぐはなさから出てのこの「東京の合唱」の感触はよかった。村上」(92頁)

『松竹館ニュース』No.95(1931年9月20日発行、浅草松竹館、12頁)

「近日同時公開 東京の合唱
  原作 北村小松、野田高梧
  脚色 野田高梧
  監督 小津安二郎
  撮影 茂原英雄
 小津監督作るところの笑いとナビだの奇しきコーラス・所謂会社員ものの総決算と言っても過言ではない。私たちは笑い乍ら愉快に見ているのだが知らず知らず涙ぐんでいるではないか?私たち小市民生活の日常が明確に描れているからだ!」(8-9頁)

『春は御婦人から』台本(1931年12月2日発行、松竹キネマ株式会社、126頁)

表紙にタイトルはなく、頁を開けるとタイトルとなる。
最終頁に、発行年が「昭和6年十二月二日」とある。封切は、1932年1月29日である。

『帝國館ニュース』No.143(1931年12月11日発行、浅草帝國館、12頁)

「スタジオ往来 『春は御婦人から』小津安二郎監督が新春の絶佳篇として放つべく製作開始したジェームズ・槇原作、池田忠雄、柳井隆雄脚色の『春は御婦人から』は齋藤達雄、城多二郎、阪本武、谷麗光、井上雪子、泉博子等の新鋭メンバーで小津監督一流の緻密な手法で学生生活からサラリーマン迄のユーモラスと戀愛とを綴った人間生活第一頁の朗らかな名篇です。撮影は茂原英雄。」(5頁)

1932
『ASAHIZA NEWS』4・2(1932年1月発行、朝日座、12頁)

「城田二郎が新境地の快演技と鬼才小津安二郎監督の手腕による、『春は御婦人から』を第二回作品としてその眞価を発揮す。」10頁)
「鬼才小津安二郎監督 春は御婦人から 近日封切」(12頁)
 

『歌舞伎座ニュース』2・5(1932年1月発行、歌舞伎座、11頁)

「蒲田特作 春は御婦人から
 原作 ジェームズ・槇
 監督 小津安二郎
 脚色 池田忠雄
    柳井隆雄
 撮影 茂原英雄
 配役、梗概」(8頁)

『キネマ旬報』新年特別号No.422(1932年1月1日発行、キネマ旬報社、196頁)

表紙:メーリー・ブライアン
カラー全面広告「春は御婦人から」(112頁)
「日本映画紹介 生れては見たけれど」(119頁)
「日本映画紹介 春は御婦人から」(126頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏は、既報「春は御婦人から」の撮影中、近日完成。」(155頁)
「昭和六年度の日本映画 松竹 小津安二郎」(168頁)
「映画関係者住所録 昭和六年度末現在 小津安二郎 東京都深川区亀住町二(本所一0二五)」(177頁)

『新宿松竹館週報』Vol.8 No.2(1932年1月7日発行、新宿松竹館、12頁)

「春は御婦人から 小津安二郎監督作品」(8頁)

『新宿松竹館週報』Vol.8 No.3(1932年1月14日発行、新宿松竹館、12頁)

「春は御婦人から 鬼才小津安二郎監督作品
 城多二郎第二回主演
 齋藤達雄、井上雪子、阪本武、泉博子助演
 原作 ゼームス・槇
 脚色 池田忠雄
    柳井隆雄
 撮影 茂原英雄
 春が来る。春が来る。春は馬に乗って?いいや飛行機に乗って?
 いいやそれでもない。
 春は御婦人から-
 そうだ-この名映画から-この超特作から。
 蒲田が誇るスマートな近代的映画です。」(10頁)

『松竹館ニュース』No.6(1932年1月29日発行、浅草松竹館、8頁)

「春は御婦人から
 スタッフ、配役、梗概」(4頁)

『帝國館ニュース』No.151(1932年2月4日発行、浅草帝國館、12頁)

「斎藤達雄、吉川満子主演 生まれては見たけれど 小津安二郎監督」(8頁)

『帝國館ニュース』No.152(1932年2月11日発行、浅草帝國館、12頁)

「斎藤達雄、吉川満子主演 生まれては見たけれど 小津安二郎監督」(7頁)

『キネマ旬報』No.426(1932年2月11日発行、キネマ旬報社、88頁)

表紙:グレタ・ガルボ
和田山滋「主要日本映画批評 春は御婦人から」(71頁)
※冒頭を引用する。「これは小津安二郎の嘗て発表した『美人哀愁』を忍ばせるような作品である。」
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏は城多二郎氏主演の『春は御婦人から』を完成。『生まれては見たけれど』の完成を急いでいる。」(78頁)

『キネマ旬報』No.430(1932年3月21日発行、キネマ旬報社、74頁)

表紙:ミリアム・ホプキンス
「旬報グラフィック 昨年末政策中ばに、この子供たちに倒れられて一時中止していた「生まれては見たけれど」の鋭意撮影を続行している最近のスナップ 右から突貫小僧 小津安二郎監督 菅原英雄」(53頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(3月24日調査)小津安二郎氏:欠」(69頁)

『映畫之友』第十巻第四號(1932年4月1日発行、映畫世界社、136頁)

表紙:川崎弘子
筈見恒夫「映畫月旦」(52頁)
※この文章の冒頭は次のようである。「この不振を見よ。松竹も、日活も、新興キネマも、一二の例外を除くと駄作連発だ。」小津安二郎への言及は次の通りである。「松竹にしても、決して、今良い条件で仕事をしているわけではないらしい。紅葉山人が知らなかった化粧品を新釋した「金色夜叉」、五日間?で出来上がった「情熱」、小津安二郎の「春は御婦人から」-最後の作品の場合には、殊に撮影所の条件が全体をスポイルしたに違いない。大學は出たけれど、落第はしたけれど、-この二つのモチィーフが前に小津安二郎の言わんとするところを強く生かした。就職難の世相が持っている矛盾を、春風のように、朗らかな感触で包容しようとする小津安二郎の意図は、しかし思い切って貫き通せなかった理由がある。つづく‥」

『帝國館ニュース』No.159(1932年4月1日発行、浅草帝國館、16頁)

「生まれては見たけれど 近日封切
 齋藤達雄、吉川満子、突貫小僧、菅原秀雄主演
 阪本武、小藤田正一、飯島善太郎、葉山正雄ベビースター総出演
 監督 小津安二郎
 原作 ジェームズ・槇
 脚色 伏見晃
 撮影 茂原英雄
 オヤジは僕たちに偉くなれと言う
 では一体オヤジはどんなに偉い人
 だろう?‥僕たちは疑わざるを得ない
 小津監督ならではの心境映画!」(12頁)

『帝國館ニュース』No.161(1932年4月14日発行、浅草帝國館、16頁)

「大人の見る絵本 生まれては見たけれど 近日封切」(11頁)

『キネマ旬報』No.433(1932年4月21日発行、キネマ旬報社、86頁)

表紙:シドニー・フォックス
「生まれては見たけれど」(広告)(64頁)
「日本各社撮影所通信 編輯部 松竹蒲田通信(4月15日調査)小津安二郎氏は、大人の見る絵本「生まれては見たけれど」を完成、封切準備中。」(81頁)

『TOYO NEWS』No.20(1932年4月22日発行、廣島東洋座編輯部発行、4頁)

「生まれては見たけれど 小津安二郎監督一流のユーモア溢れる社会風刺の獨特心境映画の絶佳篇」(4頁)

『大崎キネマ』(1932年4月29日発行、大崎キネマ、4頁)

大崎キネマ 電話高輪四九一一番
松竹名画陣「生れては見たけれど」松竹蒲田ベビースター總出演 監督小津安二郎

『帝國館ニュース』No.163(1932年4月29日発行、浅草帝國館、16頁)

「大人の見る絵本 生まれては見たけれど 近日封切」(12頁)

『キネマ旬報』No.437(1932年6月1日発行、キネマ旬報社、88頁)

表紙:アニタ・ペイヂ
一面広告「また逢ふ日まで」(69頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(5月24日調査)小津安二郎氏の次回作品として、野田高梧氏の脚本になる、悲劇「また逢ふ日まで」に着手、キャストは女(岡田嘉子)、男(岡譲二)、男の父(奈良眞養)、男の妹(川崎弘子)、女中(飯田蝶子)、女の友達(伊達里子)

『帝國館ニュース』No.169(1932年6月10日発行、浅草帝國館、12頁)

「また逢ふ日まで 脚色 野田高梧・監督 小津安二郎」(9頁)

『帝國館ニュース』No.170(1932年6月17日発行、浅草帝國館、12頁)

「近日封切 オール・サウンド版 また逢ふ日まで」(9頁)

『キネマ旬報』No.439(1932年6月21日発行、キネマ旬報社、80頁)

表紙:ローレッタ・ヤング
奥村康夫「読者寄書欄 生まれては見たけれど」(50-51頁)
橋本伸介「読者寄書欄 近代人としての小津安二郎 「生まれては見たけれど」を観て」(51-52頁)
「旬報グラフィック 「抱寝の長脇差」「小判しぐれ」「小笠原壹岐守」を発表して混迷せる今日の時代劇界に断然ズバ抜け異彩を放った、山中貞雄、嵐寛壽郎(右)と、目下「口笛を吹く武士」撮影中」(58頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(6月15日調査)小津安二郎氏は、岡譲二、岡田嘉子、川崎弘子のキャストで本格的メロドラマ「また逢ふ日まで」(サウンド版)撮影中。」(75頁)

『キネマ旬報』No.440(1932年7月1日発行、キネマ旬報社、100頁)

表紙:ドロシイ・ジョーダン
「松竹特作さうんど版 また逢ふ日まで」(カラー広告)(80頁)
北川冬彦「主要日本映画批評 生まれては見たけれど」(90頁)
※冒頭を引用する。「これは、まことに優れた映画だ。最近に於ける蒲田映画の中で群を抜いた。いな、この国に於いても第一流の、そうたやすくは現れない傑作映画だ。」
「日本各社撮影所通信 編輯部 松竹蒲田通信(6月25日調査)小津安二郎氏は、岡譲二、岡田嘉子主演の「また逢ふ日まで」撮影中。」(93頁)

『帝國館ニュース』No.173(1932年7月15日発行、浅草帝國館、12頁)

「近日封切 オール・サウンド版 また逢ふ日まで」(11頁)

『新富座ニュース』No.39(1932年7月15日発行、新富座、12頁)

「オール・サウンド版 また逢ふ日まで」(7頁)

『横浜常設館週報』No.35(1932年7月15日発行、横濱常設館、8頁)

「また逢ふ日まで 鬼才小津安二郎監督特作」(7頁)

『新橋キネマ』No.78(1932年7月22日発行、新橋キネマ、8頁)

「オール・サウンド版 また逢ふ日まで
 近日封切 」(6頁)

『横浜常設館週報』No.38(1932年8月5日発行、横濱常設館、8頁)

「近日封切 また逢ふ日まで 小津安二郎監督快心篇」(2頁)

『帝國館ニュース』No.177(1932年8月12日発行、浅草帝國館、10頁)

「また逢ふひまで 監督小津安二郎」(8頁)

『帝國館ニュース』No.178(1932年8月19日発行、浅草帝國館、12頁)

「また逢ふ日まで」(10頁)

『帝國館ニュース』No.181(1932年9月9日発行、浅草帝國館、12頁)

「青春の夢いまいづこ! 近日封切 青春・友情・若き日の夢再びは巡り来ず!!!」(9頁)

『キネマ旬報』No.448(1932年9月21日発行、キネマ旬報社、70頁)

表紙:ケート・フォン・ナギイ
「日本映画紹介 青春の夢いまいづこ」(56-57頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(9月15日調査)小津安二郎氏は、「青春の夢いまいづこ」を撮影中。」(64頁)

『帝國館ニュース』No.183(1932年9月22日発行、浅草帝國館、12頁)

表紙に「飯田蝶子」のサイン
「撮影所通信 ★青春の夢 小津監督の『青春の夢いまいづこ』の撮影も進んでいます。学生生活の純情と淡い感傷と友情をあなたに贈ります」(3頁)
「近日封切 青春の夢いまいづこ」(9頁)

『帝國館ニュース』No.185(1932年10月6日発行、浅草帝國館、12頁)

「青春の夢いまいづこ!」(8頁)
「限りなき舗道」(10頁)

『キネマ旬報』No.450(1932年10月11日発行、キネマ旬報社、74頁)

表紙:マリアン・ニクスン
「旬報グラフィック
小津安二郎氏が目下馬力をかけて製作中の「青春の夢いまいづこ」のスナップ
で右から 江川宇禮雄、田中絹代、小津安二郎、茂原英雄」(50頁)
※田中絹代が座るディレクターズチェアーにAUDZUの文字。
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(10月5日調査)小津安二郎氏は、「青春の夢いまいづこ」の完成を急いでいる。完成後着手する作品は、北村小松が。大毎、東日に連載した「限りなき舗道」と決定している。」(69頁)
「蒲田作品「青春の夢いまいづこ」のセット・スナップで、
右から監督小津安二郎、茂原英雄キャメラマン、主演の江川宇禮雄と田中絹代」(69頁)

『帝國館ニュース』No.186(1932年10月13日発行、浅草帝國館、12頁)

「「青春の夢いまいづこ スタッフ、配役、梗概」(4-5頁)

『横濱常設館週報』第四十八號(1932年10月13日発行、横濱常設館、8頁)

「青春の夢いまいづこ 
  原作 野田高梧
  監督 小津安二郎
  撮影 茂原英雄
  キャスト
  君よ高らかに讃え給へ、再び廻り来ぬ青春を。大学生活は男子にとって人生の華である。心ゆくまで謳わねばならない。そうした信念の下に出来得る限り学校を休み、暇さえあれば喫茶店へ入浸っている青年の一団。堀野商事の社長の息子哲夫を盟主にズボラグループは毎日フロリダ・ベーカリーへ通い詰めていた。‥」(4頁)

『歌舞伎座週報』第三巻第十七號(1932年10月13日発行、歌舞伎座、8頁)

「青春の夢いまいづこ スタッフ、配役、梗概」(4-5頁)
「限りなき舗道 小津安二郎監督」(8頁)

『帝國館ニュース』No.187(1932年10月20日発行、浅草帝國館、12頁)

「また逢ふ日まで 監督 小津安二郎 限りなき舗道 東日連載 原作脚色 北村小松 監督 小津安二郎」(10頁)

『歌舞伎座週報』第二巻第二三號(1932年11月発行、歌舞伎座、8頁)

「また逢ふ日まで 小津安二郎監督 野田高梧脚色」(6頁)

『歌舞伎座週報』第三巻第十九號(1932年11月発行、歌舞伎座、8頁)

「また逢ふ日まで 小津安二郎監督作品 近日封切」(5頁)

松竹キネマ大阪支店宣傳部『歌舞伎座週報』第三巻第廿三號(1932年11月24日発行、京都歌舞伎座、8頁)

「また逢ふひまで 
 スタッフ、配役、梗概」(3頁)

『帝國館ニュース』No.192(1932年11月24日発行、浅草帝國館、12頁)

「また逢ふ日まで」(表紙)
「今週の番組 土橋式松竹フォーンオール・サウンド版 また逢ふ日まで」(3頁)
「また逢ふ日まで スタッフ、配役、梗概 主題歌作詩:サトウ・ハチロー 指揮・作曲:高階哲夫」(6頁)

『朝日座ニュース』(1932年12月16日発行、朝日座、7頁)

「新春封切映画 城多二郎第二回主演映画 春は御婦人から」(5頁)

1933
『キネマ旬報』No.458(1933年1月11日発行、キネマ旬報社、76頁)

表紙:グレタ・ニッセン
「内外封切映画 興行価値 また逢ふ日まで」(29頁)
※冒頭を部抜粋する。「従来一般的に興行価値の乏しいと言われていた小津作品としてはめずらしく吸引力を抱負に有する映画である。」
和田山滋「小津安二郎との一問一答」(46‐47頁)
※この岸松雄による一問一答では、小津監督が、多くのアメリカの映画監督及びその作品に言及している。順に確認すると、次の通りである。ハロルド・ロイド(Harold Clayton Lloyd, Sr.:1893-1971)、『ロイドの活動狂』(Movie Crazy:1932)、チャップリン(Sir Charles Spencer “Charlie” Chaplin:1889-1977)、『常盤木ホテル』、キング・ヴィダー(King Vidor:1894-1982)、エルンスト・ルビッチュ(Ernst Lubitsch:1892-1947)、ウィリアム・ワイラー(William Wyler:1902-1981)、ジョン・エム・スタール(John Malcolm Stahl:1886-1950)、レックス・イングラム(Rex Ingram:1893-1950)、ウィリアム・ウェルマン(William Augustus Wellman:1896-1975)、『暗黒街の女』(Ladies of the Mob :1928)、『民衆の敵』(The Public Enemy:1931)、ルイズ・マイルストン(Lewis Milestone:1895-1980)、ハリー・ダパティ・ダラー(Harry d’Abbadie d’Arrast:1897-1968)、フランク・タットル(Frank Wright Tuttle:1892-1963)、『私の殺した男』(Broken Lullaby (a.k.a. The Man I Killed)。
飯田心美「主要日本映画批評 また逢ふひまで」(70頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏は、『また逢ふ日まで』に次ぐ作品『非常線の女』の準備中。尚、北村小松氏原作脚色に依る『限りなき舗道』の撮影も決定している。」(72頁)

『友樂舘週報』No.150(1933年1月12日発行、福岡市東中洲友樂舘、12頁)

「封切迫る 限りなき舗道 小津安二郎監督」(8頁)

『友樂舘週報』No.152(1933年1月26日発行、福岡市東中洲友樂舘、12頁)

「封切迫る 限りなき舗道 小津安二郎監督」(12頁)

『帝國館ニュース』No.201(1933年2月2日発行、帝國館、12頁)

「東京の女 次週封切」(6-7頁)

『友楽館ニュース』No.154(1933年2月8日発行、福岡市東中洲町友楽館、12頁)

「北村小松最初の文藝大作 限りなき舗道 小津安二郎作品」(3頁)
「東京の女 東洋の文化大都市・東京を女で言描く魅力的力作 鬼才小津監督昨年来の秘密大作 突如発表!」(12頁)

『キネマニュース』二月第二週「東京の女(二)」(1933年2月9日発行、キネマニュース、1頁)

岡田嘉子
発行日がないので、封切日とした。

『キネマ旬報』No.461(1933年2月11日発行、キネマ旬報社、78頁)

表紙:フランセス・ディー
「昭和七年度 優秀映画推薦発表 日本映画首位(二十点)生まれては見たけれど(松竹蒲田作品)」(11頁)
「旬報グラフィック スチル『東京の女』」(58‐59頁) 
「日本映画紹介 東京の女」(66頁)
全面広告「東京の女」(72頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏は着手した「非常線の女」を一時中止して、エルンスト・シュワルツ原作の「二十六時間」を翻案脚色した「東京の女」に着手した。野田高梧、池田忠雄両氏脚色カメラは茂原英朗氏、(詳細本號紹介欄参照)。」

『友樂館週報』第155號(1933年2月15日発行、福岡市東中洲友樂館、12頁)

「限りなき舗道 小津安二郎作品」(3頁)
「東京の女 スタッフ、キャスト、梗概」(4-5頁)

『新富座ニュース』No.9(1933年2月15日発行、新富座、8頁)

「東京の女」(表紙)
「東京の女 スタッフ、キャスト、梗概」(5頁)

『松竹直営錦糸舘』(1933年2月15日発行、錦糸舘、4頁)

「東京の女 スタッフ、キャスト、梗概」(2頁)

『松竹座ニュース』Vol.5 No.9(1933年2月15日発行、札幌松竹座、12頁)

「また逢ふ日まで 配役 梗概
 お知らせ 映画『また逢ふ日まで』は従来サウンド版として宣傳しておりました。併し今回突如更に蒲田撮影所より小津監督が制作者の良心から特に事故の好みにより作ったサイレント版特輯篇を送って参りましたので、是を封切豫定のサウンド版と差替えて、特に全国當座唯一軒の特輯サイレント版封切を敢行致します。
 之は今回の如き特殊週間の場合をして一層有意義ならしめる試みで、是こそ必ずやファン諸賢の御激賞を得らるる事と存じます。」(8-9頁)

『キネマ旬報』No.462(1933年2月21日発行、キネマ旬報社、84頁)

表紙:ルーペ・ベレス
「キネマ旬報主催、昭和七年度推薦名画鑑賞会
日時:三月七日午後六時開会
場所:丸ノ内朝日講堂
会費:金五十銭
プログラム 一、開会の辞 田中三郎
      二、挨拶 小津安二郎
      一、映画「生まれては見たけれど」説明 池田重近」(9頁)
北川冬彦「雑感一束 四、小津安二郎賞讃」(53頁)
※冒頭を引用する。「古いことばかりをいうようであるが、小津安二郎の『また逢う日まで』はいい映画であったことがなかなか忘れられない。コンティニュイティの緻密、カメラの正確、それは人々のいうところで、もちろん僕としても異議のないところなのだが、僕はあの映画の音響、伴奏にも相当感心したのである。ことに音響として、品川駅で発車する汽笛の音はすこぶる効果的であった。機関車の前半の上部の大寫が画面に出、白い汽笛の蒸気が噴き出すとともに鳴り出したあの汽笛の音は、別離の感情を十分に唆った。別離と言えば、老婆と恐らくその息子だろう。兵士とが別れを告げているところがあったが、あそこはひどく僕を打った。」
滋野辰彦「たわごと」(54頁)
※全篇、「東京の女」について書かれている。
北川冬彦「主要日本映画批評 東京の女」(76頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(2月14日調査)小津安二郎氏は、「東京の女」を完成して、一時撮影を中止していた「非常線の女」を再び開始した。
「東京の女」
※冒頭を引用する。「小津安二郎の作品が興行的に成功した例は今迄に少ないようである。恒に、失敗しているという訳ではないが、何時も彼のものは普通の入りで、あまり栄ある興行成績を記録した例は今迄にないようである。例えば、最近の「青春の夢いまいづこ」「また逢う日まで」でも、わるい入りではなくとも普通の成績を出でたことはない。だからと言って、小津作品が興行的に意味を持たないのではなく、逆に立派な意義を持っている。小津作品というものは、他の松竹の現代映画が包含している観客層以外のものに、恒に触手を伸ばし、そして現在獲得している。例えば、知識階級層である。この層に今後深く食入る作品は、小津安二郎のものを置いて他にない。」

『松竹座週報』No.644(1933年2月22日発行、松竹キネマ直営松竹座、4頁)

「次週封切 東京の女 小津安二郎監督 脚色 野田高梧・池田忠雄 撮影 茂原英雄
 映画藝術家小津が全神経を打込んで、鋭いメスを揮ってものせる本篇は、泰西の文豪の名作『廿六時間』の舞台を東京にとり、大東京の全貌を女性をとほして描破せる近来の一大力作!」(1頁)

『キネマ旬報』No.463(1933年3月1日発行、キネマ旬報社、96頁)

表紙:ジョーン・クロフォード
「キネマ旬報主催 昭和七年度推薦名画鑑賞会
 一、挨拶 小津安二郎 菅原秀雄 突貫小僧
 一、映画 「生まれては見たけれど」」(9頁)
東海林透「読者寄書欄 小津安二郎への一結論-『東京の女』から-」(64-65頁)
※冒頭を引用する。「『東京の女』が上映された。またまた小津安二郎礼讃記に新しい一頁が付け加えられることであろう。」
森川繁夫「読者寄書欄 「東京の女」に就いて」(65頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(2月24日調査)小津安二郎氏は「東京の女」完成引き続き「非常線の女」の撮影開始。 

『月刊映画と演藝』第十巻第三号(1933年3月1日発行、東京・大阪朝日新聞社、48頁)

表紙:スザンヌ・フレミング
「近代趣味」(18―19頁)
※松竹蒲田映画「東京の女」「弟のためにバアで働く可哀想な姉、その姉の失策をあばく巡査というのが弟の恋人の兄だったとは―。皮肉な運命の悪戯を僅々廿六時間以内に起こった事件を通して描こうという、才人小津安二郎独特の野心的な映画だ。役者も粒揃いだからこの効果期して待つべきものがあるだろう。」
「2月から3月へ―新映画漫評録―」(32頁)
※「東京の女」(松竹蒲田映画)「ここにまた「また逢う日まで」と共通する小津安二郎の一つの心境がある。真面目な弟に学費を貢ぐために昼は会社で働き、夜は安酒場で稼いであまつさへ春をまで売ろうという「姉」のために、実情を知った弟は自殺する、弟の恋人と姉とは呆然として自失する。馳せつけた新聞記者たちは、而もこうした事件の「平凡さ」にあきて生欠伸とともにアッチへ行ってしまう。というただこれだけのストオリイを六千何百呎かのセルロイドの帯に記録するのに小津安二郎は今恐ろしくクソ真面目である。概して低位置においたキャメラ、終始「紗」を透した様な調子に保つライト。、長い長い
カットを丹念に組み合わせ、按配して得た緩慢なテンポ、そしてそこには岡田嘉子の素敵もない芝居があった。この岡田嘉子の前には、妹の田中絹代も、弟の江川宇礼雄も全く影が薄い。尤もそういうことは姉に意力を集中しすぎて他の二人に必然的のニグレクトが及んだ、と考えることは決して間違いではないが、それにしても岡田嘉子のこの功績は「また逢う日まで」の場合と相譲らざる輝きに満ちている。小津安二郎を恐れよ!今こそ安心してこの言葉を出し得る筆者の何という大きな喜びか。

『新宿松竹館週報』Vol.9 No.10(1933年3月1日発行、新宿松竹館、

「非常線の女 近代社会の一断層に映る惡の華、テロ横行恐怖時代-悪の世界を赤裸々に描く文明都市末期相
近日封切 乞御期待」(8頁)

松竹キネマ大阪支店宣傳部編『歌舞伎座週報』第四巻第十二号(1933年3月1日発行、京都新京極歌舞伎座、8頁)

「非常線の女」(裏表紙)
発行日がないので、今週の映画「応援団長の戀」の封切日とした。

松竹キネマ大阪支店宣傳部編『歌舞伎座週報』第四巻第十三号(1933年3月15日発行、京都新京極歌舞伎座、8頁)

「予告 非常線の女」(7頁)
発行年がないので、今週の映画『無宿佐太郎』の封切日とした。

『キネマ旬報』No.465(1933年3月21日発行、キネマ旬報社、80頁)

表紙:タラ・ビレル
「旬報グラフィック 田中絹代 「非常線の女」の服装にて」(61頁)
「日本映画紹介 非常線の女」(70頁)
「日本各社 撮影所通信 松竹蒲田通信(3月13日調査)小津安二郎氏は、「非常線の女」撮影中。」(78頁)

松竹キネマ大阪支店宣傳部編『歌舞伎座週報』第四巻第十四号(1933年3月23日発行、京都新京極歌舞伎座、8頁)

「非常線の女 小津安二郎監督作品
 荒くれ男を尻目にかけて凄いタンカを切るモダン姐御ギャング娘にも人の子の純情がある。これは都会の暗黒街に起った猟奇の物語!」(2頁)
発行日がないので、今週の映画「孔雀船」の封切日とした。

松竹キネマ大阪支店宣伝部『朝日座週報』第六巻第十五号(1933年3月23日発行、大阪道頓堀朝日座、8頁)

裏表紙「非常線の女」一面広告
小津安二郎監督 ゼームズ槇 原作 茂原英雄 撮影
田中絹代・岡譲二主演 水久保澄子・逢初夢子・三井秀男共演
大東京の暗黒街に跳梁する夜の顔役の軋轢を描き義理人情・友愛そして拳銃の火花に咲く恋愛葛藤をも描く近代的スリル抜萃篇
発行日がないので、今週の映画「孔雀船」の封切日とした。

『横濱常設館週報』第七十二號(1933年3月23日発行、横濱常設館、8頁)

「近日封切 非常線の女
 田中絹代・岡譲二主演
 オールスターキャスト
 原作 ジェームス・槇
 脚色 池田忠雄
 撮影 茂原英雄 
 小津安二郎監督大作
 大東京をバックに跳梁する男女ギャング團
 義理・人情・戀愛・そして拳銃に散る火花
 大東京のブロードウェイ・暗黒街の大軋轢」(2頁)

『松竹座週報』No.649(1933年3月28日発行、松竹キネマ直営松竹館、4頁)

「生まれては見たけれど スタッフ、梗概」(2頁)
「非常線の女」(4頁)

『映画往来』第九巻(1933年4月1日発行、往來社、81頁)

滋野辰彦「小津安二郎についての感想」(22-30頁)
※一部を抜粋する。「ところがある若い監督が、かつてこんなことを云った。小津安二郎のように比較的自由を許されるのは、彼がすでに堂々たる大家であるからだ。彼は今までに「淑女と髯」の如き映画を作って会社を儲けさしている。それだから興行価値のない「生まれては見たけれど」を作る自由も與へられるのである。われわれもそういう自由が與へられる時になったら、単なる商品ではない映画を作るために努力してみたいと思う。こうした弁解は小津安二郎を語った若い監督ばかりではない。伊藤大輔の弟子であった監督も、丁度これと同じことを云ったのを聞いたが、これはボンヤリしていると、大変健気な心懸けのように思われるのだが、実はこんな莫迦げた話はないのだ。伊藤大輔も小津安二郎も、会社をどれ位儲けさしたか私の知らないことだが、この二人は良い映画を作ったから大家と呼ばれるので、大家になったから良い映画が作れるのではないのだ。「淑女と髯」は儲かったかもしれないが、私はこれを商品一点張りの映画だと考えたことはない。」(24頁)
谷本四郎「『東京の女』の主題に就いて」(31-35頁)
※冒頭を抜粋する。「我が国に於ける極少数な真摯なるシネアストの中に於いて、最も良心的であり、最も進歩的である小津安二郎ん、近作「東京の女」に就いては、もはや、凡てが言い尽くされているかもしれない。」(31頁)

『横濱常設館週報』第七十三號(1933年4月1日発行、横濱常設館、8頁)

「封切迫る 非常線の女 小津安二郎監督春季大作」(2頁)

『キネマ旬報』No.467(1933年4月11日発行、キネマ旬報社、76頁)

表紙:キャスリン・バーク
小津安二郎「犯罪都市を語る」(47頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(3月24日調査)小津安二郎氏は、「非常線の女」を近日完成」(74頁)

『横濱常設館週報』第七十五號(1933年4月13日発行、横常編輯部、4頁)

「問題の大作封切迫る 非常線の女」(4頁)

『帝國館ニュース』No.212(1933年4月20日発行、浅草帝國館、12頁)

「撮影所通信 非常線の女 日本最初の本格的ギャング映画として小津監督が懸命製作せる作品。ギャングの女頭目が、純情な少女の切なる願ひに次第次第に人間性をとり戻して行く、その心理の動きが、小津監督の手法と絹代の演技で彫琢されて行きます。岡譲二共演。次週封切!」(3頁)
「来週封切 本格的一大ギャング映画 非常線の女」(6-7頁)

『帝國館ニュース』No.213(1933年4月27日発行、浅草帝國館、12頁)

「非常線の女」(表紙)
「非常線の女 スタッフ、キャスト、梗概」(4頁)

『新宿松竹舘週報』Vol.9 No.18(1933年4月27日発行、新宿松竹館、10頁)

「非常線の女」(表紙)
「スタヂオにゅうす 小津組「非常線の女」を完成一週直ちに封切。(カットは撮影中の小津監督、岡譲二、田中絹代)」(5頁)
「非常線の女
 原作:ジェームス・槇
 脚色:池田忠雄
 監督:小津安二郎
 撮影:茂原英雄
 キャスト
 略筋」(7頁)

『非常線の女』(1933年、松竹座)

非常線の女
この映画こそ狂いなきブローニングの一發!皆様の胸に力強い衝動を捲き起そう
映聖小津の好一篇

『第一東京市立高等女學校 創立記念號』(1933年5月1日発行、第一東京市立高等女學校、4頁)

「東京の女 スタッフ、キャスト、梗概」(3頁)
「映画の話 「東京の女」其他 東京市教育局 關野嘉雄」(4頁)

『キネマ旬報』No.471(1933年5月21日発行、キネマ旬報社、80頁)

表紙:カレン・モーレー
久野信「読者寄稿欄 「非常線の女」」(57-58頁)
北川冬彦「主要日本映画批評 非常線の女」(74頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(5月10日調査)小津安二郎氏は、「非常線の女」完成後次回作品準備中。」(80頁)

『キネマ旬報』No.473(1933年6月11日発行、キネマ旬報社、78頁)

表紙:ルース・チャッタートン
林高一「読者投稿欄 小津安二郎の小市民イデオロギーに就いて」(50頁)
「日本各社撮影所通信 松竹蒲田通信(6月1日調査)小津安二郎氏は、目下、休養中。」(76頁)

『横濱常設館週報』第八十九号(1933年7月20日発行、横濱常設館、8頁)

「乞御期待 出来ごころ」(2頁)

『パテ―ベビー月報』第四十二號(1933年8月1日発行、パテ―ベビー月報社、14頁)

表紙:『和製喧嘩友達』
「S-64 新作正喜劇映画 和製喧嘩友達(全二巻)特大罐二巻 定価各貳拾四圓 配役、梗概、字幕」(2-3頁)
※全字幕が掲載されている。第一巻は字幕17、第二巻は字幕9である。本作は、長らく失われたと考えられていたが、1997年に新潟県南魚沼郡塩沢町の宇賀山家でこのパテ―ベビー版が発見され、フィルムセンターに寄贈された。

松竹キネマ大阪支店宣傳部編『歌舞伎座週報』第五巻第七號(1933年8月1日発行、京都新京極歌舞伎座、8頁)

「予告 出来心」(2頁)

『新宿松竹館週報』Vol.9 No.32(1933年8月3日発行、新宿松竹館、12頁)

「近日封切 出来ごころ 小津安二郎監督」(7頁)

『新宿松竹館週報』Vol.9,No.34(1933年8月17日発行、新宿松竹館、12頁)

「出来ごころ 近日封切」(7頁)

『新宿松竹館週報』Vol.9 No.35(1933年8月24日発行、新宿松竹館、12頁)

「近日封切 出来ごころ」(7頁)

松竹キネマ大阪支店宣傳部編『歌舞伎座週報』第五巻第九號(1933年8月25日発行、京都新京極歌舞伎座、8頁)

「出来ごころ」(7頁)
発行日がないので、今週の映画「与太者と海水浴」の上映日とした。

『映画藝術研究』第四輯(1933年8月25日発行、藝術社、193頁)

杉本俊一「日本新鋭しねあすと拾人抄 -その走りがき的素描」(76―89頁)
※冒頭を引用する。「ここにかかげる十人は日本映画界を代表する新鋭シネアストである。昨日の人ではなく今日あるひは明日を背負うであろう人びとであることに間違いはない。つまり、これらの人びとが日本映画をつねに代表してくれるだろうと信じる。」(76頁)
「山上伊太郎氏」(78―79頁」
「伏見晃氏」(79―81頁)
「小林正氏」(81―82頁)
「伊丹萬作氏」(82―83頁)
「小津安二郎氏」(83―84頁)
「木村荘十二氏」(84―85頁)
「小石榮一氏」(85―86頁)
「山中貞雄氏」(86―87頁)
「稲垣浩氏」(87―88頁)
「内田吐夢氏」(88―89頁)

『漫劇 出来心』(1933年9月発行、キングレコード)

KING RECORD TELEFUNKEN RECORDING
キング 11024
漫劇 出来心(上・下)飯田蝶子、坂本武、突貫小僧

※当時の飯田蝶子、坂本武、突貫小僧の肉声が聞ける貴重なレコードである。

『横濱常設館週報』No.94(1933年9月7日発行、横常編輯部、8頁)

「長屋紳士録第一話 出来ごころ
 原作 ジェームス・槇
 脚色 池田忠雄
 監督 小津安二郎
 撮影 杉本正二郎
 配役、梗概」(6頁)

『新橋ニュース』No.139(1933年9月14日発行、新橋キネマ、8頁)

「長屋紳士録第一話 出来ごころ 次週上映」(7頁)

『上のすずもと・ニュース・上野鈴本キネマ週報』No.40 (1933年9月14日発行、上野鈴本キネマ、4頁)

「松竹映画 出来ごころ スタッフ、配役、梗概」(2-3頁)

『新橋ニュース』No.140(1933年9月21日発行、新橋キネマ、8頁)

「出来ごころ」(表紙)
「出来ごころ スタッフ、配役、梗概」(4-5頁)

『荏原電氣館週報』No.84 (1933年9月21日発行、荏原電氣館、4頁)

裏表紙 近日上映「出来ごころ」坂本武・伏見信子・突貫小僧・大日方傳共演 小津安二郎監督作品
「僕の丸髷」成瀬己喜男監督明朗篇

『キネマ旬報』No.484(1933年10月1日発行、キネマ旬報社、104頁)

表紙:リリアン・ハーヴェイ
北川冬彦「主要日本映画批評 出来ごころ」(97頁)
※一部抜粋する。「これは、『生まれては見たけれど』以来の小津安二郎の傑作だ。「青春の夢いまいずこ」や「非常線の女」では、どうも監督者の意気の上がっていないのを感じたが、この「出来心」では、監督者の息遣いが、一場面一場面ごとに覗はれた。」
「撮影所通信 松竹蒲田通信(9月21日調査)小津安二郎氏は、「出来ごころ」完成、次回作品の準備中。」(104頁)

1934
『冨士新年號附録 映画花形大寫眞帖』第七巻第一號附録(1934年1月1日発行、大日本雄辯會講談社、128頁)

「齋藤達雄 生まれてはみたけれど」(20頁)
「岡田時彦 美人哀愁」(33頁)
「高田稔 大學は出たけれど」(66頁)
「青木富夫 突貫小僧」(87頁)
「大日方傳 出来ごころ」(112頁)
「飯塚敏子 淑女と髯」(115頁)

『キネマ旬報』No.500(1934年3月21日発行、キネマ旬報社、104頁)

表紙:ケイ・フランシス
「日本映画紹介 母を戀はずや」(95頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(3月13日調査)小津安二郎氏は、「母を戀はずや」を鋭意撮影中。」(103頁)

『S.Y.ニュース』第三十三號(1934年1月14日発行、松竹洋画興行社宣傳部、16頁)

「春は朗かに!一幕二場 蒲田實演 
 演出 小津安二郎
 原作 野田高梧
 装置 金須孝
 配役 岸本卓二‥日守新一
    妻 里子‥及川道子
    兄 耕一‥大山健二
    妻 富子‥飯田蝶子
    女中お豊‥江坂静子
    女中お初‥秋田道代 
 梗概           」(7頁)
 

『月刊ライカ』第一巻第二號(1934年2月1日発行、アルス、64頁)

小津安二郎「静物」(37頁)
五所平之助「夜の酒場で」(37頁)
木村伊兵衛「玩具店」

『横濱常設館週報』第一二一號(1934年3月14日発行、横常編輯部、8頁)

「蒲田春季特作 母を恋はずや」(2頁)

『キング』第十巻第四號(1934年4月1日発行、大日本雄辯會講談社、648頁)

「映画監督打明け話座談會」78-91頁
出席者(イロハ順)池田義信、石山稔、野村芳亭、小津安二郎、五所平之助、清水宏
※小津監督の発言を取り上げてみよう。小津監督は9回発言している。
小津「どういう人が伸びるかというと、しっかり個性を持った人です。直ぐ有名なスターを真似たり、同化したりするような人は、決して成功しません。真似したのでは、そのスター以上になれませんからね。聡明な人、美しい人もよいが、しかし、それだけでは足りない。例えば、線の太い人、或いは反対に性格的な弱い線を持った人、いずれにしても特徴のある型の人がその持ち味を生かすことによって成功します。例えば岡譲二君など線が太くて、活躍していますし、この間亡くなった岡田時彦君などは千の弱い人ですが、やはり、その弱さを生かしてた役者でした。だから顔ばかり美しくても駄目です。むしろ口だけで親しめる人、という具合に全体的に言えば不均衡な容姿の人でも、その特徴によって成功している例が沢山あります。松之助は口と眼に魅力がありましたし、栗島さんなどはあのやや腫れぼったいようなーというと池田さんが怒るかもしれないが、あそこがやはり一つの特徴でしょう。」
小津「映画を製作するのは、せんべいを焼くのと同じで、何時も同じことをしているように思うのですが、結局、一本一本違います。人はどう見るか知らぬが、自分としてはそれぞれに力を入れているつもりです。で、五年前のものでも、今から見れば幼稚かも知れないが、あの時はあれでよかったと思う。しかし、田舎の常設館などで、自分の古びた、キズだらけの写真をみると、ちょいと淋しくなりますね。」
31歳、監督歴6年の小津が、自分の作品を見ること、そしてその感想に言及していることは興味深い。

『出来ごころ/刺青判官』(1934年4月13日発行、山口金龍館)

朽る事なき藝術の光彩是ぞ映画界の宝玉編
松竹蒲田現代劇部藝術作品超得策
長屋紳士録第一話 出来ごころ
監督 小津安二郎
原作 ゼームス槇
脚色 池田忠雄
撮影 杉本正次郎
坂本武 大日方傳 伏見信子 主演
小津監督の繊細な神経がまざまざと描き出す人間の寂しき本性
裏店の三十男そして青年 街で拾った処女の涙の甘さ一抹の哀愁!
温情と思慕と侠気の織り綯ひそこに醸される愁ひと喜びの表情
集の香りも高き明朗な珠玉篇!これど蒲田の代表的作品

『スタア』第二巻第八號通巻第二十三號(1934年4月15日発行、スタア社、30頁)

表紙:ドロレス・デル・リオ
「松竹新作 『母を戀はずや』(小津安二郎監督作品)(20頁)
※グラビア「上段右と左:大日方傳と逢初夢子、二段左、大日方傳と三井秀男」

『キネマ旬報』No.503(1934年4月21日発行、キネマ旬報社、108頁)

表紙:アンナ・ステン
「旬報グラフィック 小津安二郎と山中貞雄」(93頁)
※鴻毛よりも軽い仕事帽を冠った小津安二郎と、長い顎を外套の襟に深く埋めた山中貞雄とは、そこでもう一人の腕の良い職人清水宏のキャメラに収められたというわけ
「小津安二郎の「母を戀はずや」の逢初夢子と大日方傳」(98頁)
※松竹大船通信掲載なし

『蒲田』第十三巻第五號通巻一四二號、五月春季特別號(1934年5月1日発行、蒲田雑誌社、150頁)

表紙:川崎弘子
「新作ピックアップ 『母を戀はずや』」(34-35、39-38頁)
飯田心美「人間・小津安二郎」(60-61頁)
「映画物語『母を戀はずや』」(90-91頁)
菊池三之助」「蒲田スタヂオ キャメラ行脚」(92-93頁)
※一部抜粋する「いちばん新しい仕事らしい仕事をしている小津安二郎監督が、同じやうに是も、時代劇方面で好い仕事をしている日活の山中貞雄監督を連れて来て、二人して漫然と撮影所内を万遍なく案内して歩いている。普段、それもチョンマゲ物ばかり撮っている山中監督には、蒲田でかうして現代劇を撮っているのを見るのが、相当に珍しいらしい。このふたりの並べて撮るのは、相当興味があるではありませんか?」(小津と山中のショットあり)
エム坊「撮影所日記 十九日 昨年度優秀映画の会がキネマ旬報社主催で午後六時から報知新聞社講堂で開かれた。蒲田、小津監督作品で「出来ごごろ」が昨年度優秀映画として当選されたので、今夜は表彰式を兼ね、同映画を上映するので、小津監督を始め阪本武、飯田蝶子、突貫小僧が舞台より挨拶する。大盛会であったといふ。」(130頁)
「松竹スタジオニュース 蒲田通信 小津安二郎氏は、昨年八月「出来心」を発表以来休養だったが愈々半ヶ年に亘る準備を終え小宮周太郎原作、野田高梧構成、池田忠雄脚色になる『母を戀はずや』に着手した。

『帝國館ニュース』No.267(1934年5月4日発行、浅草帝國館、12頁)

「近日封切 母を戀はずや 名匠小津安二郎」(8頁)

『SHINTOMIZA NEWS』(1934年5月4日発行、新富座、12頁)

「近日封切 母を戀はずや 小津作品」(9頁)

『三日月次郎吉・母を恋はずや・生さぬ仲』(1934年5月11日発行、演藝館、1頁)

「松竹蒲田大名篇・監督・巨匠・小津安二郎快心の作品 あなたの胸にしみじみふれるときの感傷 心が淋しさに慄へる時 胸が悲しさに泣く時!限りなく恋しきは溢るるばかりの母の愛」
発行日がないので、封切日とした。

『上のすずもと・ニュース・上野鈴本キネマ週報』No.22 (1934年5月17日発行、上野鈴本キネマ、4頁)

「母を戀はずや
 原作 小宮周太郎
 監督 小津安二郎
 構成 野田高梧
 脚色 池田忠雄
 撮影 青木勇・荒田正男
 配役、梗概
 説明 美山晴香・戸田紫朗」(2頁)

『松竹座週報』第八一二號(1934年5月24日発行、松竹キネマ直営金澤松竹座、4頁)

「近日封切 母を戀はずや 小津安二郎監督作品」(2-3頁)

『映画観賞券』(1934年5月26日発行、名古屋学生映画聯盟、1頁)

「映画観賞券 三文オペラ(G・W・パプスト)
       出来心(小津安二郎)
 主催:名古屋学生映画聯盟
 後援:大阪朝日新聞支局
 時:昭和九年五月二十六日・夕六時
 所:市公会堂

『キネマ旬報』No.507(1934年6月1日発行、キネマ旬報社、114頁)

表紙:マーガレット・リンゼイ
白川朝夫「読者寄稿欄 「母を戀はずや」に関するきれぎれなる感想」(71-72頁)
岸松雄「主要日本映画批評 母を戀はずや」(106頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(5月23日調査)小津氏:欠」(114頁)

『松竹座ニュース』第六巻第二十五號(1934年6月13日発行、札幌松竹座、16頁)

「近日公開 蒲田特作 母を恋はずや 小津安二郎監督
 一年の沈黙を破り、更に新たな心境を以て新傾向の
 作品を発表せんとする小津監督の自信篇

 面白い映画を作り得る監督は沢山いる。しかし眞にわれわれの心を打つ映画を作り得る作家は日本では小津安二郎唯一人である。
この作品は巷に溢れる無数映画とはまるで段違いな高い世界に座しているような気がする、小津安二郎を讃える世の映画學徒たちの八釜しいほどの讃辞も別段不当でないと思われるような作品である。
 先ず何より誉められていいのは題材の掴み方である。同時に、彼が掴んだ題材の性格である。そこには窺える題材のあらゆる細部に透徹する小津安二郎の誠実のこもった心づかいがある。
 夫の先妻の子を本当の子よりも愛しようと力める母性、弟に対するよりもつと優しい母の心づかいを訝り、厭ふ兄、この二つの心が食い違って醸される悲劇を真正面から取り組んで描き得る素質の映画作家が日本で小津安二郎を除いて一人でもいただろうか。恐らくいないように思われる。」(11-12頁)

『映光』第三號(1934年6月20日発行、関西学院映画研究會発行、46頁)

日比武彦「映画が藝術であることと 小津安二郎の場合」(16‐18頁)
太田憲治「小津安二郎」(21‐22頁)

『月刊映画と演藝』第十二巻第七号(1934年7月1日発行、東京・大阪朝日新聞社、48頁)

表紙:久美京子、櫻緋紗子、大空ひろみ
筈見恒夫「『彼』の心境 小津安二郎との一問一答」(19頁)

『映画藝術研究』第二年第九輯(1934年7月4日発行、藝術社、200頁)

The Study of Cinema No.9
三木伸太郎「小津安二郎に関する覚書」(62―71頁)
※冒頭を引用する。「真っ向から、小津に、天才だなんて呼べば、恐らく氏はテレ臭い思ひをするに違ひない。實のところ、彼の作風は天啓的匂ひをもっているのだから、決して過分な讃辞じゃないのだが、なんしろ、根が静謐で謙譲ときているんだから、大向ふ的呼称は適さないのであるらしい。僕は彼をスタジオや銀座舗道で数回見かけたことがあるが、始めて見た時なんか、すっかり面喰ってしまったのである。何に面喰ったかというと、作品を通じての想像から割り出した風貌と事実とは大変な相違であったことにである。お見かけ申したところ、どうみたって、棟梁のやうな角ばった骨格と、土方のやうな肌目の荒い皮膚をしているのである。この人が、あの繊細な感受性と、温容な風格を漂はせた作品を作るのか、と一応は疑った程である。」

『キネマ旬報』No.518(1934年9月21日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:カザリン・ヘップバーン
「旬報グラフィック 浮草物語」(111-112頁)
「日本映画紹介 浮草物語」(116頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信」:欠

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.17(1934年10月3日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「瓦版かちかち山
 原作 ゼエムス・槇
 監督 井上金太郎
 脚色 荒田正男
 撮影 伊藤武夫
 配役、梗概」(7頁)

『横濱常設館週報』第百五十三號(1934年10月3日発行、横常編輯部、8頁)

「近日封切 サウンド版 浮草物語」(3頁)
「瓦版カチカチ山 スタッフ、配役、梗概」(3頁)

『むなしの・週報』No.77(1934年10月18日発行、池袋武蔵野館、4頁)

「瓦版かちかち山 原作 ジェームス・槇 
         監督 井上金太郎
         脚色 荒田正男
         撮影 伊藤武夫 梗概」(3頁)
「近日公開 蒲田大作サウンド版 浮草物語」(4頁)

『KINRYUKAN NEWS』No.645(1934年10月19日発行、松竹キネマ特約金龍舘、4頁)

「母を戀はずや 松竹キネマ蒲田特作映画
 原作 小宮周太郎
 脚色 池田忠雄
 監督 小津安二郎
 撮影 青木勇
 配役、梗概」(2-3頁)

『東洋キネマ・ニュース』No.47(1934年11月8日発行、九段 東洋キネマ、4頁)

「近日封切 浮草物語」(3頁)

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.24(1934年11月15日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「浮草物語 スタッフ、キャスト、梗概」(4-5頁)

『上のすずもと・ニュース・上野鈴本キネマ週報』No.23 (1934年11月22日発行、上野鈴本キネマ、4頁)

「次週上映 蒲田超特作 サウンド 浮草物語」(表紙)

『横濱常設館週報』No.160(1934年11月22日発行、横常宣傳部、8頁)

「サウンド版 浮草物語 配役と梗概」(2-4頁)

『浅草帝國館』(1934年11月22日発行、浅草帝國館、1頁)

「浮草物語、殿様隠密、流行小唄の独唱」(1頁)

『浮草の歌・しぐれ旅』(1934年11月、ポリドールレコード)

流行歌「浮草の歌 松竹映画『浮草物語』より
(佐藤惣之助作詩、大村能章作曲)
新橋 喜代三 三味線 豊吉 日本ポリドール管弦楽団 2106-A
流行歌「しぐれ旅 松竹映画『浮草物語』より
(佐藤惣之助作詩、三界稔作曲)
東海林太郎 日本ポリドール管弦楽団 2106-B

『澁谷劇場・ニュース』No.50(1934年11月29日発行、澁谷劇場、4頁)

「サウンド 浮草物語、スタッフ、配役、梗概」(3頁)

『巣鴨松竹ニュース』No.24(1934年11月29日発行、巣鴨松竹館、6頁)

「次週上映 浮草物語」(表紙)

『松竹』第五巻第十二號(1934年12月1日発行、豊國社、164頁)

表紙:田中絹代
グラヒック「浮草物語」(29頁)
「松竹蒲田撮影所製作日報 小津安二郎監督 「浮草物語」九月十八日着手 十月十日進行中」
※九月十七日から二十九日までの動きが書かれている。

『キネマ旬報』No.526(1934年12月11日発行、キネマ旬報社、96頁)

表紙:バーバラ・スタンウィック
今津好「読者寄書 編輯部選 「浮草物語」から」(69-70頁)
北川冬彦「主要日本映画批評 浮草物語」(84頁)
※冒頭を引用する。「この間の記念旅行で、どこであったかははっきり覚えていないが、どこかの座談会で、「小津安二郎は古風な人なのではありませんか」という質問が出た。その時、私も「そうですよ」と言ったと覚えるが、岸君は、「勿論そうですよ」と言っていたが、この作を見て、いよいよその感を深くした。恐らく読者諸氏もそうに違いなかろう」
「撮影所通信 松竹蒲田通信(12月3日調査)小津安二郎氏は、新春作品から方向転換を見せるべく目下ストーリーを選定中。」

1935
『オール、サウンド 東京の宿 全拾巻』台本(1935年発行、松竹キネマ株式會社臺本係、53頁)

紐綴じ、ガリ版印刷
発行年がないので、封切年とした。

『OSAKA GEKIJO PROGRAM』No.23(1935年1月5日発行、千日前大阪劇場、12頁)

「次週十日封切!笑いと興味の巨彈陣 松竹蒲田サウンド版 小津安二郎監督 箱入娘」(8頁)

『帝國館ニュース』第301号(1935年1月7日発行、浅草帝國館、12頁)

「正月第四週同時封切予定 サウンド蒲田大作 箱入り娘」(8-9頁)

松竹キネマ大阪支店宣傳部編『京都座週報』3.3(1935年1月10日発行、京都新京極京都座、8頁)

「箱入り娘」(表紙)
「今週の映画 箱入り娘 スタッフ、配役、梗概」(4頁)

『横常週報』第百六十九號(1935年1月13日発行、横濱常設館、12頁)

「次週封切予定 サウンド版 箱入娘」(2頁)

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.31(1935年1月13日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「次週公開 サウンド版 箱入り娘
 髪は鳥の濡ればいろ、笑うえくぼの恥しさ
 今、評判の甘酒横丁の箱入娘に虫がつくと、
 銭湯の湯気の中から湧き立つ噂
 鬼才・小津監督描く涙の喜劇」(8-9頁)

『松竹座週報』(1935年1月15日発行、松竹キネマ直営金澤松竹座、4頁)

「箱入り娘 銭湯で聞いた話第一話 小津安二郎監督」(表紙)

『帝國館ニュース』No.303(1935年1月20日発行、浅草帝國館、12頁)

「サウンド版 箱入娘 スタッフ、キャスト、梗概」(3頁)

『上のすずもと・ニュース・上野鈴本キネマ週報』No.6 (1935年1月21日発行、上野鈴本キネマ、4頁)

「オール・サウンド版 箱入り娘 スタッフ、配役、梗概」(3頁)

『キネマ旬報』No.529(1935年1月21日発行、キネマ旬報社、92頁)

表紙:イヴリン・ヴエネヴル
「旬報グラフィック 蒲田「箱入り娘」で本当に涙を流した田中絹代」(73頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(1月14日調査)小津安二郎は「箱入娘」完成後休養中。次回作品は未定。」

『スタア』第三巻第三號通巻第四十一號(1935年2月1日発行、スタア社、30頁)

表紙:ANNA STEN in NANA
「松竹新作 箱入娘」(20頁)
※小津安二郎監督「箱入娘」オールサウンド。髪結ひさん(飯田蝶子)の娘おしげさん(田中絹代)はホントウの箱入娘でしたので‥という銭湯できいたお話。

『松竹』第六巻第二號(1935年2月1日発行、豊国社、208頁)

表紙:川崎弘子
グラビア「箱入娘」(14-15頁)
阪本武「三枚目のことば」(74-76頁)
青銅七郎「監督グリンプス 小津安二郎」(96-97頁)
「松竹新春の陣営 特選映画筋書集 箱入娘」(138-140頁)
「松竹小通信 第三週 オールサウンドおかみさんシリーズ作「箱入娘」‥「浮草物語」を完成した小津監督は「お嬢さん」「淑女と髯」の如く喜劇作家に転向して心境喜劇を開拓してエポックを劃さんとするもの。」(153頁)
椚三郎「蒲田監督一瞥 昭和九年度の作品を主として」(174-176頁)
「松竹蒲田撮影所製作日報 小津安二郎監督 「浮草物語」九月十八日着手 十一月十九日完成 「箱入娘」十二月九日 本読」(183-184頁)

『キネマ旬報』No.532(1935年2月21日発行、キネマ旬報社、104頁)

表紙:キテイ・ガリアン
北川冬彦「主要日本映画批評 箱入娘」(101頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(2月15日調査)小津安二郎氏は次回作品選定中。」(103頁)

『キネマ旬報』No.533(1935年3月1日発行、キネマ旬報社、140頁)

表紙:ケイ・フランシス
「キネマ旬報社主催昭和九年度優秀映画推薦発表 浮草物語 46点」(34-35頁)
「日本映画」(38-40頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(2月25日調査)小津安二郎は次回作品準備中。」(139頁)

『キネマ旬報』No.534(1935年3月11日発行、キネマ旬報社、108頁)

表紙:マール・オベロン
「キネマ旬報推薦・昭和九年度第一位当選 
優秀映画鑑賞會 商船テナシチー/浮草物語
昭和九年三月卅日(土)午後六時 丸ノ内時事講堂
開会の辞‥田中三郎
講演‥小津安二郎
漫談‥古川緑波
ご挨拶‥阪本武、飯田蝶子、八雲理恵子、三井秀男、坪内美子」(10頁)
「広告 キング・ヴイドア監督 麥秋」(38-39頁)
「旬報グラフィック 下加茂の制作部長大久保忠素を央にして蒲田の大日方傳と小津安二郎」(92頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(3月5日調査)小津安二郎は次回作品準備中。」(106頁)

『松竹電気館週報』No.19(1935年5月1日発行、長岡松竹電気館、4頁)

「次週九日より公開・乞ご期待!! 小津安二郎監督 箱入り娘 サウンド蒲田明朗篇
 蒲田の箱入娘田中絹代と、飯田蝶子のおかみさんが醸し出す小津一流の心境喜劇名作
『どうだいあの煙草屋の初ちゃん居たかい』『うん』『居なかったんだろう』
『うん』『ざま見ろ貴様は今日いくつチェリーを買ったんだ』銭湯で聞いた話‥第一話」(1頁)

『新宿松竹館』No.17 Vol.10(1935年5月2日発行、新宿松竹館、10頁)

「親心シリーズ・サウンド版 東京よいとこ 監督・小津安二郎
 小津監督が良心的なメスを振って東京の表裏を鋭く解剖せんとする心境映画!!」(9頁)

『横常週報』第百八十六號(1935年5月17日発行、横常宣傳部、12頁)

「東京よいとこ サウンド 小津安二郎監督」(9頁)

『蒲田』第十四巻第六號通巻一五五號(1935年6月1日発行、蒲田雑誌社、136頁)

表紙:高杉早苗
グラビア「小津安二郎監督がその良心的メスを振って東京の表裏を鋭く解剖せんとする心境もので藝達者な飯田蝶子、日守新一などが出演する『東京よいとこ』です。親心シリーズとして蒲田特有の味のある作品」(20頁)
グラビア「東京よいとこ」(24-25頁)
「東京よいとこ」(75-77頁)
エム坊「撮影所日記」(102-103頁)
※三月三十日 夜、キネマ旬報社主催、「東西名映画の夕」が時事講堂で開かれ、昨年度の日本映画代表作として、「浮草物語」が選ばれたことは既にご承知の筈の蒲田の名誉であるが、その監督者、小津安二郎氏出演者の坂本武、飯田蝶子さん等がそれぞれ一席辯じて鑑賞客を喜ばせる。」(102頁)
「松竹スタジオニュース 蒲田通信 小津安二郎氏は、かねて次回作の想を練っていたが、愈々小宮周太郎原作、池田忠雄脚色のサウンド版、『東京よいとこ』を新たに親心シリーズと銘打って撮影開始する事に決定、茂原英朗のキャメラで着手したが、飯田蝶子、日守新一、坪内美子、吉川満子、突貫小僧共演で、飯田蝶子大幹部待遇昇進記念映画として発表する事になった。」(118頁)

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.56(1935年7月6日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「東京の宿 小津安二郎監督作品」(10頁)

『スタア』第三巻第十五號通巻第五十三號(1935年8月1日発行、スタア社、30頁)

表紙:FRANCHOT TONE
グラビア「東京の宿」(20頁)
※写真左と下二つがそれで左は小津安二郎のお好みのロウ・アングル。

『キネマ旬報』No.548(1935年8月1日発行、キネマ旬報社、132頁)

表紙:ロチェル・ハドソン
「旬報グラフィック スチル『東京の宿』」(111頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎は既報の如く目下近衛第四聯隊に入営中。」(130頁)

『横常週報』臨時號(1935年8月8日発行、横濱常設館、12頁9

「近日封切 サウンド 東京の宿」(9頁)

『キネマ旬報』No.549(1935年8月11日発行、キネマ旬報社、100頁)

表紙:アン・サザーン
北川冬彦「無題欄 再度、島津保次郎へ」(67-68頁)
※その一部を引用しよう。「私が映画批評家として、とまれかくまれ人に見られているところありとすれば、そこのところであろう。私にとっての関心は、少し努力すれば、誰でもがやろうと思えばやれるような「演出」ごときのものではない。私にとって関心のあるのは、たとえそれが萌芽であろうと映画として現れた芸術性である。個性である。私が数ある日本映画監督中で、伊丹万作や、小津安二郎を、機会あるごとに推賞して止まぬ所以のものは、そこにあるのだ。これは、判りきったことで、云うも気恥ずかしいことだが映画の向上にとって、ある作品がどれ位売れたとか、どれだけお客を引き付け得たとか、そんなことは大したことではない。問題は、その作がどんな創造を見せたとか、その作からどんな発見を人々が為したか、そこに懸かっているのである。この点から云えば、貴君が、現在の日本映画監督群中で、第三流の、監督であることに間違いはない。」
藤岡秀三郎「タイトルマン獨語」(68-69頁)
※その一部を引用しよう。「小津氏は、僕としては最も苦手であり、恐ろしい人であるが、仕事としては一番やり甲斐があるといっていい。それは小津氏の文字に対する好みが僕の好みと完全に一致するから。」
藤岡秀三郎は、『朗らかに歩め』、『その夜の妻』、『生まれてはみたけれど』、『東京の女』、『浮草物語』など多くの小津監督のタイトル・字幕を手掛けている。
「撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎氏は予備召集より帰所し直ちに既報「東京の宿」の残部ロケを撮影中。キャメラは猪飼助太郎が担当。」(98頁)

『キネマ旬報』No.550(1935年8月21日発行、キネマ旬報社、118頁)

表紙:グレタ・ガルボ
「撮影所通信 松竹蒲田通信 小津安二郎はサウンド版「東京の宿」の鶴見方面ロケ中であるが、近日完成の予定。キャメラは茂原英朗担当。」(116頁)

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.64(1935年9月5日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「東京の宿 小津安二郎監督作品」(7頁)

『パテ―ベビー月報』第六十七號(1935年9月10日発行、パテ―ベビー月報社、15頁)

表紙:『淑女と髯』
「S-494 松竹蒲田作品 淑女と髯 特大三巻 定価各貳拾四圓 字幕、配役」(2-4頁)
※全字幕が掲載されている。第一巻は字幕15、第二巻は字幕19、第三巻は21である。

『新宿松竹館週報』(1935年9月12日発行、新宿松竹館、12頁)

「次週封切予定 東京の宿 サウンド版」(8-9頁)

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.65(1935年9月12日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「東京の宿 蒲田芸術映画・音響版 小津安二郎監督作品」(10頁)

松竹キネマ大阪支店宣傳部編『京都座週報』4.11(1935年9月13日発行、京都新京極 京都座、8頁)

「近日封切、東京の宿」(2頁)

『大連中央映画館』第四十三號(1935年9月17日発行、大連中央映画館、4頁)

「秋のシーズンに輝く王座篇 蒲田特作サウンド版 小津安二郎監督 東京の宿」(4頁)

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.66(1935年9月19日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「鬼才小津安二郎監督作品 東京の宿」(8-9頁)

『大劇』第六十一輯(1935年9月22日発行、千日前大阪劇場、12頁)

「次週八日封切 小津安二郎監督 蒲田サウンド 東京の宿」(2頁)

『キネマ旬報』No.554(1935年10月1日発行、キネマ旬報社、146頁)

表紙:マーガレット・リンゼイ
「日本映画紹介 東京の宿」(135頁)
「撮影所通信 松竹蒲田通信(9月23日調査)小津安二郎は既報「東京の宿」を完成後、次回作品準備中。」(144頁)

『キネマ旬報』No.555(1935年10月11日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:グレース・ムーア
岸松雄「各社試写室より 松竹蒲田映画 東京の宿(サウンド版八巻)」(56頁)
※冒頭を引用する。「『箱入娘』(本誌全號紹介欄の解説に「嫁入り前」とあるは大変な勘違い)に次いで、小津安二郎は飯田蝶子を主演に「東京よいとこ」を取り出したが、ものの百尺とは廻さぬうちに主演者が病気になってしまったために一時延期となり、代わりに出来上がったのがこんどの「東京の宿」である。脚本は例によって池田忠雄で、これが監督者が予備で召集されることのために荒田正男を一枚加えての合作になる。「東京の女」の原作者エルンスト・シュワルツでまんまと一杯食わされたのに味をしめてか、こんどの原作者は、ウインザアト・モネとある。ホッテントットの小説家ではない。without moneyをもじって作った架空の人物である。このストーリーもまた、小津安二郎を中心としての池田、新田のアイデアの持ち寄りとみてよろしい。」
「撮影所通信 松竹蒲田通信(10月3日調査)小津安二郎は次回作品準備中」(124頁)

『松竹時報』No.240(1935年10月25日発行、松竹蒲田撮影所ニュース部、4頁)

「東京の宿 サウンド版
 「東京の宿」座談会より」(2-3頁)

『蒲田』第十四巻第十一號通巻第一六〇號、十一月秋季特別號(1935年11月1日発行、蒲田雑誌社、164頁)

表紙:田中絹代
「さよなら蒲田特集」(50-58頁)
「来るべき1936年の新春を迎えて、本誌”蒲田”は「オール松竹」と、その誌名も新たに颯爽と全読者の前にその麗姿を現わさんとしている。」(91頁)
エム坊「撮影所通信 九月一日 小津安二郎氏の野心作「東京の宿」に出演中の突貫小僧、末松孝行、それに小島和子の三子役は暇さえあればふざける。」(134頁)
「松竹スタジオニュース 9月22日調査 小津安二郎氏は、鋭意撮影中の「東京の宿」は、遂に此の程全く完成した。」(162頁)

『中劇ニュース』No.8(1935年11月1日発行、名古屋 中京劇場、12頁)

「音響版 東京の宿 名匠・小津安二郎監督が描く秋最高の芸術映画!」(3頁)

『横常週報』No.210(1935年11月14日発行、横濱常設館、12頁)

「次週封切予定 蒲田音響版 東京の宿」(2頁)

『スタア』第三巻第二十二號通巻第六十號(1935年11月15日発行、スタア社、30頁)

表紙:シャーリー・テンプル
「小津安二郎・清水宏を囲んで映画放談(上)」(小津安二郎、清水宏、内田岐三雄、筈見恒夫、岸松雄)(10―11頁)
※「人気スタアの今昔」、「監督とヒゲ」、「キャプラかヴァン・ダイクか」

『キネマニュース』第二二六號九月第二週「東京の宿」(1935年11月21日発行、キネマニュース、1頁)

松竹蒲田映画 監督 小津安二郎
写真 阪本武の喜八、岡田嘉子のおたか

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.73(1935年11月15日発行、丸ノ内松竹劇場、14頁)

「次週封切 東京の宿 名匠小津が晩秋に送るこの名画!うらぶれた人生を描いて感傷の秋深し」(8-9頁)

『浅草帝國館ニュース』No.346(1935年11月21日発行、浅草帝國館、12頁)

「東京の宿 音響版 キャスト、スタッフ、梗概」(4頁)
「大學よいとこ 音響版」(10頁)

『スタア』第三巻第二十三號通巻第六十一號(1935年12月1日発行、スタア社、30頁)

表紙:ELISABETH BERGNER
「映画放談(下)」(小津安二郎、清水宏、内田岐三雄、筈見恒夫、岸松雄)(26―27頁)

1936
『旭舘』(1936年発行、旭舘、1頁)

「大学よいとこ 松竹大作サウンド版 

『オール、サウンド 大学よいとこ 全十三巻』(1936年発行、松竹キネマ株式會社臺本係、158頁)

紐綴じ、ガリ版刷、発行年がないので、封切年とした。
警察(大井警察)の検閲の印が最初と最終頁に押されている。

『映画評論』第十八巻第一号(1936年1月1日発行、映画出版社、268頁)

グラフ「大学よいとこ」(13頁)
大塚恭一「現代劇映画論」(32―34頁)※小津監督の小市民物や「東京の宿」に言及
吉村公三郎「心境映画について」(50‐55頁)※心境映画について何か書くことを引き受けたので、その材料にと、小津、島津、五所に聞いたことを書くとして、まず小津監督の言葉を載せている。一部抜粋する。「小津安二郎氏の言葉。「何?心境映画だって?僕あそんなものは知らないね。何も僕は心境映画と名付ける作品をこさえてやろうとした訳じゃない。誰かが勝手に言い出したんだよ。」(50頁)「1932年の小津作品『生まれては見たけれど』は日本映画始まって以来の最高芸術映画とな銘打たれ、心境映画の完成された一姿態とされたのである。心境映画と言えば、『生まれては見たけれど』、唯一の芸術監督と言えば小津安二郎氏と、それは映画批評壇の常識とさえなった。従って、心境映画を語るには先ず『生まれては見たけれど』から取り上げていくのが、一番便利なようである。」(52―53頁)
戸方佐千夫「特集映画批判 松竹蒲田映画 東京の宿」(202―204頁)

『スタア』第四巻第三號通巻第六十四號(1936年2月1日発行、スタア社、34頁)

「日本映画監督の展望―昨年の成績を中心に-」(8―9頁)
※希望三人男として、山中貞雄、成瀬己喜男、島津保次郎、沈滞大家六人男として、衣笠貞之助、小津安二郎、五所平之助、伊丹万作、溝口健二、村田實、中堅余人男として、稲垣浩、清水宏、野村浩將、井上金太郎、新進三人男として、山本嘉次郎、新井良平、野淵昶について述べている。

『浅草帝國館ニュース』No.358(1936年2月15日発行、浅草帝國館、12頁)

「大學よいとこ 小津安二郎監督 松竹音響版」(6頁)

『大毎ニュース』「大学よいとこ・修羅八荒・千両小路」(1936年3月発行、大日館、1頁)

「大學なんかそれ程素晴らしい所ではない!卒業しても職がなければかと云って退学する奴が少ない!
 世の若き人々にこの一篇を贈る
 城南にそびゆる豪華な大學の影に誰かこれ程胸をえぐられる様な悲劇を想像し得やう鬼才小津監督がその校舎の影にそして教室にこっそりキャメラを向ける果たして大學よいとこであったか?
 明朗な学生生活に一抹な哀愁味を盛って描く‥名匠小津の良心明快篇!!
 小津に私淑する中川信夫監督『修羅八荒』も同時上映している。」
※発行年がないので、封切月を発行年月とした。

『友樂舘週報』No.12(1936年3月12日発行、福岡市東中洲友樂舘、12頁)

「名匠・小津安二郎・監督 大学よいとこ 音響版 愈々 十九日 封切決定」(12頁)

『松竹週報』No.912(1936年3月15日発行、松竹座宣傳部、4頁)

「鬼才小津安二郎監督 大学よいとこ」(4頁)

『新宿松竹館週報』(1936年3月19日発行、新宿松竹館、12頁)

「大学よいとこ」(表紙)
「オール・サウンド版 大學よいとこ スタッフ、俳優、梗概」(4頁)

飯島正・内田岐三雄・岸松雄・筈見恒夫編『映画年鑑1936年版』(1936年3月20日発行、第一書房、334頁)

双葉十三郎「日本映画ベスト・テン『東京の宿』」(95―97頁)
小津安二郎「印象に残った人々 W・S・ヴァンダイク」(109―110頁)
※全文紹介する。「批評家たちはどう思っているか知らないがW・S・ヴァンダイクなんて男は、結局大した代物じゃない。フランク・キャプラと比べたら、雲泥の差がある。だから、僕の助手によくいうんだが、われわれはキャプラの道を行くならば良いが、決してヴァンダイクの道を行こうとしちゃいけない。『男の世界』なんて、ゲエブルとボウエルを使い乍ら、あの程度のものしか作れん様では、底が知れている。メロドラマを作っても『或る夜の出来事』のキャプラの足許にもよりつけない。」

『SHINTOKYO NEWS』1936-No.62(1936年3月26日発行、下谷竹町 新東京、4頁)

「大學よいとこ 音響版 四月一日より」(表紙)

松竹キネマ株式會社『大船撮影所 落成披露』(1936年4月19日発行、松竹キネマ株式會社、12頁)

「御挨拶 大谷竹次郎」(表紙裏)
「御挨拶 城戸四郎」(1-4頁)
「大船撮影所案内」(5-10頁)
「大船撮影所の歌」(11頁)
「大船音頭」(12頁)
「松竹キネマ大船撮影所配置図」(裏表紙裏)
「一人息子 陽春の映画界を賑わす松竹大船映画」(裏表紙)
附録「松竹キネマ株式會社大船撮影所建設工事概要」(工事施工 株式會社竹田組)

『日本映画監督協會設立通知書』(1936年5月発行)

日本映画監督協會設立の通知書
発起人として、小津を含め23名の監督の名前がある。

『キネマ旬報』No.575(1936年5月11日発行、キネマ旬報社、120頁)

表紙:アイリーン・ダン
花屋太郎「新選読者寄書 陽春愚言抄」(75頁)
※冒頭引用する。「山中貞雄は秋山耕作と共に小津安二郎を私淑している。小津先輩はこの二人を愛している。」
「日本映画紹介 一人息子」(107頁)
松竹・大船
原作 ジェームス・槇
脚色 池田忠雄
同  荒田正雄(ママ)
監督 小津安二郎
撮影 杉本正二郎
録音 茂原英朗
作曲・演奏指揮 伊藤宣二
配役
野々宮つね 飯田蝶子
息子良助 日守新一
その子ども時代 葉山正雄
杉子 坪内美子
大久保先生 笠智衆
細君 浪花友子
おたか 吉川満子
富坊 突貫小僧
解説 待望久しかりし小津安二郎監督の第一回トーキーである。
略筋
「本邦撮影所通信 松竹(大船)小津安二郎は、既報「一人息子」の信州田舎家セットを再び撮影中。」(118頁)

『映画評論』第十八巻第一号(1936年6月1日発行、映画出版社、268頁)

野田高梧研究
小津安二郎「ひとこと」(21頁)
※野田高梧氏の近影、小津監督の署名があるが、晩年のどの署名とも似ていない書体であり、安二郎と判読難しい。
稲津延一「野田高梧評伝」(22-26頁)
安田清夫「脚本家野田高梧」(27-34頁)
瀧澤初芳「野田高梧及び小津安二郎-こんなこともいえるのではないか」(35-44頁)
泉洋之介「野田高梧と會社員生活者-生活と感情との把握-」(45-51頁)
「野田高梧作品目録」(52-59頁)
上野一郎「映画批評 非常線の女」(147-148頁)

『月刊映画と演藝』第十三巻第六號(1936年6月1日発行、東京・大阪朝日新聞社、94頁)

表紙:チャーリー・チャップリン
「初夏の日本映画 松竹『一人息子』」(32頁)
※飯田蝶子・葉山正雄 さあいよいよ小津安二郎君のトーキーである。録音は、茂原技師による「SMS式」、題材は昨年計画した「東京よいとこ」。

『映画評論』第十八巻第八号(1936年8月1日発行、映画出版社、180頁)

特集:映画藝術読本
大塚恭一「日本映画監督論」(84―106頁)
※「五所平之助に次いで蒲田の最前線に進出したものは小津安二郎である。彼は傾向映画の全盛を他所に『大學は出たけれど』(昭和四年)、『結婚學入門』『落第はしたけれど』『お嬢さん』の如き喜劇作品の中に、現実を見る鋭い眼を以て、小市民生活の哀愁を描いた。」(94頁)「永年の協力者茂原技師の新システムによってその第一回トーキー作品を手がけんとする小津安二郎は、異色ある喜劇監督として現在最初のトーキーを製作中の斎藤寅次郎とともに、現在までの所無声映画の世界に取り残されている。」(100頁)

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.117(1936年9月1日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「小津最初の全發聲 一人息子
 藝術の秋-秋の訪れと共に喜ばしきこの名畫」(11頁)

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.118(1936年9月10日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「近日開催 ▲一般公開に先ち当劇場にてミッド・ナイト・ショウ開催
 一人息子 小津安二郎 第一回 全發聲 ミッド・ナイト・オープニング・ショウ
 深夜有料試写會 講演 小津安二郎 飯田蝶子 其他 50銭均一 於 当丸ノ内松竹」(3頁)
「九月第四週封切予定 一人息子」(8頁)

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.119(1936年9月18日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「「一人息子」に対する期待
 (1)(2)(3)
 22日夜9時 一般公開に先ち当劇場にてミッド・ナイト・ショウ開催
 一人息子 小津安二郎第一回全發聲
 深夜有料試写會 講演 小津安二郎 飯田蝶子 岩崎昶氏 其他 50銭均一 於 当丸ノ内松竹」(3頁)
「名匠小津安二郎最初の全發聲作品 一人息子 次週封切」(6頁)

『浅草帝國館ニュース』No.389(1936年9月18日発行、浅草帝國館、12頁)

「沈黙の謎を解きて今こそ起き上がる名匠小津安二郎の輝く一聲作品愈々完成!! 一人息子」(6-7頁)

『一人息子試写会招待状』(1936年9月19日発行、松竹キネマ株式会社、1頁)

「一、日時 九月二十二日(火)午後九時
 二、場所 丸之内松竹劇場
 『一人息子』」
「封筒 松竹大船撮影所 企画部」

『キネマ旬報』No.588(1936年9月21日発行、キネマ旬報社、115頁)

表紙:ケティ・ガリアン
全面広告「一人息子」(100頁)
「本邦撮影所通信 松竹(大船)小津安二郎氏の「一人息子に」次ぐ第二回トーキーは、心境的作品と異なったスペクタクル的な作品を制作と内定し、直ちにオリジナル・ストーリーの構成に着手。」(113頁)

『一人息子 深夜有料試寫會』(1936年9月22日発行、丸ノ内松竹劇場、4頁)

小津安二郎作品 一人息子 深夜有料試寫會
プログラム(九月廿三日)※廿二の誤植
一、朝日世界ニュース 9:00PM-9:10PM
二、講演       9:12PM-9:27PM
  小津安二郎、飯田蝶子、岩崎昶
三、一人息子     9:32PM-10:58PM

スタッフ、配役、梗概
  

『キネマ旬報』No.589(1936年10月1日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:ロチエル・ハドソン
横手五郎「小津とトーキー」(10頁)
※冒頭を引用する。「トーキーが怖くて、手が出ないんだろう、などと口善悪ない連中に取沙汰されていた、サイレント映画最後の騎士、小津安二郎がいよいよトーキーに進出した。長い間の懸案がやっと解決された感じで、われわれ見物の側も肩の荷が下りたのだが、さて、その成績はどんなものだったか。-一口に言うと、小津安二郎はトーキーだろうが、サイレントだろうが、遂に小津安二郎だということである。」
水町青磁「主要日本映画批評 一人息子」(115頁)
「本邦撮影所通信(9月25日調査)松竹(大船)小津安二郎は「一人息子」に次ぐ第二回全発声作品を準備中」(124頁)

『オール松竹』第15巻第10號通巻172號(1936年10月1日発行、映画世界社、112頁)

表紙:川崎弘子
坂本武「出来ごころと喜八」(55頁)
「松竹スタジオニュース 8月12日調査」(108頁)
※小津安二郎氏は、全発声第一回作「一人息子」を鋭意撮影続行中である。

『セルパン』第69號(1936年11月1日発行、靑年社、156頁)

「最近の映画批評の再検討」
筧清「『一人息子』その他」(112―114頁)
井伊亞夫「新聞批評の惰眠 *小津安二郎の「一人息子」評に就いて」(114―116頁)
今村太平「小津安二郎のテンポ」(116―117頁) 

『淑女は何を忘れたか』台本(1936年11月23日発行、松竹株式会社企画部、226頁)

紐綴じ、ガリ版刷、表紙に「小津組」の印あり
最終頁に、「11.11.23」という表記あり

『セルパン』第70號(1936年12月1日発行、靑年社、154頁)

小津安二郎「映畫雑記」(96―97頁)
※無声映画を撮影するときのキャメラの回転数と発声映画の場合のそれを比較し、発声映画の場合の有音と無音のカットを繋げる場合の問題について述べている。

『オール松竹』第15巻第12號通巻174號(1936年12月1日発行、映画世界社、112頁)

表紙:高杉早苗
岸松雄「今年度松竹映画に関する感想」(38-39頁)
※小津監督の「大學よいとこ」「一人息子」に関する言及がある。
「銀幕のアベック 笠智衆・坪内美子」(70頁)
※「とんかつ」と書いた旗が工場街の空に舞っていた「一人息子」。大久保先生と杉子の現実ならぬ映画から、映画ならぬ現実への復帰した姿です。
小松海作「『一人息子』管見」(94-95頁)
「大船新聞 笠智衆スター陣へ」(100頁)
※「一人息子」の大久保先生を演じて名声富に上った大船のかくれたる名優笠智衆は、各方面から絶賛を博し大船においても彼をスターとして起用することに決定、野村監督の全発声「人妻椿」の網元の役で活躍するのを手始めとして将来大船の堅塁スターダムの一雄として頑張ることになった。
「大船新聞 小津監督の第二回トーキーで 岡田嘉子大船に返り咲く 松竹スター陣充実」(101頁)
※今春松竹と契約期間満了と共に小津作品「東京の宿」を最後に幾多映画界への功績を残して松竹蒲田を去り、舞台に走っていたが、今回再び銀幕に、約半年ぶりで大船に返り咲く模様である。
「松竹スタジオ 10月22日調査」(108頁)
※小津安二郎氏は、次回作品は池田忠雄、伏見晃の脚本による全発声と決定、脚本脱稿次第準備にとりかかる予定である。第一回全発声「一人息子」に次ぐ同氏の作品は、いろんな意味に於いて各方面から注目が注がれているが、ここで方向を一転して徹底的明朗篇を発表することになった。

1937
『キネマ旬報』No.600(1937年2月1日発行、キネマ旬報社、116頁)

表紙:マール・オベロン
「旬報グラフィック 『淑女は何を忘れたか』のセットにて監督小津安二郎のある表情」(95頁)
「旬報グラフィック スチル『淑女は何を忘れたか』」(100―101頁)
全面広告『松竹トーキー 淑女は何を忘れたか』(102頁)
「日本映画紹介 淑女は何を忘れたか」(103頁)

『映画評論』第十九巻第二号(1937年2月1日発行、映画出版社、188頁)

特集:映画の三十六年
大塚恭一「日本映画の一年」(42―49頁)
※「小津安二郎が遂にトーキーを作った。彼が特有の藝術境に立って籠っている作家であることは、トーキーとなっても変わりがない。」
土屋精之「1936年度 映画技術界総覧」(73―83頁)
※「この年の中頃SMS式録音法(茂原氏の研究になるもの)が発表された。松竹式の鳴り物入りの宣伝で一向にその実際については察しるすべもなく、寧ろその宣伝文の中には技術的な矛盾すらも見受けられたが、最初の作品一人息子を観るに及んで兎に角成功したことを認め得るものであった。土橋式も始めから比べれば非常に進んできている。二つの録音法を擁して松竹映画はこの方面では益々優秀な映画を提供し得るに至るであろう。」(74頁)

『セルパン』第72號(1937年2月1日発行、靑年社、156頁)

北川冬彦「日本映画監督群」(87-90頁)
※小津安二郎の欄には、次のように書かれている。「この人のことも、伊丹万作と並んで、私はたびたび書いている。もう、いまのところ書くこともないようである。この人の、対象を丹念に凝視することは、十目の見るところである。『浮草物語』『一人息子』などそれが顕著である。その凝視が、余情となってコリ固まる場合が、小津安二郎の近来の作風だが、今人に一方、喜劇作家としての一面がある。夏期の諸作、並びに『箱入娘』などその系列に属すべきものである。今後、小津安二郎のこの面を掘り下げることによって小津安二郎は、おもひ掛け内鉱脈を掘り当てるのではないかと考えられる。」
小津安二郎・伏見晃「松竹大船シナリオ 淑女は何を忘れたか」(132-150頁)

『新宿松竹館週報』(1937年2月4日発行、新宿松竹館、12頁)

「大船特作オールトーキー
 脚本 ジェームズ槇・伏見晃
 監督 小津安二郎
 淑女は何を忘れたか?
 これこそ1937年度のトピックのアラモードです。
 往年の銀幕の女王栗島すみ子は暫く銀幕を遠ざかり兼て宿望の演劇に全国を行脚しておりましたが、再び懐かしのスクリーンに返り咲いて名匠小津と組み、新しい喜劇を製作して皆様を驚かせようとして居ります。これまた素晴らしい出来事ではありませんか。」(7頁)

『丸の内松竹劇場ニュース』No.143(1937年2月25日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「淑女は何を忘れたか」(表紙)
「淑女は何を忘れたか 脚本抜粋」(3頁)
「淑女は何を忘れたか 映画界の新しき話題 小津安二郎作品」(6-7頁)

『オール松竹』第16巻第3號通巻177號(1937年3月1日発行、映画世界社、112頁)

表紙:川崎弘子
「一面広告 淑女は何を忘れたか」(1頁)
「新作ピックアップ 淑女は何を忘れたか」(18頁)
「淑女は何を忘れたか」(20-21頁)
小津安二郎「ロケエションの辯」(34-35頁)
「オールモーション 伊藤宣二君が小津賞獲得」(61頁)
矢摩邦雄「スタジオ日記」(73頁)
※1月16日 喜八さん横丁よ。左様なら!「淑女は何を忘れたか」で小津監督歌舞伎座にロケる。
成生二郎「脚本屋商売裏話」(86-87頁)
※「淑女は何を忘れたか」の本読みの写真あり
「淑女は何を忘れたか」(98-99頁)
※ストーリーについて書かれている。
「大船新聞 大船に蹴球部発会」(100頁)
※大船のスポーツは現在水泳部野球部卓球部馬術部等が各々活躍しているが今般小津監督が音頭を取って、ラグビー部「S・R・C」が発会された。
「松竹スタジオニュース 1月22日調査」(104頁)
※小津安二郎氏は、問題の次回作品は、脚本伏見晃、ゼームス槇による全発声「淑女は何を忘れたか」と決定。

マッチラベル『淑女は何を忘れたか』(1937年3月発行、丸の内松竹)

「淑女は何を忘れたか 小津安二郎作品」

『京都座』(1937年3月発行、新京極 京都座、2頁)

「鬼才小津安二郎監督の明朗直角転換! 淑女は何を忘れたか?
 松竹トーキー・大船映画
 セルパン二月號に脚本掲載!」(1頁)

『京都座ニュース』No.60(1937年3月発行、新京極 京都座、8頁)

「淑女は何を忘れたか
 お読みになりましたか?セルパン(二月號)掲載の脚本を!
 鬼才小津安二郎監督の明朗直角転換!」(7頁)

『浅草帝國館ニュース』No.412(1937年3月3日発行、浅草帝國館、12頁)

「淑女は何を忘れたか スタッフ、配役、梗概」(4-5頁)
※浅草帝國館は、小津映画の封切館であり、この冊子が封切上映中に配布されたものである。

『松竹週報』No.973(1937年3月6日発行、松竹座宣傳部、4頁)

「近日公開 淑女は何を忘れたか?」(3頁)

『キネマ旬報』No.604(1937年3月11日発行、キネマ旬報社、124頁)

表紙:ジェッシイ・マシウズ(ゴーモン・ブリティッシュ)
水町青磁「主要日本映画批評 淑女は何を忘れたか」(111頁)
※「興行価値-大人の映画。都会的教養があれば特に興味深いが小津作品の従来の難解さによる敬遠は此の際一掃されていい。」
「本邦撮影所通信 松竹(大船)小津監督の記載なし」(123頁)

『話』五周年記念特大號(1937年4月1日発行、文藝春秋社、416頁)

小津安二郎「車中も亦愉し」(157―159頁)
※『話』五周年記念特大號には、「映画人ばかりの談話室」というコーナーが設けられており、稲垣浩「役者になりそこねた父」(152―154頁)、山本嘉次郎「酒徒の辯」(154―155頁)、衣笠貞之助「ベルリンの女中さん」(156―157頁)、小津安二郎「車中も亦愉し」(157―159頁)、島津保次郎「自動車と肉體」(159―160頁)で構成されている。
1931年に満州事変、1937年7月7日に盧溝橋事件おき、日中戦争へと進んでいく。そんななかでの、小津監督一流のユーモアあふれる文章である。これほどユーモアあふれたものは小津監督の書かれたものの中でも他にないのではないかと思われるほど愉しい文章となっている。ちなみに、この年は、松竹キネマ株式会社が松竹興行株式会社を吸収合併し、松竹株式会社が設立した年でもある。

『映画評論』第十九巻第四號(1937年4月1日発行、映画評論社、212頁)

大塚恭一「淑女は何を忘れたか ★明るくないユーモア」(132-133頁)
澤村勉「淑女は何を忘れたか ★★幸福の吐息はかなし」(133-137頁)

溝口健二『溝口健二作品シナリオ集』(1937年5月15日発行、文萃書房、276頁)

題簽:小津安二郎

滋野辰彦『映画探求』(1937年6月1日発行、第一文藝社、254頁)

「小津安二郎についての感想」(99-115頁)
「『一人息子』の来歴」(154-166頁)

『新潮』第三十四年第八號(1937年8月1日発行、新潮社、248頁)

シナリオ「愉しき哉保吉君(百三十枚)現作・小津安二郎、脚色・八木保太郎」(201-245頁)

『映画之友』第十五巻第九號(1937年9月1日発行、映画世界社、160頁)

「我れ等のホープ!」(27頁)
※山中貞雄と小津安二郎、ここにも亦ヒゲ男あり、これなんオッちゃん安二郎の温顔なり。

大塚恭一『日本映画監督論』(1937年9月10日発行、映画評論社、356頁)

「日本映画監督論」(1―63頁)
「監督並に作品-評論集」(65―356頁)
尚、小津安二郎監督に関しては、以下の通りである。
「小津安二郎論 昭和5年4月」(150―159頁)
「『落第はしたけれど』昭和5年7月」(159―162頁)
「『其夜の妻』昭和5年9月」(162―164頁)
「『お嬢さん』昭和6年2月」(164―169頁)
「『淑女と髯』昭和6年3月」(169―171頁)
「『東京の合唱』昭和6年9月」(172―174頁)
「『出来ごころ』昭和8年10月」(174―179頁)
「『浮草物語』昭和10年1月」(179―182頁)
「『一人息子』昭和11年9月」(182―185頁)
「『淑女は何を忘れたか』昭和12年3月」(185―187頁)

『オール松竹』第十六巻第十號通巻一八四號(1937年10月1日発行、映画世界社、120頁)

表紙:坂東好太郎
「松竹スタジオニュース 大船通信 小津安二郎氏は、既報山本有三原作「路傍の石」を次回に廻し新作品はジェームス槇・池田忠雄共同脚本のオリジナル物と決定した。」(72頁)

岸松雄『日本映画様式考』(1937年10月10日発行、河出書房、272頁)

装填:小津安二郎
「小津安二郎作品抄」
「1 春は御婦人から」(207―209頁)
「2 また逢ふ日まで」(209―211頁)
「3 『間』の問題」(211―214頁)
「4 四本目の喜八物」(214―217頁)
「5 浮草物語」(218―220頁)
「6 『大学よいとこ』に現はれた小津安二郎の否定的精神」(220―223頁)
「7 結」(223頁)

台本『愉しき哉保吉君』(1937年11月3日発行、日活)

「内田班 限りなき前進 愉しき哉保吉君
 現作:小津安二郎
 脚色:八木保太郎
 轟夕起子・現代劇第一回出演 
 監督:内田吐夢
 撮影:碧川道夫」

『八丁堀日活館週報』(1937年11月18日発行、グランドキネマ内編輯、4頁)

表紙「限りなき前進」原作 小津安二郎 監督 内田吐夢 全力傾注快作

1938
『新映画』(1938年2月1日発行、新映畫社、132頁)

表紙:マルセル・シャンタル
小津安二郎「戰の野より」(37頁)
「〇之は大久保忠素氏への小津氏の便りです。「天使」云々は、本誌のコンテイニュイテイをお読みになってのご感想です。」
※冒頭を引用する。「駿河屋の羊羹、一日おくれて昨日手紙正に落手しました。このところ羊羹なら成田の羊羹でも垂涎しばしのところ、甚だ贅沢の極みで早速クリークの水で茶を入れて頂戴しました。」最後は、次の言葉で閉められている。「もとより生還は期してはいませんが、出来得べくんば生きて帰ります。では、一寸行って来ます、バイ!バイ!グド・ラック。兵隊さんにしては字は上手い方でしょうか。」

『映画之友』第十六巻第五號(1938年5月1日発行、映画世界社、166+32頁)

表紙:ダニエル・ダリュウ
木村伊兵衛「上海で小津安二郎氏をうつす」(20頁)

『キネマ旬報』No.658(1938年9月21日発行、キネマ旬報社、102頁)

表紙:アリス・フエイ
「旬報グラフィック 小津軍曹と関口正三郎伍長、於:南京 1938年8月(11頁)
※内田岐三雄に届いた写真と手紙、その両者が紹介されている。
小津監督の手紙の冒頭を紹介する。「南京でははからずも佐野周二に会った。お互いに出勤を前の慌ただしい身體だった。泰准に行った。河に臨んだ菜館の窓近く、杯を上げてお互の無事を喜んだ。百日紅のさかりだった。」内田岐三雄による文章もある。冒頭を引用する。「小津安二郎君と僕とは、小津君が大久保忠素君の助監督をしていた時代からの知合いである。二人はすぐに親友になって、「おい」と肩を叩き、そして映画と人生を論じあふ仲となった。この時分から小津君はもう撮影所内でも、群を抜いて光った存在だった。例えて言えば島左近だった。皆からオッチャンと愛称されていた。親しみのある敬称も入っていたように思う。映画批評家で小津君と知己となったのは僕が最初だ、と僕は自負している。」
「本邦撮影所通信 松竹(大船)小津安二郎氏は出征中。」(81頁)

『日本映画』第三巻第十一號(1938年11月1日発行、大日本映画協會、208頁)

永見隆二「山中貞雄の花嫁」(76-78頁)
三村伸太郎「山中貞雄を偲ぶ」(78-79頁)
依田義賢「故山中貞雄を偲ぶ會の記」(80-83頁)
上野耕三「山中貞雄論」(84-91頁)
※冒頭、小津と山中の違いなど述べられている。

『シナリオ』臨時増刊 山中貞雄追悼號(1938年11月30日発行、日本映画作家協會関西支部、172頁)

編輯後記から
「山中貞雄追悼號に対して寄せられた各方面の御支援を深謝致します。吾々作家協會員はシナリオ作家、映画監督者としての彼の業績、及び、友人、先輩としての交誼の中に残した彼の映画人的人間性に対し、その戦没に際して哀悼、敬愛の心の止み難く、切なるものを持ち、臨時増刊を敢えてし、作家協會員として心を籠めた彼への餞けとして本號を贈る。在天の彼の霊も吾々の友情を誼しとしていてくれる事でありませう。願わくば彼の霊よ、尚、天上に在りても眠ることなく、日本映画界の行く手に鋭く眼を放ち、鞭を持て吾等を殿より打ちて進ましめよ。」(172頁)
野田高梧「『いろは』の一夜」(8‐10頁)
池田忠雄「或る日の山中さん」(68―69頁)

『中央公論』第53年第12號第615號(1938年12月1日発行、中央公論社、548+92頁)

山中貞雄「陣中日誌 附・戦線便り 遺稿」(330―344頁)
「遺書」(330―331頁)
「従軍記」(331―341頁)
「手紙」(341―344頁)

1939
『キネマ旬報』新春特別号No.667(1939年1月1日発行、キネマ旬報社、318頁)

表紙:ジーン・アーサー
小津安二郎「手紙」(64―65頁)
※手紙、小津安二郎は、小津監督の直筆を使用。ライカを持つ軍服姿の小津監督のショットあり。
「内田吐夢、清水宏映画放談」(203-210頁)
※小津安二郎の手紙について言及している。
「本邦撮影所通信 松竹(大船) 小津安二郎は、出征中。」(254頁)
「昭和十三年十一月調査 撮影所主要従業員住所録 松竹大船撮影所 小津安二郎 監督部 芝区高輪南町二八(公務服務中)」(275頁)
「編輯後記 別項本文記載の原稿「手紙」に添えて小津安二郎氏が書いて送られた一文、この欄に掲げて置きます。池田」(318頁)として、小津監督の添え状を掲げている。小津監督らしく、添え状にも近況などが丁寧に書き添えられている。

『オール松竹』第十八巻第五號(通巻第二〇三號)五月特別號(1939年5月1日発行、映畫世界社、140頁)

表紙:水戸光子
「佐野周二の留守宅訪問 ④撮影所のお宮の傍には所内から出征した人々の名前が掲げられてあって、その中の一つに関口正三郎(周二の本名)と読めます。上には、小津安次〔ママ〕郎とあるのにもご注意!」 (15‐16頁)
池田忠雄「近事雑片」(40‐41頁)
※後段に小津についての言及がある。「さて、いよいよお時間も切れそうに相成ったところで、尊敬すべき小津ちゃんの近況をお伝えする光栄を担わして頂く。ここにきて、バタバタと三本ぶっ続けに手紙を貰った。僕の口から云うのは甚だ失礼のわけであるが、益々人間小津が力強く出来上がってきたのがしのばれてうれしかった。小津ちゃんびいきの方もそうでない方も、ともに喜んで頂きたい。こんな事書いて、帰って来て、靑ン僧何をぬかす!と僕は小津ちゃんからぶん殴られるかも知れない。それでもいい、僕は敢えて大きな声で云う。人物小津が出来上がった!!」
「松竹スタジオ・ニュース 大船通信 小津安二郎氏は、出征中」

『キネマ旬報』No.685(1939年7月1日発行、キネマ旬報社、220頁)

表紙:プリシラ・レーン
小津安二郎「續 手紙」(72-74頁)
冒頭を引用する。「無事でゐる。江西省奉新にゐる。四月五日。菜の花の盛りである。宿舎の門口には赤い唐紙に、春雨潤耕牛、和風吹駿馬と書いてある。その前で水牛が一匹、草を喰っている。遅々たる春日である。」

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.18(1939年7月8日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「淑女は何を忘れたか スタッフ、配役、梗概」(8頁)

『キネマ旬報』No.688(1939年8月1日発行、キネマ旬報社、120頁)

表紙:ジューン・ラング
「旬報グラフィック 小津安二郎還る―右は島津保次郎」(11頁)
※内田岐三雄による解説、冒頭を引用する。「小津安二郎が帰って来た。小津君が応召出征したのは、一昨年九月のことである。その時は小津君は歩兵伍長だったけれども今は軍曹である。中支の戦線で敵を追って各地を馳せめぐり、春夏秋冬をその地で送った二か年に近い奮戦の勲功が、君の上に燦然と輝いている。」
「本邦撮影所通信 松竹(大船)小津安二郎氏はあしかけ三年ぶりに戦線より内地に帰還し七月十六日除隊となった。当分休養する。」(97頁)

『オール松竹』第十八巻第八號通巻二百六號(1939年8月1日発行、映画世界社、112頁)

表紙:三宅邦子
「松竹スタジオニュース 大船通信 小津安二郎氏は、出征中。」(68頁)
佐分利信「代用教員から映画俳優に」(82-83頁)
※佐分利信は、東京市土木課の職員、その後、故郷北海道の母校歌志内村小学校の代用教員を一年間勤めている。小津監督も、三重県飯高町の宮前小学校で、代用教員をしており、共通点がある。

『大陸』第九號(1939年8月10日発行、改造社、448頁)

小津安二郎「小津安二郎戦場談」(198-202頁)
※「語り了えて、じっと葉鶏頭に見入る、戦地ですっかり灼けした顔には、亡き友を回想する哀愁がただよっていた。八月四日、松竹大船撮影所監督者、小津安二郎軍曹の自宅で、帰還後のあはただしい閑に以上の談を得た。文責は記者にある。」と最後にあり、戦場談を記者がまとめたものである。

『オール松竹』第十八巻第九號(通巻第二〇六號)(1939年9月1日発行、映畫世界社、140頁)

表紙:上原謙
「特輯グラフ 萬歳!小津ちゃん還る」
①昨年八月南京で初めて佐野周二に会った時の戦線に在った時の小津軍曹の思ひ出で、この頃は今日還る日のことを心の片隅にでも思ったでしょうか。②召集解除当日、監督協会の出迎えを受けて靖国神社へ帰還報告の帰り中央に小津ちゃん、他に清水宏、五所平之助、野村浩将、宗本英男、原研吉、吉村公三郎、大庭秀雄(以上大船)、島津保次郎、内田吐夢、斉藤寅次郎、瀧澤英輔、成瀬己喜男監督の他に、日活小杉勇の顔も見えます。③「戦争は平凡な私たちの考えを超越したものです。激戦中にも警備の余暇にもその一齣一齣に生き生きとした命が流れている。この尊い体験を無上の喜びと思っています」こう語りながら、戦地では不足しがちだった煙草の紫の煙りをすーと吹いて小津ちゃんは懐かしい微笑を漂わせます。④靖国神社の大鳥居の前で三年ぶりの背広姿で小津ちゃんの笑顔。⑤終わりにもう一度前線の思い出を拾って半身濁水に漬かりながら労苦の渡河作業、しかしその面に浮かぶ微笑は昔も今も変わらぬ温かさがこぼれています。ついに小津ちゃんは還ってきた。私たちはこれから小津ちゃんに何が期待できるだろう?」(20‐21頁)
「佐野周二戦地画譜 第三輯 ⑬(佐野周二自記)昭和十三年八月二八日、南京にて渡支してより南京で始めて小津ちゃんに逢った日-右端が周二でその肩に手をかけているのは今はもう還って来た小津ちゃん(小津安二郎)です。」(31頁)
水町青磁「松竹月評 ☆小津軍曹帰還」(39頁)
「松竹スタジオ・ニュース 小津安二郎氏は、出征中のところ、この程晴れの帰還、大船監督部へ復帰した。」(88頁)
「松竹新聞 小津軍曹帰還 松竹大船の小津安二郎監督いや指宿部隊の小津軍曹が三か年に亘る中支戦線の武勲も輝かしく〇〇日早朝同部隊一部隊勇士と共に帰還した」(91頁)
「監督軍曹小津ちゃん還る」(本誌記者)(102―103頁)
春風會代子「大船豚珍日記 還って来た小津ちゃん」(115頁)

『映画朝日』第16巻第9號(1939年9月1日発行、東京朝日新聞社・大阪朝日新聞社、208頁)

表紙:田中絹代
「戦塵を洗って 小津安二郎帰る」(41頁)
グラビア「団扇を持つ浴衣姿の小津監督」
※一部を引用する。「松竹大船のオッチャン小津安二郎監督が七月十六日除隊した。六月にマラリアをやって二貫目ほども体重が減ったよと言ってはいるが、仲々どうして戦塵焼けした赤顔は元気なもので、幾多赫々たる戦績を泛べている。」
※108~115頁には「松竹映画の全貌」が掲載されている。「小杉勇さんのお住居拝見」(118―119頁)には、屏風の前に座っている小杉勇氏のスナップとともに、次のような記述がある。「奥六畳の間を覗いたら素晴らしい寄せ書きの屏風を発見した。俳優小杉勇の交友の広さを裏書きする逸品である。撮影所関係者では、内田吐夢、田坂具隆、小津安二郎、書家の向井潤吉、鈴木信太郎、木下公男、写真家の金丸重嶺諸氏に混ってファンク、ゼップ・リストの名も見える。」

『映画ファン』第4巻第11號(1939年11月1日発行、映画世界社、164頁)

表紙:轟夕起子
小津安二郎・内田吐夢・筈見恒夫(本誌・小倉武志)「『戦争と映画』を語る」(52-57頁)
9月5日、於:虎ノ門晩翠軒
三村伸太郎「山中貞雄と人情紙風船」(68-70頁)

『オール松竹』第十八巻第十一號通巻二百九號(1939年11月1日発行、映画世界社、140頁)

表紙:北見禮子
「東西スタジオキャメラ行脚」(34-35頁)
※➁貴賓室の前で、高声の笑い話が聞こえてくるので、行ってみると、珍しく小津安二郎監督(中央)が池田製作部長(左)と清水宏監督と話していた。まだ当分は休養する筈の小津ちゃんは時々はこうして撮影所に現われて昔懐かしい人々と語り合うのが楽しいのである。(大船)
池田忠雄「ひがんばな」(38-39頁)
※所内大会で野球試合をし、「小津ちゃんは戦地で暇を見ては野球をやった由、頻りに張り切っていた。」と書いている。
「スター奥様訪問記 うるはしい日独親善結婚 齋藤達雄夫人の巻」(64-65頁)
※小津映画常連俳優齋藤達雄の夫人について、インタビューした記事が掲載されている。
「スター奥様訪問記 力強い生活の協力 笠智衆夫人の巻」(67-68頁)
※小津映画常連俳優笠智衆のふじんについて、インタビューした記事が掲載されている。
「松竹スタジオニュース 大船通信」(88頁)
※「小津安二郎氏は、先夜を馳駆して帰還後休養中の処今度文化映画部兼任となり、今後は劇映画のみならず文化映画をも随時製作することに決定した。」とある。
「松竹新聞 第二百四號 昭和十四年十一月一日 大船文化映画部機構の大改正断行 強力陣で製作に邁進」(90頁)
※小津監督は、清水宏監督と共に、常任顧問(兼務)となっている。
桑木廣介「大船文化映画部の整備」(103-104頁)
※一部引用する。「清水宏、小津安二郎が顧問にひっぱり出されたのは興味深い。勿論二人とも劇の監督と兼任である。大陸の聖戦から帰還した軍曹小津安二郎の第一回作品は火野葦平の「廣東進軍抄」だと発表された。これは小津安二郎のあの往年の凝視力と戦火を潜ってきて獲得してきたであろう、人生に対する新しい情熱を考えれば、甚だうってつけの題材ではないか。だが、まだ戦塵を洗い落したばかりの小津監督が、すぐこんな直接的な題材に手を出すかどうか、もし之が大船一流の宣伝でなければ幸いだ。」

『中央公論』第54年第13號第628號(1939年12月1日発行、中央公論社、512頁)

小津安二郎「戦争と映畫雑櫃」(310―313頁)
※戦争映画、山中貞雄の『陣中日記』、戦地においてライカで1000枚ほど撮影したこと、杏子の花が砲弾で散った光景、敵の機関銃と味方の機関銃の音の違いを擬音係を連れていき再現できるか、支那兵が逃げていくときに壁に残す日本語の文章のことなどについて述べられている。

1940
『映畫之友』第十八巻第一號(1940年1月1日発行、映画世界社、160頁)

表紙:ジーン・アーサア
「スタジオニュース 日本 小津安二郎監督の帰還第一回作品は、池田忠雄と共同で脚本執筆中であったが、この程いよいよ脱稿をみたので、新春早々クランクを開始することとなった。」(109頁)

『新映画』第十巻第二號(1940年1月4日発行、新映画社、110頁)

表紙:MYRNA LOV
小倉武志「小津安二郎はどんな映画を作るか 「彼氏南京へ行く」を語る。
※冒頭を引用する。
「二年余の戦陣をすっかり洗い落として、軍曹小津安二郎から映画監督小津安二郎にたち返ったその彼の第一回作品はどんな内容の映画であろうか。これこそわれわれが刮目して期待している課題である。(中略)私は待ちきれないで遂々小津監督を自宅に訪れて第一回作品の筋書きを聞かせてもらった。脚本は既に脱稿して、今池田忠雄氏が清書しているということであった。この脚本は、小津監督の腹案により池田忠雄氏と共同で執筆したものであるという。」以下、「彼氏南京へ行く」のあらすじがかかれている。
 最後に、「今度の作品は云わばこの(「淑女は何を忘れたか」)系統をゆくもので「有閑マダムは何を忘れたか」というべきものである。「この映画で一番むずかしいのは会話です。味のある会話だけが、この映画を面白くみせます。題名は今のところまだ決まっていないけれど。僕は、「彼氏南京へ行く」という題はどうかなと思っている。「お茶漬の味」というのも考えたが‥。」以下続く。

北川冬彦『散文映畫論』(1940年1月10日発行、作品社、211頁)

小津監督への言及は、例えば、「小津安二郎原作、八木保太郎脚色シナリオを読んだとき、恐らく、映画は、悲惨な事実を描きながらも、與える感銘は、明るい愉快なものだろうと考えていたところだが、内田吐夢の「限りなき前進」を見ると、意外にも、それは反対なのである。陰鬱なのである。それというのは、シナリオでは、北君という、青年のくせに妙にさとった、一寸得体の掴めない無職の男に力を入れてある。ところが、映画では、内田吐夢は、二十五年勤続のサラリーマン保吉を中心に、一篇の物語をくりひろげている。」(77-78頁)
「大森義太郎と「一人息子」」(189-191頁)などがある。

『映畫之友』第十八巻第二號(1940年2月1日発行、映画世界社、148頁)

表紙:キャロル・ロムバアド
「小津安二郎氏帰還第一回作「彼氏南京へ行く」のシナリオ、本誌次號に全載!」(19頁)
「次回作の抱負を訊く 小津安二郎氏に帰還第一回作品をきく」(48-49頁)
※一部抜粋する。「小津監督は私にあるときこう語ったことがあった。「世間の人は、自分の第一回作品をあるひは戦争ものか又は私が戦地で経験した事実などによって作るであろうと考えていられるかも知れないが、私としては二年間も泥の中に足をつっこんで来た今、またそのままの生活を仕事の上に持って来ることは一寸今はできない気がする。僕はもっと気楽な自分の身に合ったものを作りたい。」」

『オール松竹』第十九巻第二號(通巻第二一一號)二月特別號(1940年2月1日発行、映畫世界社、132頁)

表紙:桑野通子
「昭和十四年度作品表 大船1監督の巻 小津安二郎-支那事変応召、昨夏帰還し作品なく「彼氏南京へ行く」の準備中。」(51頁)
「松竹スタジオ・ニュース 大船通信 小津安二郎氏は、帰還第一回作品は池田忠雄と協力の創作シナリオによる「彼氏南京へ行く」と決定。目下執筆中」(80頁)
「帰還勇士に訊く さあ第一回作だ!小津安二郎氏は語る」(112―113頁)
写真「語る小津監督、芝高輪の自宅にて 火鉢の前に座る小津監督」

山中貞雄『山中貞雄シナリオ集 上』(1940年2月20日発行、竹村書房、314頁)

装填:小津安二郎
「街の入墨者」(5-44頁)
「帯とけ佛法」(45―78頁)
「風流活人劍」(79―98頁)
「なりひら小僧」(99―122頁)
「河内山宗俊」(123―190頁)
「人情紙風船」(191―258頁)
「薩摩飛脚 後篇」(259―304頁)
筈見恒夫「跋」(305―307頁)
三村伸太郎「巻末に」(308―311頁)
岸松雄「あとがき」(312―314頁)

『映畫之友』第十八巻第三號(1940年3月1日発行、映畫世界社、148頁)

表紙:ゲイリー・クーパー
「撮影所通信 松竹 小津安二郎の帰還第一回作品は、すでに池田忠雄のシナリオも脱稿され”お茶漬の味”という題名により、製作することになった。」(104頁)
「シナリオ お茶漬の味 池田忠雄・小津安二郎作」(136-148頁)

『國劇ニュース』NO.5(1940年3月7日発行、國際劇場、12頁)

「松竹大船スタヂオ通信 ◎お茶漬の味‥小津組(桑野、三宅、水戸、佐分利)‥近日着手」(5頁)
「野心大作 お茶漬の味 小津安二郎帰還第一回作品」(10頁)
※発行日がないので、今週の豪華三大プログラム筆頭の『美女桜後編』(大曾根辰夫監督)の封切日を発行日とした。
幻のお茶漬の味の広告が掲載された、國劇ニュース。「皆様の國際劇場は、松竹映画代表披興露行(ママ)劇場として松竹代表映画を封切上映」とある。

『映畫之友』第十八巻第四號(1940年4月1日発行、映画世界社、148頁)

表紙:マレーネ・デートリッヒ
「ライカに描く」
●小津安二郎監督は帰還第一回作品「お茶漬の味」が検閲を通過しないので大クサリ。清水オヤジは次回作品、どうやら感化院物と内定。だがその次のものが一向アテなし。結局、野口晋徹宣伝部長が御両人のお小言の聞き役という訳。「なんかいい原作物はないですかね?」「僕は朝鮮を背景にしたものがほしいなあ」と小津つあんと清水オヤジは野口部長を困らせている。
小津監督と清水監督は室内でコート、小津監督は黒いマスクをしている。
小津安二郎・清水宏・瀧澤英輔・岸松雄・筈見恒夫「『旅する人びと』合評」(109-111頁) 

『映畫之友』第十八巻第五號(1940年5月1日発行、映画世界社、148頁)

表紙:コリンヌ・リユシエール
北川冬彦「小津安二郎への手紙」(66頁)
「シナリオ「お茶漬の味」読後感」(74-77頁)
内田岐三雄「「お茶漬の味」を読んで」(74-75頁)
飯島正「「お茶漬の味」を読む」(75-76頁)
飯田心美「お茶漬の味」の役割」(76-77頁)

『オール松竹』第十九巻第七號(通巻第二一六號)十八周年記念七月特別號(1940年7月1日発行、映畫世界社、112頁)

表紙:三浦光子
高倉京太「小津安二郎の帰還第一作は?」(52―53頁)
※冒頭を引用する。「小津安二郎の帰還第一作として予定された「お茶漬の味」は、ご承知の如く事前検閲の結果却下される事となった。そのシナリオの全貌は、姉妹誌たる「映画の友」に発表されて、映画関係者や批評家及び一般ファンの絶賛を受けたのであった。小津安二郎は何といっても現代第一線の映画作家であるということだが、そのシナリオを通じて今更の如く人々の脳裏に焼き付けられたのであった。」
「松竹スタジオ・ニュース 小津安二郎氏は、次回作品を準備中である。」(68頁)

山中貞雄『山中貞雄シナリオ集 下』(1940年9月20日発行、竹村書房、308頁)

装填:小津安二郎
「中村仲蔵」(5-64頁)
「森の石松」(65-118頁)
「鼠小僧次郎吉」(119―146頁)
「口笛を吹く武士」(147―172頁)
「盤獄の一生」(173―204頁)
「武蔵旅日記」(205―240頁)
「磯の源太 抱寝の長脇差」(241―258頁)
「戀と十手と巾着切」(259―287頁)
「戦線手記(遺稿)付・戦線便り」(289―308頁)

『文藝』第八巻第十號(1940年10月1日発行、改造社、280頁)

「小津安二郎帰還第一作シナリオ 『戸田家の兄妹』小津安二郎・池田唯雄共作」(104―154頁)

『スタア』秋季特別號(1940年10月25日発行、スタア社、90頁)

表紙:水戸光子
グラビア「戸田家の兄妹」(24頁)
グラビア「小津安二郎 「淑女は何を忘れたか」を遺して戦線に立つてからもう三年、「お茶漬の味」中止依頼半歳、小津安二郎はいよいよ新年「戸田家の兄妹」にとりかかった。佐分利信の主人公の喋る台詞に小津安二郎の情感を乱すということは、われわれの単なるセンチメンタリズムなのであろうか。」(30頁)
筈見恒夫「小津安二郎 撮影開始!」(31頁)
カット「楽しい衣装調べ。みんな嬉しそうです。小津監督は丹念に、モノトーン・フィルタアで画面に現れる色の調子をみています。」
「東京・京都各社撮影所製作表(10月12日現在)松竹大船撮影所 戸田家の兄妹 セット撮影中、12月中旬封切予定」(72頁)
広告「山中貞雄シナリオ集 映画に生き、映画に死んだ若き天才の遺作集!故人の代表作傑作を悉く網羅!竹村書房」(90頁)

『日本映画』第五巻第十一號(1940年11月1日発行、大日本映画協會、240頁)

北川冬彦「シナリオ時評 「戸田家の兄妹」(18-24頁)
※冒頭を引用する。「先に小津安二郎帰還第一回作品シナリオとして、「お茶漬の味」が書かれたが、これは事前検閲にひっかかり改作を要求された。当事者はあっさり撤回したため、映画化の運びに至らなかったが、シナリオ「お茶漬の味」はその風味のおっとりしたところ、いかにも戦陣より帰還した小津安二郎の想いが現われ、そのシナリオ技術の旨さは私をして、舌なめずりする思いで読ましめたものである。」(18頁)

『キネマ旬報』No.732 (1940年11月1日発行、キネマ旬報社、64頁)

表紙:入江たか子
「日本映画紹介 戸田家の兄妹」(27頁)

『新映画』第10巻第12号(1940年11月4日発行、新映畫社、110頁)

表紙:入江たか子
「戸田家の兄妹」(グラビア4カット)(10‐11頁)
※うち一枚は、「デパートに於ける衣装調べのスナップ・ショット」で、三宅邦子と小津安二郎監督がデパートの着物売り場にいるところが映し出されている。
「撮影所現場 戸田家の兄妹」(グラビア1カット)(49頁)
※「クランク開始のファースト・シーンです。坪内美子、近衛敏明のいる場面。左手帽子の主が小津監督。(松竹大船)」というキャプションがある。

1941
『新映画』第一巻第一號 新年號(1941年1月1日発行、映畫出版社、146頁)

表紙:「戸田家の兄妹」坪内美子・高峰三枝子 小津安二郎作品
※編集後記に次のようにある。「表紙はいささか甘い調子になってしまった。之も勝手がわからないので見当がつかなかった。このことで、わざわざこの為に、一日をさいて、演出の労をとられた小津安二郎氏にお詫びしなければならない」つまり、この表紙の演出は、小津安二郎そのものであることが分かる。

『銀映週報』第百五十七號(1941年1月30日発行、銀座映画劇場、6頁)

「戸田家の兄妹 松竹大船映画小津監督帰還第一回作品」(6頁)

『新映画』第一巻第二號 二月特別號(1941年2月1日発行、映画出版社、146頁)

表紙:「白鷲」入江たか子
「映画界ニュース解説 松竹の新動向 小津安二郎は、「戸田家の兄妹」の次には、かねて脚本の出来ていた「父ありき」を予定している。(2頁)
半頁(縦)広告「戸田家の兄妹」(4頁)
「昭和十五年の映画はどうであったか 内田吐夢、小津安二郎 本誌南部圭之助」(82―87頁)(12月12日)
※小津監督の言葉を幾つか拾ってみよう。「『駅馬車』は面白かった。あちこちと『駅馬車』の批評を見たが、批評家ももっと直截に物が言えないものかね。面白いことは一応認めながら、書いていることは右顧左眄したものの言い方なのだ。他の人の顔色は覗かなくてよろしい。ああいう写真は批評家も面白がって見ていいんだよ。」「ハワード・ホークスは、アメリカには珍しいカットの細かい人だね。キング・ヴィドアなんかに比べて二倍以上細かいんじゃないかな。」「僕はデュヴィヴィエはあまり好きじゃない。精力的なところは買うけど‥。ルネ・クレエルの方が遥かに好きだね。」
※この鼎談は、1940年12月12日、小津監督37歳の誕生日に実施されている。

『映画旬報』第四號(1941年2月21日発行、映画出版社、82頁)

表紙:「戸田家の兄妹」桑野通子、高峰三枝子

『新宿松竹週報』第五十四號(1941年2月22日発行、新宿松竹館、6頁)

「小津安二郎帰還第一作 戸田家の兄妹
 久しきにわたる沈思のうちに、小津安二郎の想念やうやく昻り、ここに日本の家族制度の中核に鋭く喰い込んだ!昨日の碁石に今日の生活はたてられる。現代人の思想と道徳に深い反省を求める問題作!」(表紙)
「小津安二郎帰還第一歩」(3-4頁)

『神田松竹映画劇場』NO.162(1941年2月22日発行、神田松竹映画劇場、6頁)

「次週封切『戸田家の兄妹』」(表紙)
「松竹大船作品 小津安二郎帰還第一回作品 戸田家の兄妹 転戦三年弾雨のもとに巨匠は何を考えたか!」2-4頁)

『銀映週報』第百五十八號(1941年2月22日発行、銀座映画劇場、6頁)

「銀映千一夜 帰って参りました 佐野周二」(2頁)
※一部抜粋する。「特に私は小津監督の帰還第一回作品『戸田家の兄妹』に私自身の身に引き較べて最大の期待をかけております。小津監督は勇敢に戦って見えたのだ。そして恐らくは一演技者としての私より数十倍の人間として鍛錬を成し遂げて来られたに相違ない。この大作に吐露されるであろう小津監督の精神の息吹!それを私は一日も早く感じたいと思っております。」
「銀映映画辞典 小津安二郎監督作品に就いて」(6頁)

『中劇だより』第五十八號(1941年2月25日発行、名古屋 中京劇場、6頁)

「春を呼ぶ世紀の待望篇戸田家の兄妹遂に完成!
 次週一日大封切決定
 今年こそは松竹の天下だ!暴れ暴れて暴れまくる!
 スパイはあなたの側にいる」(表紙)
「佐野周二来る 時・三月二日 一日限り!
 戸田家の兄妹
 小津安二郎万歳待望久しき名匠が霊腕の冴え!
 群画、色を失ふ本年度の王座!」(2-3頁)

『有楽だより』(1941年3月1日発行、福岡市東中洲有楽館、4頁)

「小津安二郎帰還記念作 戸田家の兄妹 見おとしてはいけません!」(表紙)

『銀座映画劇場鑑賞券』「戸田家の兄妹」(1941年3月1日発行、銀座映画劇場、1頁)

「巨匠 島(ママ)津安二郎帰還第一回作品 脚本池田忠雄」

『新宿松竹週報』第五十五號(1941年3月1日発行、新宿松竹館、6頁)

「今週のプログラム 日本ニュース、文化映画:牧場・初島、戸田家の兄妹」(2頁)
「戸田家の兄妹 スタッフ、キャスト、梗概」(3-4頁)
「清水宏おぼえ書」(3-4頁)

『エンギザニュース 豫告のしほり みかへりの塔・戸田家の兄妹』(1941年3月1日発行、エンギザ)

戸田家の兄妹、桑野、高峰、佐分利、坪内、三宅、五大スター共演、これはまた素晴らしい魅力!
名匠小津安二郎作品

『圡市劇場 戸田家の兄妹』(1941年3月8日発行、圡市劇場、1頁)

発行日がないので、封切日直近の3月8日とした。
「日本の家族制度の中核に鋭く食い込んだ!昨日の基石に今日の生活はたてられる現代人のイデオロギーとモラルに深い反省を求めて止まない問題作!」

『映画旬報』第七號(1941年3月11日発行、映画出版社、94頁)

表紙:「歌女おぼえ書」水谷八重子
「技能審査管見 技能審査委員控室での吐夢と小津。小津曰く「早く映画監督になったばっかりに落第のうきめにをのがれたようなもんだね、われわれは‥」、内田これに答えて「どうだい、許可証を返還して受験してみたら、誰が何と言っても、俺はきみに落第点をやる。」(11頁)
「演出家受験者名簿をひろげて吐夢が「星島二郎というひとね、「限りなき前進」の一部を廻してくれたカメラ・マンだよ」「そうか、僕はこの人に漢口で会った。朝日ニュースでやってきていた。」と安二郎。昨日の知己、今日は受験生。(12頁)
「”戸田家の兄妹”批評特輯」(32-38頁)
内田岐三雄「演出」(32-33頁)
田中敏男「撮影」(33-35頁)
伊藤龍雄「演技」(35-36頁)
野口久光「装置、音楽、録音」(36-37頁)
筈見恒夫「小津安二郎、一つの成長」(37-38頁)

『映画旬報』第八號(1941年3月21日発行、映画出版社、84頁)

表紙:「誓いの休暇」インゲボルグ・テーク、ロルフ・メエビウス
「封切映画興行価値 戸田家の兄弟(ママ)」(71頁)
※「名監督の定評が一般観客にまで侵潤している小津安二郎の帰還第一作である。」

『日本映画』第六巻第四號(1941年4月1日発行、大日本映画協會、300頁)

「特集批評・戸田家の兄妹」(90-
中村武羅夫「「戸田家の兄妹」を見て」(90-93頁)
澤村勉「「戸田家の兄妹」」(93-95頁)
小堀杏奴「「戸田家の兄妹」を見て」(95-98頁)
山根銀二「音楽から見る」(98-100頁)
古志太郎「「戸田家」をめぐる感想」(100-102頁)

『改造』第二十三巻第七號(1941年4月1日発行、改造社、512頁)

津村秀夫「小津安二郎論」(222―227頁)
※「戸田家の兄妹」を中心に展開されている。

『新映画』第1巻第4號(1941年4月1日発行、映畫出版社、130頁)

表紙:清水宏作品『歌女おぼえ書』原案デザイン岩田専太郎
「戸田家の兄妹」ロケ撮影グラビア2カット(13頁)
「戸田家の兄妹 戸田本邸・セット カメラ・プラン 設計:浜田辰雄 撮影:厚田雄春」(15‐19頁、119頁)
※セットとカメラ・プランが図とカットのショットにより詳細に解説されている。
「映画協会で実施された第二回技能審査のスナップ・ショット(小津監督と内田吐夢監督)」(45頁)
「戸田家の兄妹・検討」里見弴、溝口健二、内田吐夢、小津安二郎、池田忠雄、津村秀夫、南部圭之助」(48―57頁)

『映画旬報』第九號 春季特別號(1941年4月1日発行、映画出版社、160頁)

表紙:「十日間の人生」井上正夫、田中絹代
グラフ「わが師を語る 小津安二郎先生 原研吉」(20頁)
「城砦合評 主として演出について 田坂具隆、内田吐夢、清水宏、小津安二郎、内田岐三雄、筈見恒夫、清水千代太」(107―114頁)

『寫眞文化』第22巻第5號(1941年4月20日発行、アルス、120頁)

「小津安二郎戦線寫眞集」(522―528頁)
「映画技術から学ぶもの(二) 小津安二郎氏に『映画と寫眞をきく』」(572―575頁)
※「小津安二郎戦線寫眞集」(522―528頁)には、合計8枚の寫眞が掲載されている。タイトルが掲載されているものは、以下の4枚である。「春日水浴圖」、「かい掘り」、「残暑河を渡る」、「盛夏船艙」。616頁の「編集後記」では、以下のように述べられている。全文引用しよう。「小津安二郎氏の戦線で撮影された作品を拝借したいといふ事は、ずいぶん前から考へてゐた事なのですが、本月やっと非常な御厚情のもとに拝借することが出来ました。映畫を通して描き出される氏の温い人間味、それが戦場にあふれて刮目すべき戦線寫眞であります。敵性国家の寫眞による逆宣傳に使はれ易い作品は避けねばならず、特に戦争と人間を對照とした優れた寫眞は、平和になって幾年か後でなければ世に現れない、と痛感します。」
「映画技術から学ぶもの(二) 小津安二郎氏に『映画と寫眞をきく』」は、田中眞澄編『小津安二郎全発言 1933~1945』(1987年6月10日発行、泰流社、308頁)に収録されているが、小見出しは、全てカットされているので、ここに掲載する。「戦争体験と寫眞」、「カメラアングルの決定」、「説明的要素とドラマ的要素」、「俳優と演出の指導」、「クローズアップの問題」、「ロケーションの場合」。573頁に映画撮影中の小津監督のカット、574頁に中国戦線で撮影された山中貞雄監督とのツーショットのカットが掲載されている。そこには、「日本の映画界の代表的な二人の名監督、左、小津安二郎氏と、右、故山中貞雄氏、相前後して出征され、不幸、山中氏は名誉の戦死をとげられた、戦場で二人並んで寫した軍服姿のただ一枚の記念寫眞。」のキャプションがある。

『築劇ニュース』五月八日版(1941年5月8日発行、築劇、4頁)

「待望愈々! 近日公開 戸田家の兄妹」(2-3頁)

『映画旬報』第十三號(1941年5月11日発行、映画出版社、90頁)

表紙:「愛の砲術」市川男女之助、市川登美
「準備中の各社新作 松竹大船 「父ありき」小津安二郎の帰還第二回監督作品で、自身及び池田忠雄、柳井隆雄との共同脚本を更に改定中。」(22頁)

『新宿第一週報』第三十五號(1941年5月22日発行、新宿第一劇場、6頁)

「戸田家の兄妹 スタッフ、配役、梗概」(2-4頁)

大日本映畫協會編『映畫演技學讀本』(1941年8月10日発行、大日本映畫協會、324頁)

小津安二郎「第六課 映畫演技の性格」(168-184頁)

『映画評論』第一巻第九號(1941年9月1日発行、映画日本社、134頁)

「追想・山中貞雄」
稲垣浩「山中貞雄の追憶」(54頁)
三村伸太郎「身邊風景」(55―56頁)
岸松雄「追憶・山中貞雄」(56―57頁)
※岸松雄の文章の後段を引用しよう。「山中貞雄の碑が菩提寺の境内に立つ。碑の文字は総計六百字内外。小津安二郎が書いたものである。「山中ほどの仕事をしてもそれが僅か六百字内外に詰めて語られてしまふかとおもうと淋しいな」とあまり上等でない珈琲をすすりながら小津安二郎はぼそぼそと私につぶやいて、「しかし俺たちが死んだってこんな碑は建ちつこないんだから、まあそう考えれば幸福な奴さ」とその後へつけ足した。」
「撮影中の山中貞雄監督」(63頁)
「山中貞雄作品スチル集」(64―65頁)
筈見恒夫「山中四周忌」(65頁)
「世界映画通信 日本(8月19日現在)松竹大船 小津安二郎 帰還第二作「父ありき」は池田忠雄、柳井隆雄との共同脚本も脱稿し、配役も笠智衆、佐野周二、津田晴彦、水戸光子、佐分利信、日守新一などで編成を終えたので、上越飯田方面に撮影担当の厚田雄春とともにロケハンに赴いている。」(110頁)

『映画旬報』第二十四號(1941年9月1日発行、映画出版社、62頁)

表紙:「桜の國」水戸光子
「至道院四回忌」(22頁)
※一部引用する。「至道院殉山貞雄居士の四周忌も近い。右の碑文は三周忌法要に際して建立される筈の碑のためのものである。文は、日本映画雑誌協会理事長田中三郎のものとするところ。之を小津安二郎が執筆した。天才的映画人であった山中貞雄の麗もこの碑を贈られて、定めし地下に微笑むであろう。」以下、碑文全文が掲載されている。軍服姿で歩兵銃を持つ「在りし日の山中貞雄監督」。
「小津安二郎 人と藝術」(25-30頁)
岸松雄「人間即映画」(25-26頁)
※一部引用する。「‥ところが帰還した小津安二郎を迎へた時、私はおやおやと思った。見たところ出征前とあまり変っていない。マラリヤのため少し痩せたと言うが、それとても際立ってどうかうということはない。話をしても戦争の話ひとつするでなし、他愛ない雑談に時のうつるのも忘れるほどであった。どこにも昂奮の様子が見えない。大陸で結んだであろう映画の夢、それすらもうすつかり戦塵と共に洗い落したかのようである。盃をあげてその無事を祝し酔うて小説界の近状に及べば、里見弴はますます立派であり志賀直哉はいよいよ偉いをくりかえす。小津安二郎は変わらない、と私に思わせる。そこが変ったところである。ありていに言えば、小津安二郎は変わった。ただその変り方がいかにも彼らしい変り方をしたまでのことである。職場という巨きな舞台を通って来ながら肩ひとついからすでなく眉毛一つ吊り上げるでもない。昔通りの小津安二郎である。むしろ彼にも亦多くの人と同じような或る種の目立った変り方や昂奮を期待していた私の方によりいやらしいジャーナリ屋的な気持が動いていたことを恥じる。しかも彼はこんなような迎え方をした私を別段怒るでもなく、今年から俺は年に四本撮るつもりだよと嘯くようにいうのである。フィルムの潤沢な時でさえ、寡作をもって聞こえたこのひとが今時こんなことをいったって、ひとびとは冗談事のようにおもふかもわからないが、戦争に征く前にだって彼はよくそんなことをいっていたものだ。こんなわけで戦地から帰って来た小津安二郎から私はいまだによく戦争の話も訊いていなければ戦争映画の抱負もきいていない。戦地に於ける蚤について書いた随筆がさきごろ朝日新聞に載っていたが、それは恐らく彼が帰還後に書いた二、三の文章のうちの一つにちがいない。帰って来てからもう二年もたっているというのに文章でさえ碌に発表しようとしない。そういえば、彼は「映画界には言葉が多すぎる」といっている。」
中村武羅夫「小津安二郎氏の芸術」(26-27頁)
内田岐三雄「断章-小津安二郎-」(27-29頁)
※一部引用する。「小津安二郎が文をよくすることは、既に知る人も多いであろうが、かつて「映画往来」の編輯に僕が関係していた自分、僕の乞いを容れて、二度寄稿してくれた。その時の筆名は乙雀。撮影所内の愛称小津ちゃんをもじっての二字。これも助監督時代のことである。」
清水崑画「小津安二郎像」(28頁)
筈見恒夫「「父ありき」について」(29-30頁)

『中劇だより』第八十三號(1941年9月4日発行、名古屋 中京劇場、6頁)

「天下の風雲を呼ぶ『父ありき』遂に撮影の火蓋切らる!
 右より 佐野周二・佐分利信・名匠小津安二郎監督」(表紙)

『東宝四階劇場ニュース』71(1941年9月11日発行、東宝四階劇場、4頁)

「次週上映「一人息子」の飯田と葉山
今週の番組 山中貞雄追悼週間 場内にて山中貞雄追悼展開催中」(表紙)
※山中貞雄は、1938年9月17日に逝去。3頁に「今年はその四回忌に当たる」とあるので、発行年はないが、1941(昭和16)年であることが分かる。「次週十八日より、「一人息子」と「空の少年兵」の上映とあるので、後者から、その年が、昭和16年であることが分かる。

『映画評論』第一巻第十號 特別號(1941年10月1日発行、映画日本社、118頁)

池田忠雄・柳井隆雄・小津安二郎「シナリオ 父ありき」(16‐31頁)
野田高梧「進みべき道」(44―46頁)
池田忠雄「随録」(74―75頁)
「世界映画通信 日本(9月2日現在) 松竹大船 小津安二郎 国民映画「父ありき」のロケハンを終へスチル撮影および諸般の準備中である。」(126頁)

『新映画』第一巻第十號(1941年10月1日発行、映画出版社、126頁)

表紙:「桜の國」高峰三枝子
「グラヴィア 小津安二郎監督の新作「父ありき」の本読みがすんだ。右より佐野周二、佐分利信、小津監督。これまた、「指導物語」と共に現代劇の花形である。」(29頁)
「グラヴィア 山中貞雄賞設定」(32―33頁)
※「おそらく、日本映画有史以来、最も純粋なるシネアストとして呼ばれ得る者は、故山中貞雄氏一人であろう。」(32頁)
山中会「山中賞制定由来」(64―65頁)
※一部抜粋する。「以下少しく会員の顔ぶれを紹介しよう。まず監督仲間としては井上金太郎、井上さんには公私とも大変お世話になったと山中貞雄は遺書のなかにさえ書いているほどである。秋山耕作は現在大船へ転籍になったがまだ下加茂にいた頃、それも山中貞雄がデビュウした昭和七年前後には時代映画の新鮮ないぶきを與へるような仕事を次々に示したものだった。大船では清水宏、小津安二郎の二人。山中貞雄がいかにこのひとたちに啓発されたかわからない。小津作品が封切られるやいの一番に駆けつける山中貞雄。シナリオの話をしていて、ふと「清水は天才やからな」と羨ましそうに言う山中貞雄。」(64頁)
「戸田家の兄妹」のスチル写真(75頁)
「フィルム制限と各社 松竹大船 準備中のものは小津安二郎の「父ありき」‥「父ありき」は情報局の国民映画出品予定であるから制作をするだろう。」(76頁)
「ベストテン一覧 昭和九年-十五年 日本映画の部(そのニ)(84―87頁)

『菊水館週報』第百拾壹號(1941年10月8日発行、菊水キネマ商会直営菊水館、4頁)

「小津安二郎帰還第一回作品 戸田家の兄妹 大船が贈る超豪華巨編 文部省推薦」(1頁)

『映画旬報』第二十八號(1941年10月11日発行、映画出版社、62頁)

表紙:「川中島合戦」市川猿之助
「父ありき 待望の国民映画 愈々登場!」
演出:小津安二郎
脚本:池田・柳井・小津

『映画旬報』第二十九號(1941年10月21日発行、映画出版社、82頁)

表紙:「君と僕」文藝峰
「撮影所早耳帖 「父ありき」のロケーションは、金澤と決まったが、小津安二郎監督は、まだ撮影にかかっていない。笠智衆に代わって、小杉勇が、お父さん役で特別出演という噂があったが、今回はついに実現を見るに至らなかった。小津監督と小杉の顔合わせ、小杉と佐野周二の顔合わせ、‐玄人筋さへ狂喜させたろうに!」(23頁)
池田忠雄「今までの作品」(36―37頁)
※「小津安二郎氏の帰還第一回作品「お茶漬の味」は、われわれの苦心にもかかわらず遂に日の目を見ることが出来ない始末となった。‥」その後、「戸田家の兄妹」について書いている。

『映畫之友』第一巻第十一號(1941年11月1日発行、映畫世界社、96頁)

表紙:「次郎物語」より轟夕起子
グラビア「父ありき 大船撮影所小津氏の部屋にて、小津氏を真中に左が出演者佐分利信、右が津田晴彦。」(3頁)
※三人の背に「戸田家の兄妹」のセットの中にあった屏風がある。小津監督自身の書からなる「鯛夢出鳴門圓也(タイム・イズノット・マネー」が見える。
「季節の展望」(17頁)
③三十歳の若さで戦病死した山中貞雄が、わが國の映画界に残した業績は決して少ないものではない短かった山中貞雄の生涯を忘却せぬよう、山中の精神を映画界に生かすようにと、山中賞がこの程設定された。これは九月十七日の命日に、京都雄大〔ママ〕寺に於ける山中忌のスナップで、井上金太郎、清水宏、小津安二郎、筈見恒夫の諸氏。
岸松雄「監督に秋の大作を訊く 父ありきを小津安二郎監督に訊く」(28‐30頁)
稲垣浩「雑記帳 山中忌」(46頁)

『中野映画劇場』(1941年11月6日発行、中野映画劇場、4頁)

「戸田家の兄妹 高峰三枝子、坪内美子」(1頁)
「次週上映 戸田家の兄妹 巨匠・小津安二郎作品」(2頁)
※「名監督の定評が一般観客にまで浸潤している小津安二郎の帰還第一作である。内容は富が人間性をそこなふテーマを上流家庭の家族を中心にして描いたものである。小津の倫理は観者の感性に深く滲みる訴求力を有している点、感銘価値豊富な作品である。単に都心の映画観客だけに鑑賞されるものではなく、ひろく、ふかく一般に通ずる感動をこの映画は孕んでいる。中略 由来小津安二郎の映画はその高き藝術価に比して、興行様態がさんたんたることを常とし、栗島すみ子・岡田時彦主演の「お嬢さん」を除けば一本のヒット作品もない非難を浴び続けて今日に至った。今回の小津作品が遂に作品価値と興行価とを立派に併有することを得たことには、さまざまな理由があるとしても所謂事業的な常識に則せず、よし興行に逃るるとも小津の厳粛なる匠魂を貫遂させ、今日の円満なる境地に到達させた城戸四郎のプロデューサー・ワークは製作界の範として讃賞す可きものである。小津作品に押し寄せる厖大な観衆をみて松竹大船撮影所長は感慨深きものがあったに違いない。」(映画旬報)

『映画旬報』第三十一號(1941年11月11日発行、映画出版社、58頁)

表紙:「女医の記録」田中絹代
「製作便り 松竹の「父ありき」(池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎原作脚本、小津安二郎監督)も十月末より、撮影を開始した。」(15頁)
「広告 父ありき」(30~31頁の間)
※画像のもの
「山中貞雄追悼週間 梅田小劇場でも開催」(55頁)

『映画』第一巻第十二號(1941年12月1日発行、映画宣伝総合會、102頁)

「国民映画特輯 父ありき」(12―13頁)
「随想 小津安二郎」(36―37頁)
※小津監督の直筆署名、

『映画旬報』第三十三號(1941年12月1日発行、映画出版社、66頁)

表紙:「父ありき」(笠智衆、津田晴彦)
「「父ありき」はじまる」(11頁)
「父ありき」(24頁)
※この映画は、名匠小津安二郎が「戸田家の兄妹」の次に放つ帰還第二回作品である。この脚本は、小津監督が応召出征前より考想三年に及び、帰還後大船脚本部の精鋭池田忠雄・柳井隆雄と協力して新しく改稿したものだが、彼小津の執拗な現実凝視とその卓抜の演出技術は、その素材を見事に藝術化することと思われる。

『新映画』第一巻第十二號(1941年12月1日発行、映画出版株式会社、106頁)

表紙:綿谷哲郎画
「グラビア 父ありき」(5頁)
※笠智衆、津田晴彦を演出する小津監督他。
「内外製作だより 本邦 松竹 小津安二郎は「父ありき」の信州ロケーションから開始した。一週間の予定で、金澤に至る。俳優は笠智衆と子どもたちである。」(96頁)
「新年號予告 「父ありき」演出ノート」(98頁)
※新年号では、小津監督から「父ありき」の演出ノートを拝借し、公開するとあるが、この企画は、新年号を見る限り、なくなったと思われる。

『中劇だより』第九十六號(1941年12月17日発行、名古屋 中京劇場、4頁)

「天下を湧かすぞ此一篇!!
 名匠・小津安二郎の父ありき
 一億火の玉!米英打倒!」(表紙)

1942
『新映画』第二巻第一號(1942年1月1日発行、映画出版社、106頁)

表紙:「蘇州の夜」李香蘭
「最新製作ニュース 松竹 小津安二郎監督は、お正月映画が一斉に撮影を開始したので、「父ありき」の撮影を、お正月映画が上がるまで一時中止した。」(2頁)
「昭和十六年度最も印象強き演技を残す 水戸光子 写真は「父ありき」における水戸光子」(5頁)
「グラフィックス 新作品紹介 父ありき」(9‐11頁)
※「父ありき 小諸ロケーション」(9頁)、「父ありき 梗概」(10頁)、「父ありき演出スナップ三様」(10‐11頁)
「昭和十六年度最優秀八作」(60頁)
※昭和十六年度最優秀作品「戸田家の兄妹」、最優秀監督「小津安二郎・戸田家の兄妹」、最優秀脚本「小津安二郎・池田忠雄・柳井隆雄:戸田家の兄妹」、最優秀撮影「厚田雄春・戸田家の兄妹」
「七十二本を誰が作るか?」(91頁)
※一部抜粋する。「七十二本とは劇映画の新しい製作機構でつくられる製作本数である。-一流大家と目さるる演出家をもっともたくさん擁する会社はなんといっても松竹系である。小津安二郎、清水宏、溝口健二、内田吐夢、田坂具隆、伊藤大輔の六人。所謂巨匠六人が年一本の仕事をすると六本はこの人達にあてがはれるだろう。」

『心斎橋松竹』(1942年1月15日発行、心斎橋松竹、4頁)

「近日上映の戸田家の兄妹 小津安二郎帰還第一回作品
「日本の美徳」-家族の問題を取り上げて革新日本一億に愬ふる秀麗情操の一篇です。銃火咆哮する大陸に戦ふこと数百日-小津安二郎の心懐に宿るものが、この一篇を通して諸君の前に拡げられるのです。御期待ください。」(1頁)

『新映画』第二巻第二號(1942年2月1日発行、映畫出版社、104頁)

表紙:「父ありき」佐野周二
裏表紙:一面広告「父ありき」
「年末から年始へ」(9頁)
※「②映画俳優のアトラクション出演もこのお正月が最後というので、各社とも強力なメンバーを編成して全国にその布陣を競ったこと今年ほど盛んなことはない。幾班にも分かれた大船の、大阪組はめづらしや小津安二郎が演出を担当した。佐野周二、高峰三枝子の二大スタアの一まくものである。」グラビア1枚
友田純一郎「想い出の名画」(30‐31頁)
※③「出来ごころ」、⑥「生まれては見たけれど」
「現代映画監督俳優名鑑 小津安二郎」(86頁)
※出生地が三重県と誤って記述されている。
「製作ニュース 松竹 小津安二郎監督は、「父ありき」を進行中。」(91頁)

『中劇だより』第拾七の六號(1942年2月11日発行、名古屋 中京劇場、4頁)

「本年度日本映画の運命を決す父ありき
 佐野周二・佐分利信・水戸光子・笠智衆・阪本武・津田晴彦の父ありき
 永遠の名画!「戸田家の兄妹」に次ぐ名匠・小津安二郎の父ありき
 戦争にゆく前から胸深く秘められていた父ありき
 戦場に於ても忘れ得なかった父ありき
 泣いても泣いても泣き切れぬ感動と憂愁の父ありき
 人間情愛の究極を貫く切々のちちありき」(表紙)

『雄大・明朗・健全 大松竹新春封切陣』(1942年3月、6頁)

1「蘇州の夜」(演出 野村浩将)
2「新たなる幸福」(演出 中村登)
3「風薫る庭」(演出 大庭秀雄)
4「父ありき」(演出 小津安二郎)
5「元禄忠臣蔵(後篇)」(演出 溝口健二)
※「新春の」とあることから、3月とした。

『新映画』第二巻第三號(1942年3月1日発行、映畫出版社、104頁)

表紙:「緑の大地」入江たか子・原節子
「昭和十六年度日本映画雑誌協会賞作品決る 劇映画では第一位が松竹小津安二郎氏の「戸田家の兄弟〔ママ〕」、第二位は東宝山本喜次郎氏の「馬」」両氏の写真。(4頁)
「第二回日本映画雑誌協会映画賞作品 第一位 戸田家の兄妹」(62―63頁)
「撮影所便り 松竹大船 小津安二郎監督は、「父ありき」の撮影を静かにすすめている。笠智衆、津田晴彦の幼年時代より、シーンは成長期にうつり、佐野周二、水戸光子でセット撮影に入った。」(98頁)
最終頁:父ありき一面広告

『映画之友』第二巻第三號(1942年3月1日発行、映画日本社、96頁)

表紙:「婦系図」山田五十鈴
「たのしく面白い映画を作れ 作家と語る 小津安二郎氏訪問」(22‐23頁)
「父ありき広告(半頁)」(24頁)
「出揃った春の映画陣 話題の新映画・場面特選集 父ありき」(62頁)
※小津監督の演出風景のスチル写真

『映画評論』第二巻第三號(1942年3月1日発行、映画日本社、118頁)

内田岐三雄「人物評傳 小津安二郎評傳」(50―53頁)
※巻頭グラビア4頁に、「父ありき」撮影中の小津監督の写真あり、また、76頁にも「父ありき」撮影中の小津安二郎の写真あり。
また、32頁には、「昭和16年度第二回日本映画雑誌協会映画賞作品・詮衡録」があり、日本劇映画第一位は『戸田家の兄妹』(本賞表彰状、賞牌・副賞金壹千圓也)である。45頁には、日本映画雑誌協会主催情報局後援国策映画脚本当選発表がなされている。応募総数251篇のうち、当選作は「雪」(黒澤明)。選者には、不破祐俊、松浦晋、伊奈信男、溝口健二、清水宏、島津保次郎、山本嘉次郎とともに小津安二郎がいる。
 内田論文の冒頭を引用する。「小津安二郎は、掘割と橋とが多い深川で生れた。時に明治三十六年十二月十二日。数え年で今年四十歳になる。ただし巷間、彼の生れを以てするに三重県となす者がある。これは彼が少年の日を伊勢にすごした事実から誤ってつたへたものであろう。正しくは、深川区亀住町となすべきである。」

『映画』第二巻第三號(1942年3月1日発行、映画宣伝総合會、102頁)

表紙:「緑の大地」池辺良・草鹿多美子
「ロケーションと監督さん 「父ありき」小諸ロケ」4スナップ(56―57頁)
水戸光子「随想 「父ありき」と私」(83―84頁)
「新映画紹介 父ありき」(99―100頁)

『新映画』第二巻第四號(1942年4月1日発行、映画出版社、104頁)

表紙:「父ありき」水戸光子
グラビア「父ありき 水戸光子と佐野周二」(2頁)
グラビア「父ありき 演出する小津監督、水戸光子」(3頁)
グラビア「父ありき 笠智衆と佐野周二、厚田雄春と笠智衆・佐野周二、佐野周二」(6‐7頁)
グラビア「新しい松竹の布陣 監督陣 小津安二郎」
杉浦幸雄「セット撮影をみる 父ありきの撮影風景」(68頁)
「撮影所通信 松竹 小津安二郎監督は、「父ありき」の撮影を続行中。物語はすでに青年期に入り、佐野周二、佐分利信、水戸光子が主演している。連日セット撮影を続けていたが、さる四日より、伊豆湯ヶ島のロケーションにはいった。ここはさきに、少年期の魚釣場面撮影のため、笠智衆、津田晴彦がロケーションをしたところで、今度は笠智衆、佐野周二で、青年期の場面を撮影する。ロケーションからセットへ、セットからロケーションへ、「父ありき」の撮影の終局は近い。」(70頁)

『映画』第二巻第四號(1942年4月1日発行、映画宣伝総合會、102頁)

表紙:「第五列の恐怖」より轟夕起子
「陽春の松竹映画 父ありき(スチル2葉)」(14頁)
緒佐修「小津安二郎点描」(84―85頁)
※「父ありき」より、(1)スパイと間違えられた小津監督、(2)セットに只一人切り張りする小津監督、(3)親心を以て演出する小津監督でこうせいされている。

『映画旬報』第四十三號 特集號(1942年4月1日発行、映画出版社、94頁)

表紙:「父ありき」水戸光子・佐野周二
「撮影所通信 製作状況 松竹大船 情報局・国民映画参加作品の殿りを承はる小津安二郎監督「父ありき」は三月下旬には完成することとなった。」(45頁)

『銀座映画劇場観覧券』「父ありき」(1942年4月1日発行、銀座映画劇場、1頁)

「松竹映画異色大作 巨匠小津安二郎作品 父ありき」

『道玄坂映画劇場』No.71(1942年4月16日発行、道玄坂映画劇場、4頁)

「父ありきの笠智衆、津田晴彦」(1頁)
「ここに作家が作ったえいががある、快い映画の世界がある 父ありき」(2-3頁)

『新映画』第二巻第五號(1942年5月1日発行、映畫出版社、104頁)

表紙:「間諜未だ死せず」木暮實千代
「田中絹代作品集 ⑦「非常線の女」(小津安二郎監督作品)」(25頁)
「映画の中の子供 津田晴彦」(26頁)
「情報局委嘱國民映画受賞作品決定 情報局賞 「父ありき」演出小津安二郎松竹」(33頁)
南部圭之助「新映画評 父ありき」(44―45頁)
「演技よもやま」語る人:斉藤達雄、河津清三郎、岸松雄(68―78頁)

『日本映画』第七巻第五號 特輯 映畫の題材について(1942年5月1日発行、大日本映画協會、184頁)

表紙:青山二郎
中村武羅夫「国民映画作品総評」(5-12頁)
笠井信太郎「シナリオ作家研究 野田高梧論」(23―27頁)
吉田謙吉「映画美術時評 「父ありき」大映発足の日の多摩川撮影所を訪ふ」(28‐32頁)
「国民映画座談会 板垣鷹穂、飯田心美、飯島正、大塚恭一、津村秀夫、山根銀二、碧川道夫」(38―62頁)
上野耕三「『父ありき』評に名をかりて」(70―74頁)
渋川驍「洗練された描写力」(75―78頁)
古志太郎「父ありき」(78―83頁)

『清水劇場週報』(1942年5月27日発行、清水劇場、4頁)

「愈々‥近日封切 映画界新発足の第一巨弾! 父ありき 名匠小津安二郎畢生の野心大作!}(表紙)

『日本映画』第七巻第六號(1942年6月1日発行、大日本映画協會、176頁)

「小津監督に物を聴く対談」(小津安二郎氏、上野耕三氏)(54―68頁)
※一部抜粋する。上野「『戸田家の兄妹』の主人公が最後の方で殴るところがありますね。私の聞いた範囲では大陸に一年やそこら行ったからとて、大陸風を吹かして殴るようないやなやつをそのまま出すということは、作家として怪しからぬじゃないかという意見が非常にあったのですね。そう言われて見ると、大陸風を吹かして殴る、成程、きざかな?という気も一寸したのですが、しかし、あれがあるので実は胸がすっとしたわけです。ああいう批評に対していろいろ考えて見た訳ですが、大陸風を吹かしてあそこで殴るというのではなしに、最初の場面で写真を撮るところからあの男があのまま殴ってもいいような人間として出されているじゃないか、そういうことを私は感じたわけです。それについて小津さんに何か語って貰うというのは、要求する方が無理かもしれませんが、ああいう風な一般の批評界の空気に対してどういう風にお考えておいでですか。」小津「やはり、大陸に一年言って来たから殴るというのでなしに、もともとあの男には、どこか一面に野性的なものを持たせたかったのです。これは僕の好みから云って、出て来る人間がどちらかと言えば、まあ欠点の少ない人間で、一見甚だ円満に見えて、努めてその円満なことを一つの処世術だと心得ているような、何と言いますか、昔小学校で級長をしていた、未だにまだその級長面の抜けない常識的な男を人間としてあまり好まないのです。」(54―55頁)
※現存する『戸田家の兄妹』のフィルムには、脚本にもある昌二郎が綾子の頬を打つシーンはカットされている。
他にも、小津「オーバーラップは嫌いですね。これはフェード・イン・アウトなどと較べて遥かに嫌いです。あの映画のオーバー・ラップはよかったという外国映画を見ても一向に感心しません。強いて言えば、無声時代のルービッチの『結婚哲学』の女同志の会話とか、チャップリンの『巴里の女性』での壁にかかった額などの使用法が最上のもので、僕も初期の『會社員生活』というのに一度使いましたが、使えば仲々便利で、まことにそれは簡単な方法ではあるけれど、どうも感心した技法ではないと思うのです。」(56―57頁)
伊丹万作「洛北通信」(74―78頁)
※「父ありき」の音声が聞き取りにくいことについて書いている部分がある。一部抜粋する。「私が、『父ありき』を観たのは、京都では一流の館であり、座席も一番上等の場所であったが、それでも聞き取れないせりふの方が多かった。声は絶えずわんわんと耳朶を打っているのであるが明瞭に意味の通じない場合が多いのである。そして一番判りにくいのが肝腎の父親のせりふであったため、私は非常に疲れてしまった。」「次に、口に合っていない部分が所々にあったことについては、これが日本で最も良心的な監督と言われる小津君の作品だけに私は非常に憂鬱なのである。」(77頁)
「父ありき」のフィルムの音の不明瞭さは現在でも際立っている(ゴスフェルモフォンド版はいささかましである)が、当時から、音声が聞き取りづらかったことが伊丹の指摘で分かるところである。伊丹は1900年1月2日生まれで、小津監督の学年で3年先輩である。
松浦晋「昭和十七年度春期 技能審査雑感」(102―105頁)
カット「左より佐分利、小杉、小津、一人置いて南部の各審査員」(103頁)
石川純「新聞映画欄側面月評 「父ありき」」(106―108頁)
樋口周一「観客の声」(109頁)※「最近見た数本の映画の中から、小津安二郎氏の力作「父ありき」を選出し、検討したいと思う。

『映画評論』第二巻第七號(1942年7月1日発行、映画日本社、118頁)

筈見恒夫「小津安二郎論」(26‐31頁)
「製作通信 東京 松竹大船映画 〇小津安二郎-次回作として、「未だ帰還せざるもの一機」が発表されているが、小津自身にはこれを制作する意思はないらしい。次回は、「ビルマ作戦」が本決まりとなるであろう。まだ、充分の資料もなし、具体的な進行はみていないが、小津監督は、出版物、新聞の切り抜き等で、大体の想をねっている程度である」(44頁)
※編集後記(118頁)に、以下の文章あり。「上海にある筈見恒夫氏から、『小津安二郎論』を寄せてきた。日本映画活躍の新天地上海に居を卜した筈見氏が、遠く故国日本の映画界に想いを馳せて、彼の畏友小津を論ずる。彼、東京にあった時と、今日上海における場合と、観点は自ら違うことだろう。ここにこの一文の意義があるといえよう。」

筈見恒夫『映画の傳統』(1942年7月15日発行、青山書院、377頁)

装填:小津安二郎
「小津安二郎断想」
「一、『戸田家の兄妹』」(「映画旬報」1941.2)(212―219頁)
「二、『父ありき』のシナリオ」(「映画旬報」1941.9)(219―226頁)
※218頁と219頁の間に、『戸田家の兄妹』のスチル写真あり。

『阿佐ヶ谷映画劇場・ニュース』(1942年7月23日発行、阿佐ヶ谷映画劇場、4頁)

「父ありきの佐野周二」(1頁)
「父ありき」(2-3頁)

『新映画』第二巻第八號(1942年8月1日発行、映画出版社、104頁)

表紙:「南の風」高峰三枝子
「製作ニュース 松竹大船 酷熱と悪疫に悩まされながら英蒋連合の大軍を撃滅、赫々たる武勲を樹てたビルマ作戦軍の偉勲を讃える小津安二郎監督の「ビルマ作戦」は小津監督自身脚本の執筆に当たっていたが、近く脚本も完成するのでいよいよ本格的準備に入ることになった。」(96―97頁)

『新映画』第二巻第十號(1942年10月1日発行、映画出版社、104頁)

表紙:高峰秀子
特集:海洋と映画
「小津安二郎放談 林勝俊」(16‐17頁)
※坊主頭の小津安二郎のカット
広告「演出佐々木康・構成小津安二郎 松竹映画魅力大作 美しい横顔」(28頁)
「製作ニュース(9月1日現在) 松竹大船 待機中であった小津安二郎監督の「ビルマ戦記」は、小津安二郎・斉藤良輔・秋山耕作の脚本も大体脱稿を見たので、十月中旬ごろ愈々現地出発と決定した。なお、脚本の決定稿は現地で組み立てる予定で、俳優も佐野周二が決定している。」(103頁)

『日活直営八丁堀日活館』(1942年10月1日、八丁堀日活館、4頁)

表紙「美しい横顔」
松竹映画大船作品 「シミぬき人生」より『美しい横顔』
原作 高田保
構成 小津安二郎
演出 佐々木康
下町に描く仄々(ほのぼの)と温かい愛情の交流!大船ならではの芸達者たちが、独自の腕をふるって泪と爆笑に盛り上げる心嬉しい裏町人生!
※今秋上映の「鳥居強右衛門」(内田吐夢監督)の封切日とした。

『澁谷松竹映畫劇場週報』(1942年10月1日発行、澁谷松竹映画劇場、4頁)

「次週公開 美しい横顔 新女性風俗を描いて微笑と哀愁に彩る群像
 巨匠小津安二郎の校正の許に佐々木康が心魂を打込んでの演出」」(表紙)
「高田保作”シミヌキ人生”改題 美しい横顔 次週八日公開 構成小津安二郎」(2-3頁)

『澁谷松竹映畫劇場週報』(1942年10月8日発行、澁谷松竹映画劇場、4頁)

「松竹映画 美しい横顔
 高田保原作「シミぬき人生」より
 構成 小津安二郎
 脚色 斎藤良輔
 同  長瀬喜伴
 演出 佐々木康
 配役 新田ユキ(暁美) 木暮實千代
    木内新兵衛    西村青兒
    息 邦夫     徳大寺伸
    娘 春江     春日英子
    長 どん     日守新一
 梗概 」2頁)

『映画旬報』第六十二號(1942年10月11日発行、映画出版社、54頁)

表紙:「英国崩るゝ日」紫羅蓮
「製作状況 東京 松竹大船撮影所 小津安二郎、斎藤良輔共同で執筆中の「ビルマ作戦」シナリオは未だ脱稿至らず、撮影班出発は十月末になる見込。正月映画は小津監督のビルマ行、野村監督の京都「京洛の舞」も年内に完成するかどうか未定にて結局、吉村公三郎か渋谷實の作品となる見込である。」(27-28頁)

『映画評論』第二巻第十一号(1942年11月1日発行、映画日本社、118頁)

「撮影所の動静」(70―73頁)
「松竹大船 小津安二郎は十月中にビルマ出発の予定であったが、依然、秋山耕作、齋藤良輔と慎重に脚本を推敲中で、どうやら十一月中には現地行きとなるだろう。彼の戦地より帰還第一回作品は、恐らく軍事映画だろうと云う我々の予想を見事裏切って、『戸田家の兄妹』、『父ありき』の一連の名作を発表した彼が、ここに始めて戦記映画を撮る。彼の戦線における体験が、彼の演出技法にプラスすれば、『ビルマ作戦』は蓋し軍事映画の圧巻となるであろう。」(71頁)

1943
『映画旬報』第六十九號、新年特別號(1943年1月1日発行、映画出版社、80頁)

表紙:「開戦の前夜」木暮實千代、上原謙
一面広告「ビルマ作戦 遙かなり父母の国(假題)
 日本映画界が生んだ最高の作家小津安二郎。彼は支那事変に欣然応召し、戦野に於いて壘を犯し砦に迫ったあの感動を、帰還して三年のこんにち「遙かなり父母の国」に爆発させるのである。新生ビルマ再建とビルマ作戦の激烈さを劇化し、至高雄大の構想、完璧無類の配役陣を得てここに壮観の大劇映画を完成せんとす。ロケ隊一行は勇躍現地ロケに向かい、早くも全映画界期待の的となっている。」
「撮影所通信 東京 松竹大船撮影所 小津安二郎演出の「ビルマ作戦・遙かなり父母の国」は、渡南の準備を進めていたが、佐野周二が一身上の都合により出演不能となったため、脚本の改定を行うとともに、代役の銓衝を急いでいる。」(50頁)

『新映画』第三巻第一號 新年特別號(1943年1月1日発行、映画出版株式会社、116頁)

表紙:「幽霊大いに怒る」高峰三枝子・澁谷實監督
小津安二郎「今年はこれも実行する 一年は短すぎる」(72―73頁)
※『ビルマ作戦、遥かなり父母の國』以降、何を撮るかについてのアイデアを披露している。「戸田家の兄妹」の続編などについても語っている。
早乙女武『僕の長期戦 笠智衆は語る』(78―79頁)
※「近く、ビルマにお立ちになるんですね。」「ええ、小津先生の『遥かなり父母の國』で出かけます。」「どんな役なのですか?」「足立軍曹というんです。」
「製作短信 松竹大船 小津安二郎監督の「ビルマ作戦遥かなり父母の國」(決定題名)のスタッフおよびキャストが決定された。」(115頁)

『新映画』第三巻第三號(1943年3月1日発行、映画出版社、62頁)

表紙:「若き日の歓び」原節子
芸談「眞木潤、笠智衆、渋谷實、岸松雄」(46―49頁)
「昭和十七年度第三回日本映画雑誌協会映画賞作品決定 第二位 父ありき」(53頁)

小津安二郎・池田忠雄『戸田家の兄妹他』(1943年3月10日発行、青山書院、415頁)

装填:小津安二郎
「父ありき」(3‐160頁)
「戸田家の兄妹」(163‐411頁)
池田忠雄「後記」(413‐14頁)
※初版はハードカバー版である。
昭和十八年三月五日印刷
昭和十八年三月十日発行(2000部)

伊丹万作『靜臥雑記』(1943年4月10日発行、国際情報社出版部、397頁)

「人間山中貞雄」(21―28頁)
「シナリオ時評(7)『父ありき』小津・池田・柳井」(293―298頁)

小津安二郎・池田忠雄『戸田家の兄妹他』三版(1943年7月20日発行、青山書院、415頁)

昭和十八年七月十五日 三版印刷
昭和十八年七月二十日 三版発行(2000部)

小津安二郎・池田忠雄『戸田家の兄妹他』四版(1943年9月5日発行、青山書院、415頁)

昭和十八年九月一日 四版印刷
昭和十八年九月五日 四版発行(3000部)

『映画旬報』第九十九號(1943年11月11日発行、映画出版社、38頁)

表紙:「生きている孫六」原保美、上原謙
「撮影所通信 東京(11月1日現在)松竹大船撮影所 小津安二郎監督は、次回作品の脚本執筆中。」(22頁)

1944
小津安二郎・池田忠雄『戸田家の兄妹他』五版(1944年1月30日発行、青山書院、415頁)

昭和十九年一月二十日 五版印刷
昭和十九年一月三十日 五版発行(3000部)

1946
『松竹』第一巻第三號(1946年8月1日発行、松竹事業部、34頁)

表紙:水戸光子(宍戸次郎撮影)
柳井隆雄「私の映画入門」(8‐9頁)
グラビア「遠く南の地に撮影下調べの爲にいた小津安二郎監督は、この度二年四か月ぶりで復員した。すっかり南方やけのした人懐こい顔の小津監督が才腕を吾々に見せてくれるのはいつだろう。恐らく今年の秋ごろには久しい間見られなかった小津作品が観られるに違いない。」「溝口さんと女性映画と言われる程溝口監督の撮った女性映画は数多い。撮影所の中庭に田中絹代と立った彼、いかなる作品を抱くや。」(この写真は、田中絹代を挟んで溝口監督と小津監督が並んでいる。)(31頁)

『近代映画』第二巻第八號通巻第七號(1946年8月1日発行、近代映画社、50頁)

表紙:原節子
「スタジオは大騒ぎ」(48―49頁)
※⑤「オッちゃん」こと小津安二郎監督が、南方から無事復員してきました。今は、千葉に引っ越して鋭気を養っています。我々がまた彼のリリシズムに酔わされる日も、あまり遠くはないでしょう。写真は大船撮影所でお歴々との記念撮影です。左から同じく復員の厚田雄春技師、日映の復員者新井勝之氏、佐々木啓祐監督、小津安二郎氏、佐々木康監督、木下恵介監督、脚本家柳井隆雄氏、野村浩将監督、脚本家津路嘉郎氏。(階段に座ったスナップで、皆スーツ姿である。)

『新映画』第三巻第八號(1946年8月1日発行、日本映画出版株式会社、34頁)

表紙:風見章子
有波米太「作家の系譜6 小津安二郎論」(26‐27頁)

『映画ファン』第六巻第四號(1946年9月1日発行、映画世界社、34頁)

表紙:原節子
「厳粛なる東京裁判を直視せよ。世界の視聴を集めて、日本が今裁かれている。映画界とて、この裁かれるものの枠内にある!」「小津安二郎、吉村公三郎、澁谷實帰還、田坂具隆病気快方に向ふ。持ち駒がそろそろそろって来た。この秋を待とう!」(1頁)
「ハガキ回答 齋藤達雄 一、あなたが初めて出演した恋愛映画の題名「落第はしたけれど」二、製作された年:昭和五年三月。三、演出者の名前:小津安二郎氏、四、あなたの相手役は?田中絹代氏。五、あなたは恋に成功したか 大学はカンニングの失敗で卒業できなかったが、恋人は獲得できた。反対に卒業した奴らは、就職難にあえいでいるといった話。六、その時の感想 今の年頃の娘さんが聞いたら、或いは噴き出すかもしれないが、その娘さんたちがまだおしめを引きずりながら、はいはいをやっていた自分、これでも私は真面目にラブシーンなどやったこともある。田中絹代氏、飯田蝶子氏等と。ただそれらの映画が恋愛映画とは言えないけれど、なぜならこれらの映画はほとんどがスラップステイクな喜劇の形式だったから。そういう意味で「落第はしたけれど」も、単なる恋愛映画じゃない。小津安二郎氏の細緻を極めた演出に、好ましいギャクの連発、ユーモアの流露、ペーソスの湧出、等々。特に私は下宿の二階への薄暗い階段での絹代さんとのラブシーンは、とても印象的で未だに私の頭から消えない。」(29頁)

『松竹』第一巻第五號(1946年11月1日発行、松竹事業部、34頁)

表紙:佐野周二
「噂 監督と住宅難 松竹大船では、小津安二郎、渋谷實、吉村公三郎と演出陣の三巨星が相続いて復員し、とみに活況を呈してきたが、この三人留守中に家族が疎開していた関係で、小津監督は千葉、渋谷監督が埼玉、吉村監督が茨城と、東京を股いだ大船とはおよそかけはなれた住居であるが、三人共早くも復員第一回作に取りかかり何かと忙しくなったが昨今の乗物地獄にはるばる遠方から通うのはとてもやり切れず「あんな苦労をして大船へ一寸皆の顔をみてくるようなもんじゃ」とスッカリ悲鳴をあげ、大船近くにせめて間借と探したが全然なく、仕方がないから三人共同演出で貸家貸室求むの広告映画でも作ろうかと相談中」(13頁)
「スタジオ往来 小津安二郎監督目下だ一回作品自身銓衡中である。」(28頁)
グラビア「撮影所のひととき 小津安二郎の南方やけの顔と健康的な佐野周二に、右が最近好演技を示す三井秀男」(34頁)

『光 LA CLARTE』第二巻第十一號(1946年11月1日発行、光文社、64頁)

表紙:憩へる農夫(ミレー)
小津安二郎「映畫一班」(53―55頁)
※冒頭を引用する。「この二月に外地から帰還して、もう半年になるが、東京へ出るには半日がかりの田舎ぐらしで、たつきの映画も、あまりというより殆どみていないから、最近の映画について知ることは、まことにうすい。けれども外地生活の間、百数本の劇映画をみているから、それを手懸りに今後の日本映画と、わたくしの製作について思いつくままに多少しるしてみたい。」(53頁)

伊丹万作『靜臥後記』(1946年12月25日発行、大雅堂、222頁)

「序」
※冒頭を引用する。「現在の健康状態から推すと、或は此の本は私の最後の随筆集と成るのではないかと思はれるが、もしもそれが私の思ひ過しであるなら私にとって是程幸福なことはない。」
「一咳一語」(11―56頁)
※「昭和十四年 七月十四日。金曜。曇後晴。小津君今日復員の由。」とある。

1947
『長屋紳士録』台本(1947年発行、松竹撮影所印刷部、58頁)

紐綴じ、発行年がないので、便宜的に封切年とした。

『長屋紳士録』シーン割・セット割(1947年、小津組、7頁)

「シーン割」(1-4頁)
「セット割」(4-7頁)
※ガリ版刷、発行年がないので、便宜的に、封切年とした。

『映畫春秋』第四號(1947年1月1日発行、映畫春秋社、86頁)

表紙:グロリア・グレーハム RKO社提供のフランク・キャプラ作品「素晴らしき人生」に出ている新進。
滋野辰彦「作家研究 小津安二郎抄論」(13‐17頁)
※一部抜粋する。「『父ありき』や『戸田家の兄妹』以後、小津安二郎の映画に接しないことすでに数年である。かへりみれば日本映画にもっともすぐれた作品が揃って作られたのは昭和十年十一年のところで、早くも十年の昔となった。十二年は華北に事変のはじまった年である。」「昭和十年十一年ごろ、日本映画が最もすぐれた作品をつくり出していた当時、第一流の演出家として目されていたのは、わたくしの考えによれば溝口健二、伊丹万作、内田吐夢、小津安二郎の四人であった。近年この四人が一様にそろって、ほとんど仕事らしい仕事をしなかったことは、いかなる理由によるかをわたくしは詳らかにしない。」

『近代映画』第三巻第二號通巻第十三號(1947年2月1日発行、近代映画社、50頁)

表紙:木暮實千代
「コンビ復活‥‥巨匠小津安二郎監督・池田忠雄氏と起上がる」(16―17頁)
※長屋紳士録・物語 池田忠雄、写真は茅ケ崎のT館で出来たよと小津氏正面、記している池田氏、右頁くつろぎの一服。
原節子「私の周囲のこと」(24―25頁)

『キネマ旬報』No.12憲法記念映画特集(1947年4月1日発行、キネマ旬報社、43頁)

表紙:シルヴィア・シドニイ
飯田心美「小津監督は語る」(14‐15頁)
※冒頭を引用する。飯田「小津さん。南方には大分ながいこといられたようですが、その間どんな風にすごしていられましたか」小津「マレイでは、軍の委嘱で記録映画を撮る準備中でしたが、仕事が始まらぬうちに情勢が悪化し、ひとまず中止のかたちとなり、やがて終戦となり、向うの収容所に入り、帰還するまで労務に従事してました。ゴム林の中で働く仕事を命じられ、そこに働いているあいだ暇をみては連句などをやっていました。撮影班の一行がその仲間なんです。故寺田寅彦博士もいわれていたが、連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがある。われわれには、とても勉強になりました。軍の希望していた記録映画というのは劇の交った派手なものらしかったがぼくには全然不向で作る気も起こりませんでした。」
「日本映画紹介 長屋紳士録」(20頁)
「撮影所通信(三月二十五日調査) 松竹大船 小津安二郎は「長屋紳士録」の東京ロケを終了、引きつづき為吉の家のセット撮影中。完成は四月中旬ごろの予定」(36頁)
「長屋紳士録」と小津(40頁)
※撮影スナップ二葉「青木富廣の頬を抓る小津監督、動物園にて」、「小津監督と飯田蝶子」

『映画ファン』第七巻第四號通巻第六十八號(1947年4月1日発行、映画世界社、34頁)

表紙:高峰三枝子
大黒東洋士「今月の話題の映画 長屋紳士録」(14‐15頁)
※五年の沈黙を破る巨匠小津の新作。裏長屋の生活ににじむ心暖まる映画!
挿絵カット:直木久蓉
「春の各社新作展望 長屋紳士録」(34頁)
※写真は、上野公園のロケーションでスナップした飯田蝶子と吉川満子のお二人である。

『映畫春秋』第六號(1947年4月15日発行、映畫春秋社、146頁)

表紙:イングリッド・バーグマン
グラビア「小津安二郎と黒澤明」(14頁)
グラビア「志賀直哉氏と小津安二郎氏)(16頁)
対談「映画と文学」志賀直哉・小津安二郎 飯島正、飯田心美、如月敏」(17-34頁)

『近代映画』第三巻第五號通巻第十四號 五月特大號(1947年5月1日発行、近代映画社、42頁)

表紙:井川邦子・幾野道子
「スムースなクランク・小津組好調」(30‐31頁)
※写真説明「カメラの傍でポジションを計る小津安二郎監督のプロフィル‐東京上野動物園ロケにて」、「同じく動物園ロケ中の一点景―ペリカンの玩具を挟んだ飯田蝶子と吉川満子の対照が自然の可笑し味を誘います。何れも御両人の春風駘蕩的歓談スナップ。緻密な装置を凝らした長屋のセット。演技中の河村黎吉と飯田蝶子が見えます。上から順に、喜八の坂本武、おたねの飯田蝶子、田代の笠智衆、きくの吉川満子。

『キネマ旬報』第十三号(1947年5月1日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:オリヴィア・デ・ハヴイランド
飯田心美「日本映画批評 長屋紳士録」(30頁)
※冒頭を紹介する。「この映画を見て第一に感じたものは、画面に漂う清潔な感触である。それは主として画面構図そのものから来たものであるが、物語の構成にうかがえる作者の無駄を排した素朴な話し方から来るものでもある。」
「撮影所通信(4月25日調査)松竹大船 小津安二郎は「長屋紳士録」を完成。」(36頁)
「フォト随筆 ある日の志賀先生」(39頁)
※一部抜粋する。「世田谷区新町の志賀直哉先生をお訪ねすると、里見弴氏と廣津和郎氏がみえられてい、私の持って行った映画雑誌のページを繰りながら、里見さんが-デコちゃんたあ一体何者だい。というと、志賀先生は笑いながら、-デコちゃんを知らないようじゃ、伊吾は映画を語る資格がないよ。(伊吾というのは里見さんの学習院時代の筆名である。)」

『新映画』第四巻第五號(1947年5月1日発行、日本映画出版株式會社、36頁)

表紙:田中絹代
「小津安二郎 遂に立つ 長屋紳士録」(14‐15頁)
池田忠雄「おっちゃんの事」(15頁)
※スチル「長屋紳士録」、ショット「カメラを覗く小津監督」あり。

『松竹映画宣傳資料 長屋紳士録』(1947年5月20日発行、松竹株式会社、1頁)

「長屋紳士録 小津安二郎帰還第一回監督作品
すたっふ、きゃすと、解説、小津安二郎作品目録、宣傳文案、放送原稿、梗概」

『東横ウィクリィ』No.7(1947年5月20日発行、白牡丹内ニツトク社、6頁)

「長屋紳士録 
 監督 小津安二郎
 脚本 池田忠雄・小津安二郎
 撮影 厚田雄春
 キャスト
 梗概
 新橋メトロ飛行館」(2頁)
 

『映画ファン』第七巻第六號通巻第七十號(1947年6月1日発行、映画世界社、34頁)

表紙:水戸光子
大黒東洋士「小津安二郎と『長屋紳士録』(表紙裏)
「みんな子供になって 賑やかな大船文化祭 J踊るのではなく、歩いている小津安二郎と井川邦子」(10―11頁)
※4月27日に、松竹大船恒例の文化祭が催された。当日は、よいお天気に恵まれて、早朝から大船駅は押すな押すなの人波で混乱を呈した。約二万人の群衆をむかえて、大船撮影所に臨時の出札口ができるという騒ぎであった。
「読者討論会・第二回 原節子論」(30―31頁)
「映画短評 「長屋紳士録」は小津安二郎久々の演出作品であり、脚本、演出、演技ともに一分のすきも無駄もない映画のお手本を見せてくれた。しかし、この映画は、数年前に小津監督が手がけてきた一連の市井物と変わるところがなく、その点で小津監督に新境地を期待した私には、なにか食いたりないものがあった。」(34頁)

『スクリーン・ステージ』第一號(1947年6月20日発行、スクリーン・ステージ新聞社、34頁)

表紙:イングリッド・バーグマン
小津安二郎「映画の文法」(18頁-19頁)
※二人の人物の視線をつなぐ線をカメラが横断する、切り返しのショットを何故使用するようになったのかについての小津監督自身の説明がなされている。

『キネマ旬報』第十五号(1947年7月1日発行、キネマ旬報社、34頁)

表紙:アイダ・ルピノ
「撮影所通信(6月7日調査)松竹大船 小津安二郎は次回作品準備中」(28頁)
登川直樹「厚田雄春」(34頁)
※冒頭を紹介する。「女房というものは、よほど偉くても、亭主が世間に頭があがらぬぐうたらだと、とかくそのかげにかくれて見忘られがちなものである。特に亭主が偉くても、女房の方もそれに匹敵する偉さを持ち合わせていないと、やはり顧みられることが多い。」「小津安二郎のよき女房訳が厚田雄春であることも見落とすことができない。」
「厚田家がキャメラのレンズを見ている」カット他。

『新映画』第四巻第六號(1947年7月1日発行、日本映画出版株式会社、34頁)

表紙:原節子
河上英一「映画批評」(30―31頁)
※小津監督の部分を紹介する。「小津安二郎帰還第一回演出作品『長屋紳士録』の焦点は、前作『父ありき』以来五年間前線にあって対インド向映画製作にあたっていたといくたびか報道された。その体験と時間がどれだけ小津イデオロギーを進展させたかにかかる。これを期待するのはぼくのまちがいだろうか。ともかく最大の不満は池忠に協力を求めた脚本と、相も変らぬ河村、坂本、笠、飯田、吉川を集めなければ、意図するものを発表できぬあまりにも消極的な態度である。例によって低いカメラの位置、片言隻句まで行き届いたダイアローグで、當今がさつな、そして軽薄極まる映画が横行する中では、まれにみる糞おちつきにおちついた作品ではあるが、昭和七年『生まれてはみたけれど』以来、十一年間の小市民的な小津作品のいずれにも、その作中人物に共感し得られたのに、この作品が観客席との間に深い溝を作っているのは、長屋の人々の人情の世界が全く実生活に裏付けされていないところに起因するのではあるまいか。なるほど繪面は焼跡のバラックに生きてはいるものの、昭和二十二年の時代感覚に故意に眼をつむった頗る観念的な人情噺以上のものではない。とりあげられる世界はいかにちっぽけで狭くとも、名匠は名匠らしくそこに内包された問題の解明を広く大きくありたく願うのはぼくひとりだけだろうか。」

『松竹』第二巻第八號(1947年11月1日発行、松竹事業部、34頁)

表紙:井川邦子
「スタジオニュース 小津安二郎監督 目下齋藤良輔と脚本執筆中」(22頁)

『キネマ旬報』No.760 第二十四号(1947年12月1日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:リンダ・ダアネル
「特集 俳優の本質について」(12―21頁)
小津安二郎「性格と表情」(17頁)
※一部抜粋する。「表情がのうまい、まずいはおれに言わせれば問題じゃないと思う。大事なのは性格だな。性格をつかむことだと思うんだ。性格をつかんだ上で、感情を出すんでなければダメだと思う。」

『映畫春秋』第二十號(1947年12月10日発行、映畫春秋社、64頁)

表紙:グリア・ガアスン
津村秀夫「小津と吉村の作品」(9-17頁)
※小津の作品とは、ここでは、「風の中の牝雞」。

『月は上りぬ(假題)』台本(1947年発行、松竹撮影所印刷部、88頁)

紐綴じ
このシナリオは、『長屋紳士録』に続く戦後第二回作品として書かれたが、映画化されなかった。1954年に田中絹代監督が、一部改定の上、映画化した。シナリオは、『映画春秋』第10号(1948年)に掲載された。これは、『映画春秋』に掲載されたものと同じ内容である。

1948
『風の中の牝雞』台本(1948年発行、松竹株式会社、76頁)

紐綴じ、発行年がないので、便宜的に封切年とした。

『近代映画』第四巻第二號通巻第二十六號(1948年2月1日発行、近代映画社、32頁)

表紙:轟夕起子
飯田心美「『月は上りぬ』に就て」(18‐19頁)
※小津安二郎監督新作の準備に入る。これはけんらんたる花札の配札を思わせるキャストを編成する豪華版!
小津さんの監督部屋は小津さんの映画がそうであるように部屋一杯の凝った調度品と趣味で飾られている。

『キネマ旬報』No.764 第二十八号(1948年2月15日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:アン・シェリダン
「キネマ旬報主催 1947年度ベストテン決定 第4位 長屋紳士録」(8頁)
「ベストテン集計表」(11頁)
※一位は「安生家の舞踏会」172点、二位は「戦争と平和」164点、三位は「今ひとたびの」150点、四位は「長屋紳士録」132点、五位は「女優」114点である。

『近代映画』第四巻第三號通巻第二十七號(1948年3月1日発行、近代映画社、32頁)

表紙:原節子
津村秀夫「小津安二郎との対談」(12―14頁)
※事故のために、横浜線のプラットフォームで復旧を待つ間に、小津監督と久しぶりに会い、その時に語った内容について書かれている。

『キネマ旬報』No.768 第三十二号(1948年4月15日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:カリン・ブース
「『手をつなぐ子等』をめぐって対談」小津安二郎・北川冬彦・飯田心美(16-17頁)
「撮影所(3月25日調査 松竹大船 小津安二郎は斎藤良輔と共同脚本の『風の中の牝雞』を田中絹代、三宅邦子、佐野周二、笠智衆、村田千栄子らの出演で製作準備中。

『映畫春秋』第14號(1948年5月1日発行、映畫春秋社、64頁)

表紙:ジイン・テイアニイ
「グラビア作家掌篇 小津安二郎」(1頁)
※「ますますたかくなるぶっか ますますうすくなるにんじょう ますますむずかしくなるえいが さてなんとしよう」
「シナリオ 風の中の牝雞」(37-63頁)

『キネマ旬報』No.770 第三十四号(1948年5月15日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:ジュディ・ガーランド
池田忠雄「シナリオと演出」(18頁)

『キネマ旬報』No.771第三十五号(1948年6月1日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:マアナ・デル
「日本映画紹介 風の中の牝雞」(32頁)

『キネマ旬報』No.772 第三十六号(1948年6月15日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:ジャネット・ブレヤア
「特集 藝術性と企業性」(12―23頁)
小津安二郎「幅のある藝術」(21頁)
※冒頭を紹介する。「映画の場合、藝術と企業というものを全然別個に考えることはできない。むしろ企業の中で藝術的なものをこしらえるということが成り立つのではないか。」
「撮影所(5月27日調査)松竹大船 小津安二郎は「風の中の牝雞」を都内ロケよりクランク開始」(42頁)

『アサヒグラフ』第五十巻第一號通巻一千二百四十四號(1948年7月7日発行、朝日新聞社、18頁)

「映画スター推薦 天下の美男子告知板」(14-15頁)
「高峰三枝子さん推薦 映画監督小津安二郎氏(46)」(15頁)
※一部抜粋する。「”父ありき””長屋紳士録”等一連の人情ものの作風で知られる氏は、終戦後シンガポールから引揚げ、目下第二作”風の中の牝鶏”を撮影中「僕が美男子になりましたか」と笑う五尺八寸十八貫余の大きな体が胸のあたりで大きく揺れる。」

『近代映画』第四巻第八號通巻第三十二號(1948年8月1日発行、近代映画社、32頁)

表紙:轟夕起子
『風の中の牝雞』(30‐31頁)
さきに「長屋紳士録」を発表した小津安二郎監督は、1948年度秋季作品として「月は上りぬ」を準備中であったが、この程、本年度春季作品として、齋藤良輔と共同脚本による「風の中の牝雞」を準備し、「夜の女たち」出演の田中絹代の帰京を待って5月26日本読み、顔合わせ、つづいて衣装合わせを終わり、6月10日南千住方面のロケーションより撮影を開始した。
スナップ「衣装調べ 田中絹代、小津監督、村田知英子」「着付けする田中絹代、三浦光子」
スチル「時子(田中絹代)」、「修一(佐野周二)と時子(田中絹代)」、「時子(田中絹代)と秀坊(中川秀人)」

『新映画』第5巻第8号(1948年8月1日発行、日本映画出版株式会社、34頁)

表紙:高峰秀子
「広告 風の中の牝鶏」(裏表紙)
「小津監督と田中絹代」(18頁)
※「小津監督のことば 田中さんとはスタジオでは時々顔を合わせているが、一緒に仕事をするのは随分久しぶりです。私の作品に出演するスターの顔ぶれはいつもあまり大差はない。しかし、今度の「風の中の牝鶏」では今までと変わった人たちの登場がある。田中さんもその一人だと言えるかもしれない。私はスタアというものを高く評価している。スタアとは立派な演技者のことである。‥」
※本読みをしている写真あり

『映画世界』第一巻第五号(1948年8月1日発行、映画世界社、34頁)

表紙:クロオデツト・コルベール(直木久蓉・画)
登川直樹「風の中の牝雞 小津安二郎作品の涙」(20‐21頁)
※グラビア「台本を持つ田中絹代とキャメラの横にいる小津監督」、「佐野周二と田中絹代」、「佐野周二」、「子供を看病する田中絹代」

『現代の藝術』1948年版(讀賣新聞社文化部編、1948年8月20日、304頁)

小津安二郎「映画的な」(243―244頁)
※「文藝作品の映画化」というテーマのもと、小津安二郎と田坂具隆がそれぞれ文章を寄せている。田坂は、「描寫の差」(244―245頁)。それ以外に、「映画経営の危機」(245―247頁)というタイトルで、讀賣の河上記者が書いている。
 小津監督の文章で最も本質的な指摘をしているセンテンスを次に抜き出してみよう。「このあたりでもう一度映畫の中に映畫を見よう。映畫的なあまりにも映畫的なものがあってもよさそうだ。」

『近代映画』第四巻第九號通巻第三十三號(1948年9月1日発行、近代映画社、32頁)

小津組と吉村組の野球試合(22‐23頁)
松竹大船撮影所で目下撮影中の「風の中の牝雞」の小津組と、「わが生涯のかがやける日」の吉村組の野球試合が去る7月8日に撮影所のグランドで行われた。小津チームの応援団長は田中絹代さん、吉村チームは李香蘭こと山口淑子さん。
スナップ写真①試合開始前、小津、吉村両監督の握手。②バットを手にニコニコ顔の吉村監督と山口、瀧澤修さん。③小津名(迷)?監督と田中さん。④小津チームの名二塁手佐野やん。⑤本社商品を手に右より小津、田中、山口、吉村さん達。

『映画グラフ』第9号(1948年9月1日発行、シネマグラフ社、32頁)

表紙:田中絹代
「田中絹代の表情 風の中の牝雞の時子」(2‐3頁)
※「ここに絹代さんがならんでいる。小津安二郎監督の”風の中の牝雞”の中の一カットだ。最初の第一駒をみると、カチンコが映っている。それに白墨で31と書かれているのは、シーン・ナンバーである。病室で、自分の子どもの看護に一夜を明かした彼女が、医者の診察を心配そうに見ているところ。わずか数秒の演技だが、ここでも、やつれた親よりももっと雄弁に、乱れ髪をかきあげる何気ないしぐさ片手が、立派な主役をつとめているではないか。」
「映画人は野球がお好き ここ松竹大船では併行撮影中の小津安二郎監督の”風の中の牝雞”と吉村公三郎監督の”わが生涯の輝ける日”の両スタッフが”親睦はまず野球から”というわけで、七月のある午後、双方監督、プロデウサア、撮影技師、録音技師、俳優総出演の珍野球試合を所内のグラウンドで行った。」(12‐13頁)
※グラビア7葉

『新映画』第五巻第九號(1948年9月1日発行、日本映画出版株式会社、34頁)

「新映画推薦作品 風の中の牝雞」(12頁)
「スナップセクション 19頁)
※「風の中の牝雞」の都内ロケですが、田中絹代が抱いている坊やは勿論借りものなので、付添のお母さんの方ばかり見ています。この坊やの父親に扮する佐野周二は炎天とレフの射熱で汗だくの形。カメラをのぞいているのは小津監督です。

『キネマ旬報』No.778 第四十二号(1948年9月15日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:ルネ・アシャースン
裏表紙:広告「風の中の牝雞 小津安二郎の野心成る 汚れた家並ガスタンクを望む街々
東京の下町は生活に喘ぐ人々の悲しい人生の裏町でもある‥
名匠が稀にみる豪華キャストを得てにじみ出る人間味のなかに描いた憂愁人生悲歌!」

『プログラム 各社封切映画のストーリイ集』(1948年9月20日発行、週刊プログラム社、4頁)

「風の中の牝雞」(梗概、スタッフ、キャスト)(3頁)

『松竹映画NEWS34 風の中の牝雞』(1948年9月20日発行、松竹、4頁)

「スタッフ、キャスト、製作意図、前記」(2頁)
「ものがたり、解説」(3頁)

野田高梧『シナリオ方法論 限定版』(1948年10月1日発行、シナリオ社、337頁)

装填:野田九浦
目次の前ページに野田高梧のポートレートと直筆サイン
序論(1-31頁)
概論(33―61頁)
基本(Ⅰ)(63-95頁)
基本(Ⅱ)(97-126頁)
構成(127-176頁)
局面(177-256頁)
映画的構成(257-278頁)
性格(279-334頁)
結語(335-337頁)

野田高梧『シナリオ方法論』(1948年10月1日発行、シナリオ社、334頁)

装填:渡邊三郎
序論(1-31頁)
概論(32―60頁)
基本(Ⅰ)(61-93頁)
基本(Ⅱ)(94-123頁)
構成(124-173頁)
局面(174-253頁)
映画的構成(254-275頁)
性格(276-334頁)

『近代映画』第四巻第十号通巻第三十四号(1948年10月1日発行、近代映画社、32頁)

表紙:原節子
岸松雄「映画のつくり方 その三 監督について」(4―5頁)
※一部抜粋する。「ところが、小津安二郎さんの監督ぶりなどを見学していると、監督とはかくの如きものであるかとその精進のきびしさを看おとして、その醍醐味をさえ想像できるのであります。「風の中の牝雞」の撮影中でした。佐野周二さんの肩をなめて、隣り座敷に子供が寝ています。小津さんはキャメラの位置を決め、照明に注文を出し、俳優の指の末にいたるまでこまかく指導しています。枕許にあるミシン、それに対応して椅子の位置を右に左にとズラしてみて、こんどは枕當のタオルの色が気に入らないといってとりかえさせる始末です。何から何まで自分の思うままなのです。画面を形成する一切のものが、一木一草はおろかなことです。セットの中の埃まで、小津安二郎というすぐれた芸術家の掌のうちにおさめられているわけであります。」

『日本映画』第三巻十月号(1948年10月1日発行、日本映画協会、32頁)

表紙:原節子
「秋の新作紹介 風の中の牝雞 松竹作品」(14頁)

『松竹』第三巻第十一號(1948年11月1日発行、松竹出版部、34頁)

表紙:原節子
「映画女優の師表 田中絹代 『風の中の牝雞』に次ぐ作品は」(20頁)
「スタジオニュース 大船 小津安二郎監督 齋藤良輔との共同脚本に成る『月は上りぬ』を製作の予定で準備中。」(27頁)

1949
『松竹』第四巻第一号 新年号(1949年1月1日発行、松竹事業部、34頁)

表紙:高峰三枝子
グラビア「田中絹代 昨年の彼女は、溝口健二監督の『夜の女たち』と、小津安二郎監督の『風の中の牝雞』の日本に出演した。『夜の女たち』では、身を許した男に裏切られて倫落の道を辿る夜の女に扮し、『風の中の牝雞』では、生活苦から過って貞操を売る人妻に扮して、それぞれ出色の出来栄えであった。だが、この日本の作品は、演技的な狙いに於いて、かなりの相違が感じられた。『夜の女たち』が、必要以上に感情の表現を大胆に求めていたのに対して、『風の中の牝雞』はむしろセーブする事に努めていた。だから、そこに描かれたものは、一方があくまでも動的であり、一方があくまでも静的であった。それは、溝口監督と小津監督の肌合いの相違にも依るだろう。」(1頁)
「製作だより 大船 小津安二郎監督 「月は上りぬ」を中止して、次回作品銓衡中。」(33頁)

『映画季刊』第2集(1949年2月28日発行、季節社、116頁)

森野眞一「小津安二郎論」(48―58頁)
※冒頭を引用する。「小津安二郎は日本映画のなかで大きな位置を占めている。巨匠という冠詞は会社の宣伝文につけられるというだけではなく、批評家と呼ばれるほどの人たちからもそのような感じで眺められ、そのことがひいては一般大衆のなかにそのようなものとして受けとられている。そこに彼の占める位置の大きさ、なみなみならぬ点がある。」

『キネマ旬報』No.791 第五十五号(1949年4月1日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:Peggy Knudsen
「名作におけるスタアたち 戸田家の兄妹 高峰三枝子」(1頁)
「名作におけるスタアたち 父ありき 佐野周二・水戸光子」(4頁)
「名作におけるスタアたち 戸田家の兄妹 佐分利信、桑野通子」(8頁)
小津安二郎「スターシステム濫用」(14‐15頁)

『婦人倶楽部』第三十巻第五号(1949年5月1日発行、大日本雄弁会講談社、100頁)

「栗島すみ子さんを囲んで女優会議座談会」(出席者 栗島すみ子、城戸四郎、小津安二郎、吉川満子、井川邦子、朝霧鏡子、折原啓子、鈴木美智子)(22―31頁)
※司会は小津安二郎。見出しを抜き出すと、「昔の映画と今の映画」、「あの頃の女優(スター)さん」、「銀幕の女王」、「勉強時代、修業時代」、「ファン気質」、「映画と女性」。

『キネマ旬報』No.795 第五十九号(1949年6月1日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:パトリシア・ロック
「グラフィック 日本映画監督協会発足す」(6―7頁)

『キネマ旬報』No.797 第六十一号(1949年7月1日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:リタ・ヘイウォース
原節子「私の好きなメロドラマ」(17頁)
※一部抜粋する。「どういうのが本当のメロドラマかよく存じませんが、新派めいたものでない、しっかりとした内容のあるものならメロドラマ結構です。私の出演した作品では、やはり『わが青春に悔いなし』『安生家の舞踏会』『お嬢さん乾杯』など自分自身でも好きな作品です。『幸福の限界』は皆さんから適役だと言って頂きましたが、あの役の性根が私には納得のゆかない点がありますので、私としては好きではありません。そういう意味で今度の『晩春』の役も私には一寸割り切れないものがあって演り難い役です。」

『映畫春秋』第四巻第六号(1949年7月10日発行、映畫春秋社、88頁)

表紙:ダイアナ・リン
登川直樹「映画監督協会の出発」(42―47頁)
協会マーク「日本映画監督協会の新しいマークは、数字の8の字を横にした中にNSDAの四字が配してある。8の字は第八藝術といわれる映画の意味で、それが横になっていて数学の無限大記号に似ているのは限りない発展を象徴するのだろう。NSDAがいうまでもなく、日本映画監督協会 Nippon Screen Director’s Associationの略称である。この新しいマークは小津安二郎氏の考案になるものである。」
脚本「晩春(野田高梧・小津安二郎)」(57-87頁)

『映画グラフ』第18号(1949年8月1日発行、シネマグラフ社、48頁)

表紙:高峰秀子
「あのころの私 このごろの私 高杉早苗さんアルバム」(16―17頁)
※「大学よいとこ」のセットで小津監督と並んで座って撮ったショット
「作品紹介 晩春」(20―21頁)
※スチル「原節子と笠智衆」、「原節子と三宅邦子」、右から二本柳寛、笠智衆、小津監督、原節子が並んだショットあり
金原文雄「原節子の歩いた道」(33―35頁)

『映画世界』第2巻第8号通巻第17号(1949年8月1日発行、映画世界社、50頁)

表紙:オリヴイア・デ・ハヴイランド
南部圭之助「「晩春」について 小津安二郎氏への私信」(10-11頁)
※小津安二郎さまで始まる5つの文章からなる。
「煙草をくわえ、笠智衆と原節子に演技指導をする小津監督」「床の間に腰を掛けるピケ帽姿の小津監督」の二カット他、「晩春」の5カットのスチルが掲載されている。

『キネマ旬報』No.800 第六十四号(1949年8月15日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:Jane Wyman
「晩春・読後感」(4―5頁)
※スチル「笠智衆と原節子の演技指導する小津監督」その他
「作家の手紙 小津安二郎様 植草圭之助、お返事 小津安二郎」(17頁)
広告「晩春」(裏表紙裏、三分の一)

『松竹』第四巻第九号(1949年9月1日発行、松竹事業部、54頁)

表紙:原節子
「「晩春」と原節子」2頁
 ※冒頭を引用する。日本映画界最高の麗人と謳われる原節子が、はじめて松竹のスクリーンに登場したのは、一昨年夏の吉村公三郎監督作品「安城家の舞踏会」によってであった。崩れ行く名門貴族の令嬢を演じて、気高くも美しい原節子の魅力は、あまねく万天下の絶賛を博し、続いて彼女は、同じ吉村監督の「誘惑」、大庭秀雄監督の「颱風圏の女」、木下恵介監督の「お嬢さん乾杯」と、三本の大船作品に出演した。
 その頃、名匠小津安二郎監督と原節子の顔合せが、一部に取り沙汰される様になり、映画界宿年の懸案は、ここに実現の可能性を見出したのである。
「新作紹介 晩春」14頁
脚本‥野田高梧、小津安二郎
監督‥小津安二郎
製作‥山本武
撮影‥厚田雄春
スチル「原節子の曾宮純子と宇佐美淳の服部昌一」、「清水一郎の多喜川の亭主、月丘夢路の北川アヤ、笠智衆の曾宮周吉」
笠智衆「虚心の辯 「晩春」に出演して」44頁
原節子「バラの棘 「晩春」に出演して」45頁

『新映画』第六巻第九号(1949年9月1日発行、日本映画出版株式会社、44頁)

表紙:水戸光子
「グラビア 原節子 久々に大船で”晩春”に出演して病後の元気な姿を見せた素敵な人」(5頁)
「晩春 解説・物語」(18頁)

『映画スタア』第一巻第七号(1949年9月1日発行、ロマンス社、70頁)

表紙:原節子
「清楚 原節子」(12―13頁)
※「晩春」出演の原節子
「近代的な人 月丘夢路」(24頁)
※「晩春」出演の月丘夢路
石川欣一「『晩春』雑感」(54―55頁)

『映画読物』新秋特集號(1949年9月1日発行、日本文化集団、26頁)

表紙:轟夕起子
原節子「ファンの皆様へ 私のこの頃」(18‐19頁)
小津安二郎「原節子君」(19頁)
※冒頭を引用する。「僕はこんどの作品”晩春”で原節子君に曾宮紀子の役で出演してもらった。原君と僕との仕事でのおつき合いは、こんどが初めてであるが、僕はずっと以前から、いつか一度は原君と組んで見たいという希望がいまや達せられて喜んでいる。先日木下恵介監督の”お嬢さん乾杯”を見て、原君はやっぱりいいパアソナリティを持った得難い女優だと思った。原君を一言にして批評してみると、第一に素晴らしく”感”のいい人だということであり”素直”であることだ。このことはお世辞ではなく僕ははっきり言い切れる。”晩春”のシナリオも勿論紀子の役は、最初から原君を予定して書いた。」
裏表紙:広告「晩春 名匠小津安二郎監督の待望篇」

『松竹映画ウイークリー』No.106 「悲恋模様」特輯号(1949年9月発行、新世界出版社、4頁)

「封切迫る 晩春 への期待!」(3頁)

『SHOCHIKUZA NEWS』No.6(1949年9月発行、大阪道頓堀松竹座、4頁)

「秋映画シーズンに燦然と輝く本年度ベスト・ワン候補名匠小津安二郎の香高き芸術作品!」(19日封切)(4頁)

『松竹映画ウイークリー』No.106 (1949年9月発行、新世界出版社、4頁)

「晩春 スタッフ、キャスト、物語」(2頁)

『AMUSEMENT CENTRE UMEDA WEEKLY No.12』(1949年9月10日発行、梅田劇場内東宝直営梅田アミューズメントセンタア、16頁)

「晩春 解説・物語」(7頁)
原節子「バラの刺」(8-9頁)
笠智衆「虚心の辯」(9頁)
「笠智衆、原節子、小津安二郎を描く」(13-
川路港「名優・笠智衆」(13-14頁)
杉村春子「原節子さんのこと」(14-15頁)
新洞壽郎「小津さんの印象」(15頁)

『松竹ピクチュアNo.3』「晩春」(1949年9月19日発行、オリエンタル映画社、6頁)

「晩春 製作意図、スタッフ、解説、梗概」(2-3頁)

『SHOCHIKUZA NEWS』No.11(1949年9月19日発行、京都松竹座宣傳部、4頁)

「今週の映画 晩春 19日→26日 スタッフ、キャスト、ものがたり」(2-3頁)
※「晩春」の上映期間は1週間である。

『映畫春秋』第29号(1949年10月10日発行、映畫春秋社、91頁)

表紙:ジュウン・アリスン
グラビア「作家近影」(伊藤大輔、吉村公三郎、小津安二郎、谷口千吉)(1-4頁)
「小津安二郎」(3頁)

『キネマ旬報』No.804 第六十八号(1949年10月15日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:Anna bella
「特集映画批評 晩春」(24―25)
清水千代太「世界無比の小津芸術」(24頁)
※冒頭を紹介する。「やはり小津安二郎の技術はさえている。淡々たる描写で、しかもいん影こく、年を経た艶いよいよ光を増した。まことに立派な芸である。監督のわざおぎも、ここまで到達すれば、もはや言うところなし。」
北川冬彦「小津独特のテンポ」(24―25頁)
※冒頭を紹介する。「たしか小津安二郎の『一人息子』に対してだったと思う。死んだ大森義太郎が、こんなテンポののろい映画は映画的なものじゃないといった意味の批評をしたことがある。大森義太郎のこの批評に対して、私は、テンポがのろいからといって映画的でないとはいえない。小津安二郎のこのテンポののろさは日本的な性格からくるもので、それは、腹芸に属するものだといった意味のことを書いた記憶がある。」
水町青磁「清々しい生活」(25頁)
※冒頭を紹介する。「この作品のシナリオを読ませてもらった時、素直に言うと『弱いな』と思った。その意味は現代の実態不明のギラギラした、うわついた我々の生活の周囲にくらべて、いかにも遠い過去の日本の生活の一面であるかの様に思えたからである。」
「撮影所 松竹大船 小津安二郎は『月は昇り(ママ)ぬ』を準備中。詳細は未発表。」(42頁)

『映画評論』第六巻第十一號(1949年11月1日発行、日本映画出版株式会社、50頁)

滋野辰彦「作品批評 晩春(松竹映画)」(20―22頁)
北川冬彦「小津安二郎論」(26‐28頁)
「小津安二郎作品目録」(28頁)

『映画春秋』第30号(1949年12月10日発行、映画春秋社、115頁)

津村秀夫「黄昏藝術について 小津安二郎の『晩春』」(16‐20頁)
※同誌には、岸松雄「清水宏の実写劇映画 -『小原庄助さん』を中心に-」(6‐15頁)があるが、そのなかで、清水宏が「小原庄助さん」をやろうと思い立ったのは、親友の小津安二郎が外地から帰って来て、もう一人仲良しの井上金太郎を加えての水入らずの鼎談にうちくつろいだ、その夜からだった。そして、小原庄助さん役を誰とするとなり、「そりゃ大河内さ。」と言ったのは、小津安二郎だったというエピソードを紹介している。
表紙は、ジンジャー・ロジャース(1911―1995)

『晩春』縮刷シナリオ(1949年発行、24頁)

ホチキス止め、三段組。発行日がないので、封切年とした。

1950
『キネマ旬報』No.809 第七十三号(1950年1月1日発行、キネマ旬報社、66頁)

表紙:Greer Garson
「日本映画監督名鑑 1950年版」(1―8頁)
※五十音順に、79名の映画監督のプロフィールが掲載されている。小津監督は、以下の通りである。「明治36年12月12日、東京に生る。宇治山田中学卒業後、大正十二年松竹蒲田に入社、昭和二年監督に昇進、現在にいたる。第一回作品は昭和二年の「懺悔の刃」で、「東京の合唱」、「生まれてはみたけれど」、「東京の女」、「出来ごころ」、「浮草物語」、「東京の宿」、「大学よいとこ」、「一人息子」、「戸田家の兄妹」、「父ありき」、「長屋紳士録」、「風の中阿野牝鶏」、「晩春」その他の作品がある。ペンネーム、ジェームス・槙。」(2頁)

『スターアルバム』1950年版内外映画スター名鑑(1950年1月1日発行、アメリカ映画文化協会出版部、36頁)

「1949年想い出の映画 『晩春』の原節子と笠智衆」(16頁)

『スクリーン・ステージ』第192號(1950年1月10日発行、スクリーン・ステージ新聞社、8頁)

「映画アカデミイ賞!小津安二郎の”晩春”に!」(1頁)

日本映画人同盟編『百万人の映画知識』(1950年1月10日発行、解放社、228頁)

表紙裏:映画人サイン(印刷)小津安二郎もあり
「内外映画傑作場面集 松竹作品『晩春』」(1頁)
小津安二郎「場面の構成と演技指導」(8‐9頁)
※「この本は、日本の映画を、もっとずっとよいものにしようとして、皆さんに呼びかけた本です。この本は、映画をよくするために、皆さんに映画界の事情を、何から何まで、表も裏もありのままに知っていただくために作られた本です。‥‥」とある。
 小津論文の冒頭を引用してみよう。「場面の一つをとって、絵画的に美しいということは、動きのある映画では、美しいということにはならない。絵はがきの羅列ではないからである。問題は、場面の接続のしかたで、私は、それ故に、アップとロングのつぎ目が目立たないように苦心している。そして、私の好みは、キャメラを縦深に移動する事で、横にはあまり移動しない。横に長い手法をみると、並び大名舐めているような感じをうける。その好みのために、私は、セットも、奥ゆきのある、幅の狭いのを作って貰っている。そこに独特な悩みも出てくるわけで、背景の描きかたも変わってくる。」
 

『新映画』第七巻第二号(1950年2月1日発行、日本映画出版、80頁)

「田中絹代渡米の余波 映画界批評」(25頁)
※一部抜粋する。「彼女が渡米して間もなく、こんな話が出た。「田中絹代の渡米に際して新東宝では五十万円を餞別に贈ったのに、永年つくした松竹からは僅かしかくれなかった。田中は心の中に松竹の薄情さをうらんで旅立った。」と言うのである。それに端を発してか、田中絹代本人のいない田中問題は、益々紛糾して行ったのである。新東宝が餞別に贈った五十万円は、それが新東宝作品になるであろう「宗方姉妹」の出演内諾金になるのではあるまいかと。これを機会に田中は松竹を離れるのではあるまいか。」

『キネマ旬報』No.813 第七十七号(1950年3月1日発行、キネマ旬報社、62頁)

表紙:Esther Williams
「小津安二郎作品集 監督アルバムその1」(20―21頁)
※「美人哀愁」、「出来ごころ」、「大学よいとこ」、「生まれては見たけれど」、「東京の宿」、「一人息子」、「風の中の牝鶏」、「戸田家の兄妹」、「晩春」、「父ありき」、「長屋紳士録」のスチルあり。
小津安二郎「処女作前夜 ライス・カレー」(20頁)
※冒頭を紹介する。「この頃の若い人たちが演出家として一本になるのは、なかなか困難だが、私は誠に恵まれていて、ライス・カレーのおかげで監督になった。蒲田に撮影所があった頃、私は大久保忠素氏の助手であった。監督は大変いばっていたが、助手となると下働き同様で、何から何までやらねばならなかったから煙草を吸う暇さえない位の重労働で、いつも腹をへらしていた。楽しみといえば食べることしかなかった。」
「小津作品抄史」(21頁)
杉山平一「日本映画監督論・1 小津安二郎論」(28―29頁)
※冒頭を紹介する。「小津安二郎の映画画面は、縦のストウリを物語ることができない。凝視し分析し、それをつみかさねて行くことによって意味が沁みだし、横に広がり画面独自の世界を物語る。それが市シナリオの縦のストウリと、ぶつかり、くるしんでいる。」(28頁)
小津安二郎監督作品目録(28頁)

『キネマ旬報』No.815 第七十九号 (1950年4月1日発行、キネマ旬報社、102頁)

表紙:Moureen O`Hara
「春宵放談 -映画藝術の特性をめぐって-」小津安二郎、野田高梧、北川冬彦、水町青磁、飯田心美(38―43頁)
※一部抜粋する。北川「小津さんがねばっている。その間、いろいろ外の人が実験していた。それを静かに見ていたということでいい結果もなかったですか。」小津「やはりほかがトーキーを撮っている間僕はひそかにトーキーを勉強していたが、やはりトーキーを撮らないとわからないですね。だから「一人息子」というのは大変サイレント的だと思う。科白もわかったと思う。」

大佛次郎『宗方姉妹』(1950年4月10日発行、朝日新聞社、478頁)

装填:恩地孝四郎
口絵:生澤 朗

『映画ファン』第10巻第6号通巻第106号(1950年6月1日発行、映画世界社、102頁)

表紙:原節子
「期待される『宗方姉妹』特集(6―11頁)
「原作者 大佛次郎氏に訊く」(6頁)
小津安二郎「節子と満里子」(7頁)
大黒東洋士「小津安二郎への期待」(7頁)
田中絹代「節子の言葉」(8頁)
上原謙「青白きインテリの言葉」(8―9頁)
高峰秀子「『宗方姉妹』の本読みの日」(9―10頁)
「物語」(11頁)

『高田保対談集 二つの椅子』(1950年6月20日発行、朝日新聞社、358頁)

装填・挿画:清水崑
「17 小津安二郎・野田高梧」(317―334頁)
※一部抜粋する。野田「君は近ごろの撮影所なんて、あまり覗かんだろう。時折りはやって来給えよ。面白いんだ。小津組の撮影の時なんか見ていると、「もうチョイ鎌倉」とか「もうチョイ東京」というふうなことを言ってるんだ。何のことか分かるかい。」高田「「いざ鎌倉」なら分かるけれども、「いざ東京」なんて判らん。(笑)。野田「撮影所のあるのが東海道の大船だろう?だから「チョイ鎌倉」は鎌倉の方角へちょいと寄せろという意味なんだ。つまり方角だよ。壁に囲まれた撮影所の中では、東だの西だの言っても通用しない。」小津「右とか左とかいってもね。こっちからいう右なのか、向うからいう左なのか、こんがらがるんでね。」、
 小津「ぼくが松竹へ入ったのは震災ちょっと間でだったが、あの当時三十を越してた人は野村芳亭さんだけで、ほかにはいませんでしたね。ぼくは二十歳であそこへ入って、それから兵隊に行ったんだ。うちじゃ、どうしても学校へいって勉強しろといって許さなかったんだが、学校へ入るだけの金を使わせてくれるなら、活動屋にして使わせろといって頑張ってね。やっぱり頑張らなければ通れない道でしたよ。その頃うちのおばあさんが映画館へいって、島津さんの作品を見たんですね。それでね。「うちの安二郎は活動屋になったが、やっぱり活動屋なんて恥かしいとみえて小津安二郎という名前を島津保次郎と変えてたよ」といったそうです。(笑)高田「で、おばあさんはその後に島津保と小津安の区別を知ったの?」小津「いや、知らずに死んでしまった。」
 高田「そこですよ。何の雑誌だったかで君の肖像写真を見たら、君は茶室の炉端でキチンと座り込んで、陶器か何か、とにかく骨董をいじくってるんだ。それを見てぼくは、こういう骨董の美というような味の不かいものを映画に持ち込もうとしたら、ずいぶん困るんじゃないかナと考えた。」小津「だから私は日本人の生活を撮りながら、床の間というものを出したことがないんですよ。床の間を画面に入れないんです。」

『宗方姉妹』暑中見舞い葉書(1950年7月発行、新東宝)

「製作、原作、脚色監督、撮影、俳優」

『映画ファン』第十巻第七号通巻第百七号(1950年7月1日発行、映画世界社、102頁)

表紙:木暮實千代
グラビア「薬師寺五重塔前で田中絹代と高峰秀子、『宗方姉妹』ロケ」(2頁)
双葉十三郎「監督のいる風景 『宗方姉妹』の小津安二郎」(23頁)
「懐かしの顔ぶれ 『宗方姉妹』に出揃う」(24―25頁)
※グラビア「京都御所で右から小原キャメラマン、小津監督、田中絹代、高峰秀子、上原謙が並んで歩くショット」、「『宗方姉妹』演出風景」他
「毎日新聞主催日本映画コンクール授賞式 日本映画賞「晩春」、脚本賞「野田高梧」、監督賞「小津安二郎」、女優賞「原節子」(74―75頁)
※1950年で4回目、さる4月20日に、1949年度コンクール授賞式が有楽町毎日会館内のセントポール・クラブで開催された。

『山のかなたに 特別無料試写会』(1950年7月26日発行、新東宝、4頁)

「完成近し 新東宝大作、小津安二郎監督作品、宗方姉妹」(4頁)

『映画評論』第7巻第7號(1950年8月1日発行、日本映画出版株式会社、102頁)

特集演出研究
表紙裏「宗方姉妹」全面広告
グラビア「宗方姉妹・顔合わせ」「宗方姉妹・ロケーション」「宗方姉妹・セット」(1―3頁)
荻昌弘「小津演出を見るの記-『宗方姉妹』より-」(8‐17頁)
「セット平面図」(10頁)
※本誌には、「今井正 演出談義 聞く人 清水晶」(18‐27頁)があり、23~24頁において、今井正の小津評が掲載されている。

『レポート』第5巻第8号(1950年8月1日発行、時事通信社、62頁)

表紙「日本映画界の宗匠 小津安二郎」
「小津安二郎と『宗方姉妹』」(50―52頁)
松竹をとび出した「巨匠」小津安二郎監督。田中絹代帰国第一回主演。その「宗方姉妹」の周囲には、さまざまな問題が渦巻いている。日本映画界の縮図がここにある。

『映画新報』創刊第一號(1950年8月1日発行、映画新報社、46頁)

「新作映画紹介(グラビア)宗方姉妹」(6頁)
※「宗方姉妹」スチル2葉、「演出する小津監督・上原謙他」
※冒頭を紹介する。「小津と黒澤の近作 大佛文学と芥川文学の映画化 『宗方姉妹』は、『長屋紳士録』、『風の中の牝鶏』、『晩春』につぐ小津安二郎の千五第四回作品である。『晩春』で廣津和郎の『父と娘』に手を付けた小津は今度は大佛次郎の新聞小説を映画化しようというのである。」
北川冬彦「『宗方姉妹』の演出と小津安二郎」(20―21頁)
※一部抜粋する。「私は昭和十年に、小津安二郎が『母を戀はずや』を松竹蒲田撮影所で撮っているところを見せてもらったことがある。今度十五年ぶりに『宗方姉妹』の演出を見た訳だが、『宗方姉妹』の演出ぶりは十五年前と殆ど変わっていないと思った。いや殆どどころか全く同じであると思った。」
北川冬彦「追悼 水町青磁 惹かれる別れ」(24頁)
※一部抜粋する。「彼が奇禍に遭った前日、茅ケ崎の小津・野田両氏が仕事をしていた旅館で、両氏を囲んで、彼、飯田心美、僕とで座談会があった。終わってから、折から来合わせた田中絹代、『宗方姉妹』のプロデューサー肥後博、兒井英男、荒田正男、斎藤良輔なぞ一座になって酒宴が始まり小津氏自慢のスキヤキ料理の馳走になった。」
「一面広告 宗方姉妹」(裏表紙裏)

『新東宝映画宣傳資料 宗方姉妹』(1950年8月8日発行、新東宝、4頁)

「イラスト・文字カット」(1頁)
「宣傳文案、スター順位」(2頁)
「宣傳ポイント、場内放送原稿、街頭宣伝放送原稿、上映時間表」(3頁)
「原作より 節子から宏への手紙、シナリオより」(4頁)

『新東宝 宗方姉妹』(1950年8月8日発行、新東宝株式会社)

解説、物語、製作、配役
小津安二郎「私の”宗方姉妹”を」
野田高梧「「宗方姉妹」雑感」
田中絹代「節子の言葉」
高峰秀子「本読みの日」
上原謙「青白きインテリの言葉」
兒井英生「プロデューサーとして」
肥後博「良心的な仕事」

『新東宝STUDIO NEWS』「宗方姉妹」(1950年8月8日発行、新東宝宣傳課、1頁)

「皆様の新東宝映画!皆様の撮影所の最も新しい製作ニュース!! 宗方姉妹 スタッフ、キャスト、物語」
発行日がないので、封切日とした。

『新東宝STUDIO NEWS』「宗方姉妹」(1950年8月8日発行、新東宝宣傳課、1頁)

「名匠小津安二郎監督と新帰朝の田中絹代を迎え、新東宝が全能力を挙げて製作する世紀の豪華超大作! 宗方姉妹 クランク快調!」
発行日がないので、封切日とした。

『新東宝号外 宗方姉妹』(1950年8月8日発行、新東宝配給中部支社、4頁)

「宗方家にしのびよる静かな悲劇の調べ 名匠!小津安二郎の精魂こって 芸術映画の真髄!ここに極まる キャスト アウトライン」(2-3頁)
小津安二郎「私の宗方姉妹を!」(4頁)
田中絹代「節子の言葉」(4頁)
高峰秀子「私は満里子の抜けがら」(4頁)

『新東宝号外 宗方姉妹』(1950年8月8日発行、國際劇場、4頁)

「宗方家にしのびよる静かな悲劇の調べ 名匠!小津安二郎の精魂こって 芸術映画の真髄!ここに極まる キャスト アウトライン」(2-3頁)
小津安二郎「私の宗方姉妹を!」(4頁)
田中絹代「節子の言葉」(4頁)
高峰秀子「私は満里子の抜けがら」(4頁)

『Piccadilly7宗方姉妹』(1950年8月8日発行、ピカデリー劇場、13頁)

「『宗方姉妹』特別披露公開にあたりて-鑑賞メモから-」(1頁)
「製作スタッフ・解説」(2頁)
「物語」(3頁)
小津安二郎「私の”宗方姉妹”を」(4頁)
「「宗方」における出演者」(5頁)
野田高梧「映画 宗方姉妹 雑感」(6頁)
田中絹代「節子の言葉」(6頁)
高峰秀子「本読みの日」(7頁)
上原謙「青白きインテリの言葉」(7頁)
兒井英生「プロデューサーとして」(8頁)
肥後博「良心的な仕事」(8頁)
「小津安二郎小伝、小津安二郎の輝く足跡」(9頁)
「ピカデリー興行方式と宗方姉妹について」(10頁)
Credits、Cast、Synopsis(11頁)
「ピカデリー余滴」(12頁)
尾々井武「宗匠気質のことなど -小津安二郎雑記-」(13頁)

『宗方姉妹』(1950年8月8日発行、新東宝、4頁)

「解説・物語」(2-3頁)
「製作・配役」(4頁)

『宗方姉妹』(1950年8月8日発行、新東宝、6頁)

「解説、物語」(2頁)
「シナリオより スタッフ、キャスト」(3頁)
「宗方姉妹 関西ロケ記」(4頁)
小津安二郎「私の”宗方姉妹”を」(4頁)
田中絹代「節子の言葉」(5頁)
高峰秀子「本読みの日」(5頁)
上原謙「青白きインテリの言葉」(5頁)
「広告 京都新京極ロンドンヤ他」(6頁)

『スメル・ニュース』No.2(1950年8月8日発行、金澤新東宝、2頁)

「宗方姉妹 キャスト、解説」(1頁)

『アサヒグラフ』(1950年8月9日発行、朝日新聞社、22頁)

「映画ごらく地帯 ”宗方姉妹”」(20―21頁)
グラビア6点
「スチールを撮るためこの日初めて四大スターの顔合わせがあった スチールだからといってオザナリにするような小津監督ではないので一時間半もこれに費やした 左から上原、高杉、高峰、田中」
「特別のはからいでアメリカから輸入された最新型ミッチェルの撮影機は 一千万円以上といわれ日本には二台しかない カメラの位置には各自の好みがあるが小津監督は専ら定位置を好む 左は照明の藤林甲 中央は撮影の小原譲治 右は小津監督」
「ウイスキーを前にしてハイお客さんですといったスチールを一枚 証明のためバーの裏板をはずすことになったが、そこはセットの有難さ 今度は真面目な顔でとの監督さんの注文に一瞬静寂」
「新東宝第二撮影所では二つのセット場を交互に一本の映画に集中できるので非常に落ち着いた仕事ができると初めて他社で撮る小津監督も大恐悦」
「美しく飾られたセットの中から一歩外に出れば全く雑然とした相貌 証明小道具の人たちは見えざる影の力としてたえず汗だくの活躍を続けている」
「バー・アカシアのセット 向うが田中絹代、手前が堀雄二、チョットした道具にも口やかましい小津監督ゆえ、このセットに使った小道具はすべて銀座など一流のバーから借り集めた」
※本文冒頭を引用する。「製作費は今までの最高といわれる『細雪』を凌ぎ五千二百万円に達している、と新東宝が自負する超大作『宗方姉妹』(大佛次郎原作)は四月末神戸ロケに始まってエンエン三ヶ月。姉妹になる田中絹代と高峰秀子の顔あわせは十五年ぶりである。」

『宗方姉妹』(1950年9月1日発行、日寶社、12頁)

「製作、配役」(2頁)
小津安二郎の「私の”宗方姉妹”を」(3頁)
野田高梧「宗方姉妹 雑感」(3頁)
「解説、物語」(4頁)
「グラビア」(5頁)
田中絹代「節子の言葉」(6頁)
高峰秀子「本読みの日」(6-7頁)
上原謙「青白きインテリの言葉」(6-7頁)
兒井英生「プロデューサーとして」(6頁)
肥後博「良心的な仕事」(6-7頁)
「原作より 節子から宏への手紙」(8頁)
「シナリオより」(9頁)
「朝日新聞より」(10頁)
「グラビア」(11頁)
「広告 東京銀行」(12頁)

『田中絹代歸朝第一回作品 宗方姉妹』(1950年9月4日発行、甲府市連合未亡人會、4頁)

救済事業 場所:セントラル劇場
製作、配役、解説、物語「宗方姉妹」

『日本評論』<特集>映画王国(1950年10月1日発行、日本評論社、162頁)

表紙写真・土門拳
「《日本の顔・8》五千万円の風俗作家 小津安二郎」今井正談(124頁)
※今井正談であるので、今井正がここに書かれていることをそのまま述べているかどうかを疑う必要があるが、当時の小津安二郎監督に関する社会的評価の一端を知ることのできるものである。

『映画世界』第3巻第5號通巻第25號(1950年10月15日発行、映画世界社、58頁)

表紙:ジャネット・リイ
大黒東洋士「『宗方姉妹』と『羅生門』の検討」(40―42頁)
※一部抜粋する。「例えば小津安二郎の作品と言えばまず当たらんというのが通り相場だった。それが『晩春』あたりから外れてきた。結構な外れ方である。敢えて観客への迎合策を弄さない小津クラスの作品が当たり出したということは、一般大衆の鑑賞眼が高まりつつある一つの誕生とみていいだろう。」「『宗方姉妹』は新東宝起死回生の大作として前例のない五千二百万円乃至五千四百万円の巨費を製作費に投じ、宣伝にも特に力を入れた。」

1951
『キネマ旬報』復刊第8号(1951年2月1日発行、キネマ旬報社、104頁)

表紙:ヴィヴェカ・リンドフオルス
「日本映画No.7 宗方姉妹」(7頁)
「キネマ旬報1950年度ベスト・テン決定」(18-24頁)
※「宗方姉妹」は平均点76.2点で7位、1位は「今井正監督 また逢う日まで」

『アサヒ藝能新聞』通巻第二百六十三号(1951年6月3日発行、アサヒ芸能新聞社、15頁)

表紙:原節子(サイン)
「小津監督、半歳の構想熟す ”晩春”の姉妹篇 主演も同じく原」(3頁)
※冒頭を引用する。「麦秋 小津安二郎監督の”晩春”の姉妹篇としてすでに昨秋ごろから企画され、小津監督は野田高梧氏とともに茅ケ崎に引きこもって約半歳にわたり脚本を執筆にとりかかっていたが、このほどようやく脱稿 主役の原節子も”白痴”が上がったので、取りあえず、真夏にならない中に、背景になる奈良の風物を収めるべく、新緑の大和路ロケーションに出発した」
「今週の表紙 原節子」(4頁)

『映画ファン』第11巻第7号通巻第119号(1951年7月1日発行、映画世界社、94頁)

表紙:津島恵子
特集:松竹30周年記念
「スタジオ月報 ”麥秋”小津安二郎監督愈々撮影開始 原節子・淡島千景の初顔合せ」(50頁)
「蒲田大船よいところ 座談会 野口鶴吉、吉川満子、笠智衆、奈良眞養、中村登」(58―61頁)
三浦光雄「あの頃・あの時 蒲田の思い出」(62―63頁)

『新映画』第8巻第7号(1951年7月1日発行、映画出版社、84頁)

表紙:京マチ子
林勝俊「監督評伝 小津安二郎」(37頁)

『アサヒグラフ』第55巻第29号通巻第1404号(1951年7月11日発行、朝日新聞社、22頁)

表紙:加賀淳子
「名優小津の熱演ー映画-」(16頁)
※一部抜粋する。「スチール写真は映画の献立見本である。だからファン諸氏諸嬢の頭に或る幻想をうえつける魔力を潜ませていなくてはならぬ。ガラス越しに、某々スターの男性的な眼差しに心臓を射抜かれ、さては艶麗なる某々スターの媚態に「ツイ魔がさして」映画館にすいこまれるファンの数は少なくないそうだ。されば映画会社も人気スターの数奇をこらした扮装と歓喜、悲愁、希望、失意、あらゆる表情を撮り集めてああでもない、こうでもないと苦労しているのも無理からぬ話である。さてこれは松竹映画、小津安二郎監督「麦秋」の場合-鎌倉の某料亭の庭園を一日借り切り、小津監督が照明、結髪、小道具の面々、これに便乗する映画雑誌記者カメラマン数多を引具し、映画撮影ホンバンそこのけの細心な演出で「凝りに凝りまくった」スチール撮影風景である。」
グラビア7枚(全て小津監督)

『キネマ旬報』No.834 第十九号(1951年7月15日発行、キネマ旬報社、76頁)

表紙:ジイン・クレイン
グラビア「小津安二郎の麥秋」(1頁)
※「原節子、村瀬禅を演技指導する小津監督」、「笠智衆を演技指導する小津監督」
「内田岐三雄氏追悼」(29―32頁)
小津安二郎「古武士的な風格」(30頁)
※紹介しよう。「終戦の翌年の二月、僕が南方から還って来た時には、もう内田岐三雄はいなかった。南方には、十八年の六月に行ったのだが、最後に会ったのは、いつか、どこで、どんなふうに分かれたものか、今は、すっかり忘れている。これは、その前の日、ともに酒を飲んだ水町青磁の場合とちがってまた、頼りなく、はかない。内田岐三雄とは、僕が助監督の時分からの知合いだった。もう二十六七年も前のことになる。爾来、教えられるところ、甚だ多い。曲がったことの嫌いな男で、どこか古武士的な風格があった。何でもよく憶えていて、それがまた、まことに確かだった。大変惜しい男だった。」
「『麥秋』に慎重な小津監督」(40頁)
※「十四日クランク・インした『麥秋』は大和、鎌倉、大船近郊とロケを一応終了、七月三日よりセットに入った。クランクアップは八月下旬の予定であるが、消息通の予想では九月三日頃とのこと。脚本完成に約半歳を要している小津監督の慎重さを以てすれば、約三ヶ月の撮影日数も長いとは言えまい。上の写真は撮影開始前、小津監督の丁寧な注意に耳を傾ける出演者たち。左より佐野周二、小津監督、原節子、笠智衆、三宅邦子、高堂國典、野田高梧、山本武。」

『映画評論』第八巻第八號(1951年8月1日発行、映画出版社、122頁)

「特集:映画監督論」
津村秀夫「小津安二郎」(20‐23頁)
※一部引用する。「少なくとも戦争中の大活躍に引きかえ、戦後は急変して共産党に秋波を送ってみたり、かと思うとまたするりと逃げて見たりする人物にくらべると、人間的信頼がおける。彼と社会との間には確実にある一片の頑固な障壁はあろう。空気の流通は無論悪く、密室に彼は一人座している。彼を風俗作家などと思うのは大きな誤りで、風俗などには大して興味もないのである。ただ彼の趣味の窓を通してみた角度の中に入る世相風景の面白さが、ともすると風俗作家と錯覚させるのであろう。もし風俗作家というものを選ぶなら、故島津にしろ現代の黒澤明や吉村公三郎の方がより濃厚に風俗作家的資質を持っている。風俗作家というものは、おのが作物の中の人物にそう潔癖な好き嫌いを露骨にしては落第である。小津作品の人物を注意してみたまえ、どれもこれも似たりよったりで、小津好みの登場人物というもにはなかなかやかましい条件と規格が要るのである。(いや、ワン・カットの風景にすら小津好みの布置と条件が要るので、時として不自然に感じられることもある。」(22頁)

『映画ファン』第11巻第8号通巻第120号(1951年8月1日発行、映画世界社、94頁)

表紙:山口淑子
「花のパリーに花もう一つ」(15頁)
※花のパリにデコが行く。その送別会に集まった映画界のうるさがたから、デコの友達まで六〇人。森岩雄氏、川喜多長政氏、城戸四郎氏、高村潔氏、山本嘉次郎監督、小津安二郎監督、五所平之助監督、俳優、ジャーナリスト、等々、その外出席できなかった連中から電報、電話と大変な賑やかさ。小津監督と高峰秀子のショット。
「感激のおケイちゃん」(57頁)
※今や押しも押されもしない大スターの淡島千景にしてもこの感激とは、小津作品の魅力絶大というべきところ。「麥秋」の出演に際しての淡島千景について書かれている。
「特別映画物語 麥秋」(58―61頁)

『花椿』復刊第15号(1951年8月5日発行、東京銀座・資生堂出版部、20頁)

表紙:大谷伶子
「麥秋のお節ちゃん」(8―9頁)
※「間宮家の台所、原節子と三宅邦子、小津監督」「原節子、淡島千景、小津監督」、「村瀬禅君を演技指導する小津監督、原節子」、「出演者スナップ 右寄り笠智衆、三宅邦子、二本柳寛、原節子、佐野周二」

『毎日グラフ』第四年第二十三号通巻九十二号(1951年8月10日発行、毎日新聞社、26頁)

「麥秋のころの健康診断 話題の人 小津安二郎氏」(10-11頁)
※小津監督の写真4 「製作中は大船撮影所の中の監督部屋で暮している。その部屋はおびただしい書籍の氾濫で「これをこの前手にいれてね」といって見せてくれたのはフランスから届いたばかりの美術本3冊、絵は好きであるが、しかし「一番あなたに影響を与えたものは?」と聞いたら「やっぱり文学だ。音楽を聞いても、文学を通して音楽を理解しようとする。そういう習慣になっている。」

『キネマ旬報』第21號(1951年8月15日発行、キネマ旬報社、72頁)

表紙:Vivien Leigh
清水千代太「小津安二郎に悩みあり -『麥秋』のセットを訪れて」(22―23頁)
※冒頭を紹介する。「ステージに入ってみると、カットの間宮一家の記念写真を撮るので、小津安二郎は畳の上に坐ってスチル・キャメラを覗いていた。映画はもとよりのこと、すちる写真でも自分でのぞいて、注文を付けなければ気が済まないらしい。凝り性といえば凝り性、苦労性と言えるであろう。」

『新映画』第八巻第九號(1951年9月1日発行、映画出版社、84頁)

表紙:木暮實千代
グラビア「”麥秋”好調 小津安二郎、野田高梧の名コンビが描く」(3―5頁)
※「原節子」「小津安二郎、野田高梧」(3頁)、「佐野周二と原節子」(4頁)、「スチル写真の演出をする小津監督」他(5頁)
飯田心美「『麥秋』のシナリオ―小津と野田、再び力作を生む」(32―33頁)

『映画ファン』第121号(1951年9月1日発行、映画世界社、94頁)

表紙:角梨枝子
「『麥秋』の撮影始まる」(15―17頁)
※「原節子と佐野周二」、「スチル写真一枚撮るにしても小津監督は熱心である」、「ハンドバックの持ち方一つゆるがせにしない小津監督」、「明日に備えて音読みする右から野田、小津、原、二本柳」、「右から野田、小津、笠、三宅、二本柳、原、佐野さん達の勢ぞろい」他
「女優生活あれやこれや 座談会 杉村春子、原節子、淡島千景」(36―41頁)
「緊張の”麥秋”出演記 二本柳寛」(39―40頁)
「スタジオ月報 ”麥秋”鎌倉ロケ撮影快調 カットカットに慎重を期す小津監督」(65頁)
「皮肉な現象」(87頁)
※「麥秋」の料亭「多喜川」のセットでは、原節子さん、笠智衆さん、三宅邦子さんが食事を共にするところ‥」
「半面広告 麥秋」(裏表紙裏)

『キネマ旬報』No.837 第二十二号(1951年9月1日発行、キネマ旬報社、96頁)

表紙:リンダ・ダーネル
グラビア「麥秋 小津安二郎作品」(4―5頁)
※スチル「笠智衆、三宅邦子、原節子」「小津監督」、「高堂國典、笠智衆、東山千栄子、三宅邦子」「原節子、淡島千景、井川邦子」
「『晩春』は見合い結婚をする女性の話であった。こんどの『麥秋』は結婚の相手を自分で決める女性の話である。」

『婦人生活』第5巻第9号(1951年9月1日発行、同志社、456頁)

表紙 原節子
「小津安二郎監督と原節子さん」(223頁)
「『麥秋』ロケ報告」(224-225頁)
※『麥秋』ロケ現場のカット6葉
・日本一の女優をみんものと押し寄せたファン群
・休憩室ではうっかり足も延ばせぬとは女優たるものまたつらいかな(原節子)
・こり性の小津監督、例によってカメラの位置の決定にもみずから陣頭に立つ(小津監督)
・「お早よう」と三度四度繰り返して原さんやっとOK-北鎌倉ロケは愈々開始!(北鎌倉駅フォーム、原節子)
・「俳優商売も楽じゃありませんな」という見物衆も暑いのにご苦労様です。(北鎌倉駅)
・やっとベランダに姿を現した原さんと二本柳さんにファンのため息が聞こえ、籠の鳥が目を白黒させる(原、二本柳)
江波和夫「銀幕の恋人 原節子さんとの一時間」(265-267頁)
「脇役名鑑 杉村春子」(274頁)
「脇役名鑑 笠智衆」(275頁)
「新人スター採点表 香川京子」(280頁)

『SHOCHIKUZA NEWS』新装No.10(1951年9月14日発行、大阪・松竹座、8頁)

「麥秋☆人物紹介☆」(6頁)
「麦秋 十月五日封切迫る」(7頁)
※発行日がないので、今週の映画:「南風」の封切日を発行日とした。

『キネマ旬報』No.838 第23号(1951年9月15日発行、キネマ旬報社、80頁)

表紙:ジャネット・リイ
見開き広告「麦秋 名作「晩春」のスタッフ再び起つ!」(8-9頁)
「演出拝見 小津安二郎の巻」(29頁)
※冒頭を引用する。「小津安二郎の監督ぶりについて、様々な伝説的風評がある。セットの中は静かなることさながらお通夜の如くだ。NGがどれだけ出ようと気に入るまでは撮り直しをする、いつも低いアングルで撮るので、キャメラマンが寝そべりつづけ、お腹をこわしてしまう等々。本当だろうか?-幾分は本当である。ただ、小津監督の指揮が能率的なので余計なドタバタ騒ぎが起こらず静かなのであり、気に入るまで取り続けても俳優の粒が揃っているからNGの出ない本番だってあるのであり、たしかに低いアングルで寝そべりはするが何せ一番キャメラを覗くのは同監督であるからキャメラマンは腹をこわさずに済むだけのことなのである。」

『SHOCHIKUZA NEWS』新装No.12(1951年9月21日発行、大阪・松竹座、8頁)

「麥秋 キャスト、ものがたり」(4-5頁)
※発行日がないので、今週の映画『飛び出した若旦那』(瑞穂春海監督)の封切日とした。

『スクリーン・ステージ』第260号(1951年10月2日発行、スクリーン・ステージ新聞社、16頁)

表紙:原節子、淡島千景
「香り高き映画藝術の真髄 麥秋」(3頁)
出演者のことば(佐野周二、淡島千景、原節子、二本柳寛)
凝り屋の小津監督、珍しくクレーンを使用

『第八十一回都民映画 松竹作品麥秋 特別試寫會』(1951年10月2日発行、東京都教育廳、4頁)

「1951年10月2日(火)午後1時 於 神田共立講堂
 主催 東京都教育廳
 後援 毎日新聞社
 協賛 松竹株式会社
    映画世界社
 キャスト、解説、物語」

『松竹映画ウイークリー』No.159「麥秋・鞍馬の火祭」(1951年10月3日発行、松竹株式会社事業部、世界出版社、4頁)

「麥秋 スタッフ、キャスト、ものがたり」(2頁)

『麥秋』(縮刷シナリオ)(1951年10月3日発行、松竹株式会社、28頁)

三段組、発行日がないので、封切日とした。

『松竹映画PRESS』NO.188「麥秋」(1951年10月3日発行、松竹株式会社大阪支店映画部宣伝課、4頁)

「名匠小津安二郎監督作品 麥秋
香り高き小津映画藝術の華 待望一年有半玆に見事その眞髄を発揮した!!

 名作「晩春」の小津安二郎監督が最高のスタア陣を駆使して描く流麗感動の傑作!
 嫁ぐ日近く、乙女のこころに仄々とわく青春の感傷!
スタッフ、キャスト、解説、製作意図、ものがたり」(2-3頁)
「宣伝文案、放送原稿、カット」(4頁)

『SHOCHIKU EIGA PRESS』「麥秋」(1951年10月3日発行、松竹株式會社大阪支店映画部宣傳課、4頁)

「麥秋 宣傳文案 製作意図、スタッフ、キャスト、解説、放送原稿、物語」

『浅草国際劇場』No.66「GRAND REVIEW AKI no ODORI」(1951年10月7日発行、松竹株式会社事業部、14頁)

表紙:川路龍子
「麦秋 スタッフ、キャスト、物語」(9頁)

『キネマ旬報』復刊第25号(1951年10月15日発行、キネマ旬報社、96頁)

表紙:ルース・ローマン
滋野辰彦「日本映画批評 麦秋」(65-66頁)

『映画新潮』第2巻第6号(1951年11月1日発行、河童書房、42頁)

表紙:イングリッド・バーグマン
「名匠・小津安二郎」(8頁)
※麦秋を演出する小津監督のカット5、小津監督ポートレート
小津安二郎「映画への愛情に生きて」(15-17頁)
※一部抜粋する。「『麦秋』は『晩春』に一番よく似ているわけですが、自分としては、あの中で何を出してみたいかといえば、これは果たしてできるかできないかは分からないけれども。とにかく、劇的なものを減らして、表現されているものの中から余情というものが何となく溜ってきて、そういうものが、つまり一つの物のあわれになり、それがこの映画をみたあとで、たいへんあとくちのいいものになる-というようなできればいいと思って、やりはじめてみたのです。もっとも、それはでき上ってみて、写真にそれが出ていなくては何にもならないことだし、完成した上でないと何ともいえない話なのだけれども、狙いはそういったものなのです。つまり写真に十分芝居を盛りあげてゆくのでなくて、七分目か八分目をみせておいて、そのみえない所が物のあわれにならないだろうか、というのが狙いで。これが面白くゆけば、ぼくは将来そういったものを撮ってみたいし、またもし今度うまくゆかないならば、勉強し直して、どうやったら今後それがうまくゆくかを考えてみるつもりなのです。くり返していうようだが、つまり、小説なんかでいえば、行と行との間のニュアンスというか、とにかく感情をむき出しにして噛み合ってゆくというのでなしに、どこかで、何となく、そういうものを味わえるもの-ということなのです。だから、題材は、自分自身としては割合にぼうけんしているつもりなのです。もっともいままでにもそういうことが全然なかったとはいえないけれども、とにかく、もうそろそろそういうものを出してもいいのではないか、という気持でやっているのです。(考え考え、ぽつりと語り、またぽつりと語り、という調子。)(15頁)
※この「麦秋」の最後の追い込み時に、昼飯どき門前の食堂でインタビューした記事は、自分のこれからの映画について、小津監督がたいへん丁寧に質問に答えているものである。
「『麥秋』広告 憂愁ただよう人間詩情!貴品高き大傑作」(裏表紙裏)

『東京』第二巻第六号(1951年11月1日発行、東京出版、190頁)

表紙:原節子
「初顔合せ希望対談 美しきこころ 二本柳寛、原節子」(55-59頁)
※「麦秋」の一コマの原さんと二本柳さん(58頁)
桃栗三平「初秋の大船スタジオ漫歩」(124-125頁)
※「麦秋の3カット」

『松竹タイムス 麥秋』(1951年、松竹株式会社・映画宣伝部宣伝課)

日本人の魂の琴線にふれる小津芸術の真骨頂!
嫁ぐ日近く‥乙女のこころに仄々とわく
青春への感傷!
スタッフ、キャスト、解説、ものがたり、
受賞のあと
※受賞について書かれていることから、封切後暫くしてからの発行であると思われるが、便宜的に1951年とする。。

1952
『アサヒカメラ』第三十七巻第十号通巻230号(1952年10月1日発行、朝日新聞社、184頁)

「三木淳 小津安二郎氏 日本の映画監督6」(27頁)
※小津監督「お茶漬の味」演出風景、木暮實千代、津島恵子、厚田雄春他」

『蒲田會人名簿 昭和二十七年現在』(1952年発行)

蒲田時代の俳優、監督、スタッフの住所録。小津安二郎は8頁目に住所記載。

『映画ファン』第12巻第5号通巻第129号(1952年5月1日発行、映画世界社、118頁)

表紙:原節子
「グラビア 上原謙」(8頁)
※私が初めて円満な感じが出来た「宗方姉妹」が役としての出来はともかく、尤も好きな役でした。
「映画ファン世論調査決定報告」(40頁)
※作品一位「麥秋」、監督四位「小津安二郎」
「キャメラで見た妹、目で見た妹 原節子を語る 東宝キャメラマン 會田吉男」(90―91頁)
「『お茶漬の味』と決定 小津安二郎監督の次回作」(114頁)

『キネマ旬報』1952年6月上旬号「特集 小津安二郎・研究」(1952年6月1日発行、キネマ旬報社、98頁)

飯島正「小津安二郎について」(20-22頁)
双葉十三郎「小津芸術の形式について」(23-24頁)
滋野辰彦「評傳・小津安二郎」(25-27頁)
筈見恒夫「私の小津安二郎観」(28-29頁)
小津安二郎「自作を語る」(30-35頁)

『週刊サンケイ』第1巻第17号(1952年6月15日発行、産業経済新聞社、62頁)

「連載縦横鼎談 第11回 司会:奥野信太郎 志賀直哉☆小津安二郎☆ゲスト尾崎一雄」(45-50頁)
※小見出しは以下の通り、「志賀氏と活動写真」、「田舎ことばの貢献」、「映画と文学の世界」、「徳田秋声、永井荷風」、「白樺の人とその頃」、「芥川龍之介とイワシ」、「批評家というもの」。

『キネマ旬報』No.856 第四十一号(1952年7月1日発行、キネマ旬報社、178頁)

表紙:リタ・ヘイワース
「舞台の演技と映画の演技 新劇女優のザックバランなうちあけ話 座談会 東山千栄子、岸輝子、村瀬幸子、山岡比佐乃、杉村春子、丹阿弥谷津子」(64―70頁)
※東山千栄子「小津先生はすっかり科白もご自分のちゃんときまったものがおありになって、そこに落ち着かなければほかの言い方では‥。」
「撮影所 いよいよ撮影をはじめた『お茶漬の味』」(132頁)
※「スチール一枚も慎重に撮る 昨年度の『麦秋』につぐ小津安二郎監督の『お茶漬の味』は、長らく準備を整えていたが、漸く六月九日、『会社』のセットよりクランクを開始した。開始に先立つ七日には、主演スターの佐分利信、木暮實千代、鶴田浩二、淡島千景、津島恵子の五人による宣伝スチールの撮影が行われたが、例によってスチール一枚といえどもゆるがせにしない小津監督は視線や手の置き方などにまで、慎重な指導を与え、さすがのスター達もいつになく緊張して、衣装や髪形などに細かく気を配っていたという。この五人のスターのうち、木暮、鶴田、津島の三人は、小津監督の作品には、はじめての出演である。また、この作品に特別出演として、往年、名子役と謳われ現在上原謙夫人である小桜葉子が、十数年ぶりにスクリーンにお目見えする。」
「日本映画紹介 お茶漬の味」(135頁)

『スクリーン・ステージ』第300号(1952年7月8日発行、スクリーン・ステージ新聞社、8頁)

「小津安二郎監督の作家魂 『お茶漬の味』の演出」(1頁)
「『お茶漬の味』セット拝見 ”今日はキヨウジ屋だヨ” かざりの日の小津監督」(4-5頁)
「小津作品のプロデューサー山本武氏に訊く 配役が一番の苦心」(5頁)

『キネマ旬報』No.857 第四十二号(1952年7月15日発行、キネマ旬報社、98頁)

表紙:エドウィージ・フウィエール
「グラフィック 小津安二郎の演出ぶり」(1-3頁)
「お茶漬の味」佐竹邸二階茂吉(佐分利信)妙子(木暮實千代)の出ているセット撮影(1頁)
※演出カット6

『藝能画報』第一巻第四号(1952年7月15日発行、国際写真通信社、46頁)

表紙:久我美子
「松竹大船作品 お茶漬の味 解説 物語」(17頁)
※グラビア6カット
「小津安二郎監督は漸く構想成って「お茶漬の味」のスチール写真を皮切りに七日会社のカットからクランクインした。例によってスチール一枚をもゆるがせにしない小津監督はキャメラの脇にどっかと腰を据え、視線から手の置き方に至るまで細々と指導するという慎重さ、それだけに木暮、淡島、津島などのスタアたちも衣裳から髪型まで一々小津監督に見せダメが出るとわざわざ結髪部まで足を運ぶという熱心さである。」続く(46頁)

『家庭よみうり』通巻第三一八号(1952年8月21日発行、読売新聞社出版局、22頁)

表紙:谷さゆり
「新映画 お茶漬の味 監督・小津安二郎 松竹・大船作品」(16-17頁)
※スチル7枚(うち2枚小津監督演出風景)

『東京』第三巻第九号(1952年9月1日発行、東京出版、220頁)

「映画化絵物語 お茶漬の味 野田高梧・小津安二郎脚本、絵:加藤敏郎」(8-12頁)

『映画の友』第20巻第9号(1952年9月5日発行、映画世界社、170頁)

表紙:ベティ・ハットン
大黒東洋士「『お茶漬の味』のセット訪問」(78‐81頁)

『映画と演芸』アサヒグラフ別冊秋季特別号(1952年9月25日発行、朝日新聞社、58頁)

表紙:京マチ子(絵:宮本三郎)
「新作映画紹介 松竹「お茶漬の味」(52-53頁)
「お茶漬の味」広告(53頁)

『松竹NEWS』No.13(1952年9月発行、松竹株式会社東京支店、4頁)

新宿松竹
「次週上映 お茶漬の味」(1頁)
「お茶漬けの味 次週上映」(4頁)

『松竹映画プレス』No.252「お茶漬の味」(1952年10月1日発行、松竹株式会社、4頁)

「お茶漬の味、スタッフ、キャスト
 松竹にして初めて成し得る映画界最高の芸術作!
 名匠小津安二郎が驚異的豪華スタアを得て放つ宿望の野心作!
 解説、宣伝文案、「お茶漬の味」の製作に当って(山本武)、放送原稿、カット、配列表」(2-3頁)

『お茶漬の味』(縮刷シナリオ)(1952年10月1日発行、松竹株式会社、24頁)

三段組、発行日がないので、封切日とした。

『松竹NEWS』No.14(1952年10月1日発行、松竹株式会社東京支店、4頁)

人形町松竹
「スタッフ、キャスト、解説、梗概」(2-3頁)

『第百回記念都民映画特別試写會 お茶漬の味試写會』(1952年10月1日発行、東京都教育廳・東京新聞社、4頁)

「スタッフ、キャスト、物語、解説」(2-3頁)

『映画評論』第九巻第十號(1952年10月1日発行、映画出版社、142頁)

飯田心美「趣味の名人藝-小津作品に現われた人間像-」(39―41頁)
「お茶漬の味一面広告」(裏表紙)

『映画ファン』第134号「小津安二郎監督特集」(1952年10月1日発行、映画世界社、168頁)

小津安二郎全集 特集
「現代日本映画界の第一人者小津安二郎監督の生い立ちから、そのひととなり、作品傾向などにあれこれスポットを当ててみましょう。
筈見恒夫「誰からも愛される 小津映画の魅力」(71―73頁)
「小津安二郎・監督作品一覧表」(73頁)
「僕はちっともこわくないよ 小津安二郎監督放談」(きくひと:大黒東洋士)(74―77頁)
津島恵子「小津先生とのひととき」(76頁)
清水崑「『お茶漬の味』とはどんな味? 小津安二郎監督に『お茶漬の味』をきく」(78―79頁)
原節子・三宅邦子・淡島千景「座談会がっちりして大きい小津先生」(80―81頁)
野田高梧「随筆・小津安二郎」(82―86頁)
里見弴「良識」(83頁)
厚田雄春「潔癖な人」(86頁)

同誌には、高橋貞二に関する小特集もある。
「スタア診断10 高橋貞二の魅力を探ぐる 健康的でザックバランの高橋貞二さん」(106―107頁)
「高橋貞二さんとの一問一答」(108―109頁:上段)
井川邦子「学生みたいな気安さ」(108―109頁:下段)
中村登「かんのいい俳優」(109頁:下段)
川島雄三・高橋貞二・岸恵子「座談会 都会の中に田園のある魅力」(110―112頁)
「高橋貞二・作品一覧」(111頁)
「高橋貞二ポートレート」(113頁)

※表紙は、角梨枝子さん。

『キネマ旬報』No.862 第四十七号(1952年10月1日発行、キネマ旬報社、190頁)

表紙:ダニエル・ダリュウ
「全面広告 お茶漬の味 日本映画の最高を誇る映画芸術の粹」(29頁)
「旬報サロン 小津安二郎の生地」(125頁)
※「映画人新地図」毎號愛読して居ります。ついては三重県の巻で、小津安二郎氏の生地を、「サンデー毎日」郷土ベストテンや、昭和九年に発行された「映画藝術研究」などでは、三重県の部に加えてありますが、新地図では漏れたのでしょうか。(三重県四日市市)この間まで松阪の療養生活をして、故郷の当地へ引き上げて来たのですが、小津さんは三重県の出身だとばかり思っていましたが、違うのでしょうか。」◎小津さんは東京深川の生れで、伊勢の松阪は、小津さんのお父さんの郷里です。小学生の途中から松阪に住み、中学は山田市の中学を出ました。だから少年時代を三重県で過ごしたことは確かです。」

『NEWS 銀座松竹』No.19(1952年10月1日発行、銀座松竹、4頁)

「お茶漬の味 解説、俳優」(2-3頁)

『松竹映画ウイークリー』No.184 「お茶漬の味・お嬢さん社長と丁稚課長」(1952年10月1日発行、新世界出版社、6頁)

「お茶漬の味 配役、梗概」(3-4頁)
佐藤有「小津映画を讃えて」(6頁)

『SHOCHIKU EIGA PRESS お茶漬の味』(1952年10月1日発行、松竹株式会社大阪支店映画部宣伝課、4頁)

「解説、キャスト、梗概、文案、放送原稿、配列表」(2-3頁)

『NEWS 銀座松竹』No.23「お茶漬の味(ファッション)特集号(1952年10月1日発行、銀座松竹、8頁)

「淡島千景の洋装に就いて」(2頁)
「お茶漬の味 粹をあつめた秋のファッション」(3-6頁)
「津島恵子の洋装に就いて」(7頁)

『お茶漬の味』(1952年10月1日発行、松竹株式会社、12頁)

「小津安二郎監督作品「お茶漬の味」について」(3頁)
「スタッフ、キャスト」(4頁)
「物語」(5頁)
「誰からも愛される小津映画 「お茶漬の味」鑑賞の手引」(6-7頁)
「解説」(8頁)
「人物紹介」(9頁)

『週刊アサヒ芸能新聞』通巻第333号(1952年10月5日発行、アサヒ芸能新聞社、30頁)

表紙:淡島千景
「”お祭り屋”になりたくない 小津安二郎監督談」(5頁)
※一部抜粋する。「別にどこをよく観て下さいとか、ここんところを苦心しましたとかいうことはないね。新しい試みをやったわけでもない。強いて言えば、佐分利、木暮御夫婦の心理の綾なのだろうが、そればかりに重点を置いたわけではない。そういうことは観客が自由に判断されるべきものだ。」

北川冬彦『映画への誘い』(1952年10月10日発行、温故堂出版部、364頁)

飯島正「はしがき」(1―3頁)
「2日本映画の作家 小津安二郎」(137―144頁)
「5映画精神とその周囲 小津安二郎の演出」(272―279頁)

小津安二郎・野田高梧『お茶漬の味他』(1952年10月20日発行、青山書院、362頁)

「お茶漬の味」(3‐120頁)
「麥秋」(121‐262頁)
「晩春」(263‐362頁)
※田中眞澄編『全日記小津安二郎』(1993年、フィルムアート社)343頁に、「昭和二十七年十月二十六日(日)本の署名をする 終日在宅 青山書院くる」とある。

『映画評論』第九巻第十一號(1952年11月1日発行、映画出版社、126頁)

大黒東洋士「作品評 お茶漬の味」(58―60頁)

『伊勢公論』第七號(1952年11月1日発行、伊勢公論社、63頁)

梅川文男「小津安二郎氏」(18‐20頁)
※梅川文男(1906年4月9日-1968年4月4日)は三重県松阪市の第6代市長(在任期間:1957年3月30日-1968年4月4日)である。飯南郡松阪町大字新町(現・松阪市新町)に生まれ、旧制・三重県立宇治山田中等学校卒業。小津安二郎(映画監督)の後輩である。
 冒頭部分を引用する。「映画『お茶漬の味』をみた。昨年暮の松阪大家の火元となり、焼失した松阪第二小学校と、宇治山田中学校で、小津さんはずっと三年上だった。小学校四年生の頃、松阪に転校してきたのでないかとおもう。家は愛宕町だった。『品行方正、学力優秀』の模範生だった。さて、私も山田の中学にはいった。三十数年前、大正七年頃の話である。

『廣島劇場』(1952年11月7日発行、廣島劇場、4頁)

「19日封切 お茶漬の味」(1頁)
「小津芸術の粋を集めてしみじみと味わう感動の名画 お茶漬の味」(2-3頁)

『週刊アサヒ芸能新聞』通巻第338号(1952年11月9日発行、アサヒ芸能新聞社、30頁)

表紙:小月冴子・草笛光子
「今年や監督さんの当たり年」(3頁)
※小津監督の写真がトップに掲載され、以下のような記述。「監督の持駒を一番揃えているのは何と言っても松竹である。終戦後一年一作を標榜しているベテラン小津安二郎は今年もゆうゆう四カ月余りを費やして先般「お茶漬の味」を完成した。一年一作というのはぜいたくすぎるという批判もないではないが、映画に限らず、総じて小説にしてもその他の芸術分野においてもいたずらに濫作してエネルギーを消費するよりは、できればジックリ構想を練って納得のゆくものを作るにこしたことはないわけで、海外の有名な監督の場合に照してみても、小津監督のこうした態度は立派であるといえるし、松竹にそれだけの余裕があるからこそである。」
「日本映画監督10人集」(16-17頁)
※「ピケ帽を被っとるで”オッチャン”などと気安そうに呼ぶ仁もあるが、「佐分利どんでさえフルエ上る」という松竹名物小津安二郎監督の陣頭指揮」とある。

1953
『東京暮色』(初稿台本)(1953年2月5日発行、新映株式会社、37頁)

一段組、小津監督『東京暮色』の5年前(1953年2月5日)に公開された齋藤達雄監督、池田忠雄脚本による『嫁ぐ今宵に』(新映プロ、配給:新東宝)の初稿のタイトルは、何と「東京暮色」という題名であった。これはその時の珍しい台本である。
発行日がないので、封切日とした。

読売新聞社教育部編『私の少年時代 ー現代日本の100人が語るー』(1953年3月28日発行、牧書店、224頁)

小津安二郎「僕は映画の豆監督」(49―51頁)

『キネマ旬報』第60号(1953年4月1日発行、キネマ旬報社、210頁)

表紙:コリンヌ・カルヴェ
「映画人クローズアップ(グラフィック)小津安二郎」(147頁)

『キネマ旬報』No.879第64号(1953年5月15日発行、キネマ旬報社、122頁)

表紙:ザ・ザ・ガボール
「日本映画このコンビ 野田高梧・小津安二郎」(19頁)

『アサヒカメラ』第三十八巻第六号通巻ニ三八号(1953年6月1日発行、朝日新聞社、200頁)

表紙:ジプシー・ローズ(撮影:稲村隆正)
「映画宣伝写真はなぜ進歩しないか 座談会 小津安二郎、三浦光雄、木下恵介、生方敏夫、島崎清彦、田中敏男」(114―119頁)
※銀座「中島」にて。小津監督の冒頭の言葉を引用する。「この宣伝スチルを作るというのは監督にって大変に厄介なものでしてね。僕なんかたいそう嫌いなんだ。いったい宣伝スチルは何のために撮るかというと、ポスターをこしらえる下絵として撮る場合が、いまの松竹などでは大変多いのです。それで、ポスターのために急がされるわけですが、僕なんかスチルマンと協力して、コンポジションを見てやったり、そのため「お茶漬の味」の時などまる一日つぶしてしまったこともあるくらいですが、結局、どうも映画の撮影と同時に撮って行くやつが一番いい。ところがそうすると、どうしてもポスターをこしらえるのに間も合わない。また、撮影の際、この場面がいいからスチルに撮ろうということになると、映画撮影の方は、そこで一時気が抜けてしまうのです。また、映画の方では35ミリで撮るのに、スチルは乾板に写すというわけで、折角決まっているライトも全部移動しなければならない。こいつは大変なので、それで結局、その場でスチルを撮るということができなくなってしまうのです。」(114頁)

『アサヒカメラ』第三十八巻第七号通巻ニ三九号(1953年7月1日発行、朝日新聞社、210頁)

表紙:撮影アービング・ペン
「続・映画座談会 映画撮影の新技術-色彩映画を中心として-生方敏夫、三浦光雄、小津安二郎、田中敏男、島崎清彦、木下恵介」(149―154頁)
※一部抜粋する。小津「色彩映画も、カット、カットをこまかくすると、色の調子が揃って来ないので困りますね。そういう欠点を監督技術で補うとなると、やりたいことがやれません。」田中「だから、色彩映画で一番困るのは小津さんでしょう。カラーではカット・バックが一番厄介で、赤が主題になっていたのが、次のカットではそれが青いということがあり得るでしょう。そこで結局カメラを動かすよりしようがない。」

『キネマ旬報』No.884第69号(1953年8月1日発行、キネマ旬報社、122頁)

表紙:エヴァ・ガードナー
陸知足「映画人新地図 東京都(その四)Tの部」(84頁)
※「五所平之助より一つ若く、東京は深川亀住町に生れた小津安二郎は、昭和二年に、時代劇「懺悔の刃」を処女作として発表した。彼の父は、都会で少年時代を過ごさせることは、、子弟の教育上よろしくないと云って、尋常四年の時に、彼を父の郷里伊勢の松阪に送り、中学時代は宇治山田中学に学ばせた。中学を出ると、父の希望で神戸高商を受験することになり、その間の幾月かを、伊勢の山の中の小学校で代用教員をした。彼の父は、彼の令兄が現に第一銀行の重役をしているように、彼も実業界に立たせたい意向だったらしいが、小学生時代に安二郎少年が軽い脳膜炎をやって、算数なんかをやると頭が痛くなるという始末なので、この方はあきらめていた。神戸高商の受験をすべっても、一ぺんでその方は断念した。中学時代からの友人で、一緒に神戸高商を受けてすべった仲間に、現在三重石炭の社長をしている井阪栄一がいる。この井阪と彼は、中学時代によく松阪の映画館(先年焼けた神楽座)へ通った。「この神楽座がなかったら、僕は映画監督なんかになってなかったかも知れない」と、彼自身述懐するほど、これは決定的な影響を彼に与えた。だから、高商をあきらめて上京した彼は、真っ先に松竹撮影所を目指し、監督見習いに入るつもりだったところ、その方は欠員がないからと云って、カメラマンの助手となり、それからしばらくして、時代劇の監督をしていた大久保忠素の助監督として、斎藤寅次郎と共に、ある時は剣劇、ある時はナンセンス物と、大久保師匠の手足となって働いた。」続く

『キネマ旬報』No.888 第七三号(1953年9月15日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:ジョーン・ドルウ
グラビア「東京物語 尾道ロケ 原節子と香川京子」(1頁)
グラビア「東京物語 尾道ロケ 笠智衆と原節子、香川京子他」(2―3頁)

『映画と演芸』アサヒグラフ別冊、秋季特別号(1953年9月20日発行、朝日新聞社、66頁)

表紙:岸恵子(絵:田村孝之介)
「新映画紹介 松竹『東京物語』」(21頁)スチル4枚
※「お茶漬の味」に次ぐ小津安二郎の監督作品。中国地方の街・尾道に住む老夫婦が、東京で医院を開いている長男。美容院を経営している長女やその孫たちに逢いに出かけるが、それぞれ一人立ちの社会人になった子供たちは、老夫婦が内心期待したとおりには二人を珍客として迎えなかった。
大佛次郎「私の描いた女たち」(25頁)
大佛次郎自身が、「宗方姉妹」を観た感想、小説のイメージと違う部分についてなどを述べている。
「ストーリー集 東京物語」(27頁)

『キネマ旬報』No.890第75号(1953年10月1日発行、キネマ旬報社、220頁)

表紙:アン・ブライス
大黒東洋士「小津安二郎の演出ー「東京物語」の撮影を見るー」(60-62頁)
※「東京物語」のシナリオを一部採録。

『松竹映画秋の大作 花の生涯・グラフと読物』(1953年10月発行、松竹大阪支店映画宣伝部宣伝課、7頁)

「巨匠小津安二郎監督本年度作品 東京物語 キャスト、解説 十一月上旬封切」(7頁)

『キネマ旬報』No.891 第七六号(1953年10月15日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:ジャネット・リイ
全面広告「東京物語」(9頁)

『松竹映画ウイークリー』No.212「山を守る兄弟・處女雪」(1953年10月27日発行、新世界出版社、6頁)

裏表紙:次週公開 東京物語
発行日がないので、「山を守る兄弟」の封切日とした。

『婦人倶楽部』第三十四巻第十三号(1953年11月1日発行、大日本雄弁会講談社、468頁)

「東京物語演出風景-松竹-」(76-77頁)
グラビア8(うち7に小津監督)、尾道ロケ随行記

『試寫御案内 東京物語』(1953年11月1日発行、松竹株式会社宣伝課、1頁)

試寫御案内状、題名:東京物語 日時 11月1日午后1時30分
場所:交詢社ホール5階

『「東京物語」特別試写会』(1959年11月1日発行、松竹株式会社、4頁)

「スタッフ、キャスト、解説、梗概」(2-3頁)

『小津作品・東京物語・鑑賞の栞』(1953年11月1日発行、松竹株式会社、7頁)

表紙:香川京子、原節子
「梗概、スタッフ、キャスト」(2頁)
村上忠久「小津安二郎の足跡」(3頁)
京極錬太郎「海の見える丘から 東京物語尾道ロケ随行記」(4-5頁)
「緊張する”小津芸術”原節子、香川京子」(5-6頁)
滝沢一「撮影余話」(6頁)

『藝能画報』第二巻第十一号(1953年11月1日発行、国際写真通信社、46頁)

表紙:ジェーン・ラッセル
「東京物語 松竹作品」(28頁)
カラーグラビア「原節子と香川京子」

『映画ファン』第147号(1953年11月1日発行、映画世界社、148頁)

表紙:若尾文子
全面広告「東京物語」(4頁)
※原節子の画像は「麦秋」時の物を使用している。
グラビア「東京物語」(116頁)
※尾道の浄土寺の灯篭の前に座る原節子と香川京子
「殺到するファンに悲鳴をあげて 東京物語」(117―118頁)
※「東京物語」の尾道ロケに関する記事

『新映画』第10巻第11号(1953年11月1日発行、映画出版社、108頁)

表紙:若尾文子
グラビア「東京物語」
※6カット(うち小津監督4カット)「★強烈な夏の陽差しが柔らかになり、くさむらにすだく虫の鳴き声がしきりになると、映画界にも秋の芸術祭の開幕を告げる参加作品の候補が、いろいろと巷の映画ファンたちの下馬評にのぼり始めます。★さて、黒澤明の「七人の侍」と共にそのファンたちの口の端にのぼっている最も有力な芸術賞受賞候補作品が、この小津監督の「東京物語」です。そこで、今月は、ここに「東京物語」のレポートをロケからセットから、それぞれのぞいてみました。」
「東京物語、尾道へ往く」(42-43頁)
八月十四日から十八日までのロケについて詳細に書かれている。

『東京物語』(縮刷シナリオ)(1953年11月3日発行、松竹株式会社、28頁)

三段組、発行日がないので、封切日とした。

『松竹映画ウイークリー』No.213「東京物語・若君逆襲す」(1953年11月3日発行、新世界出版社、6頁)

「スタッフ、キャスト、解説、梗概」(2-3頁)
裏表紙:広告「色白の美肌をつくる 特殊薬効クリーム 黒龍(原節子)」

『平凡』昭和二十八年十一月号(1953年11月5日発行、凡人社、250頁)

表紙:高峰秀子
「東京物語 ロケ便り」(49―51頁)
※「原節子と香川京子のスナップ」(49頁)、「海に面したお座敷で笠智衆と囲碁をする香川京子」、「原節子と香川京子」他(50頁)、「原節子と香川京子を演技指導する小津監督」他(51頁)
「東京物語 瀬戸内海ロケ随行記」(209―211頁)
※一部抜粋する。「松竹の好意で今回は、特に雑誌社では「平凡」だけがロケに参加させて貰えるという願ってもない話。おまけに特別二等車で、旅費は松竹宣伝課が出してくれるといううまい話。一行は、案内役の大船宣伝課のサブちゃん、「平凡」のカメラマンはシゲちゃんに、かくいう記者のブンちゃんことぼくの三人づれ。「とにかくね、松竹名物年一本の大作だろ、こんどだけはシンチョウにねきをつけてくれよ、特にキミはオッショコチョイだから‥」「オヤジというのは、小津安二郎監督のニックネームだ。東宝の黒沢明監督が黒沢天皇と呼ばれておそれられていれば、松竹の小津監督は大船の神様ということになっている。」
スナップ「ロケ宿のベランダでボートのファンに応える笠智衆さんと香川さん」、「浄土寺の夜明けのシーンで原節子さんと小津安二郎監督」、「初秋の風がそよぐ納涼船上の原さんと香川さん」(210―211頁)

『松竹座ニュース No.89』(1953年11月12日発行、金沢松竹座、6頁)

「東京物語 物語、配役紹介、スタッフ」(2-4頁)
「東京物語 ストーリー」(5頁)

『キネマ旬報』No.893 第七十八号(1953年11月15日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:シモーニュ・シニョレ
登川直樹「日本映画批評 東京物語」(67―68頁)
※冒頭を引用する。「現代世相のとらえかたにおいて、その表現の様式において、小津安二郎の老成した芸風を如実に物語る作品である。がそればかりでなく、いつに変わらぬ独自の様式のうちにも、この作者がここで新しい試みに踏み出している点で重要な意義をもつ作品であると私はおもう。」

『丸 MARU』第6巻第12号(1953年12月1日発行、総合プレス社、134頁)

池田哲郎「小津監督の芸・色・髭」(40‐50頁)
※田中眞澄編『小津安二郎 戦後語録集成 昭和21(1946)年ー昭和38(1963)年』(1989年5月1日発行、フィルムアート社、493頁)に掲載されているが、冒頭の言葉や小見出しは、全てカットされている。冒頭には、次の言葉がある。「映画俳優なら誰でも一度小津映画に出演したいと考えている。小津は何と云っても日本映画監督の大御所だ。彼の作品には庶民の溜息が流れている。”たそがれ芸術”の作家と評される巨匠の製作態度とその人間性に深く触れてみよう。」。次に、小見出しを拾うと以下の通りである。「小津の監督ぶりを見る」、「名調子『たそがれ芸術』」、「最も日本的な美しさ」、「スロモーといわれる原因」、「すべてお好みの登場人物」、「標準語と訛りと台詞」、「無技巧のカメラ技術」、「彼の映画に悪人は出ない」、「プロデューサーはかく語る」、「彼はなぜ独身なのか」、「確実にあてる監督」。
編集後記欄の上段にある「丸について」というスペースに、菅原通済の一文がある。

『キネマ旬報』No.894 第七九号(1953年12月1日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:ジーン・ティアニイ
「日本映画座談会 上野一郎、滋野辰彦、登川直樹、大黒東洋士、萩正弘」(32―43頁)
※「東京物語」について取り扱っている(33―34頁)。
「新・盛り場風土記 静岡」(87―90頁)
※ちょうど、「東京物語」を上映中の静岡映画劇場のスナップが掲載されている。「東京物語」の大きな看板が見える。

早稲田大学映画研究会『東京物語 観客調査』(1953年12月発行、早稲田大学映画研究会、20頁)

「東京物語 スタッフ、キャスト、梗概」(1頁)
「調査意図、調査概要」(2頁)
※調査意図は、以下の通りである。「戦後、日本映画の企画の貧困さ愈々行き詰まりの感を呈している。かかる混乱せる風潮の中にあり、一年一作に精魂を傾け、『晩春』、『麦秋』、『お茶漬の味』等一連の名作佳篇を作り上げた巨匠小津安二郎監督が、久々に芸術祭参加作品として、その円熟せる枯淡な味わいをいかんなく発揮した『東京物語』は吾々に興味深いものを感じさせると共に他面観客層の中に一種の幅広い”小津族”なるものを作らしめた事は尚一層興味をそそる問題である。早稲田大学映画研究会はかかる年一作の小津作品に対する観客層の期待を考察し加えて『東京物語』の内容について調査を試みた。当研究会としては調査は初めての試みであり、未熟なる学生の研究的資料に過ぎないが鑑賞後のご参考の一助にもなれば幸いである。尚、この調査に当たっては、松竹本社調査のご指導を仰ぎ予期以上の成果を得られましたことを深く感謝しております。」なお、調査日は、11月3日の初日、調査場所は、浅草松竹、新宿松竹、銀座松竹の三会場である。
「観客構造」(3頁)※観客を年齢別でみると、40歳以上が約1割ほどしかなく、40歳未満が約9割である。

松竹本社調査室『第11回営業会議資料別冊 東京物語観客調査』(1953年12月、松竹本社調査室、20頁)

早稲田大学映画研究会の「東京物語観客調査」をベースに作成されたものである。

1954
『映画情報』通巻第十九号第一号(1954年1月1日発行、国際情報社、頁表記なし)

表紙「香川京子」
「映画監督の一頁略傳(その四) 律気で硬派な下町育ち 潔癖なひと 小津安二郎」(最後から二頁目)

『松竹映画目録 自昭和20年~至昭和29年』(1954年2月発行、松竹株式会社、64+16頁)

22年「淑女は何を忘れたか」(7頁)
22年「長屋紳士録」(8頁)
23年「風の中の牝雞」(14頁)
24年「晩春」(19頁)
26年「麥秋」(30頁)
27年「お茶漬の味」(37頁)
28年「東京物語」(46頁)

「第14回都民映画コンクール」(1954年2月5日、東京都教育委員会、東京新聞社)

第14回都民映画コンクール
1954年2月5日 日比谷公会堂
主催 東京都教育委員会、東京新聞社
後援 文部省、東京都、日本映画連合会、日本放送協会、東京都興行組合

第14回都民映画コンクール入賞作品の紹介
「にごりえ」スタッフ、キャスト、梗概
「東京物語」スタッフ、キャスト、梗概

『心』第7巻第4號(1954年4月1日発行、生成會発行、平凡社販売、87頁)

「座談会 風俗と流行」石川欣一、戸川エマ(文化学院)、小津安二郎、松下省二(三越常務取締役)、武原はん(舞踊家)、辰野隆(58―64頁)

『カメラ毎日』創刊号(1954年5月1日発行、毎日新聞社、193頁)

小津安二郎・石川欣一「カラーは天どん 白黒はお茶漬の味 カメラ対談」(148―152頁)
※田中眞澄編『小津安二郎 戦後語録集成 昭和21(1946)年ー昭和38(1963)年』(1989年5月1日発行、フィルムアート社、493頁)に収録されているが、小見出しや挿入写真のキャプションは、全てカットされている。小見出しは、以下の通りである。「ホリの深い外人の顔」、「撮影前に”修正”する」、「カメラの位置のこと」、「国産カラーフィルム」。挿入写真は、4枚、一枚は、小津監督と石川氏が向かい合ったカット、二枚は、小津監督がカメラ撮影しているカットで、そのうち一枚には「十年ぶりだが、ライカを持ちなれた手にキャノンのポーズも堂に入ったもの」のキャプションがある。もう一枚は、小津監督が煙草を持って会話しているカットで、ここには、「『月刊ライカ』の静物写真をほめられてテレくさそうな小津さん」というキャプションがある。

『映画評論』第十一巻第六号(1954年6月1日発行、映画出版社、146頁)

神田貞三「小津安二郎論」(78-79頁)

1955
『早春』台本(1955年発行、松竹撮影所印刷部、154頁)

紐綴じ、発行日がないので、便宜的に撮影年とした。

『シナリオ』第十一巻第六号(1955年6月1日発行、シナリオ作家協会、114頁)

「座談会『早春』快談 《当たる人》小津安二郎・野田高梧、司会:岸松雄」(8―19頁)

『大船スタジオ落穂集 きゃめらさいど』No.16(1955年7月15日発行、松竹大船撮影所宣伝課、1頁)

『早春』という題名

『OFUNA TIMES』No.33~1 TOTAL No.147(1955年8月20日発行、松竹大船撮影所宣伝課、1頁)

「巨匠小津安二郎監督 二年ぶりに待望のメガホン! 『早春』いよいよ撮影開始!」

『OFUNA TIMES』NO.33~2(1955年9月2日発行、松竹大船撮影所宣傳課)

待望久し!巨匠小津安二郎監督が二年ぶりに放つ超特作!
早春 スタッフ、キャスト、梗概、解説

『映画の友』第23巻第9号通巻272号(1955年9月5日発行、映画世界社、156頁

表紙:マリリン・モンロー
小津安二郎・筈見恒夫対談「新作「早春」では、若い人々の生活を描こうと若返りの意気盛んな巨匠小津安二郎監督大いに語る」(106-111頁)
「小津監督と筈見さん、煙草を吸いながらの対談」、「晩春を演出する小津監督」、「宗方姉妹を演出する小津監督」、「東京物語を演出する小津監督」、「麦秋」のカット

『映画旬刊』第1号創刊特別号(1955年10月1日発行、映画旬刊編集委員会編、雄鶏社、166頁)

表紙:デビイ・レイノルズ
表情のニュアンス「早春の岸恵子」(6頁)
グラビア「小津安二郎監督 ”早春”撮影開始!」(9頁)
荻昌弘「”巨匠”という大監督の方々に 絶えざる自己破壊をのぞみたい」(34―35頁)
伊藤宣二「私の快心作 ベストワン 「麦秋」(小津作品)」(39頁)
「芸術祭への陣容 さて目下大船で最大の話題は何といっても小津安二郎監督の二年ぶりの仕事「早春」だ。珍しく若いサラリーマンの世界を描くもので、池部良、高橋貞二、岸恵子、藤乃高子、田浦正巳ら、小津監督にははじめての若い俳優たちが多いのも興味ある点。この作品、いまのところ製作三ヶ月の予定で晩秋には完成の筈だが、凝り性の小津監督のこと、或いは今年の芸術祭には間に合わないかもしれず、そうなると公開は、文字通り来年の早春になってしまうだろう。」(102頁)

『映画旬刊』第2号10月下旬号(1955年10月15日発行、映画旬刊編集委員会編、雄鶏社、144頁)

表紙:ジェニファ・ジョーンズ
グラビア「早春 小津安二郎監督作品」(10-11頁)
※小津監督の「早春」演出風景4カット、そのうち1カットは、現在、本「小津ネット」ホームページのトップページを飾っているカットである。

『シナリオ』1955年11月号『早春』特集号(1955年11月1日発行、シナリオ作家協会、134頁)

表紙・扉 小津安二郎
目次・カット 浜田辰雄
見弴「會話」(8-9頁)
津村秀夫「黄昏芸術の変化について-小津監督の『早春』を機会に」(10-15頁)
岸松雄「野田高梧 シナリオ作家銘々伝(一)」(16-23頁)
浜田辰雄「“早春”のセット」(24-27頁)
菅原通済「早春」(28-29頁)
原研吉「小津先生と小津組と僕」(30-35頁)
田代幸蔵「『早春』によせて師を語る」(36-37頁)
黒木川喬「小津さんを恋わずや」(37-38頁)
山内静夫「“早春”雑感」(39頁)
池田忠雄「むかしのはなし」(40-41頁)
野田高梧「『早春』日記」(42-46頁)
池部良・淡島千景「対談 『早春』」(47-48頁)
「野田高梧シナリオ目録」(49-53頁)
「小津安二郎監督作品目録」(54-55頁)
シナリオ「早春」(56-94頁)

野田高梧他『現代教養文庫127 シナリオ入門』(1955年11月30日発行、社会思想研究会出版部、197頁)

野田高梧「シナリオの方法」(7-42頁)

『中央公論』第70年第12號第807號(1955年12月1日発行、中央公論社、336頁)

「映画界 これでいいのか 出席者 永田雅一、小津安二郎、川喜多長政、大澤善夫、溝口健二」(192―201頁)
※一部抜粋する。川喜多「外人が、日本へ来て日本の料理を食べるときに我々は一番最初にはすき焼きを食べさせるんですね。それを外人は美味しいと言って食べるが、そのうち天ぷら、うな丼、それから、お寿司が分かったりして、最後には小津さんの『お茶漬けの味』のわかる外人もこの頃出ているんですよ。」

『OFUNA TIMES』NO.33~8(1955年12月20日発行、松竹大船撮影所宣傳課)

冬の海辺で初夏のハイキングシーン
名匠小津安二郎監督が三年ぶりに銀幕を飾る芸術巨篇
湘南茅ケ崎で大ロケ転回

1956
スピードポスター『早春』(1956年1月、松竹株式会社)

「東京物語」以来、満二年の構想成って小津安二郎監督遂に起つ!
脚本 野田高梧・小津安二郎
都会の一組の夫婦を中心に若い世代の生活と愛情と悲哀を見事に描いた最高の名作!
★日本映画第一線スタアを総動員した豪華キャスト★ 早春

プレスシート『早春』(1956年1月、松竹株式会社)

二年ぶりに放つ芳醇な小津芸術の最高峰!
早春
スタッフ、キャスト、梗概、解説、放送原稿、配列表、文案

野田高梧・小津安二郎『シナリオ新書・5 松竹映画シナリオ 早春』(1956年1月15日発行、映画タイムス社、157頁)

「口絵(「早春」6葉、「小津安二郎」、「野田高梧」、「早春ロケ」)」
「解説」(3頁)
「スタッフ」(4頁)
「キャスト」(5頁)
「シナリオ 早春」(6‐147頁)
津村秀夫「小津安二郎の芸術」(148―150頁)
「作者紹介 小津安二郎・野田高梧」(151―153頁)

『松映ニュース』No.4(1956年1月15日発行、名古屋松竹映画劇場、8頁)

「早春完成記念 フォト・コンテスト作品募集
「早春」の歓声を記念して、左の要項によりフォト・コンテストを行います。奮ってご応募下さい。
一、テーマ 早春
一、サイズ 自由
一、枚数 制限なし
作品の裏に住所氏名を必ず記入のこと
一、締切り一月三十一日
一、賞金及び商品 一等賞金 参萬円及び副賞(一名) 二等賞金 壱萬円及び副賞(三名)
主催 松竹株式会社
後援 富士写真フィルム株式会社」(3頁)
「構想三年、遂に成る! 名匠小津安二郎作品 長らくお待たせしました 1月29日大公開」(7頁)

『松竹ニュース』No.224(1956年1月23日発行、金沢松竹座、4頁)

早春 二十八日堂々封切!!
「満三年の沈黙を破る全映画界注目の小津安二郎監督の最高芸術作!!
脚本・小津安二郎・野田高梧 監督・小津安二郎
キャスト ☆小津安二郎監督のこと

『松竹ニュース』No.5~5 「近日上映『早春』」(1956年1月、銀座松竹映画劇場・松竹株式会社事業部、4頁)

「早春 スタッフ・キャスト他」(4頁)
発行日がないので、封切日とした。

『松竹NEWS』NO.5~7(1956年1月、銀座松竹映画劇場・松竹株式会社事業部、4頁)

「早春 ものがたり、スタッフ、キャスト」

前売券『早春』(1956年1月28日、松竹株式会社)

満三年の沈黙を破る小津安二郎監督の最高作
早春 28日堂々封切
庶民の悲哀と愛情と善意が胸を打つ名作!

『早春』B5横型チラシ(1956年1月29日発行、松竹株式会社、両面)

表:待望小津安二郎監督の最高傑作、グラビア13カット
浦:キャスト、梗概

『早春』(縮刷シナリオ)(1956年1月29日発行、松竹株式会社、34頁)

三段組、発行日がないので、封切日とした。

『早春』(1956年1月29日発行、日本映画宣伝社、6頁)

表紙:岸恵子、池部良
「スタッフ、キャスト」(2頁)
「物語、解説」(3-4頁)

『早春』(1956年1月29日発行、松竹株式会社東京支店邦画部宣伝課、10頁)

表紙:岸恵子、池部良
「小津安二郎監督のこと」(1頁)
「解説」(2頁)
「物語、スタッフ」(3-4頁)
「グラビア 7カット」(5-6頁)
「池部、高橋、岸の豪華顔合せに 見物人は大喜び、蒲田、六郷ロケ・ルポルタージュ ロケスナップ 5カット(全てに小津監督)」「淡島千景・池部良 初顔合せ対談」(7-8頁)
「池部、岸の息づまるラブシーン、小津作品、初の接吻場面、ゴシップ集 グラビア10カット(うち6カットに小津監督)」(9-10頁)
裏表紙:「小津監督快心のクランク 茅ケ崎ロケ報告」

『松竹直営広小路中劇ニュース』(1956年1月、広小路中劇)

今週の御案内 
早春 名匠小津安二郎監督作品! スタッフ、キャスト

『高校コース』第一巻第十一号(1956年2月1日発行、学習研究社、354頁)

小津安二郎「宇治山田に学んだ頃」(58-59頁)
※「青春時代を顧みて」という特集で、小津監督の他に、大家壮一、サトウ・ハチロー、杉靖三郎(東京教育大教授)、水谷八重子の4名のものが掲載されている。小津監督と水谷八重子の文末には(文責在記者)とある。
冒頭を引用する。
「僕は東京で生まれたが、中学時代は宇治山田市で過ごした。伊勢神宮のある今の伊勢市で、静かな町である。その町の美しい風物の思い出は今でもありありと残っている。僕の学んだ中学は、生徒が全部で五百人ばかりの県立の学校だった。当時の田舎の中学と言えば、そこに学ぶ生徒も、中学を卒業して、そのまま社会に出て実業につく人が多かったし、またその上の学校もなかったので、その地方では、まあまあ最高の教育機関だった。しかし、その中学校の校風はどちらかと言えば、表面上の格式を重んじていたため、非常に堅苦しいものであった。したがってそういった環境の学校に学んだ僕にとって、学校生活での楽しい思い出はあまりない。学校の先生にもあまり好意を持てなかった。学問的な意味での敬意は払えたが、人間的には親しみが持てなかった。しかし、友達はたくさんいた。そして、多くの友と、共に語り、共に遊ぶのが、当時の最も楽しいことであった。だが、それらの友の中でやはりのちのちまで自分の心の中に残っている友は、いろいろなことをお互いに話し合った友である。」

『早春/恋と金・お嬢さん女中』(1956年2月12日、上田映画劇場、上田中央劇場)

日本映画が遂に生んだ最高芸術作!大松竹超特作
邦・洋画ファンに贈る絶妙の名演出
小津安二郎監督作品 文部省選定 優秀映画鑑賞会推薦 東京都教育庁選定

『早春/若い樹』(1956年2月19日、末廣劇場)

19日~25日まで!待つこと久しい!名匠小津が贈る香り高き最高芸術作!歴史的公開成る!!
「晩春」「麦秋」「東京物語」等幾多の映画賞に輝く
小津安二郎監督の最高芸術作!感動の名画
早くもベストテン第1位決定的!!
堂々2時間半感動の連続!!

小津安二郎・野田高梧『日本シナリオ文学全集7 小津安二郎・野田高梧集』(1956年2月20日発行、理論社、254頁)

「晩春」(3‐47頁)
「麦秋」(49‐109頁)
「東京物語」(111‐169頁)
「早春」(171‐242頁)
津村秀夫「解説」(243‐254頁)

前売入場券『早春』(1956年2月23日、ミナト座)

前売り入場券 120円ノ処90円
若い人達の愛情と生活の問題を描いた最高芸術作
小津安二郎監督 早春

『映画旬刊』第11号(1956年3月1日発行、雄鶏社、148頁)

表紙:スーザン・ヘイウォード
尾崎宏次「特集グラフ・映画作家訪問 小津さんを訪ねる」(43-46頁)
※一部抜粋する。「玄関を入ると、直ぐに六畳くらいの日本間があって、小さな囲炉裏が掘ってあった。きれいな障子と白い唐紙が、清潔で、なんの飾りっ気もなかった。右の棚にツボと仏像がおいてあり、正面に「游於芸 秋艸道人」という掛軸がかかっている。会津八一氏の書で、ふんわりとした筆の運びが、いかにも芸にあそぶという感じをただよわせていた。岸田劉生の絵も三点あった。武者小路実篤の絵は、赤い唐辛と青い唐辛をかいたものがあって、このひとらしく、-思い切って青く、思ひ切って赤く、思ひ切って辛し、辛くない唐辛又面白し」と書いてあった。辛くない唐辛又面白し、というのは、この絵をみた武者小路氏の子供が、「このなかには辛くないのが描いてあるよ。」といったので、あとで氏が書き足した字句なのだそうだ。小津さんは年老いた母親とふたりで住んでいた。部屋にはなんの装飾もなかった。庭には白梅と紅梅がちょうどきれいに咲いている頃であった。コタツに入ってウイスキイを飲みながら話しているが、ふと見ると、いろんな売薬を並べた箱が目についた。-みんな二日酔いの薬でね。-その入れ物が珍しいですね。-運び膳ですよ。湯河原辺りで使っている。そして、その上の棚には、洋酒のビンがずらりと並んでいた。-毒と薬を一緒に置いてあるようなもんですね。そう言って笑ったが、その洋酒のビンの並んでいる左の隅に、劉生の小さなスケッチが掛けてあった、雀右衛門を描いたものだった。」「ははァと、そばにあったたんすに目をやると、正面に大きく鯨とかいた金具がついていた。-鯨というのはなにか意味があるんですか?-ぼくの昔のペンネームからとったもんですよ。さあ、二十六、七年も前ですかね。僕は燻屋鯨兵衛というペンネームでシナリオを書いていた。「生まれてはみたけれど」のときに使っています。清水宏が鯨屋当兵衛でね。僕も清水もクジラが好きだったんですよ。何でも大きなものが好きだった。そのころ作ったタンスで、当時百円しましたかな。燻屋ですか。ぼくタバコばかり吸っていたから。」

『映画旬刊』第12号(1956年3月15日発行、雄鶏社、146頁)

表紙:マリナ・ヴラディ
「特集グラフィック 映画劇場解剖9 東劇」(23-26頁)
※「正面玄関の右地下に試写室があるが、偶然にも小津安二郎監督が志賀直哉さんを案内して出て来られた。「早春」の試写の日だった。」二人はコート姿。
大黒東洋士「日本映画批評 早春」(72頁)

『映画芸術』第四巻第四号(1956年4月1日発行、共立通信社出版部、106頁)

「学生と映画」(32-39頁)
※慶応、お茶の水、立教、法政、東京、早稲田、日本、明治の映画関係の研究会の学生が出席して、映画について議論されている。37~38頁において、小津監督の「早春」について、否定的な評価が語られている。当時の学生の小津映画に関する評価の一端をみることができる。
小倉真美「小津安二郎氏への手紙 -「早春」を見て想う-」(48-51頁)
※筆者は、「自然」編集長。28年前から、京都で学生だった時に、「肉体美」を見て、その諷刺に感心して、それ以来、ずっと小津作品を見てきたという筆者による。小津映画回顧と、「早春」についての評である。
杉山平一「作品研究 早春」(52-53頁)

『映画藝術』第四巻第九号(1956年9月1日発行、共立通信社出版部発行、102頁)

戸井田道三「あまりに微温的な -小津安二郎とコメディイ-」(28-29頁)

菅原通濟『六十の味』(1956年10月15日発行、常盤山文庫出版部、338頁)

「早春 映画早春始末記」(111―129頁)
※冒頭を引用する。「押しかけ女房以上のネバリを見せたので、小津安二郎サン野田高梧サンが、二年越苦心の”早春”に出してもらうことに成功?した。暑いさなから、お正月まで、大船に通い見学した。度を越した熱心ぶりに、或は両君も持てあましたかも知れない。そのときのうれしい数々を綴ってみる。正確に云えば、私の出番は一分間で、百四十四分の一、特別出演したことになる。」「新年会」、「娘の入学試験」、「おでんに恨みあり」、「自画賛」の小見出しが付けられている。

1957
『東京暮色』台本(1957年発行、松竹撮影所印刷部、124頁)

紐綴じ、発行日がないので、便宜的に封切年とした。

菅原通濟『ほど・ほど』(1957年発行、常盤山文庫出版部、231頁)

「”東京暮色”(マージャン屋にて)」、「”東京暮色”の出を待つ菅原通濟と有馬稲子」冒頭写真(1―2頁)
「小津長屋」(56―60頁)
※冒頭を引用する。「小津映画のよさは、一家揃って愉しめるところにある。それも、音もなく流れる大河に水鳥がおりたって、面白おかしなかっこうで、狂い遊んでるような図で、鰐が飛び込んだり、河童が首を出すわけではない。庶民のありきたりの日常の生活のなかに、云い知れぬ愉しさをさがし求め、庶民とと共に愉しむので、それが為めには、撮影する者も、俳優も、作者も、共に愉しむのが小津映画である。そこには、ケレンもなければハッタリもない。ましてや何とか賞を求めるでなし商売ケも何もない。芸術作品だ、なんて云われるのは周囲のものが勝手につけたお題目で、だしのいい味噌汁で御飯をよくかみしめながら食う甘い味である。」

『キネマ旬報』No.983 第一六八号(1957年2月1日発行、キネマ旬報社、266頁)

表紙:ナタリー・ウッド
「キネマ旬報1956年度内外映画ベスト・テン 第6位 早春」(36-38頁)
「映画人と家庭 小津安二郎」(79頁)
※コタツで談笑する小津安二郎と母、コタツの上に、東裁の湯飲み二つ、壁に小林古径の鮒の絵が掛けてある。
「シナリオ 東京暮色」(171-191頁)
「キネマ旬報ベスト・テン30回特別グラフィック」(197-225頁)
「キネマ旬報ベスト・テン一覧表」(229-237頁)
※224頁に監督別キネマ旬報ベスト・テンが掲載されている。小津監督は1位が6本の断トツ。

『速報 東京暮色』(1957年、松竹株式会社)

速報 東京暮色
日本映画を代表する最高スタアを揃えて
名匠小津安二郎監督が
親と子の愛情の絆を通して
人生哀感の姿を描いた感動の名篇!

『OFUNA TIMES』No.50~1(1957年2月5日発行、松竹大船撮影所宣伝課、1頁)

「名匠小津安二郎監督が日本映画を代表する最高スタアを揃えて親と子の愛情のしがらみを哀歓こめて描く 感動の名篇 東京暮色 撮影始まる」
ショートストーリー

『OFUNA TIMES』NO.50~2 TOTAL No.16(1957年2月11日、松竹大船撮影所宣伝部)

小津安二郎監督が豪華最高配役を揃えて哀感をこめて描く感動作
スタッフ、キャスト、解説、ものがたり

『キネマ旬報』No.985 第一七〇号(1957年3月1日発行、キネマ旬報社、154頁)

表紙:マーサ・ハイヤー
「キネマ旬報一九五六年度ベスト・テン表彰式」(8頁)
※「1月25日、築地東劇においてキネマ旬報ベスト・テン表彰式及び30回記念式典が盛大に行われた。」小津監督のキネマ旬報ベスト・テン三十回記念の盾の画像あり。
飯田心美「『東京暮色』と小津監督」(42-43頁)
※小津監督と飯田心美のツーショット写真あり。
「キネマ旬報一九五六年度ベスト・テン表彰式祝賀会」(54-55頁)
※「津村秀夫、高峰秀子、田中絹代、小津監督」(54頁)、「津村秀夫、木下恵介、小津監督、キネ旬大橋社長」(55頁)のショット

野田高梧・小津安二郎『シナリオ新書・21 松竹映画シナリオ 東京暮色』(1957年3月10日発行、映画タイムス社、79頁)

表紙:原正治郎
スチル写真「孝子・原節子と明子・有馬稲子」、「浦邊粂子」、「原節子・有馬稲子」、「田中春雄」、「有馬稲子、田浦正巳」、「笠智衆、山村聡」、「高橋貞二、有馬稲子、須賀不二夫、長谷部朋香」、「野田高梧」、「有馬稲子の化粧を直す小津安二郎監督」
中表紙(1頁)
「かいせつ」(3-4頁)
「小津安二郎の作品、野田高梧の作品」(5頁)
「スタッフ」(6頁)
「キャスト」(7頁)
「シナリオ 東京暮色」(8-79頁)

『キネマ旬報』No.986 第一七一号(1957年3月15日発行、キネマ旬報社、146頁)

表紙:ホープ・レンジ
「特別口絵 華燭の典を挙げた佐田啓二さん」(8頁)
※「左より、木下恵介、新郎、新婦、小津安二郎、佐野周二夫妻の諸氏」

『松竹社報』第84号(1957年4月発行、松竹株式会社調査室、16頁)

表紙:松竹春期超大作「東京暮色」撮影中の一コマ。有馬稲子(左)に演技をつける小津安二郎監督(左)
「ゴールデンウイークを席捲する巨編 東京暮色」(8頁)

『東京暮色』(縮刷シナリオ)(1957年4月30日発行、松竹株式会社、27頁)

三段組、発行日がないので、封切日とした。

『松竹映画超特作 東京暮色』(1957年、松竹株式会社)

構想一年余!感動胸を打つ映画芸術の真髄!
名匠小津安二郎監督作品 東京暮色
解説、ストーリー、スタッフ、キャスト

『東京暮色』(1957年4月30日発行、新世界芸能社、6頁)

表紙:原節子、有馬稲子、高橋貞二、山田五十鈴、笠智衆、田浦正巳、杉村春子、山村聰
「解説」(1頁)
「小津安二郎監督が豪華最高配役を揃え哀歓こめて描く感動作 スタッフ、キャスト」(2頁)
「東京暮色の話題を追って 一月二十二日から三月十六日」(3-4頁)
「ものがたり」(5-6頁)
裏表紙:ヨウモウトニック広告

『松竹NEWS 東京暮色/折鶴さんど笠』(1957年4月30日発行、松竹株式会社、8頁)

小津安二郎「正調の大船調を」(2頁)
「劇を織る人々、有馬稲子、原節子、山田五十鈴、高橋貞二、田浦正巳、杉村春子、山村聰、笠智衆」(2-3頁)
「スタッフ、キャスト、あらすじ」(4-5頁)

『東京暮色』(1957年4月30日発行、松竹株式会社東京支店邦画部宣伝課、10頁)

表紙:原節子、有馬稲子
「スタッフ、解説、物語」(1-2頁)
「正調の大船調がこれだ 世間の批判に応える小津監督」(3頁)
「日本映画の良識と謳われる 小津芸術の輝かしき系譜 キネマ旬報ベストテン入選一覧表」(4頁)
「今までにない劇的要素を盛り込んだ小津芸術 グラビア8カット」(5-6頁)
「じっくり腰を据えた小津監督! 有馬・原の初顔合せ セリフのやり直し二十回、映写3分間の場面も2日間がかり 全快の山田五十鈴も大張り切り 緊張で体がふるえる」(7-8頁)
「撮影余話 ネコちゃんがコップ酒 志賀氏セット訪問 麻雀出来ぬ麻雀狂」(9頁)
広告「西田工学工業(ウェスタ―オートロール)」「小田急 新緑割引」(10頁)
裏表紙:続く大作、傑作陣!

見開き前売券『東京暮色』(1957年5月1日、松竹株式会社)

見開き前売券『東京暮色』
同時上映『折鶴さんど笠』
キャスト、ストオリイ

『上野松竹ニュース』No.174(1957年5月1日、上野松竹)

上野松竹ニュースNo.174 東京暮色
物語り、スタッフ、キャスト
小津安二郎「正調の大船調を」

『平凡』第十三巻第七号(1957年5月5日発行、平凡出版、314頁)

「おめでとう 佐田啓二さん」(29-31頁)
※「女房の方はもういりませんが、演技賞は何度もらってもよろしいから皆さんのご指導よろしきを得て‥」仲人役の小津安二郎監督がユーモアたっぷりに新郎を紹介すれば、佐田新夫妻も、お仲人の木下監督も何となく照れくさそう」(31頁)
「スタジオ告知版『東京暮色』」(51頁)
「ゴールデン座談会 3つの結婚」(津島恵子、佐田啓二、岸恵子)(154-161頁)

特別団体割引券『東京暮色』(1957年5月15日、シネマパレス)

特別団体割引券 東京暮色
名匠小津安二郎監督作品
構想一年余!感動胸うつ映画芸術の真髄!
「東京物語」から「東京暮色」へ是非見たい小津作品

『読売報道写真集1957』(1957年5月15日発行、読売新聞社、136頁)

「佐田啓二 恋のクランク・アップ 2月28日」(19頁)
※「31年度のブルー・リボン賞男優主演賞をとった松竹大船の二枚目佐田啓二(31歳)は、恋仲の撮影所レストラン”月ヶ瀬”の娘杉戸益子さん(28歳)と結婚、仲人は小津・木下の両独身監督」

『NAMIKI-ZA』Weekly No.164(1957年6月4日発行、銀座並木座、4頁)

小津安二郎「正調の大船調を」(1頁)
「東京暮色 松竹大船作品 昭和32年5月1日封切
 物語、スタッフ、キャスト」(2-3頁)
「解説 期待される小津芸術」(3頁)

『特集文藝春秋 映画讀本』(1957年6月5日発行、文藝春秋新社、228頁)

表紙:山本富士子(撮影:木村伊兵衛)
津村秀夫「批評家雑記帳」(106―109頁)
※一部抜粋する。「ハムの贈り主 戦後の小津安二郎と野田高梧は毎年一作のシナリオを製作するのに茅ケ崎の旅館に陣取って書くのを常としているが、数年前の『東京物語』の時は、誘われるままに、わたくしも陣中見舞に行った‥。五月だというのに、二人は汚い部屋でコタツにあたって向かい合い、しょんぼりしていた。この陽気にコタツとは、風邪でも引いたのかというと、‥。いや、このコタツには火が入っていないという。」(108―109頁)
山本嘉次郎「情炎の男・英パン忠魂碑」(180―186頁)
※一部抜粋する。「斎藤達雄が、長いアゴをしゃくりながら、相槌を打った。「私も英パンさんとは、松竹蒲田時代、小津さんの写真で、よく、おつきあい(共演)をしたんでしたが、あの天下一品ウルサイ小津さんが、英パンさんの演技については、何ひとつ、コレポッチもいわないんですからな。小津さんがいってました。英パンって、オレの考える以上のことを演るんだ。畜生!と思ったことが、ときどきあるね‥まったく、あのひとの芝居と来たら、頭の良い動きでね、ちっとも無駄がない。」

『興行情報』No.561(1957年7月5日発行、興行情報社、12頁)

「映画各社の内幕シリーズ 松竹の内幕 松竹の現有監督陣 小津安二郎」(3頁)
※冒頭を引用する。「大正十二年蒲田撮影所入社というから、その経歴は松竹とともにあったようなもの。その間松竹から一歩も外に出ずに営々と映画を作って来たのを見れば小津安二郎ほど蒲田及び大船調精神を体得している人は外にいないといってよい。そしてその間、つねに松竹の代表作としてもいいような、優秀な良心作を続々発表し、その面目を支えたのだから、松竹にとって小津安二郎の存在は大きい。」続く

『キネマ旬報』別冊 日本映画代表シナリオ全集①(1957年12月25日発行、キネマ旬報社、178頁)

「シナリオ 生れてはみたけれど」(153-165頁)
伏見晃「「‥けれど」もののこと」(155頁)
小林勝「滲み出る日本の歩み 収録シナリオ解説 生れてはみたけれど」(177-178頁)

1958
『キネマ旬報』No.1009 第一九四号(1958年1月1日発行、キネマ旬報社、210頁)

表紙:シャーリー・ジョーンズ
「大根役者シナリオ 脚本:野田高梧、小津安二郎」(187―205頁)
小津安二郎「作者のことば」(189頁)

『映画評論』第十五巻第三號(1958年3月1日発行、映画出版社、166頁)

小津安二郎「石原裕次郎に想う」(談)
※「石原慎太郎君にはニ、三度会ったことがあるが、なかなか好青年だ。そこで、その弟裕次郎君について何か語れというのだが、実は彼の作品は一本も見ていないのだ。もっとも非常に関心は持っている。」

『中央公論』第73年第3號第837號(1958年3月1日発行、中央公論社、394頁)

岩崎昶「小津安二郎の芸術」(267―274頁)
※構成は、「1 彼の低い姿勢」、「2 彼と戦争」、「3 彼の開拓したもの」、「4 彼の追求するもの」、「5 怒りから嘆息へ」、「6 彼が壊すべきパターン」

『キネマ旬報』別冊 日本映画代表シナリオ全集②(1958年3月5日発行、キネマ旬報社、168頁)

「シナリオ 出来ごころ」(135-149頁)
池田忠雄「「出来ごころ」の頃」(137頁)
小津安二郎「モダンな庶民もの」(137頁)
小林勝「シナリオとその背景-収録シナリオ解説 出来ごころ」(167-168頁)

『キネマ旬報』別冊 日本映画代表シナリオ全集③(1958年5月5日発行、キネマ旬報社、192頁)

「シナリオ 限りなき前進」(39-55頁)
脚本 八木保太郎
原作 小津安二郎
監督 内田吐夢
内田吐夢「「限りなき前進」の思い出」(41頁)
八木保太郎「忘れられない作品」(41頁)
「シナリオ 戸田家の兄妹」(121-143頁)
池田忠雄「「戸田家の兄妹」の頃」(123頁)
小林勝「シナリオの歩んできた道ー収録シナリオ解説―限りなき前進」(189頁)
小林勝「シナリオの歩んできた道ー収録シナリオ解説―戸田家の兄妹」(191頁)

『OFUNA TIMES』No.144 91~3(1958年6月14日発行、松竹大船撮影所宣傳課、1頁)

「空前の三大女優の顔合せを中心に綴る 名匠小津安二郎監督初の色彩藝術大作! 
小津安二郎監督 演出に当って
有馬稲子 再び小津作品に出演して
山本富士子 他社出演の喜びと共に
久我美子 恐いような嬉しいような」

『キネマ旬報』No.1021 第二百六号(1958年6月15日発行、キネマ旬報社、152頁)

表紙:スージー・パーカー
「筈見恒夫君を悼む」(52―53頁)
「今日の傍訳5 笠智衆と演技の年輪」(67―70頁)
笠智衆「わたしと小津先生」(67―70頁)
筈見恒夫「笠智衆と平凡の強み」(68―69頁)

『OFUNA TIMES』No.148 91~4(1958年6月19日発行、松竹大船撮影所宣伝課、1頁)

「あっちこっち、眞ッ盛りの彼岸花で、それを見ているうちに、‥ちっとも悲しいわけじゃないんですけど、どうしてだか、へんに涙が零れちゃってね‥(小説”彼岸花”より) 車窓から眺めた彼岸花の風景は、人生流転の哀歓か‥ 彼岸花」

『OFUNA TIMES』No.152 92~4(1958年6月26日発行、松竹大船撮影所宣伝課、1頁)

「爽秋の銀幕に贈る名匠の色彩藝術大作! 彼岸花
佐分利信 実人生の父親に扮して
田中絹代 世の奥様方に御覧頂けるような
佐田啓二 十一年目の誇り
高橋貞二 巧まざるユーモアを
笠智衆  再び光栄に思うこと
桑野みゆき 小津先生はお優しい
渡辺文雄 初出演の興奮
浪花千栄子 勿体ないくらいの喜び」

『キネマ旬報』第208号通巻1023号 創刊四十年記念号①(1958年7月1日発行、キネマ旬報社、190頁)

飯田心美「日本映画を創った人々 小津安二郎」(64-65頁)
小津安二郎「私とキネマ旬報 重宝な記録」(79頁)

『OFUNA TIMES』No.154(1958年7月10日発行、松竹大船撮影所宣伝課、1頁)

「初の色彩作品に演出生活三十有余年の情熱を傾ける名匠ひさびさの芸術大作!
★珍しい三監督の競演?
★模範家庭さながら
★赤いヤカンの初演出記」

『キネマ旬報』臨時増刊 名作シナリオ集(1958年7月10日発行、キネマ旬報社、160頁)

「シナリオ 彼岸花」(9-30頁)
野田高梧「一言(六月十日記)」(11頁)

『毎日グラフ』第十一年第二十九号通巻四二九号(1958年7月13日発行、毎日新聞社、30頁)

表紙:中島淑恵
対談 小津安二郎・横山隆一「天下国家を論じ損なう」(18-19頁)
※「彼岸花」を撮影中の小津安二郎氏が、漫画映画「ひゅうたんすずめ」を製作中の横山隆一氏を、鎌倉のオトギプロ・スタジオに訪ねた。隆ちゃん、小津ちゃんと呼び合う、ごく親しい仲だ。まず、酒の話から始まる。小津「初めてカラー映画をとってみて、小道具にニセ物を使えないということを発見した。小津コレクションは全部出動したが、まだ足りない。絵にしても複製はだめだ。カラーで撮影することをすすめたのは、隆ちゃん、君が最初だったな。」

岩崎昶『日本映画作家論』(1958年7月20日発行、中央公論社、340頁)

「彼岸花撮影中の小津監督」「風の中の牝雞撮影中の小津監督」(グラビア15頁)
「十一 小津安二郎の芸術」(193-213頁)

『OFUNA TIMES』No.158 91~7(1958年7月26日発行、松竹大船撮影所宣伝課、1頁)

「親たち娘たちの愛の交錯を描く待望の名作!
選ばれた二新人、辰平から現代青年へ 佐田初出演で天晴れ及第、落涙場面を使い分ける有馬の好演」

『映画評論』第15巻第8号(1958年8月1日発行、映画出版社、154頁)

ドナルド・リチイ{日本の伝統-小津安二郎論―」(42-46頁)

『Shochiku Reports No.30』(1958年発行、松竹株式会社、6頁)

裏表紙:彼岸花

暑中見舞い葉書『彼岸花』(1958年8月発行、松竹株式会社九州宣伝課、1頁)

「暑中お見舞申し上げます アグファカラー総天然色 彼岸花」

『キネマ旬報』No.1026 第二一一号(1958年8月1日発行、キネマ旬報社、150頁)

表紙:パイパー・ロウリー
「一面広告 彼岸花」(68頁)
「編集室」(150頁)
※「岩崎、飯田両氏とともに、「彼岸花」撮影中の小津安二郎監督を大船にたずねる。‥」

野田高梧・小津安二郎『シナリオ文庫・55 映画シナリオ 彼岸花』(1958年8月5日発行、映画タイムス社、50頁)

表紙:有馬稲子
グラビア「平山・幸子(佐分利信・山本富士子)、「長沼・文子(渡辺文雄・久我美子)(1頁)
グラビア「平山・河合・堀江(佐分利信・中村伸郎・北竜二)」、「幸子(山本富士子)」、「久子(桑野みゆき)」(2頁)

「解説」(6‐7頁)
「彼岸花ものがたり」(8‐9頁)
塙英夫「シナリオ『彼岸花』を読んで」(10‐11頁)
「スタッフ」(11頁)
「シナリオ彼岸花」(12‐49頁)
「広告・奥付」(50頁)
※小津安二郎「演出について」(5頁)の冒頭を引用する。「今度はじめてのカラー作品で、また暫らくぶりに原作ものを手がけるのだが、ぼくは昔から今度の原作者里見先生の愛読者で、従来のぼくのオリジナルものには度々ヒントを頂いていた位だ。」

『Shochiku Reports No.31』(1958年発行、松竹株式会社、6頁)

表紙:彼岸花

『週刊朝日』第63巻第33号通巻2029号(1958年8月10日号、朝日新聞社、86頁)

小津安二郎「母を語る20 ここが楢山」(46頁)
※一部抜粋する。「母は明治八年生まれ。三男二女ををもうけて、僕はその二男に当る。他の兄妹は、それぞれ嫁をもらい、嫁にゆき、残った母と僕との生活が始まってもう二十年以上になる。一人ももの僕の処が居心地がいいのか、まだまだ僕から目が離せないのか、それは分からないが、とにかく、のんきに二人で暮している。」

『キネマ旬報』No.1027 第二百十二号(1958年8月15日発行、キネマ旬報社、150頁)

表紙:クリスティーヌ・キャレル
「鼎談 酒は古いほど味がよい『彼岸花』のセットを訪ねて 小津芸術を訊く 小津安二郎、岩崎昶、飯田心美」(44―49頁)
※有名な小津監督の言葉「なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従う。」が、岩崎や飯田が小津監督に大型スクリーン(ワイド)やパンを何故やらないのかを聞いた返答として発せられた。
具体的には、「性に合わないんだ。ぼくの生活条件として、なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う。芸術のことは自分に従うから、どうにもきらいなものはどうにもならないんだ。だからこれは不自然だと云うことは百も承知で、しかもぼくは嫌いなんだ。そう云うことはあるでしょう。嫌いなんだが、理屈にあわない。理屈にあわないが、嫌いだからやらない。こういう所から僕の個性が出て来るので、ゆるがせにはできない。理屈にあわなくてもぼくはそれをやる」と続く。

里見弴『彼岸花』(1958年8月30日発行、角川書店、223頁)

「彼岸花」(5―56頁)
「山小屋」(57―81頁)
「臥柳自生枝(ぐわりうおのづからえだをしやうず)」(83―100頁)
「ノイローゼ」(101―129頁)
「火蛾(ひとりむし)」(131―164頁)
「薄れ行く燈」(165―176頁)
「原田文書に関する記録」(177―219頁)
「あとがき」(220―223頁)
※あとがきより一部抜粋する。「小津安二郎、野田高梧の両君は、私の親しい友達だが、二十年来、原作のあるなしに拘らず、映画のシナリオを合作して、世に「名コンビ」と謳われているし、現にまた、数か月間も旅館に起居を共にしながら、仕事に勤しんでをられるところへ、心なくもお邪魔に罷り出たこともある。が、依然として共同制作の骨法は、私には不可解なものだった。ところが、それこそ「不思議な御縁」とでも言はうか、今年の正月、小津君から、私の原作を映画にしたい、との申出があり、それならば著作のあれこれを詮議するより、いっそ映画化されることを意識して、新たに一作を書きおろさうではないか、との相談が一決し、早速、小津、野田両君と三人で湯河原に滞在し、どうやらおほあらましの筋が立って、嘗てはゴンクール兄弟を不思議がった私自身が、思ひがけなくもその轍を踏むことになった。もっとも、両君は両君で、初めからシナリオを作る気だし、私は私で、ぼぼ似たような筋の小説を書けばいいので、正確な意味での合作とは言へないが。こんな経緯があって、私の作としてはいくぶん毛色の変ったこの作品が出来上がったので、だいぶ両君のお知恵もはいっているわけだ。この作品が、そういふ制約の下に、多少なりとも歪められているかどうか、そこは読者のご判断に任せる。昭和三十三年六月號の文藝春秋に発表。」

スピードポスター『彼岸花』(1958年9月、松竹株式会社)

日本映画最高の豪華顔合せ!
原作 里見弴 脚本 野田高梧・小津安二郎
名匠小津安二郎監督の香り高き名作!
アグファカラー・総天然色
彼岸花
平和な家庭に思わぬ波紋を投げた娘の結婚問題!
スタッフ、キャスト、物語、解説
小津安二郎「演出に当って」
宣伝文案、放送原稿

プレスシート『彼岸花』(1958年9月、松竹株式会社中部支社)

三大女優はじめ日本映画最高の顔合せで贈る名匠小津安二郎監督の女性大作!
昭和三十三年度芸術祭参加作品 アグファカラー総天然色
彼岸花
かいせつ、スタッフ、キャスト、ものがたり
小津安二郎「演出に当って」
文案、放送原稿、配列表

スピードポスター『彼岸花』(1958年、飯劇)

総天然色 彼岸花
名匠小津安二郎監督が描く香り高き文芸大作!

『キネマ旬報』No.1028 第二一三号(1958年9月1日発行、キネマ旬報社、150頁)

表紙:コニー・スティーブンス
特別口絵「里見弴原作『彼岸花』の小津組」(8頁)
新作グラビア「彼岸花 小津安二郎作品」(26-27頁)
※スチル写真5カット、うち3カットに小津監督。

『キネマ旬報』別冊 日本映画代表シナリオ全集➄(1958年9月5日発行、キネマ旬報社、176頁)

「シナリオ 父ありき」(105-118頁)
脚本 池田忠雄。柳井隆雄、小津安二郎
監督 小津安二郎
池田忠雄「「父ありき」の頃」(109頁)
柳井隆雄「「父ありき」ぜんご」(109頁)
小林勝「名作とその時代-収録シナリオ解説ー父ありき」(174-175頁)

『彼岸花』(縮刷シナリオ)(1958年9月7日発行、松竹株式会社、38頁)

二段組、発行日がないので、封切日とした。

『彼岸花 完成記念特別招待試写会(東京劇場)』(1958年9月6日発行、松竹株式会社、8頁)

1958年9月6日午后6時30分開場、東京劇場、完成記念特別試写会配布時八折パンフレット
表紙:有馬稲子、山本富士子、久我美子
「日本映画界最高の顔合せ! 有馬稲子「再び小津作品に出演して」、佐田啓二「十一年目の誇り」、佐分利信「実人生の父親に扮して」、田中絹代「世の奥様方にご覧頂けるような」、桑野みゆき「小津先生はお優しい」(2頁)
「解説、スタッフ、キャスト、物語、珍しい三監督の競演?、落涙場面を使い分ける有馬の好演、辰平から現代青年へ、ドーランも汗でおちる真夏の結婚式、佐田初出演で天晴れ及第、佐分利、田中の落ち着いた味、ロケを喜ぶ桑野、本建築さながらの平山家セット、山本富士子、立派に他社初出演を果す!、入念な小津演出を原作者里見弴氏二時間に亘って見学」(3-6頁)
久我美子「恐いような嬉しいような」、高橋貞二「巧まざるユーモア」、山本富士子「他社出演の喜びと共に」、浪花千栄子「勿体ないくらいの喜び」、渡辺文雄「初出演の興奮」、笠智衆「再び光栄に思うこと」(7頁)
小津安二郎監督「演出に当って」、贋物は一切オフリミット総額二千万円を超える書画骨董(8頁)

特別割引優待券『彼岸花』(1958年9月7日、築地東宝映画劇場)

「松竹会館二周年記念 サービス月間 全プロ新作揃い!9月の松竹映画」

『彼岸花』(1958年9月7日発行、松竹株式会社、9頁)

表紙:山本富士子、有馬稲子、久我美子
「スタッフ、キャスト、解説、物語」(1頁)
裏表紙:佐田啓二、有馬稲子

『彼岸花』(1958年9月7日発行、松竹株式会社、6頁)

表紙:山本富士子、有馬稲子、久我美子
「スタッフ、キャスト」(1頁)
「解説」(2頁)

『松竹NEWS 彼岸花』(1958年9月7日発行、松竹株式会社、6頁)

「スタッフ、解説」(1頁)
小津安二郎「演出に当って」、有馬稲子「再び小津作品に出演して」、山本富士子「他社出演の喜びと共に」、久我美子「恐いような嬉しいような」、佐分利信「実人生の父親に扮して」、田中絹代「世の奥様方にご覧頂けるような」(5頁)
佐田啓二「十一年目の誇り」、高橋貞二「巧まざるユーモア」、笠智衆「再び光栄に思うこと」、桑野みゆき「小津先生はお優しい」、渡辺文雄「初出演の興奮」(2頁)
「キャスト、物語」(3-4頁)
発行日がないので、封切日とした。

『TOKYO GEKIJO No.155 彼岸花』(1958年9月7日発行、松竹株式会社事業部、12頁)

表紙:山本富士子、有馬稲子、久我美子
表紙裏:小津安二郎「演出に当って」
「グラビア」(1頁)
「STORY OF THE LYCORIS(HIGANBANA)」(2頁)
「スタッフ、キャスト」(3頁)
「解説、物語」(4頁)
有馬稲子「再び小津作品に出演して」、山本富士子「他社出演の喜びと共に」、久我美子「恐いような嬉しいような」、佐分利信「実人生の父親に扮して」、田中絹代「世の奥様方にご覧頂けるような」(5頁)
佐田啓二「十一年目の誇り」、高橋貞二「巧まざるユーモア」、笠智衆「再び光栄に思うこと」、桑野みゆき「小津先生はお優しい」、渡辺文雄「初出演の興奮」(6頁)
「脚本ぬきがき集」(7-8頁)
「小津安二郎の輝く足跡」(9頁)
東劇支配人「随想散筆―名匠気質のことなど~彼岸花完成記念ロードショウに当って-」(10-11頁)
発行日がないので、封切日とした。

『松竹宣伝ガイド』No.21(1958年9月9日発行、松竹株式会社宣伝部)

「明るく楽しく、香り高く感動させる 小津名匠の『彼岸花』俄然好調ベストワンの呼び声高し」速報第一報
待望の大船作品、名匠小津安二郎監督初のカラー作品「彼岸花」は実に百四日の撮影日数を要して九月五日夜完成を見ましたが、六日夜七時からの東京劇場での「完成記念特別招待試写会」は満員の招待客全てを楽しませながら深い感動を与え、次いで翌七日の「完成記念特別ロードショウ」(同劇場)では、九時三十分の打ち込み前に約百五十米の長蛇の列を組むという、すばらしい好調ぶりを見せ、秋映画シーズンの劈頭を飾る名作として、本年度ベストワンの呼び声が次第に高まっています。
☆完成記念特別試写会
☆完成記念特別ロードショウ
☆文部省(選定)、東京都教育庁(特選)に、九月六日夜文部省選定(青年成人向)九月八日東京都教育庁(特選―成人向、選定―青年向)が決定した。
☆知名士、評論家から絶賛の嵐、次のような讃辞が集まったが、なお引き続き各方面より寄せられますので、続報します。
志賀直哉「小津君の映画は台詞も映画も折目正しくきちんと整っていて気持ちがいい。今度は特にそれを感じた。色はどぎついのをさけているが、こういうのが却って本当の色彩映画だという気がした。]

小中学生割引券・父兄割引券『彼岸花』(1958年9月13日、名古屋松竹)

「親と娘の愛情の交流を描いて全篇ユーモアと感動の流麗名画!
名古屋市映画放送教育研究会選定 文部省選定 彼岸花」

『彼岸花』(1958年9月14日発行、立川松竹、両面)

「日本映画、再考の豪華配役!!名匠小津安二郎監督が贈る香り高き待望の名作!
彼岸花」
「演出に当って 監督小津安二郎 スタッフ、キャスト、物語」

『全映座 彼岸花』(1958年9月14日発行、全映座、1頁)

「空前の豪華配役で贈る香り高き最高名作! 名匠小津安二郎監督 彼岸花」

前売鑑賞券『彼岸花』(1958年9月14日、松竹聚樂舘)

「御招待券 松竹全プロ新作2本立公開記念 100万円の豪華賞品が当る 彼岸花」

学生団体御鑑賞券『彼岸花』(1958年9月14日、松竹聚楽館)

「名匠小津安二郎監督初の色彩文芸超大作! 総天然色 彼岸花」

『松竹会館開場二周年記念特別披露公開冊子』(1958年9月14日発行、松竹株式会社、24頁)

表紙:彼岸花
「彼岸花 解説」(2頁)
小津安二郎監督「演出に当って」有馬稲子「再び小津作品に出演して」、山本富士子「他社出演の喜びと共に」、田中絹代「世の奥様方にご覧頂けるような」笠智衆「再び光栄に思うこと」(3頁)

『毎日グラフ』第十一年第三十八号通巻第四三八号(1958年9月14日発行、毎日新聞社、30頁)

表紙:藤里美保
「映画 彼岸花」(24-25頁)
※スチル7枚(うち1枚小津監督演出風景)

『松竹大阪支店宣伝至急報』(1958年9月16日発行、松竹大阪支店)

松竹躍進の大攻勢成る!
彼岸花に凱歌挙る 封切全館驚異の超記録!
 九月十四日、「彼岸花」は待望の初日を迎えました!封切各館は一斉に早朝会場で蓋をあけましたが、開場を待ち兼ねた観客は、あたかも堰を切った怒涛の如く殺到!どんどん詰めかけるファンは最終回まで引きも切らず、場内を埋め尽くした観客の感激のどよめき、館を取り囲んだ入場を急ぐファンの歓声、この日、松竹封切全館の場内外は恰も正月興行を思わせる空前の大当たり景気が爆発しました!
 観客は女性が圧倒的ですが、テーマの結婚問題、父親の心理が関心をよんで男性も多く、女性六〇%、男性四〇%という比例がみられ、男性観客にも吸引力を持つことが立証されました。小津作品の性格上、観客の年齢は比較的高く、封切宣伝では、溌溂たる若さ、愉しい明るさを大いに売りましたが、この点、若い年齢層への宣伝にも特に今後ご注意ください。

『荻窪松竹』No.38(1958年9月発行、荻窪松竹、4頁)

「彼岸花」(1頁)
「彼岸花 スタッフ、キャスト、物語」(2頁)

『映画評論』第15巻第10号(1958年10月1日発行、映画出版社、158頁)

佐藤忠男「第一線監督論」(24-27頁)
※冒頭を引用する。「小津安二郎の『彼岸花』に、随分下卑たセリフがある。「お手洗い」などという言葉が何度も繰返され、そのたびに客を笑わせているのもどうかと思うけれど、男の方が強いと女の子が生まれ、女の方が強いと男の子が生まれる、などという会話を”ギャグの三段返し”で繰返し笑いのタネにつかっているのもいい気なものだなあと思う。勿論、我々誰しも、日常もっと猥雑な話をしている場合が多いから、会話の卑俗さそれ自体は大して問題ではないが、我々なら、そういう卑俗な話題の通じる仲間同志の解放された雰囲気を一生懸命享受しようとして、ついぶざまに表情を崩したり、下卑た口調になったりするところを、この映画では、ひどくおおように紳士然と構えた連中が、もっともらしい態度のまま、ろくに表情も動かさずに話し合っているために、なんとなく、通人、あるいは粋人の会話といった感じになる。そこで観客は、日頃自分たちが、いくぶん後ろめたい感じで喋っている程度の話題や趣味のままで、通人で物分かりのいいお金持ちたちのサロンに、さあさあどうぞ、と気易く招待されたような気分になり、なんとなくなごやかで幸福なみたいな気持になってしまう。」
酒井章一、村松剛「『彼岸花』をめぐって」(58-61頁)

『文藝春秋』第三十六巻第十二號(1958年11月1日発行、文藝春秋新社、354頁)

小津安二郎「映画界・小言幸兵衛-泥棒しても儲ければよいが困る!!-」(268―273頁)
※見出しを抜き出す。「阿保が監督しても客は来る」、「子供と一緒に見られる映画」、「新人の持つ新鮮さ」、「アテにならない人気」、「参考にならない映画評」

『毎日グラフ』第十一年第四十八号通巻第四四八号(1958年12月23日発行、毎日新聞社、30頁)

表紙:高千穂佑子
「人間模様 紫綬褒章を受章して 小津安二郎氏(54)」(21頁)
※「こんどの受賞は、まったく寝耳に水で、いままで何の話もありませんでした。受賞に値するような仕事はあまりやっていませんし、受賞したからといって、これ以上の作品はできるわけでもありません。まったく、恥かしいような気持ちです。皮肉で言っているのでは、ありませんよ。映画界でだれがこういう賞をもらったか、はっきりした記憶はありませんが、僕より先輩諸公がたくさんいますからね‥。」同時に、衣笠貞之助監督(62)も紫綬褒章を受章した。

『キネマ旬報』No.1036臨時増刊「目で見る日本映画の六十年 グラビア特集」(1958年12月25日発行、キネマ旬報社、192頁)

「大学は出たけれど」(59頁)
「お嬢さん」(61頁)
「東京の合唱」(70頁)
「淑女と髯」(71頁)
「生まれては見たけれど」(72頁)
「出来ごころ」「また逢う日まで」(73頁)
「出来ごころ」(76頁)
「浮草物語」(79頁)
「東京の宿」(81頁)
「一人息子」(86頁)
「淑女は何を忘れたか」(92頁)
「戸田家の兄妹」(107頁)
「長屋紳士録」(126頁)
「風の中の牝鶏」(129頁)
「晩春」(133頁)
「宗方姉妹」(137頁)
「麦秋」(140頁)
「お茶漬の味」(146頁)
「東京物語」(150頁)
「早春」(169頁)
「彼岸花」(175頁)

1959
『映画評論』第十六巻第二号(1959年2月1日発行、映画出版社、158頁)

表紙と扉:中原史人
岸松雄「続・現代日本映画人伝(7) 小津安二郎」(105―119頁)
※一部抜粋する。「大正十五年の夏、鎌倉で大久保組の『新婚時代』のロケーションがおこなわれていた。そのあと、一行は或る旗亭で一夜の宴を催した。この時には内田岐三雄がゲストとして招かれていたが、談たまたま大久保監督の前作『愛怨百面相』のことに及ぶとそれについて内田がキネマ旬報に書いた批評には「うちの者たちは不満なんだ。」と大久保が言った。不満と言われては内田も黙って引込むわけには行かない。大久保のほうに向けていた身体を助手たちのほうに稔じむけて、「不満なんですか」と内田が言うと、即座に「不満ですなァ」と肩幅の広い男が答えた。それが小津安二郎だった。『愛怨百面相』の議論はそれで打ち切りとなったが、この初対面の時以来小津と内田の交友は昭和二十年の七月末、敵機の爆撃を受けて内田が死ぬまで綿々とつづいた。事実、小津の処女作『懺悔の刃』をいち早く認めて、その良さを批評によって世にあきらかにしたのは、内田岐三雄その人であった。」(107-108頁)
「蒲田撮影所時代。山中貞雄と小津安二郎」(109頁)、「最近作『彼岸花』で佐分利信、田中絹代に演技をつける小津監督」の写真あり。

『第24回都民映画コンクール』(1959年2月7日発行、東京都教育員会・東京新聞社、8頁)

「彼岸花」(表紙)
「(金章)彼岸花 演出に当って 監督小津安二郎」(3頁)

『OFUNA TIMES』No.126~1 TOTAL No.10(1959年2月18日発行、松竹大船撮影所宣傳課)

無駄なような日常の言葉の一つ一つに、生活の潤いがある
名匠小津安二郎監督が描く、微苦笑の現代庶民風俗
スタッフ、キャスト、解説、ものがたり

『文藝春秋』第三十七巻第三號(1959年3月1日発行、文藝春秋新社、402頁)

「同級生 交歓 京都駅長 奥山正次郎 映画監督 小津安二郎」(グラビア)
「奥山とは、三重県立第四中学、のちの、宇治山田中学での同級である。爾来四十有余年、想えば、永い腐れ縁である。菅公は、流謫のみぎり、道すがら、「駅長驚く勿れ、花咲く春あれば、葉落つる秋あり」といましめたが、驚くのは、ひとり、駅長ばかりではない。映画の監督も、亦、驚くのである。耳は、秋声の梧葉にわたるのを聞きながら、いまだ、あつかましくも、二人とも、池塘春草の夢を見つづけている(小津安二郎)。」

『週刊明星』第二巻第十一号通巻三十四号(1959年3月22日発行、集英社、92頁)

表紙:淡島千景(撮影:早田雄二)
「対談 小津安二郎・戸塚文子 人生ひとり旅」(26―29頁)
※記載されている戸塚文子氏のプロフィールは、「大正二年、東京生まれ。日本女子大卒。雑誌「旅」の編集長として活躍中だが、随筆家、評論家としても名高い。著書に「しゃぼてん夫人」「ビルの谷間」などがある。」
※一部抜粋する。
小津「そのじぶんの中学生などは、親と一緒でも、活動写真を見るのを禁じられていました。私なんか、禁じられているから、きっと面白いものだろうと、隠れてみた傾向もあるんだな」戸塚「補導連盟というのがあって、先生が映画館をまわっている。二三度つかまると退校処分なんですね。そこにスリルを感じて観に行く」小津「中学生は、鳥打ちをかぶったり、敷島を吸ったりして」

『週刊新潮』第四巻第十二号通巻百六十三号(1959年3月23日発行、新潮社、86頁)

「現代の顔 監督三十年 芸術院賞の小津安二郎」(1-5頁)
※小津さんはいまだに独身。八十四歳のお母さんと二人で、北鎌倉駅に近い山の上に、ひっそり暮らしている。門を入ると、山をくりぬいたトンネルがある。墨絵でも見るような庭のつくり、そのすみにボタンの赤い芽が伸びていた。住まいもやはり、小津調である。庶民の哀歓と機微を描いて三十年。昨年の紫綬褒章に続いて、今年は、映画界初の芸術院賞を受けた。五十六歳の輝かしい早春である。

『週刊大衆』第2巻第12号通巻第49号(1959年3月23日発行、双葉社、86頁)

表紙:小山明子
「時に人あり 芸術院賞を受けた小津安二郎」(1-4頁)
※毎年の映画ベスト・テン選出の時に、かならず入賞する作品をつくるということは、大変なことである。昭和二年監督になった小津さんは、サイレントからトーキーへ、そして色彩へと、大きく移り変わった現在まで、つねに最高位を占める監督である。

日本芸術院編『日本芸術院要覧(昭和33年度)』(1959年3月25日発行、日本芸術院、92頁)

「昭和34・3・8
日本芸術院第十五回受賞者先の通り
恩寵賞(文学・美術)故木村荘八、日本芸術院賞(日本画)加藤栄三、(日本画)森田沙伊、(洋画)小山敬三、(洋画)林武、(工芸)井上良斎、(工芸)大須賀喬、(建築)中村順平、(小説)井上靖、(評論)吉田精一、(邦楽)中能島欣一、(演劇)小津安二郎)」(25頁)
※(演劇)日本芸術院会則第二条に各部に左の分科を置くとあり、第三部音楽、演劇、舞踏の第十二分科 演劇(人形劇及び映画を含む。)とある。
「日本芸術院賞 第三部 演劇(映画)「映画監督としての多年の業績」 小津安二郎」(44頁) 

『お早よう』TOTAL No.20(1959年3月29日発行、松竹大船撮影所宣伝課)

アグファカラー総天然色
映画界初の芸術院賞と紫綬褒章の栄誉に輝く
名匠・小津安二郎監督 三十有余年の足跡回顧
小津安二郎監督作品目録
※「お早よう」までの全作品のタイトル、製作年、原作、脚色、出演者、キネマ旬報順位等を掲載

野田高梧・小津安二郎『シナリオ文庫・59 松竹映画シナリオ お早よう』(1959年4月5日発行、映画タイムス社、36頁)

表紙:久我美子
裏表紙:スチル写真(上)「おでん屋の客は、小津作品におなじみの菅原通済、スチル写真(下)「スナップ・テレビのある丸山家のセット撮影」
中表紙
小津安二郎「『お早よう』の演出にあたって」(6頁)
「解説 小津監督が描く庶民生活の風刺的吟味」(7頁)
岸松雄「小津・野田コンビと『お早よう』」(8-9頁)
「『お早よう』ものがたり」(10‐11頁)
「スタッフ・キャスト」(11頁)
「オリジナルシナリオ 『お早よう』」(12―36頁)

『お早よう』(1959年5月発行、松竹株式会社九州支社、両面)

佐田・久我の二大スターを囲む最高配役!
名匠がつづる泌々胸うつ映画劇術の粋
裏面に文案、宣伝ポイント、放送原稿、スタッフ、キャスト、ショートストーリー、解説、配列表、ロゴが掲載されている。

プレスシート『お早よう』(1959年5月、松竹株式会社)

映画界初の芸術院賞受賞 小津安二郎監督の最高名作!
お早よう スタッフ、キャスト、かいせつ、宣伝ポイント

『松竹ニュース』No.104 「お早よう 特集号」(1959年5月1日発行、松竹株式会社映画宣伝部、4頁)

「人情の機微と巧まぬユーモア 微苦笑の現代風俗 見事に描く興味深い童心の秘密」(1頁)
「変わらぬローアングル 緊張みなぎるセット 撮影を見る」「泌々とした愛の情感 佐田、久我の新しい魅力」「鬼よりこわい巨匠も無心な子役に参る 御褒美にお菓子を用意」「わたし達は演技派、グラマー泉、コメディアン大泉」「格調を重んじる小津作品に 珍しく型破り続出 オナラも主役で登場する‥」「全映画界をあげて 盛大な祝賀会 小津監督の芸術院賞受賞記念」(2-3頁)
「益々深み高まる小津芸術 処女作から最近作までの作品天望 小津安二郎作品年表」(4頁)

『キネマ旬報』No.1047 第二三二号(1959年5月1日発行、キネマ旬報社、154頁)

表紙:ドロレス・ミッチェル
グラビア「お早よう」(30-31頁)
※これは、昨年「彼岸花」で文部大臣賞を、また、長年にわたる映画作家としてはたして来た業績を認めあられて紫綬褒章を受けた、松竹大船撮影所の重鎮、小津安二郎監督が、かねていだいて来たアイディアを、よき協力者野田高梧とともに脚本化し、本年初の作品としてメガホンをとるものである。」(30頁)スチルは6カット、1カットに演出する小津監督。

『Shochiku Reports No.37』(1959年発行、松竹株式会社、11頁)

「お早よう スタッフ、キャスト、かいせつ、宣伝ポイント」(4頁)

完成記念特別招待試写会特別招待券『お早よう』(1959年5月8日発行、東京劇場)

「映画界初の芸術院賞に輝く 名匠小津安二郎監督作品
アグファカラー・総天然色
お早よう 特別招待券 1階席
とき・5月8日(金)
ところ・築地 東京劇場」

『芸術院受賞記念 小津安二郎作品展』(1959年5月8日、松竹株式会社)

芸術院受賞記念 小津安二郎作品展
1959年5月8日(金)~5月13日(水)
主催、松竹株式会社
会場 銀座松屋 8階催場

 小津安二郎監督は、昭和二年「懺悔の刃」を処女作としてデビュー以来、今度完成しました「お早よう」を以て、作品本数実に五十本を数えます。
 この間、数多くの名作を発表し、日本映画界の指導的立場を堅持しつつ、映画芸術の向上に不断の努力を傾けて参りましたことは、既に皆様がよく御存知の通りであります。
 監督生活三十有余年、昨年秋には多年の藝術活動の功労により紫綬褒章を、また今年は映画界初の芸術院受賞者に決定され、小津監督が日本映画史に印した偉大な足蹟は、広く各界から尊敬と賞賛を集めております。
 ここに芸術院賞受賞を記念し、小津監督の偉業を回顧し、皆様の映画に対する理解と愛情を、いよいよ深めて頂くことをきたいしてやみません。松竹株式会社

 小津安二郎監督作品総目録、小津監督とキネマ旬報

割引入場券『お早よう/惜春鳥』(1959年5月12日発行、尾花劇場)

アグファカラー総天然色 巨匠小津安二郎監督作品『お早よう』、12日堂々公開!
期間:5月12日より5月26日まで
尾花劇場
※尾花劇場とは、奈良県奈良市菩提町(席数892)にあった劇場である。尾花劇場の前身の尾花座は、明治30年代には開業していた奈良市の老舗劇場。明治42年(1909)の建物の大改修後は、当時人気の歌舞伎や演劇などを上演。大正9年(1920)からは、映画館「尾花劇場」として、昭和54年(1979)の閉館。(参考:http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1529800075854/index.html
奈良市ウェブサイト:教育委員会・文化財・文化財ニュース・史料保存館企画展示 尾花座‐芝居小屋から映画館へ(2019年9月16日アクセス))。

『お早よう』台本(1959年5月12日発行、松竹株式会社、96頁

スタッフ・キャスト:4頁、a-52,b-28,c-12
発行日がないので、封切日とした。

『お早よう』(縮刷シナリオ)(1959年5月12日発行、松竹株式会社、31頁)

二段組、発行日がないので、封切日とした。

『お早よう』(1959年5月12日、松竹株式会社、丸の内松竹、4頁)

「解説、ショートストーリー 12日松竹系一斉封切」

『松竹NEWS お早よう』(1959年5月12日発行、松竹株式会社、新宿松竹映画劇場、6頁)

「解説、スタッフ、キャスト」(1頁)
「物語」(2頁)

『お早よう』(1959年、合資会社奥商会)

お早よう
松竹作品全10巻 十八月貸付
合資会社奥商会 大阪本社 大阪市西区南堀江通1丁目2

『映画評論』第16巻第6号(1959年6月1日発行、映画出版社、158頁)

秋山邦晴「映画音楽 お早よう:黛敏郎」(57頁)
岩崎昶「芸術院賞をもらった 小津安二郎」(58-59頁)
※一部抜粋する。「この席上、いちばん私を動かしたのは、八十四歳とかになられた母堂の挨拶であった。有名になった息子の晴れの日のために、小さな老婦人はマイクのそばに立って、短い言葉を述べた。その声は低くひかえめで、大分離れていた私のところまではとてもとどかなかった。が、幸福な母親の気持ちがとどくには声も何もいらなかった。小津安二郎は日本一の親孝行者として有名である。彼はこの時、老母の手を取るようにしてマイクのそばまで連れて行き、挨拶の間中その手をささえてそばに付き添っていたかというと、そうではなかった。彼は母の手を取りに行かず、そばにつきそいもせず、終始一貫して、一メートル半ほど離れたところに立っていた。このことは、八十四歳の母堂の挨拶以上に実は私を動かしたのである。そこに私は小津芸術の秘密、というよりもその原理を見た。最小表現の原理、とでもいおうか、古い日本語では、言わぬは言うにさる、泣かぬはホタルが身を焦がす、というやつである。‥」(写真三葉)
ドナルド・リチイ「小津安二郎と「お早よう」」(81-83頁)
※一部抜粋する。「小津監督の場合、戦後作品だけで彼を評価するのは妥当を欠いている。日本の若い世代の人は、彼を反動的、封建的、オールド・ファッションなどのレッテルで片付けてしまうのが現在常識のようになっているらしいし、例の独特な映画美学(畳ショットや据えっぱなしのキャメラ・ポジション)を非難するが、それではただしく小津作品を評価できない。私はこれは間違いだと思う。先日もある若い映画監督と話したが、彼も右のような点から小津作品をきわめて非難した。が、そのような非難は、小津作品の一部の欠点をつくことはできるが、作品全般の批評というわけにはゆかない。小津作品の全系列から見て、特に初期の作品をみてからのうえで、避難するならするがよいだろう。」

『キネマ旬報』No.1051 第二三六号(1959年7月1日発行、キネマ旬報社、180頁)

表紙:
「日本映画六十年を代表する最高作品ベスト・テン」(68-77頁)
※第三位「生まれては見たけれど」(68点)
※「ベスト10に選ばれた作品 生まれては見たけれど」(75頁)

『キネマ旬報』別冊「日本映画人大鑑」(1959年7月15日発行、キネマ旬報社、210頁)

「脚本 小津安二郎」(34頁)
「監督 小津安二郎」(52頁)

『浮草』台本(1959年発行、大映株式会社、138頁)

キャスト:6頁 a-14,b-30,c-30.d-36,e-22
発行日がないので、便宜的に封切年とした。

スピードポスター『浮草』(1959年、大映)

名匠小津安二郎が愛と微笑の心でうたいあげた人生の真実!
胸打つ哀愁と感動で全篇を貫く文芸巨篇!
スタッフ、キャスト、物語、梗概、宣伝ポイント
文案、放送原稿、スタジオマイク、配列表

『大映東京撮影所ニュース 浮草』(1959年8月8日発行、大映東京撮影所宣伝課、1頁)

「浮草 芝居見学に扮装テストに準備慎重に進行中」

『大映東京撮影所ニュース 浮草』(1959年8月22日発行、大映東京撮影所宣伝課、1頁)

「浮草 相変わらずのローアングル ”床屋”のセットから撮影開始」

『FILM QUARTERLY』Vol.ⅩⅢ、No.1-FALL1959(1959年発行、The Regents of the University of California、64頁)

DONALD RICHIE「The Later Films of Yasujiro Ozu」(18-25頁)
「Ozu and his favorite camera position」(19頁)
「Ozu directing Tokyo Story, with Chieko Higashiyama and Chishu Ryu」「the finished scene」(20頁)
「OHAYO:Masahiko SHImazu,Chishu Ryu,Koji Shida.Kuniko Miyake」(22頁)
「Ozu shooting LATE SPRING. Fater(Chishu Ryu) and daughter(Setsuko Hara) at Kamakura.」(23頁)
※「晩春」とあるが、「東京物語」の誤植、鎌倉は尾道の誤植。
「A script reading during shooting of TOKYO TWILIGHT.Ineko Arima,Setsuko Hara,Ozu」(24頁)

『週刊サンケイ』第八巻第四十一号通巻四百一号(1959年9月20日発行、産経新聞社、110頁)

「特集:日本映画の巨匠たち」(49―62頁)
「小津安二郎 浮草」(52―53頁)
※「小津監督」、「若尾文子」それぞれのショット、特集としては、山村聰、市川崑、小津安二郎、木下恵介、稲垣浩、吉村公三郎、小林正樹、澁谷実が紹介されている。

『大映グラフ』創刊・錦秋特集号NO.1(1959年10月1日発行、大映株式会社宣伝部、14頁)

表紙:叶順子、本郷功次郎
「特集 浮草」(8-9頁)
グラビア8枚(うち2枚小津監督)
京マチ子「小津先生との楽しいあけくれ」(8頁)

『週刊実話特報』第1巻第28号通巻28号(1959年10月23日発行、双葉社、82頁)

表紙:筑波久子
「若尾文子七年目の浮気」(32-33頁)
※一部抜粋する。「小津作品に初出演ということが、女優としての芸に対する意欲を、大いにかきたてている。過去の若尾が演じてきた方から抜け出す、一つの足掛かりになるかもしれない。セット・インした当時は、さすがの彼女も、緊張してコチコチだったが、「君はキモノ姿がいいよ」と小津監督にほめられてから、シコリがとれ、しかも細かい親切な演出ぶりに、すっかり感激している。」

『映画ストーリー』第8巻第11号通巻第99号(1959年11月1日発行、雄鶏社、212頁)

表紙:ダイアン・ベイカー
「浮草 脚本野田高梧・小津安二郎」(154―162頁)
※スチル、ロケショット、演出する小津監督他6葉、解説「紫綬褒章に輝く名匠小津安二郎が、『宗方姉妹』(新東宝)以来ひさしぶりに他社演出をする問題作で、小津監督が中村鴈治郎はもとより、グランプリ女優の京マチ子をはじめ若尾文子、野添ひとみ、川口浩らの大映スター陣をどう使いこなすか、野田高梧との構想三年にわたる脚本とあいまって、大いに興味をそそられます。出演者はその他、笠智衆、杉村春子、田中春雄、三井弘次ら小津作品常連のベテランに、前作『お早よう』の人気者島津雅彦坊やも加えた多彩さです。撮影がいつもの名コンビ厚田雄春でなく、大映が誇る名手宮川一夫であることも注目され、小津監督が大規模のロケを行ったのも珍しいことです」(162頁)

『映画情報』復刊第八十八号、通巻第二十四巻第十一号(1959年11月1日発行、国際情報社、62頁)

表紙:団令子
「浮草 旅まわりの一座を中心に人生の哀歓を描く小津監督の野心大作に大映オールスタアが登場‥」(30-31頁)
スチル8枚(うち小津監督2枚)

『公開迫る 浮草』(1959年11月、大映東京撮影所宣伝課、1頁)

「浮草 ”この人がいたから「浮草」を撮る気になった”とすごい惚れ込み様の中村鴈治郎にメーキャップの注意を与える小津安二郎監督」

『公開迫る 浮草』(1959年11月、大映東京撮影所宣伝課、1頁)

「浮草 島津雅彦くん(「お早よう」のオナラ坊や)を相手に”南国土佐を後にして”の新舞踊を踊る若尾文子の娘島田に花かんざしの艶で姿」

『公開迫る 浮草』(1959年11月、大映東京撮影所宣伝課、1頁)

「浮草 ”赤城の山も今宵を限り‥‥”沢正ばりの口跡もあざやかに手甲脚半にむしりのかつら、京マチ子の颯爽たるグラマーな国定忠治ぶり。」

『週刊文春』第一巻第三十一号(1959年11月16日発行、文藝春秋新社、94頁)

表紙:武次晴美
「グラビア ふとんに坐った巨匠 『浮草』を撮る小津安二郎」(2―3頁)
※一部抜粋する。「専売特許ざぶとん演出 仕事中の小津安二郎をセットにたずねると、かならずといっていいほど、床にどっかとあぐらをかいている彼をみかける。キャメラを低くかまえるので、そうしないとファインダーものぞけないし、芝居もつけられないからだ。」「50本目の浮草映画 かれはいま大映で『浮草』を撮っている。かぞえてみれば、二十四歳ではじめて監督した『懺悔の刃』以来ちょうど五十本目の映画である。」
小津監督の写真はカラーである。

大映東京撮影所ビルボールド『浮草』(1959年11月17日発行、大映東京撮影所宣伝課)

「大映カラー・総天然色
 泣き笑い愛し別れて旅を行く庶民のくらしを哀歓こめて描き抜いた感動の名作!
 浮草 監督小津安二郎 かいせつ、ものがたり」
※発行日がないので封切日とした。

『週刊宇都宮映画新聞』(1959年11月17日発行、宇都宮映画新聞社、8頁)

「最高の感動と溢れる詩情!小津芸術の華ひらく!」(1頁)

『浮草』(1959年11月17日発行、大映株式会社、2頁)

「物語、解説、スタッフ、キャスト」(1-2頁)
※発行日がないので、封切日とした。

『浮草』(1959年11月17日発行、大映株式会社、5頁)

「スタッフ、キャスト、解説、スタヂオ・マイク、梗概」(1-3頁)
「”南国土佐-”のメロディに合わせて、京、若尾らの町廻り」(4頁)

『荻窪大映パルナスニュース』No.144(1959年11月17日、荻窪大映)

大映スコープ総天然色 浮草
スタッフ、キャスト、物語

『週刊平凡』第一巻第三十三号(1959年12月23日発行、平凡出版、104頁)

表紙:ビンボー・ダナオ、淡路恵子
「今週のハイライト 貞二のこない誕生日 33才になった佐田啓二」(97―99頁)
※一部抜粋する。「12月9日夜、高橋貞二が死の5分前までいたという横浜の小さなバーで、ささやかな誕生パーティーがひらかれていた。この日あつまったのは、33回目の誕生日を迎えた佐田啓二と益子夫人、それに二人の結婚式の媒酌人をつとめた小津安二郎監督とたった三人だけ‥(写真は高橋貞二の墓標の設計図を見る小津監督と佐田啓二)」(97頁)、「夜になって小津先生が横浜のマスコットへこいというので、女房とでかけていった。貞二が好んでいったバーで、事故の起こる五分前までいたバーだ。僕は十二月九日生れ、貞二はたしか一月二十日で、彼と僕とは四十日ぐらいの年齢差だった。いつもきまってほろ酔機嫌でやってくる彼は、僕の誕生日と知ってきたくせに、「なーんだ貫ちゃんの誕生日か‥」などとトボケた顔で言っていたものだ。マスコットにいても、いまだに貞二が半身になってドアを押してくるんじゃないかと、そんな気がしてしょうがなかった‥」(98頁)
「ギターを弾く佐田啓二、マンドリンを弾く小津監督、益子夫人」、「シルクハットの小津監督と益子夫人」、「シルクハットを佐田啓二に被せようとする小津監督」、「誕生日ケーキの前の佐田啓二、益子夫人、貴恵子ちゃん」のショット

1960
『演劇百科大事典全六巻 平凡社』案内(1960年2月発行、平凡社、18頁)

発行案内であるが、そのなかに、「推薦者のことば」があり、小宮豊隆、久保田万太郎、藤原義江、大谷竹次郎、小津安二郎、千田是也、菊田一夫、原安三郎、市川猿之助、水谷八重子、戸坂康二の11名の言葉がある。

『週刊サンケイ』第九巻第九号通巻425号(1960年2月15日発行、産業経済新聞社、94頁)

表紙:岩田専太郎
「ニュースの顔 溝口賞を受けた小津安二郎」(51-53頁)
グラビア「絵や骨董品を集めるのは好きだが、溝口の骨董趣味は私より一枚上だったと絵を手入れしながら故人の思い出を語る」(51頁)
「演出の厳格さでベテランのスターを震え上がらせる巨匠も、仕事を離れれば静寂を愛する好々爺である。」(52頁)
ご自宅で着物姿の小津監督(撮影:田沼武能)

『キネマ旬報』No.1080 第ニ六五号(1960年8月15日発行、キネマ旬報社、149頁)

「キネマ旬報 無題欄」(58頁)
中川信夫「小津安二郎」(58頁)
「今夜はすこし酔っております。麦酒を二本のみました。
むかし、おそらくは三十幾年前です。京都、第二京極の
小便くさい館で、無声映画「宝の山」を見ました。それが、
小津安二郎ファンになるキッカケでした。
三十年ぶりで、先夜、その、小津安二郎と或るバーでのむ
チャンスがありました。むろん小生と二人でなく、誰かが
同座しました。
小津安二郎は、理屈を、ひとつもいわなかったのです。
私淑ということば。
それがぴたりとわたくしには当てはまります。「宝の山」
から後は、見おとした作品はありません。
要之、小津安二郎と同座したよろこびを伝えれば、以て、
冥すべき(ママ)と思います。
小津安二郎は、ノッポで、小津安二郎は酒をのみ、
小津安二郎は、いつも小津安二郎で、小津安二郎は、野田
高梧と仲よしで、小津安二郎は、じぶんの道をまっすぐにつっ走るひとで、
小津安二郎は、日本の生んだ最も、ユニイクな映画監督で、
小津安二郎は、
小津安二郎は、
小津安二郎は、
ああ、
小津安二郎は、
小津は、
安二郎は、
ウソがいえない人だ。
小津安二郎は、
小津安二郎は、
千手観音じゃない。
小津安二郎ヨ、
ここらで一寸ねむります。
註曰(ダビング中で、すいみん不足で、とてもねむいです。)」
「あの日 私はこうしていた!」(64―83頁)
小津安二郎「酒と敗戦」(68―69頁)

『生きる女性』第一巻第五号(1960年9月1日発行、実話出版株式会社、110頁)

表紙:大空眞弓
「ホッとした、わたしの”秋日和” 松竹初出演の司葉子の表情」(6―7頁)
※「原節子と司葉子」「第3ステージで台本を読む司葉子」「大船撮影所の前で司葉子」「原節子と司葉子を演出する小津監督、厚田雄春」

『キネマ旬報』No.1081(1960年9月1日発行、キネマ旬報社、148頁)

表紙:ルアナ・パットン
「大人の映画を 「秋日和」撮影の小津監督 大いに語る」(66頁)

『週刊平凡』第二巻第三十八号(1960年9月21日発行、平凡出版株式会社、108頁)

表紙:アルフレッド・ヒッチコック、久我美子
「結婚四年目!裸になった佐田啓二」(22―25頁)
※最後に、小津監督の『秋日和』出演についての言及がある。
「井戸端パーティー 『秋日和』撮影記念懇親会」(101―103頁)
※「古井戸にナベをのせた即席テーブルをかこみ 風流な野外パーティー ひぐらしの声もひときわ高い初秋の夕べ 鎌倉の里見邸に集まった映画人たち 左から原節子、里見弴、岡田茉莉子、小津安二郎、司葉子、佐田啓二」(101頁)、「終始モクモクと鳥ナベに専念する佐分利信とまりちゃん、中村伸郎」、「里見弴が渋いノドを聞かせれば、この夜、最高にごきげんの原節子が音頭を取り、全員手拍子をあわせるという賑やかさ」(102頁)、「手品を見せる中村伸郎」、「まあまあすいません、恐縮する原節子にエプロンをかける里見弴、小津安二郎」(103頁)

里見弴『秋日和』(1960年10月10日発行、角川書店、245頁)

「秋日和」(4―59頁)
「藝者に出る」(61―104頁)
「ひと昔」(105‐136頁)
「あてどなく」(137―245頁)
※帯に「彼岸花」姉妹篇、松竹映画化とある。

『冨士松竹ニュース』No.111(1960年10月19日発行、熊本市新市街 冨士松竹、4頁)

名匠小津安二郎監督が贈る豪華配役の最高感動名作!!
総天然色 監督小津安二郎 秋日和
11月15日封切!! かいせつ

『松竹ニュース』No.116 「秋日和 明日はいっぱいの果実 特集号」(1960年11月1日発行、松竹株式会社映画宣伝部、4頁)

「日本映画界が誇る三大女優の顔合わせ 美人スタアに囲まれて スピーディな小津演出」(1頁)
「日本映画界の至宝小津監督と最高の豪華スタア達」(2-3頁)

『秋日和』(1960年11月、松竹株式会社)

総天然色 母と娘の美しい愛情と周囲の人々の善意を描く感動の名作
原作:里見弴 脚本:野田高梧・小津安二郎
秋日和

プレスシート『秋日和』(1960年11月、松竹関西支社宣伝課)

名匠小津安二郎監督が贈る豪華配役最高感動名作!
35年度芸術祭参加作品 脚本・監督・小津安二郎
総天然色 秋日和
解説、スタッフ、キャスト、物語、文案、放送文案

『秋日和』(宣伝用縮刷シナリオ)(1960年11月13日発行、松竹、41頁)

二段組、裏表紙に、「『秋日和』の見どころ」あり。
※発行年がないので、封切日を発行日とした。

『秋日和』(縮刷シナリオ)(1960年11月13日発行、松竹、40頁)

二段組、発行日がないので、封切日とした。

『SHOCHIKU PRESS 秋日和』(1960年11月13日発行、松竹株式会社映画宣伝部、4頁)

「スタッフ、ものがたり、かいせつ」
「宣伝文案」
「配列表」

『松竹NEWS 秋日和』(1960年11月13日発行、松竹株式会社、6頁)

表紙:司葉子、岡田茉莉子、原節子
「ものがたり、かいせつ」(1頁)
「スタッフ、キャスト」(2頁)

『秋日和』(1960年11月13日発行、松竹株式会社、4頁)

「スタッフ、キャスト、物語、解説、スピーディな小津演出」(2-3頁)

『秋日和』(1960年11月13日発行、松竹株式会社、12頁)

表紙:司葉子、岡田茉莉子、原節子
「美人スタアに囲まれて スピーディな小津監督 解説」(1頁)
「日本映画が誇る、岡田、原、司の素敵な顔ぶれ! 初顔合せでテレる」(2-3頁)
「キャスト 物語」(4-5頁)
「グラビア5カット」(6-7頁)
「撮影落穂集 素敵だった日本一デラックス結婚式、絶好の秋日和に軽井沢ロケ」(8-9頁)
「さながら日本美術展、名画二十数点、芸術的な価値の高い 素朴な民芸衣裳」(10-11頁)
「名匠の偉大な足跡、小津安二郎作品年表」(12頁)
発行年がないので、封切日とした。

『秋日和』(1960年11月30日、中央松竹)

総天然色・芸術祭参加作品・小津安二郎監督作品
母ひとり嫁ぐ日近し処女の胸に去来する惜別の哀しみ‥
名匠小津が豪華配役で描く日本美と情愛の映画芸術‥
待望一年余名所小津安二郎監督が今秋堂々放つ里見弴の最高作の映画化!世界のトップレベルを抜いた驚嘆すべき名演出が、邦洋全ファンを唸らせ本年のベストを約束する!

『芸術新潮』第十一巻第十二號(1960年12月1日発行、新潮社、298頁)

「座談会 映画と文学と絵画 小津作品「秋日和」をめぐって」(小津安二郎、里見弴、東山魁夷、飯田心美)(242-247頁)

『近代映画』第16巻第13号通巻194号(1960年12月1日発行、近代映画社、202頁)

表紙「司葉子」
「秋日和 松竹作品」(178-179頁)
※物語、解説。
「一面広告 秋日和」(裏表紙裏)

『キネマ旬報』No.1088「日本映画監督特集」(1960年12月10日発行、キネマ旬報社、204頁)

「グラビア小津安二郎」(1頁)
※「映画とは、一人の人間の、ほんとうの個性を描くものだ-と小津監督は語っている。ほんとうの人間は、いくらそれを行動の上で、どぎつく描いても描ききれない。喜怒哀楽だけを一生けん命写し取ってみても、それで人間のほんとうの心、気持ちが現わせたとはいえない。要はその人間の風格を出すことだ。これが小津監督の、いつも変わらざる人間観、芸術観である。」
飯田心美「小津安二郎 低徊、ユーモア、端正」(28-29頁)
「小津安二郎小伝」(29頁)
小津安二郎「映画の味、人生の味」(30-35頁)

1961
『三巨匠回顧作品集 溝口健二・小津安二郎・木下恵介』(1961年2月発行、銀座松竹、12頁)

キネマ旬報主催、2月~4月、歌舞伎座前銀座松竹、
飯田心美「小津安二郎 小津作品の本質」(6-7頁)

『キネマ旬報』No.1090 第二七五号(1961年1月1日発行、キネマ旬報社、198頁)

表紙:ブリジット・バルドオ
山本恭子「岡田茉莉子と司葉子」(90-91頁)
「日本映画スチル・コンテスト(第10回)一位 秋日和 小尾健彦」(101頁)

『東宝映画』通巻第24号(1961年9月1日発行、東宝映画友の会・本部、50頁)

表紙:『新入社員十番勝負』船戸順、水野久美
「宝塚撮影所玄関にて、小津監督を中心に『小早川家の秋』出演者記念写真」(3頁)
「巨匠と原節子さん 『小早川家の秋』より」(19頁)
※「巨匠小津安二郎監督が初めて東宝でメガホンを執る『小早川家の秋』は、宝塚映画撮影所で快調の撮影を続けている。」原節子が椅子に座り、小津監督がその横に立つショット。小津監督はピケ帽にワイシャツ。

『東宝プレスシートNO.140 小早川家の秋』(1961年10月発行、東宝、7頁)

「スタッフ、キャスト、かいせつ」(1頁)
「ものがたり」(2頁)
「宣伝ポイント、特殊宣伝案、特殊宣伝プラン、放送文案」(3頁)
「宣伝文案、基本宣材、各館の宣伝対策アンケート」(4頁)
「完璧を狙う名匠の演出、スター順位」(5頁)

『TAKARAZUKA STUDIO MAIL』No.130(1961年、宝塚映画製作所宣伝課)

日本映画界の至宝 小津安二郎が初めて東宝で創る薫るばかりの芸術大作
小早川家の秋
宝塚映画創立10周年記念・15大スタアによる豪華配役!!
スタッフ、キャスト、解説、物語、小早川家の人びと

『キネマ旬報』No.1110 第二九五号(1961年10月1日発行、キネマ旬報社、182頁)

表紙:ステラ・スティーブンス
「全面広告 小早川家の秋」(44-45頁)
西川鯉三郎「RELAY SPEECH 鏡獅子の思い出」(47頁)
※「一部抜粋する。映画で思い出すのは、松竹で、師匠六代目の鏡獅子を映画に撮ったことです。師匠のスタンド・インでカメラの前で何度も踊らされ、あげくの果て、蒲田の撮影所まで引っ張って行かれて、フィルムの編集を夜通し手伝わされ、ふらふらになりました。監督はたしか、私の崇拝する小津さんだったと思いますが、小津さんはこき使われた当時の私(尾上しげる)を思えていらっしゃるでしょうか。」

『東宝映画』通巻第25号(1961年10月1日発行、東宝映画友の会・本部、82頁)

表紙:原節子
「『小早川家の秋』キャスト、ストーリー」(38頁、47頁)
団令子「私は、すごくついてるの!」(56頁)
「スタア対談☆連載第12回 姉妹みたいに仲良く楽しく! 原節子、司葉子」(68―69頁)
※一部抜粋する。「小津監督の印象 原「そればかりじゃないでしょ。小津組も二度目だから、馴れてきたせいもあるのよ。」司「そうね。初めの時は、小津先生て、とても厳しい人だってお聞きしてたんで、お目にかかるまではびくびくしてたの。」原「演出家として厳しいのね。普段はとても優しい。時に女性にはお優しい先生だけど。」司「原さんは小津先生の作品に出られるのは、もう六本目だから、本当に落ち着いていらっしゃる。」原「私だって、一番最初は怖かったわ。だけど、それはお芝居に関してだっていうことが分かったの。それに、一本目は精神的にいたわって下さるの。」司「今度は前より細かく注文が出たわ。やはり最初の時とは違うのね。そういえば大船へ通った頃は、毎日セットが終わると、よくお話ししたわね。」原「そうね。あの時以来、運転手さん同志も仲良くなってね。」司「ほんと。でも、原さんにはいろいろお話を伺って、とてもプラスになったわね。」原「先生はお仕事に対してほんとうに厳しいから、意味のないお芝居をしようものなら、何回でもやり直しさせられるわ。たえず本当のお芝居を求めていらっしゃるから、こっちが本気でやっているかどうかを、ちゃんと見抜いていらっしゃるの。」 

『小早川家の秋』(1961年10月発行、東宝、2頁)

「小津安二郎監督作品
スタッフ、きゃすと、ものがたり
かいせつ、香気はなつ小津芸術の粋」

完成記念ライター『小早川家の秋』(1961年、東宝株式会社関西支社)

HIGH QUALITY LIGHTER PENGUIN製
銀箱

『「小早川家の秋」完成記念色紙』(1961年、東宝株式会社)

「小早川家の秋」完成記念色紙
サイン 小津安二郎
原節子、司葉子、白川由美、団令子、新珠三千代、小林桂樹、加藤大介、宝田明、森繫久彌、中村鴈治郎

団扇『小早川家の秋』(1961年、東宝株式会社)

小津安二郎が東宝で初めて創る 小早川家の秋
小早川家の秋で華麗に競う十大俳優 サイン

特別御鑑賞券『小早川家の秋』(1961年10月発行、東宝)

特別御鑑賞券『小早川家の秋』(1961年10月発行、東宝)
東宝に初めて咲く小津映画!十六大スター空前の競演!
150円(当日200円)

会計伝票広告『小早川家の秋』(1961年10月29日、東京銀座三愛札幌店)

会計伝票広告「小早川家の秋」
※裏がレストランの会計伝票となっている、卓番、何名様、係、お召し上がり物、数量、金額、御会計とあり、実際、11月17日に、ハンバーグ2、ライス2と書かれている。東宝による「小早川家の秋」の宣伝への力の入れ方を知ることのできる資料である。

『小早川家の秋』(1961年10月29日発行、東宝株式会社、1頁)

スタッフ、キャスト、かいせつ、ものがたり

『小早川家の秋』台本(1961年10月29日発行、東宝株式会社、99頁)

「スタッフ、キャスト」7頁
a-22,b-22,c-22,d-26
発行日がないので、封切日とした。

『小早川家の秋』(1961年10月29日発行、東宝株式会社、10頁)

表紙「原節子と司葉子」
「かいせつ、すたっふ、きゃすと、」「完成された芳醇な映画美-試写をみて-」(1頁)
「この町の 小早川家の 酒倉よ 風吹きぬけて 秋は立つらし 小津安二郎」(2頁)
「日本映画・演劇陣をすぐった16大スター華麗な競演!小津名匠初の東宝作品なればこそ」(3―4頁)
「ものがたり」(5―6頁)
「芸術院賞に輝く映画の神様」(7―8頁)
野田高梧「今度の仕事」(9頁)
 

『小早川家の秋』(1961年10月29日発行、東宝株式会社、12頁)

表紙「原節子、司葉子、新珠三千代、白川由美、団令子、中村鴈治郎、小林佳樹」
「すたっふ、きゃすと、解説」(1頁)
「梗概、小早川家の人びと」(2―3頁)
「小津安二郎監督」(4頁)
野田高梧「今度の仕事」(5頁)
「小津安二郎作品年表」(4―5頁)
「小早川家の秋 主たる登場人物とその役柄」(6―7頁)
豊田四郎「『木場』と小津監督」(8頁)
「「小早川家の秋」に寄せられた各界の賛辞 池田弥三郎、奥野信太郎、河盛好蔵、小絲源太郎、ドナルド・リチィー」(9頁)
「話題の頁 酒よし本よし女よし、森繁ダンナも大いに勉強、BG役に張り切る司葉子、名画を描く画家のように、”カン”のよい令子ちゃん、厳しいがやさしい小津先生、総額一千万円の名画、エレガント競う美人スター」(10―12頁)

『上映契約書 小早川家の秋』(1961年10月29日発行、東宝株式会社、4頁)

上映契約書(第一条~第十一条)、上映料金他

『Early Autumn』(1961年10月発行、Toho Company Ltd.,8頁)

「梗概、スタッフ、キャスト」(4-6頁)
発行日がないので、便宜的に日本の封切日とした。

『東宝映画』通巻第26号(1961年11月1日発行、東宝映画友の会・本部、50頁)

表紙:『野盗風の中を走る』の夏木陽介、佐藤允、市川染五郎
「『小早川家の秋』明眸の二名花 原節子・司葉子」(19頁)
「小早川家の秋 ストーリー、スタッフ、キャスト」(20―21頁)
※スチル5葉、演出する小津監督ショットあり。

『キネマ旬報』No.1111 第二九七号(1961年11月1日発行、キネマ旬報社、146頁)

表紙:ジョーン・コリンズ
天津乙女「RELAY SPEECH 秋のタカラヅカ」
※「一部抜粋する。小津安二郎先生からバトンが廻ってまいりました。小津先生とは去る三十三年度の紫綬褒章を首相官邸で御一緒に頂き、その節、私のほんの小さい頃の舞台を観て下さったお話を伺って、それ以来最近宝塚で「小早川家の秋」を撮影されてますのでお目にかかる機会が久方ぶりでやってきたのですが、余り数多く見ない日本映画ですけれど、小津作品は必ず拝見しております。」

『東宝 劇場宣伝心得帖 1961 No.11』(1961年11月発行、東宝株式会社、16頁)

表紙「小早川家の秋」
「自信に満ちて芸術大作誕生!『小早川家の秋』の小津名匠の風貌」(1頁)
「小早川家の秋」(かいせつ、ものがたり、スタッフ、キャスト、宣伝ポイント、特殊宣材プラン、特殊宣伝プラン、宣伝文案)(2―3頁)

『キネマ旬報』No.1113 第二九八号(1961年11月15日発行、キネマ旬報社、146頁)

表紙:ソフィア・ローレン
原節子「RELAY SPEECH 宝塚のこと」(39頁)
※「冒頭を抜粋する。これまでロケーションなどで、地方に行ったことはありますが、「小早川家の秋」のように一本、家を離れ、部屋ずまいをしたのは初めてのことなので、ずいぶんと疲れました。しかし撮影が九部通り終わったある晩、小津先生、天津乙女さん、寿美花代さん、明石照子さんと過ごした楽しい一晩のことは、忘れ得ない思い出です。」
「旬報万年筆 小津映画は小津映画である」(40頁)
小倉真美「『小早川家の秋』に見る小津映画の特質」(68-69頁)

『キネマ旬報』No.1114 第二九九号(1961年12月1日発行、キネマ旬報社、146頁)

表紙:デブラ・パジェット
「小早川家の秋」鎌倉文士試写会(12頁)
小津安二郎監督の「小早川家の秋」を見る会が10月23日鎌倉の市民座で開かれ、鎌倉文士など多数が鑑賞した。左より、中村登、小津、里見弴、高見順、伏見晃の諸氏。

『キネマ旬報』No.1116 第三〇一号(1961年12月15日発行、キネマ旬報社、150頁)

表紙:リタ・モレノ
岡本博「日本映画批評 小早川家の秋」(79頁)

1962
『週刊現代』第五巻第二十六号(1962年7月4日発行、講談社、130頁)

表紙:三原公子(公募モデル、東京)
「美のあるところ26 佐田啓二氏と居間の佐伯祐三画「洗濯屋」(66-67頁)

高橋とよ『沸る』(1962年8月8日発行、東峰出版、236頁)

「映画へ」(82―92頁)
※「彼岸花」のスチル(83頁)89~92頁に、映画出演作品一覧。小津監督は、「秋日和」、「晩春」、「麦秋」、「お早よう」、「東京物語」、「浮草」(掲載順)。

『サンデー毎日』通巻二千二百六十四号(1962年8月12日発行、毎日新聞社、110頁)

表紙:武内喜恵子(撮影:佐藤明)
「小津安二郎の蓼科の戦い」(34―36頁)
※一部抜粋する。「静かな別荘地を観光会社が買い占めたことから騒ぎが勃発、”被害者”小津安二郎監督は大憤慨。蓼科高原の夏はテンヤワンヤである。」

『シナリオ』通巻172号(1962年10月1日発行、164頁、シナリオ作家協会)

野田高梧「蓼科日記抄」(70-71頁)
※七月十五日(月)~七月二十六日(木)

『OFUNA TIMES』スタジオだより TOTAL No.12(1962年10月8日発行、松竹製作宣傳課(大船)、1頁)

「しみじみと胸にせまる庶民の哀歓と生活の香り! 名匠小津安二郎監督が描きだす格調高き秋の名篇!! 秋刀魚の味」

『The SHOCHIKU 続愛染かつら・秋刀魚の味』(1962年10月24日発行、松竹株式会社関西支社宣伝課、2頁)

「秋刀魚の味 スタッフ、キャスト、物語、解説」(2頁)

特別前売鑑賞券『秋刀魚の味』(1962年11月発行、松竹株式会社)

特別前売鑑賞券「秋刀魚の味」

『秋刀魚の味/あいつばかりが何故もてる』(1962年11月発行、松竹株式会社、6頁)

「秋刀魚の味 スタッフ、解説、キャスト、ものがたり」(1-3頁)

『長寿の知恵』(4)(1962年11月5日発行、甘辛社、両面)

 大阪は食い倒れ、食道楽だということで、食を巡る雑誌が多く出版されていた。戦前には、そのものずばり『食道楽』という名前の雑誌もあった。そして、戦後、食糧事情もそれほど良くない時期、昭和26年8月に『あまカラ』(毎月1回5日発行、甘辛社、6ヶ月:500円、1ヵ年:1,000円)が創刊された(昭和43年に200号で休刊している)。甘辛社は、文久3(1863)年3月創業の和菓子の老舗鶴屋八幡の子会社である。横開きのポケット版で、多くの写真や広告が掲載された。『あまカラ』では、不定期に、付録を付けており、135号(昭和37年11月5日発行)の付録は、『長寿の知恵(4)』というタイトルが付けられて、作家、随筆家、劇作家、歌人、心理学者、写真家、漫画家、俳優等79名にその知恵について聞き、掲載している。そこに野田高梧と小津監督の意見が掲載されている。B4縦、両面見開きの二ページ目に二人のコメントは掲載されている。そんな付録を取っておく人などそうそう多くないだろう。それぞれの知恵をフルバージョンで紹介しよう。
 野田高梧は「保健のためというほどの意識もなく、十数年来、二食をつづけ、朝食後、リンゴのジュース一つ分を呑みます。朝は、二日おきぐらいに、野菜、サーディン、ソーセージなどでパンを食べます。但し、和食の時はおみおつけを欠かしません。終戦直後、胃潰瘍をやり、爾来、コーヒーを断ちましたが、このごろは朝食後インスタントを呑むようになりました。それと昨冬以来、渡辺武先生のおすすめでハト茶を愛用しています。晩酌は一合五勺。クスリ類は血圧降下剤、ビタミン剤、強肝剤などを絶やしません。」とあり、現在にも通ずる内容となっている。それに対して、当の小津監督は、79名のうち最も短く、「一日二食。朝、少々お酒をのみます。晩も少々。」美味しいもの好きの小津監督、その言葉は、あたかも、長寿など関心ありませんという風なのである。小津監督はその翌年鬼籍に入るわけだが、そもそも当時50代の小津監督に長寿の知恵を問うとはどうかと思われる。その頃の皆さんは、その後、日本が世界一の長寿国になり、子供が生まれない社会になっていようとは、予想できなかっただろう(築山秀夫『シネマ雑記166号』(古石場文化センター)を引用)。

『秋刀魚の味』(縮刷シナリオ)(1962年11月18日発行、松竹株式会社、35頁)

二段組、発行日がないので、封切日とした。

『秋刀魚の味』台本(1962年11月18日発行、松竹株式会社)

「スタッフ、キャスト」6頁
a-18,b-22,c-22,d-18,e-26
発行日がないので、封切日とした。
三上真一郎、杉村春子、岡田茉莉子、山内静夫サイン

『秋刀魚の味』(1962年11月18日発行、松竹株式会社、10頁)

「解説」、小津安二郎「”人間の生活描く”」(1頁)
「小津安二郎監督について」(2頁)
「小津組初出演に張り切る吉田輝雄、クランクインは常連で」(3頁)
「セットの話題 静かなセットに軍艦マーチが、本物づくめの豪華なセット 美術品も多数 小津作品の味は小道具にも」(4頁)
※「別に理由はないよ。気に入ったものを、そのつど探すのはたいへんだし、金だってムダだもの。それなら自分のものを使って、その金をほかの重要なことに使えばいいと思ってね‥」と、こう小津監督はあっさりと説明していた。
「スタッフ、キャスト、物語」(5-6頁)
「作品を彩る豪華な出演者」(7-8頁)
「名匠の偉大な足跡 小津安二郎監督作品年表」(9-10頁)

『松竹グラフNo.9 秋刀魚の味』(1962年11月18日発行、松竹株式会社関西支社宣伝課、5頁)

「解説」(1頁)
「ものがたり」(2頁)
「SNAP スナップ スタッフ」(3-4頁)
「名匠‥ずばりその名の人、小津安二郎」(5頁)

『An Autumn Afternoon』(1962年11月18日発行、松竹株式会社、6頁)

「スタッフ、キャスト、物語」、スチル5カット
発行日がないので、封切日とした。

『毎日グラフ』第15年第47号通巻659号(1962年11月25日発行、毎日新聞社、58頁)

表紙:加賀まりこ
「カメラの後に大スターあり いま仕事中 小津さんはいそがしい <秋刀魚の味>」(34-35頁)
スチル11枚(全てに小津監督)

『週刊現代』第四巻第四十七号(1962年11月25日発行、講談社、138頁)

表紙:佐藤康子
「11人目のヒロイン 小津作品『秋刀魚の味』に主演の岩下志麻」(67―69頁)
「枯葉の舞い落ちるなかを散策する小津監督と岩下志麻(松竹大船撮影所にて)」(67頁)、「晩春の原・笠、高峰秀子、香川京子、岸恵子、有馬稲子、山本富士子、若尾文子、司葉子、津島恵子、久我美子」のカット、「岩下志麻を演出する小津監督」。

1963
『週刊朝日』第六十八巻第一号通巻二二七四号(1963年1月4日発行、朝日新聞社、142頁)

「ジャンプ’63 映画監督小津安二郎 自宅客間(鎌倉)」(7頁)
※撮影企画によれば、明治以降の日本が迎えた卯年は、いつも危機感に満たされた年であった。そこで、それ以前の卯年のようにならないように、むしろうさぎが大きく跳躍できるような年にしたいと願い、このグラビア企画を練った(94―95頁)とある。そして、109人がジャンプし、67枚の写真が掲載された。巻頭は、衆議院議長清瀬一郎。続いて、東大総長茅誠司、東本願寺裏方大谷智子、奈良女子大教授岡潔、柔道銃弾三船久蔵、作家獅子文六、画家前田青邨に続いて、7頁目に小津監督が掲載されている。実は、この企画にはモデルがある。フィリップ・ハルスマンの『JUMP BOOK』(1959年)という写真集。アメリカの高名な政治家、実業家、学者、芸術家、俳優、女優など、例えば、ニクソン大統領やサルバドール・ダリ、マリリン・モンローなど各界の大物たちがジャンプする姿178点が収められている。小津監督の写真撮影エピソードについて、「小津監督は、二年前、野球をやっている時にアキレス腱を切ったことがあるよしで『飛べるかな』と言いながらも、軽くポンポン飛ばれました。小津監督の十八番である低い角度からの写真ですが、お気に召しましたでしょうか」(97頁)と結んでいる。

『芸術会員 小津安二郎氏を祝う会 小津安二郎監督作品年表』(1963年2月13日発行)

日本映画史に燦然たる、不滅の金字塔を打ち樹てた、名匠・小津安二郎監督、30余年の足跡!
代表作品場面集、小津安二郎監督の略歴

『週刊平凡』第五巻第九号(1963年2月28日発行、平凡出版、132頁)

「巨匠最良の日 芸術院会員/小津安二郎を祝う会」(18―19頁)
「岡田茉莉子、小津安二郎、若尾文子」、「中井貴恵ちゃんと小津監督」4ショット
※一部抜粋する。「映画界で初めて芸術院会員となった小津安二郎監督を祝う会が、二月十三日夜、東京赤坂のホテル・オオクラで開かれた。これは日頃、小津氏となじみ深い先輩、友人、門下生などが発起人となってお祝いしたもの―永田大映社長、城戸松竹社長、シナリオライター野田高梧、作家久保田万太郎氏はじめ、笠智衆、佐田啓二、岡田茉莉子、若尾文子、佐久間良子、鰐淵晴子らかけつけた参会者は約五百名」

『婦人倶楽部』第44巻第3号(1963年3月1日発行、講談社、422頁)

「対談 小津安二郎・岩下志麻 先生どうして結婚なさらないの
 六十を迎えてなお独身の小津安二郎監督に岩下志麻さんが聞く独身の秘密
 早春のあたたかい陽射しのふりそそぐここ北鎌倉の小津監督邸の庭先で、結婚について語り合う小津監督と岩下志麻さん」(144-147頁)

『dデザイン+デコラ』第5号(1963年4月30日発行、住友ベークライト株式会社・デコラ事業部、92頁)

小津安二郎「映画セットで思うこと」(70-71頁)
冒頭を引用する。
「時価何百万円もするという絵をむりして借り、その日の撮影が済むと銀行にあずける。昔だったらそれほど高価なものを借りないでも、美術部のものが泥絵具かなんかでごまかした所だったが、近頃は観客の眼が肥えてきたから、ほんの数秒のシーンのためとはいえ、やっぱり本物をつかわなければならない。あまり長い間ライトに輝らすので油がとけてくるうではないかとまで心配しながら。」

毎日名画鑑賞会第35回招待券『秋刀魚の味』(1963年11月15日発行)

毎日名画鑑賞会第35回招待券『秋刀魚の味』
主催:毎日新聞開発KK
後援:スポーツニッポン新聞社

『週刊平凡』第五巻第五十四号(1963年12月26日発行、平凡出版、132頁)

「今週のハイライト 巨匠逝く/ありし日の小津さん」(18―19頁)
※「日本映画界の最長老である小津安二郎監督が十二月十二日午後零時四十三分、頸部悪性シュヨウのため、入院中の東京医科歯科大附属病院で死去した。小津氏は大正十二年松竹蒲田撮影所に入社、昭和二年『懺悔の刃』で監督になり、以来サイレント、トーキー時代を通じて、『戸田家の兄妹』、『晩春』、『麦秋』、『彼岸花』、『秋日和』など多数の名作を発表したが、昨秋の『秋刀魚の味』が遺作になった。同監督の作品は格調高いリアリズムを守り、”小津調”とうたわれた―この秘蔵写真はよき酒徒であった同氏が佐田啓二邸でおどけたときのものである。」(18頁)

『サンデー毎日』第四十二巻第五十三号通巻二千三百三十七号(1963年12月29日発行、毎日新聞社、118頁)

表紙:水上勉、池田勇人、山本富士子、長嶋茂雄、江利チエミ、故ケネディ米大統領、依田郁子、海老原博幸、坂本九
「おやじ小津安二郎はもういない(佐田啓二の看護日誌)」(12―17頁)
※見出しのみを拾う。「ガンでなくなった大監督の最後の企画はガンに苦しむ人の物語だった」、「ハレモノを退治するまでは」、「首に針を入れ一週間」、「ガンをテーマの『大根と人参』」、「吸いのみにブランデー一滴」、「苦痛の声が玄関にも」、「”およめさんもらえばよかったよ”」、「柩は山道のもみじを踏んで」

1964
『小津安二郎作品選集』(1964年1月1日発行、銀座並木座、4頁)

上映期間’64 1月1日~1月28日
「小津安二郎監督の作品暦」(3頁)
マミキ・トオル「”去りし人、新しき年”」(4頁)
「1963年、川島雄三監督につづいて小津安二郎監督を日本映画界は失った。小津監督の死を聞いた時、その悲しみを抑えることができなかった。残念だ、残念だ、と心の中でくり返しつぶやくより術がなかった。小津芸術は世界的に再評価される時期に来ていた。小津作品の素晴らしさが改めて認識され始めていた。時流の混濁にまぎれて、我々が見過ごしていた小津作品の美を、今度の機会に泌々と味わいたいと思う。」
支配人「ちょっと一言」(4頁)
「別掲の小津安二郎作品暦中より種々バラエティに富んだものをと考え配給会社に申し入れたところ、現在残っている最も古い作品が昭和三十一年の『早春』とのことでした。」

『週刊新潮』第九巻第一号通巻四百十一号(1964年1月6日発行、新潮社、152頁)

「小津安二郎監督の”幻の愛人”」(32-33頁)
※一部抜粋する。「お葬式にあらわれたMさんこそ、小津さんの愛人だったんですよ。新橋の芸者をしていた人で、今は人妻です。小津さんはそのMさんをいつまでも心に抱いていたかったんでしょう。」

『キネマ旬報』No.1171 第三五六号(1964年1月15日発行、キネマ旬報社、172頁)

表紙:ティッピー・ヘドレン
「小津安二郎監督逝く」(40―43頁)
岩崎「小津安二郎を永久に」(40―42頁)
「ありし日の小津さんをしのぶ」
城戸四郎「幸福な人・小津君」(42―43頁)
野田高梧「病床でも忘れぬ笑い」(43頁)
佐田啓二「父を失った気持ち」(43頁)
※スナップ「ありし日の小津さん」「『秋刀魚の味』のセットで」「北鎌倉の自宅に帰った遺体を前に悲しみの第一夜」「元気だったころの小津さん」
広告「キネマ旬報緊急増刊 小津安二郎・人と芸術」(47頁)
編集室「小津さんの逝去、巨星落つの感まことに深い。ついこの間、ここで小津さんの病状を書いたが僕のひいきめにみた間違いだろうか。それにしても、こんなに早く逝くとは、人生は朝露の如しというが、日本映画重大のこの時惜しい人をなくしてしまった。昨夜北鎌倉の小津家にお通夜のおまいりをしたぼくは、九月末ごろ同じ部屋で”げんきになって「大根と人参」を作ろう”と話し合ったことを思い出し、悲しみは胸をついて如何ともなしえなかった。思えば小津さんの日本映画における業績”小津さんより撮れない”作品の数々が瞼にうかんでくる。その大きな足あとはすべて本誌のベスト・テンが物語っているし、小津芸術の
香り高いあの格調は永遠に輝くだろう。(大橋)」(172頁)

『国民百科』第17号(1964年1月20日発行、平凡社、20頁)

飯田心美「今月の人 小津安二郎」(7頁)
1903~63 映画監督。
1923年(大正12)松竹蒲田入社。
大久保忠素監督についたが、時代劇《懺悔(ざんげ)の刃》(1927)で一本立になった。
初期は、短篇笑劇が多く、しだいに長編コメディに転じた。
蒲田の時代劇制作中止にともない現代劇に転じ、大学生活やサラリーマン生活の倦怠(けんたい)、無気力を描いた《大学は出たけれど》(1929)、《會社員生活》(1929)、《落第はしたけれど》(1930)をへて、《東京の合唱》(1931)、《生れては見たけれど》(1932)で蒲田の代表的監督になった。
小市民の生活を悲哀と感傷のうちに描く、いわゆる<小市民映画>は、《出来ごころ》(1933)、《浮草物語》(1934)、《東京の宿》(19359の後、トーキー第一作《一人息子》(1936)で頂点をなした。
動員帰還後《戸田家の兄妹》(1941)、《父ありき》(1942)を作り、第二次世界大戦後は、《長屋紳士録》(1947)、《風の中の牝鶏(めんどり)》(1948)、《宗方姉妹》(1950)のほかに、《晩春》(1949)、《麦秋》(1951)、《東京物語》(1953)、《早春》(1956)、《彼岸花》(1958)、《秋日和》(1960)、《秋刀魚の味》(1962)などを作り、《一人息子》以来、主題を家族関係におく、すぐれた映画をつくった。
 この間33年には《東京物語》で英国第一回サザランド杯を獲得、同年紫綬褒章、34年芸術院賞を受賞、37年映画人として最初の芸術院会員となった。1963年12月死去。

『シナリオ』1964年2月号「特集 小津安二郎・その人と作品」(1964年2月1日発行、シナリオ作家協会、160頁)

「思い出のアルバム」(8-9頁)
岸松雄「小津安二郎伝」(20-29頁)
野田高梧「『蓼科日記』抄」(30-34頁)
里見弴「小津君よ、さようなら」(35頁)
菅原通済「淋しい」(36-37頁)
緒方安雄「小津安二郎さん」(37-38頁)
池田忠雄「フィルムの詩人」(38-39頁)
長井登貴「発病の頃より」(40頁)
山内静夫・厚田雄春・清水富二・井上和男・佐田啓二・淡島千景 座談会「小津先生という人」(42-54頁)
伏見晃「思い出すこと」(56-57頁)
オリジナル・シナリオ「淑女は何を忘れたか」(57-74頁)

『キネマ旬報』増刊1964年2月号「小津安二郎<人と芸術>」(1964年2月10日発行、キネマ旬報社、180頁)

「特別グラビア アルバム・小津安二郎」(小津君と鎌倉と私:里見弴、撮影現場の小津安二郎、おもいでの中の小津安二郎、回想の小津作品スナップ・スチル集)(5‐36頁)
野田高梧「小津安二郎という男:―交遊四十年とりとめもなく」(38‐43頁)
八尋不二「祇園の一夜 *小津さんのこと」(44‐45頁)
佐田啓二「老童謡『高野行』 *小津さんのこと」(46‐47頁)
南部圭之助「小津安二郎の怒り」(48‐49頁)
伊藤大輔「石・紫蘇・など…」(50‐52頁)
野田高梧「『大根と人参』始末記」(53‐55頁)
岩崎昶「小津安二郎と日本映画」(56‐64頁)
関口英男「アメリカの小津映画支持者」(66‐67頁)
牛原虚彦「ヨーロッパは小津ブーム-海外での小津監督の評価」(68‐70頁)
新藤兼人「小津映画からなにを学ぶか:体験的小津安二郎論」(71‐79頁)
井沢淳「豆腐つくりの境地:縁なき衆生の小津安二郎小論」(80‐81頁)
厚田雄春「小津ロー・ポジションの秘密」(82‐83頁)
岸松雄「小津のごひいき俳優(スター)たち」(84‐88頁)
杉山静夫「回想の“小津サイレント”」(89‐91頁)
小津安二郎「自作を語る」(92‐99頁)
「小津安二郎監督作品一覧表」(100‐101頁)
シナリオ「出来ごころ」(102‐118頁)
シナリオ「父ありき」(119‐133頁)
シナリオ「麦秋」(134‐157頁)
シナリオ「東京物語:」(158‐180頁)

『映画評論』第二十一巻第三号(1964年3月1日発行、映画出版社、158頁)

表紙・目次デザイン:小林泰彦
滋野辰彦「小津安二郎の映画」(26‐37頁)
※一部抜粋する。「『若人の夢』の一部を、わたくしが今でも記憶に残しているのは、そのころ怠惰な学生だったわたくしの身にくらべて、このナンセンス喜劇がおもしろかったからであろう。そのなかで、はっきりおぼえているのは次のような場面である。主人公の大学生が、友人の恋人に会うためにアパートを訪ねる。かれはまだこの女に会ったことはないが、部屋の番号が9号だということを聞いている。ところが廊下をさがしているうちに、粗末な木造アパートの振動で、6号室の番号札がひっくりかえって9になる。そのため飛んでもないまちがいがおこることになる。この場面から受けた印象を一口に述べると、それは「アメリカ映画みたいだ」ということである。わたくしは今もそのことをよくおぼえている。すばらしいとか、うまいとかいう抽象的な印象ではない。わたくしははっきり、アメリカ映画という具体的な判断を、この映画から受け取ったのである。ショットの転換にリズミカルなテンポがあり、その明快な描写は、たしかにヨーロッパ的な演出とはちがって感じられたし、また当時の鈍重な日本映画では容易に見られない新鮮な描写であった。小津安二郎は、おそらくアメリカ映画の技術を早く消化しようとおもっていたのだろう。そのほかの國の影響をうけるのも事故の表現を作り出すのもその後のことである。」(26‐27頁)

『SUGHT AND SOUND』Volume33 No.2(1964年SPRING、British Film Institute、104頁)

CHISHU RYU「YASUJIRO OZU」(92頁)

近藤日出造『にっぽん人物画』(1964年6月18日発行、オリオン社、236頁)

「スクリーンの花形(5)小津安二郎 病んでも衰えぬ大声」(189―191頁)
※一部抜粋する。「北鎌倉。山の腹をくりぬいた洞窟を抜けると、秋の陽を浴びた木々の葉の海。その葉がくれに、しおり戸などしつらえた住居点々。風雅な部落だ。巨匠はそこで病んでいた。持ちまえの大声に衰えはなかったけれど、言葉はちょっともつれる。「淋巴腺に腫れものができて、癌センターで手術をやって‥退院してから、こんどは血行障害で右手がきかなくなりましてね。 サクラから秋風まで‥。いまや能因法師の心境ですね。都をば霞とともに出でしかど‥」わたし、無言。枕もとにずらりと所蔵の絵をならべ、天井を見つめたまま、巨匠は大きなひとりごと。」

『週刊読売』8月30日号(1964年8月30日発行、読売新聞社、122頁)

表紙:有馬稲子
社会 佐田啓二 国道20号線に死す 日本映画にとって惜しい損失」(22頁)
※一部抜粋する。「鶴田浩二、高橋貞二ととに、”戦後の三大二枚目”とうたわれ、故小津安二郎、木下恵介の両巨匠に愛され、「喜びも悲しみも幾歳月」「秋日和」「二人で歩いた幾春秋」「あなた買います」などに出演、ブルー・リボン賞と、毎日映画コンクール男優出演賞を獲得している。甘さだけのメロドラマ・スターではなく、渋さと骨のある好演をみせ、和製ジェームス・ディーンともいわれていた。

菅原通済『裸天国ニッポン』(1964年10月31日発行、創思社、312頁)

「早春余慶」(154-157頁)
※「小津安二郎さんの遺族の方が、お形見を持参された。麻の蚊紋と茶羽織d、それに掛軸が二本添えてあった。それが、かって私が記念に差し上げた古画なのdが異様に感ぜられた。こうした由緒のある品は、私たちが持つよりは、どうか元どおり御蒐集品の中に加えてください。との言い伝えだった。さすがは小津御一家らしい謙遜な態度と心温まる思いであったが、そのままに打ち過ぎた。ところがつい先頃その箱の中を調べてハッとした。‥」
「小津安二郎サン」(266-269頁)
※「最後の親友を失い、かくなにものにもない。数々の追憶談の出尽くした今日、つけ加えるなにもない。松竹で、社葬にはできないが、協会と合同葬にする、それをきいて味気なく、翌朝通りいっぺんの、素っ気ない黒枠広告を見て、益々その感を強め、葬式場で、形式的な、大谷君、大臣、院長等々の代理、代理の弔辞をきいて、人ごとのような思いにかられ、味も素っ気もない、そこらの安社長の社葬のような気がしてきたが、やっと里見弴先生の肉声で救われ、うら淋しい気持ちで引き上げた。‥」
「佐田啓二と保険」(278-279頁)
※「佐田啓二君の事故死で、どうしてあんな俳優稀に見る勤直な男が無残な死に方をせねばらなぬのか、木下監督の弔辞ではないが、神仏がにくらしくなったのは我のみではあるまい。その葬式が終わったら、高島忠夫君の幼児が十七娘に殺された。佐田とは異なり、告別式に行くほどの仲でもないのに、どうしても焼香がしたく、先約を断り、玉川迄暑い盛りを出かけた。奥さんは身も世もないほど打ちしおれ、うつぶせになって泣き伏している。‥」

1965
置塩高・井坂栄一・奥山正次郎・吉田與蔵編『小津安二郎君の手紙』(1965年10月発行、64頁)

「一、 昭和二年八月廿九日:置塩宛」(1-3頁)
「二、 昭和二年十月三日:置塩・吉田宛」(4-8頁)
「三、 昭和九年六月三日:置塩宛」(9頁)
「四、 昭和十年十月二十日:寄書 奥山、橋本上京紀念 日本橋 浜のや 置塩宛」(10頁)
「五、 昭和十四年八月六日:寄書 小津帰還祝級会(有馬兵衛に於て一泊)」(11頁)
「六、 昭和十四年八月八日:置塩宛」(12頁)
「七、 昭和十四年十二月四日:置塩宛」(13頁)
「八、 昭和十八年五月十一日:置塩宛」(14頁)
「九、 昭和十八年五月二十日:井坂宛」(15頁)
「十、 昭和二十四年 元旦:置塩宛」(16頁)
「十一、 昭和二十五年 元旦:奥山宛」(17頁)
「十二、 昭和二十五年九月十日」(18頁)
「十三、 昭和廿六年十一月十六日:吉田宛」(19頁)
「十四、 昭和廿八年五月九日:吉田宛」(20頁)
「十五、 昭和二十八年十一月十日:奥山宛」(21頁)
「十六、 昭和二十八年十一月十日:置塩宛」(22頁)
「十七、 昭和三十一年三月十日:井坂宛」(23頁)
「十八、 昭和三十一年三月十八日:井坂宛」(24頁)
「十九、 昭和三十二年二月十日:吉田宛」(25頁)
「二十、 昭和三十二年春:奥山宛」(26頁)
「二十一、 昭和三十二年六月七日:奥山宛」(27頁)
「二十二、 昭和三十二年六月二十五日:奥山宛」(28頁)
「二十三、 昭和三十三年十一月五日:井坂宛」(29頁)
「二十四、 昭和三十四年六月十一日:置塩宛」(30頁)
「二十五、 昭和三十四年九月廿八日:吉田宛」(31頁)
「二十六、 昭和三十七年十二月七日:奥山宛」(32頁)
「二十七、 昭和三十八年一月十二日:奥山宛」(33頁)
「二十八、 昭和三十八年賀状:置塩宛」(34頁)
「中国行」
「一、 出発前夜 昭和十二年九月秋彼岸の頃」(35頁)
「二、 昭和十二年中秋名月翌日上海」(37頁)
「三、 昭和十二年十二月二日」(38頁)
「四、 昭和十三年三月二十四日 定遠」(39-41頁)
「五、 昭和十三年五月三日 蚌埠」(42-44頁)
「六、 昭和十三年六月六日 蚌埠」(45-47頁)
「七、 昭和十三年八月十三日 南京」(48-49頁)
「八、 昭和十三年八月十四日 南京」(50-51頁)
「九、 昭和十三年十月十八日 信陽」(52-53頁)
「十、 昭和十三年十一月十五日 漢口北西部」(54-57頁)
「十一、 昭和十四年元旦 応城」(58頁)
「付記」(59-63頁)
※頁数にはカウントされていない頁が十三頁ある。 二頁には、昭和33年12月23日の夜、京都祇園「加藤」で開いた紫綬褒章受章を兼ねた級会で撮影された写真が添付されている。 四から五頁には、級友諸兄にあてた文章がある。 一部抜粋する。「私たちが、彼に初めて逢ったのは、大正五年(一九一六年)三重県立第四中学校入学の春であった。 それより四十八年の長い交友の間に、多くの手紙を交わしたが、その大半を失ってしまった。今ここに、私たちの手許に残っている三十数篇を蒐めてみた。彼の手紙の文格文字は、今更言うべくもなく正確で美しい。 彼には走り書きと言ったものはない。 二年近くも中国の戦塵の中にあって、生死損亡の日々を送りながら、このような玉篇を綴り得るとは、彼はほんとうに文字の好きな人間であったような気がする。 しかし、私たちが彼の手紙を蒐めたのは、その文学的美さに酔うことは勿論であるが、それ以上に私たちの友情のきずなを強くするにある。 ほんの葉書の短信でさえも、想い出のよすがとなるのである」
 次に、九葉の葉書、手紙の写真が掲載されている。
 本の装丁は、小津監督自身が装丁した『戸田家の兄妹』と同じものが用いられている。

『小津映画の特集 1965年12月-1966年1月』(発行人:川喜多かしこ、発行所:フィルムライブラリー助成協議会、1965年12月3日発行、22頁)

津村秀夫「小津安二郎の芸術」(4‐6頁)
「小津安二郎監督作品目録」(6‐8頁)
野田高梧「小津君の横顔」(8頁)
かいせつ「東京の合唱」、「生まれてはみたけれど」、「東京の女」、「出来ごころ」、「浮草物語」、「一人息子」、「戸田家の兄妹」、「晩春」、「麦秋」、「東京物語」、「彼岸花」、「秋日和」、「秋刀魚の味」(9‐21頁)
川喜多かしこ「小津さんのこと」(22頁)

1966
『キネマ旬報』別冊 日本映画シナリオ古典全集第二巻(1966年2月10日発行、キネマ旬報社、184頁)

伏見晃「談笑のうちにつくられた話」(69頁)
小林勝「「生れてはみたけれど」について」(70頁)
「シナリオ 生れてはみたけれど」(71-85頁)
齋藤達雄「小津さんのこと」(86頁)
北川冬彦「生れてはみたけれど」批評(86頁)
池田忠雄「舶来の匂いを求めた頃」(109頁)
小林勝「「出来ごころ」について」(110頁)
「シナリオ 出来ごころ」(111-129頁)
小津安二郎「世界にひろげたもの」(130頁)
飯田蝶子「小津さんの兵隊」(130頁)
坂本武「主演第一回作品」(130頁)
北川冬彦「出来ごころ」批評(130頁)

『キネマ旬報』別冊 日本映画シナリオ古典全集第四巻(1966年6月10日発行、キネマ旬報社、184頁)

大黒東洋士「日本映画界 苦難の時代」(9-13頁)
八木保太郎「忘れられない苦労」(16頁)
小林勝「「限りなき前進」について」(17頁)
シナリオ「限りなき前進」(18-37頁)
紅沢葉子「徹夜の連続」(38頁)
小杉勇「さんさ時雨」(38頁)
碧川道夫「なつかしい時代」(38頁)
水町青磁「「限りなき前進」批評」(38-39頁)

稲垣浩『ひげとちょんまげ 生きている映画史』(1966年8月5日発行、毎日新聞社、229頁)

小津監督に関して度々言及がある。例えば、176頁に、「『人情紙風船』が最後の作品になるのは、いややなあ‥」と、暗いことばを残して山中伍長は出征した。まったく私たちも、『紙風船』が遺作であっては困ると思ったが、それよりも、暗示的に彼が言い残したことばが心にかかった。その翌年の正月、おなじように応召した小津安二郎(オッちゃんとルビ)と現地でめぐりあった。その時の寄せ書きに「悪運尽きず」と書いてあったので、われわれの杞憂は晴れ、元気で生きて還るようなのぞみをいだいていたのだったが、十三年の九月十七日、北支開封野戦病院で戦没、年三十歳。山中の死は全映画人が悼しんだ。彼を偲んで追悼映画が製作されることになり、山中の遺稿『木屋町三条』を鳴滝組の残った七人でシナリオにして、題は『その前夜』とつけた。監督は愛弟子の萩原遼、出演は前進座だったが、梶原金八の名も山中の死とともに消えた。」
 177頁には、稲垣浩に宛てた、小津安二郎の年賀状(軍事郵便)が掲載されている。山中貞雄が、さきの「悪運つきず」と書いている。
 181頁には、「第二回NG祭りの会場で、サービスにつとめた田中絹代と小津安二郎」の写真が掲載されている。
 182頁には、「昭和11年発足の日本映画巻頭協会の設立挨拶状」、183頁には、「日本映画監督協会の会報『映画監督』の第36号(表紙は小津監督の豆腐画)、第48号(表紙は、昭和33年の忘年会時の寄せ書き、小津監督の署名もある)が掲載されている。

1967
『日仏交換映画祭記念 日本映画の回顧上映』増補改訂版(1967年5月30日発行、フィルム・ライブラリー助成協議会、308頁)

津村秀夫「監督評伝 小津安二郎の芸術」(114-116頁)
「小津安二郎監督作品目録」(116-118頁)
野田高梧「小津君の横顔」(118頁)
「東京の合唱」(119頁)
「生まれてはみたけれど」(120頁)
「東京の女」(121頁)
「出来ごころ」(122頁)
「浮草物語」(123頁)
「一人息子」(124頁)
「戸田家の兄妹」(125頁)
「晩春」(126頁)
「東京物語」(127頁)
「彼岸花」(128頁)
「秋日和」(129頁)
※本書は、1963年11月から64年5月まで、国立近代美術館で開催された「日仏交換映画祭記念・日本映画の回顧上映」の際に刊行された解説書(1963年11月30日発行)を、各方面の要望にこたえて再発行したものです。この記念すべき行事と出版を発行当時の時点で後世に伝えるという趣旨のもとに、誤植を訂正した以外、内容はすべて発行当時そのままにしてありますが、各監督の作品目録とベスト・テンだけ、その後の分を別項に追補しました。

1968
『日本映画史素稿(2)野田高梧氏の部』(1968年5月、フィルムライブラリー助成協議会、44頁)

語る人:野田高梧氏
聞き手:岸松雄
昭和43年2月24日 鎌倉市浄明寺115、野田氏宅にて
※二人の他に、野田夫人、清水晶の言葉も収録されている。

『シナリオ』シナリオ作家協会編(1968年12月1日発行、シナリオ作家協会、172頁)

表紙カット:エイゼンシュテイン・デッサン集より
「追悼 野田高梧」(34―47頁)
城戸四郎「野田君の死を惜しむ」(34―35頁)
伏見晃「回想」(35―37頁)
柳井隆雄「野田さんと私」(37頁)
新藤兼人「野田さんのドラマ」(38―42頁)
岸松雄「野田高梧聞書抄」(42―45頁)
下河原友雄「ふいるむ考現学㉔小津映画と野田さんと <追悼・野田高梧>」(46―47頁)
「シナリオ・クラシックス第6回 麦秋 野田高梧・小津安二郎」(139―172頁)

1969
『映画芸術』第17巻第2号258号(1969年2月1日発行、映画芸術社、118頁)

佐藤忠男「小津安二郎の芸術 第一回
 序章-私の見た小津安二郎」(39-42頁)
※佐藤忠男『小津安二郎の芸術』(1971年12月15日発行、朝日新聞社)は、本格的な最初の小津論であり、これ以降の小津論は、この小津論をベンチマークとして、それからいかに距離を取るのかを意識して、書かれてきたということができよう。本書は、当時『映画芸術』社長であった大橋恭彦氏の依頼で、同誌1969年2月号に、この「小津安二郎の芸術 第一回」の執筆を開始し、1970年5月号の第十五回執筆後に、朝日新聞出版局からの申し出で、単行本化することになった。

『映画芸術』第17巻第3号259号(1969年3月1日発行、映画芸術社、118頁)

佐藤忠男「小津安二郎作品のスタイル 小津安二郎の藝術(第二回)」(58-61頁)
※冒頭を一部引用する。
「すぐれた映画監督は、みんな、その作品にその監督固有のスタイルを持っているが、小津安二郎はそれがとくに極端であった。小津安二郎の映画を何本か観て、その演出の特徴を憶えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せても、どれが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実にあてることができるだろう。それほど、小津安二郎の演出には、彼のどの作品にも共通する一定のやり方があった。
 彼が、生涯につくり出した五十三本の映画のうち、昭和二年のデビュー作「懺悔の刃」が時代劇であり、そえから昭和六年ごろまで、ソフィステケイティッド・コメディを主として二十本ほどの喜劇を撮っている。そのころまでは、まだ、のちに小津調と呼ばれる固有のスタイルは、それほどはっきりした形にはなっていないようである。ストーリーも、青春ものありナンセンスものあり、ペーソスを主としたものありで、いくらかのバラエティを持っていた。しかし、今日完全なかたちで見ることのできる小津作品のうちの最も古い作品である昭和六年の「東京の合唱」と、昭和七年の「生れてはみたけれど」には、すでに固有のスタイルをはっきりと認めることができるし、そのストーリーも、小津安二郎が生涯ほとんど、それだけを描き続けたといっていい、家庭における親と子、夫と妻のデリケートな感情のスケッチにかぎられていた。小津安二郎は、それ以来、昭和三十七年のさいごの作品である「秋刀魚の味」にいたるまで、同じスタイルと同じテーマにだけ固執し続けたので、批評家はしばしば、彼を、進歩がないと云って非難した。これに対して、彼は俺は豆腐屋だ、豆腐屋は油揚げやがんもどきぐらいはつくれるが、トンカツはつくれない、というジョークで応酬して、固有のスタイルとテーマを決して変えようとしなかった。」

『映画芸術』第17巻第4号260号(1969年4月1日発行、映画芸術社、118頁)

佐藤忠男「小津演出のスタイル・その2 小津安二郎の芸術(第三回)」(51-54頁)
※冒頭を一部抜粋する。
「前回の原稿を書いてから一か月の間に、小津安二郎の映画を六回見た。シナリオ作家協会が、シナリオ作家志望者のための講習会で「晩春」を上映しているのをのぞかせてもらい、無声映画蒐集家の松田春翠が新宿の紀伊国屋ホールを借りてやっている無声映画鑑賞会で、「東京の合唱」を見、神田の岩波ホールが定期的にやっている岩波映画講座で、「東京物語」を見、さらに、フィルム・ライブラリー助成協議会の好意で、「生れてはみたけれど」と「東京物語」。それに「大学は出たけれど」の断片を試写してもらった。おおいに勉強してやっています、ということを云いたいためにこんなことを書くわけではない。パリやロンドンやニューヨークのように、フィルム・ライブラリーのすごいのがあるところならいざしらず、東京では映画の古典を研究するのは難しいように思われており、事実、それは大変困難なことである。しかし、そのつもりで機会を逃さないように注意していれば、まあ、かなり見ることはできるのであり、そういう機会を積極的にふやすことも可能なのである。
 ところで、こうして作品を見ながらノートを取ってゆくうち、前回の原稿にうっかり、いくつかの間違いを書いていることに気づいた。大きな間違いは、小津安二郎のロー・アングル(ロー・ポジションとも言うどっちでもいい)を、床の上、一メートルぐらいにカメラを据えること)と書いたことである。

『映画芸術』第17巻第6号262号(1969年6月1日発行、映画芸術社、118頁)

佐藤忠男「小津作品のスタイル・その4 小津安二郎の芸術(第五回)」(71-74頁)
※冒頭を一部抜粋する。
「小津安二郎にとって、彼がその作品の中でつくり出した人物たちは、すべて、彼の家に招待された客のような存在であった。そのように見えるいちばんはっきりした理由は、彼は、その作品の中でつくり出した人物たちに対して、失礼な撮り方や、失礼なふるまいを一度もしたことがなかったからである。人が、自分のこういう状態や、こういう姿は他人に見られたくないと感じるようなもの、それを、小津安二郎は、彼がつくりだした人物たちにいちども演じさせなかったし、撮ろうとしなかった。それだけでなく、小津安二郎は、彼がつくり出した人物たちに、つねに、他の人物に暖かく見守られていることを意識せずに行動している人物は、小津安二郎の作品にはほとんど出てこないのである。ということは、小津安二郎がつくり出した人物たちは、若干の例外を除いて、つねに、礼儀正しく行動するということであり、ときには、招かれて緊張している客のように、角に固い表情とポーズにさえもなった、ということである。簡単に解釈すれば、固い表情やポーズは、俳優たちが小津の名声と厳格すぎる演技指導に気押されて、のびのびした調子を失ったことになるが、同じように厳格極まる演技指導で有名だった溝口健二監督は、てっていしたリハーサルの繰り返しの末に、俳優たちの演技を完璧な自然さに到達させようとした。ところが小津安二郎は、てっていしたリハーサルの繰り返しの末に、俳優たちの延期を完璧な行儀よさに結晶させようとしたのである。おなじように完全主義といい、厳格主義とは言っても、ふたりの巨匠の目指していた方向ははっきりと違っていた。

1970
『映画芸術』第18巻第5号273号(1970年5月1日発行、映画芸術社、122頁)

佐藤忠男「小津安二郎の芸術(第十五回)」(80-83頁)
※冒頭を一部引用する。
「昭和六年の「美人哀愁」は、小津安二郎の全作品中、おそらくはもっともセンチメンタルな作品である。フランスの小説家、アンリ・ド・レニエの「大理石の女」という小説を小津が自分で潤色し、池田忠雄が脚本にしたもので、アメリカの小説を脚色した「その夜の妻」と共通する。若き小津の西洋への憧れの所産とも云えよう。」

『シナリオライター 野田高梧をしのぶ 1970年9月~10月』(1970年9月28日発行、フィルム・ライブラリー助成協議会、26頁)

岩崎昶「野田高梧論」(4-9頁)
菊島隆三「野田さんのシナリオと私」(9-10頁)
及川満「野田高梧と小津安二郎」(10-11頁)
「東京の合唱」、「花籠の歌」、「愛染かつら・総集編」、「西住戦車長伝」、「晩春」、「善魔」、「東京物語」、「秋刀魚の味」(12-19頁)
「野田高梧年譜、野田高梧作品目録」(20-26頁)

小津信三・下河原友雄・菅野昭彦『小津安二郎年譜』(1970年12月19日発行、35頁)

下河原加筆版、岸松雄宛署名

1971
『フィルムセンター1 田中絹代ー一女優の歩みによる日本映画史ー』(1971年4月5日発行、東京国立近代美術館フィルムセンター、38頁)

「対談:女優・監督・映画」(田中絹代・川喜多かしこ・永島一朗)(4-9頁)
「東京の女」(16頁)
「風の中の牝鶏」(32頁)

『フィルムセンター2 田中絹代ー一女優の歩みによる日本映画史ー』(1971年5月24日発行、東京国立近代美術館フィルムセンター、38頁)

佐藤忠男「田中絹代論」(4―9頁)
「宗方姉妹」(12頁)
「恋文」(21頁)
「月は上りぬ」(25頁)

『シネマ71』季刊No.8(1971年6月1日発行、シネマ社、96頁)

佐藤忠男「連載7・日本の映画理論 第6章 構図の美学と日常生活への志向 吉村公三郎の小津安二郎論」(54―59頁)

『フィルムセンター3 田中絹代ー一女優の歩みによる日本映画史ー』(1971年7月1日発行、東京国立近代美術館フィルムセンター、38頁)

「彼岸花」(14頁)
「田中絹代・出演作品目録」(20―29頁)
「田中絹代・監督作品目録」(29頁)

「クラシック映画ニュース」No.160(1971年10月20日発行、無声映画鑑賞会、14頁)

小津安二郎・島津保次郎名作選!!
野田高梧「小津安二郎という男」(3頁)
「出来ごころ」(4-6頁)
宮下淑子「二人のプロフィル 小津安二郎、島津保次郎」(7頁)

佐藤忠男『小津安二郎の芸術』(朝日新聞社、1971年12月15日発行、373頁)

口絵(「彼岸花」4葉、「浮草」2葉、「秋刀魚の味」2葉、「小津監督」、「浮草」の絵コンテとカット、「一人息子」、「お早よう」、「浮草」2葉、サイレント時代映画カット5葉、「東京物語」(映像の流れ1・2)、撮影スナップ(「晩春」、「父ありき」、「東京物語」、「伏見晃と小津監督」、「美人哀愁」)、小津安二郎と野田高梧)
「私の見た小津安二郎-序章-」(7-15頁)
「小津作品のスタイル」(17‐71頁)
「生いたち」(73―83頁)
「修業時代」(85―103頁)
「初期の作品」(105―129頁)
「アメリカ映画の影響」(131―156頁)
「批判的リアリズムの完成」(157―184頁)
「“喜八もの”の世界」(185―195頁)
「崩壊の感覚」(197―218頁)
「崩壊への抵抗」(219―231頁)
「戦争体験」(233―249頁)
「戦後-痛苦の風景」(251―274頁)
「至福のイメージ」(275―290頁)
「アイロニー」(291―307頁)
「老年」(309―320頁)
「その死と小さな総括」(321―331頁)
「作品の保存状況について」(334―337頁)
「小津安二郎年譜」(339―345頁)
「付録全作品目録」(347―366頁)
「あとがき」(7頁)

1972
『小津映画の特集(補遺) 1972年2月~3月』(1972年2月5日発行、フィルムライブラリー協議会、11頁)

かいせつ「その夜の妻」、「母を恋はずや」、「淑女は何を忘れたか」、「父ありき」、「長屋紳士録」、「風の中の牝雞」、「宗方姉妹」、「早春」、「お早よう」、「小早川家の秋」

月村吉治編著『蒲田撮影所とその附近』(1972年3月28日発行、102頁)

代表的映画場面集
「懺悔の刃」(88頁)
「肉体美」(89頁)
「その夜の妻」(92頁)
「お嬢さん」(93頁)
「東京の合唱」「生まれてはみたけれど」(95頁)
「浮草物語」「春は御婦人から」(97頁)
「出来ごころ」(98頁)

小津安二郎・人と仕事刊行会編『小津安二郎・人と仕事』(1972年8月25日発行、蛮友社、712頁、附録画稿14枚+解説書1枚)

「略歴-蓼科日記より-」(2頁)
里見弴「藝の蟲」(4‐5頁)
野田高梧「交遊四十年」(6‐15頁)
中井麻素子「天国の先生」(16‐22頁)
山内静夫「先生と私」(23‐28頁)
城戸四郎「小津の遺言」(29‐30頁)
シナリオ「生まれてはみたけれど」(32‐63頁)
シナリオ「彼岸花」(64‐121頁)
「彼岸花・平山家階下の平面図」(123頁)
中井助三「中学生時代」(124頁)
置塩高「無題」(125‐126頁)
酒井宏「撮影所助手時代」(127‐128頁)
髙橋通夫「無題」(129‐131頁)
小松芳方「一年志願兵」(132‐133頁)
斎藤寅次郎「助手仲間」(134‐136頁)
河原侃二「新人監督時代」(136‐139頁)
佐々木康「無題」(139‐141頁)
伏見晃「斜陽以前」(141‐146頁)
柳井隆雄「若い素顔」(147‐149頁)
飯田蝶子・松井潤子・吉川満子・田中絹代・高杉早苗・三宅邦子・笠智衆・厚田雄春 座談会(150‐159頁)
岸松雄「小津安二郎と山中貞雄と私」(162‐171頁)
佐野周二「両軍曹」(171‐173頁)
長岡博之「無題」(173‐175頁)
佐分利信「無題」(175‐177頁)
三宅邦子「無題」(178頁)
笠智衆「黄色い彼岸花」(178‐180頁)
河野鷹思「無題」(180‐182頁)
高木秀三「シンガポールの小津さん」(182‐183頁)
進藤次郎「銀座あそび」(183‐185頁)
林房雄「ジャワのオッチャン」(185‐186頁)
新藤兼人「俺はあとでいいよ=ロー・アングルの形と主題=」(186‐198頁)
津村秀夫「黄昏芸術の発展」(200‐207頁)
木下恵介「無題」(208‐209頁)
中山隆三「茅ケ崎館時代」(209‐213頁)
山本武「無題」(214‐215頁)
澤村勉「原節子さんの紀子」(215‐217頁)
内川清一郎「無題」(217‐219頁)
高峰秀子「無題」(219‐220頁)
高田好胤「無題」(220‐223頁)
東山千栄子「無題」(224‐226頁)
髙橋とよ「真赤なスリッパ」(226‐228頁)
杉村春子「無題」(229‐230頁)
浦辺粂子「無題」(230頁)
川又昻「無題」(231‐232頁)
斎藤高順「小津映画の音楽」(232‐234頁)
今村昌平「小津組で」(234‐236頁)
宮口精二「無題」(237頁)
中村伸郎「酒の場面」(237‐238頁)
淡島千景「無題」(238‐239頁)
池部良「ヒョーテクの先生」(239‐240頁)
谷村錦一「無題」(241頁)
井沢淳「無題」(241‐242頁)
山口久吉「銭払い弁天から浄智寺へ」(242‐243頁)
那須良輔「小津さんのペーソス」(244‐245頁)
里見弴「はにかみや」(246‐247頁)
別所正造「無題」(248頁)
柿田清二「理事長就任」(248‐249頁)
厚田雄春・浜村義康・石渡健蔵・小尾健彦・石井勇・堀内孝三・丸山恵司・長島勇治・清水富二・山内静夫 座談会(250‐257頁)
岩崎昶「たいへん個人的な思い出」(260‐266頁)
大庭秀雄「独自な文体」(266‐268頁)
中村登「小津さんと松竹監督会」(268‐270頁)
篠田正浩「無題」(270‐272頁)
久保寺生郎「拈華微笑」(273‐276頁)
若尾文子「真夜中の電話」(276‐278頁)
中村鴈治郎「無題」(278‐279頁)
新珠三千代「無題」(279‐280頁)
司葉子「無題」(280‐281頁)
森繁久彌「無題」(281‐282頁)
東山魁夷「無題」(282‐284頁)
橋本明治「無題」(284‐285頁)
北川靖記「無題」(285‐287頁)
菅原通済「芸術院賞のことなど」(287‐289頁)
川喜多かしこ「墓もうで」(289‐291頁)
ドナルド・リチー「無題」(291‐294頁)
藤本真澄「無題」(294‐295頁)
牛原虚彦「『おっちゃん』が貫いた豆腐の味」(295‐298頁)
三上真一郎「釈然としないこと」(298‐299頁)
田中絹代「無題」(299‐302頁)
吉村公三郎「冥土への手紙」(302‐305頁)
佐藤忠男・厚田雄春・宮川一夫・下河原友雄 座談会(307‐337頁)
「小津セットのマスタープラン一例」(338-339頁)
浜田辰雄「小津映画の美術30年」(340‐342頁)
「蓼科日記抄」(345‐395頁)
「蓼科日記 人名註」(396‐397頁)
井上和男「(抜萃後記)アキレスのことなど」(398‐402頁)
佐田啓二「看護日誌」(405‐412頁)
大仏次郎「時代映画を考えた」(414頁)
里見弴「弔辞(昭和38年12月16日)」(415頁)
今日出海 「懐中時計の話(一回忌スピーチより)」(416‐418頁)
下河原友雄編「年譜、書簡、日記抄、詩歌、断簡」(419‐706頁)
井上和男「あとがき」(707‐710頁)

松竹株式会社編『現代に生きる小津安二郎映画祭』(1972年12月7日発行、松竹株式会社、14頁)

松竹株式会社「ごあいさつ」(1頁)
「略歴 小津安二郎 蓼科日記より」(1頁)
里見弴「藝の蟲」(2頁)
「小津さんのこと 野田高梧、新藤兼人、ドナルド・リチー、篠田正浩、木下恵介」(3‐4頁)
「小津監督、戦後の松竹映画6代表作品紹介 晩春、東京物語、秋日和、麦秋、彼岸花、秋刀魚の味」(5頁)
「東京物語」(スタッフ、キャスト、ものがたり)(6‐7頁)
「彼岸花(スタッフ、キャスト、ものがたり)(8‐9頁)
「名匠・小津安二郎監督、30余年の足跡」(10頁)
「小津安二郎監督作品、スチール集」(11‐12頁)
斉藤高順「小津さんとの出会い」(13頁)
井上和男「小津さんのアキレス『ばばあ』」(13‐14頁)
「小津安二郎スナップ集」(13‐14頁)
※本書には、発行年が記載されていない。本書は、1972年12月7日(木)から15日(金)に丸の内ピカデリーで開催された「現代に生きる小津安二郎映画祭」のために作成されたものである。プログラムの発行日は、一般的に封切公開日に設定されているので、発行日を1972年12月7日と判断した。『朝日新聞』(1972年12月2日夕刊)に、「小津2作品 リバイバル上映 海外での好評受けて ロードショー『東京物語』と『彼岸花」』見出しの記事がある。冒頭を引用しよう。「小津安二郎が、この世を去って九年。最も日本的な作家といわれたその小津作品が、最近、海外で好評、と伝えられる。一方、国内でも、若い映画ファンの間に、小津作品への関心が高まっている。そんな動きをとらえた松竹が、ちかく、小津の晩年の名作「東京物語」「彼岸花」の二作を二本立てでロードショー公開する。」
画像は、当時配布された二つ折りチラシ及び半券(一般、学生)である。
これら全て©松竹株式会社。

1973
『新春のリクエスト作品選』(1973年1月3日発行、銀座並木座、4頁)

「小早川家の秋」(表紙)

『映画史研究』No.1(1973年春発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「小津安二郎論・序説(1)」(57-78頁)

『映画史研究』No.2(1973年発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「小津安二郎論・序説(2)」(32-40頁)
「聞き書きシリーズ 浜村義康 聞き手:佐藤忠男・吉田智惠男」(41-54頁)
佐藤忠男「「小津安二郎の芸術」補遺」(77-80頁)

『フィルムセンター17 飯田蝶子特集』(1973年8月20日発行、東京国立近代美術館フィルムセンター、38頁)

岸松雄「飯田蝶子小伝」(4―6頁)
「東京の合唱」(7頁)
「淑女と髯」(8頁)
「出来ごころ」(9頁)
「浮草物語」(13頁)
「東京の宿」(17頁)
「一人息子」(18頁)
「淑女は何を忘れたか」(20頁)
「戸田家の兄妹」(22頁)
「長屋紳士録」(24頁)

1974
『新春リクエスト作品選』(1974年1月3日発行、銀座並木座、4頁)

「在りし日の小津安二郎」(表紙)

『映画史研究』No.3(1974年発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「小津安二郎論・序説(3)」(62-78頁)

『映画史研究』No.4(1974年発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「小津安二郎論・序説(4)」(20-29頁)
TADAO SATO「THE ART OF YASUJIRO OZU(1)」(80-96頁)

『映画史研究』No.5(1974年発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「「反現実主義」について(1)―小津安二郎論・序説―」(66―70頁)
SADAO SATO「THE ART OF YASUJIRO OZU(2)」(81-96頁)

『リクエスト作品選』(1974年10月2日発行、銀座並木座、4頁)

「秋日和」(表紙)

1975
『映画史研究』No.6(1975年発行、佐藤忠男編集、96頁)

佐藤忠男「新發見の「戦う兵隊」と9ミリ半の「突貫小僧」」(70―71、26頁)
※東京の成城小学校の斎藤先生が「突貫小僧」の9ミリ半のフィルムを所持しておられ、教室で見せてもらったことが書かれている。短縮版の突貫小僧は約13分であった。
及川満「挿論「反現実主義」について(2)-小津安二郎論・序説-」(72―76頁)
TADAO SATO「THE ART OF YASUJIRO OZU(3)」(85-96頁)

『映画史研究』No.7(1975年発行、佐藤忠男編集、96頁)

TADAO SATO「THE ART OF YASUJIRO OZU(4)」(84-96頁)

「Early OZU」(1975年11月8日発行、National Film Theatre London、47頁)

Early OZU(2頁)
「Days of Youth」、「 Walk Cheerfully」、「 I Flunked,but…」(3頁)
「That Night’s Wife / Woman of Tokyo」、「The Lady and the Beard」、「Tokyo Chorus」 (4頁)
「I was born,but…」、「Dragnet Girl」、「Passing Fancy」(5頁)
「A Story of Floating Weeds」、「An Inn in Tokyo」、「The Only Son」、「What Did the Lady Forget?」(6頁)
「The Brothers and Sisters of the Toda’s Family」、「There was a Father」、「The Record of a Tenement Gentleman」、「A Hen in the Wind」(8頁)
※発行日は、記載がないために、上映会初日とした。

1976
『映画史研究』No.8(1976年発行、佐藤忠男編集、96頁)

TADAO SATO「THE ART OF YASUJIRO OZU(5)」(96-84頁)

『フィルムセンター32 小津安二郎監督特集』(東京国立近代美術館フィルムセンター編、1976年1月29日発行、東京国立近代美術館、54頁)

佐藤忠男「小津演出のセオリー」(4‐7頁)
「小津安二郎監督作品目録」(8頁)
かいせつ「若き日」、「大学は出たけれど」、「落第はしたけれど」、「朗らかに歩め」、「突貫小僧」、「その夜の妻」、「淑女と髯」、「東京の合唱」、「生まれてはみたけれど」、「非常線の女」、「東京の女」、「母を恋はずや」、「浮草物語」、「東京の宿」、「一人息子」、「淑女は何を忘れたか」、「戸田家の兄妹」、「父ありき」、「長屋紳士録」、「風の中の牝雞」、「晩春」、「宗方姉妹」、「麦秋」、「お茶漬の味」、「東京物語」、「早春」、「東京暮色」、「彼岸花」、「「お早よう」、「浮草」、「秋日和」、「小早川家の秋」、「秋刀魚の味」

『キネマ旬報』No.1497 第六八三号(1976年5月20日発行、キネマ旬報社、210頁)

南部圭之助「小津安二郎作品集への回想 1・華麗気品の魅惑」(132―135頁)
※冒頭を紹介する。「国立フィルムセンターの小津安二郎特集は、ちょうどロンドンの同じ催しに応じた形になったようだ。前後二回、講演をしたが、二回目は喋ることが多く、時間がオーバーしそうなので、かなり早口になって、しかも50分もかかってしまった。どうも、余計なことを喋るためわき道にそれる悪い癖が直らず、一回目の好評で、さらに熱心に聴きに来てくれた満員の聴衆に迷惑をかけてしまった。『戸田家の兄妹』(一回目)も『彼岸花』(二回目)も各二日間4回の上映だから、話を聴いて頂けなかったファンが三倍いた勘定になるので、その二回の解説を軸にして、この紙面を借り、記録に残すことにした。」「この間、厚田雄春と三回ばかり遭えて、いろいろ参考になる話を聴いたから、技術の上での収穫を先に報告する。彼に依ると小津安二郎は<移動>が嫌いなのではなく、好きなのだが、キャメラが古いこともあってブレが生じ、フィニッシュがキチっと決まらないので、人一倍ケッペキな性格のため避けるようになったということだ。」(132頁)
石沢英太郎「不定期連載/山中貞雄論シリーズ・13 作家が波にのったとき B/「口笛を吹く武士」批評」(136―139頁)

『世界の映画作家31 日本映画史 実写から成長―混迷の時代まで』(1976年7月1日発行、キネマ旬報社、348頁)

千葉伸夫「5 1930年代へ」(50‐61頁)
山本喜久男・長崎一「11 1950年代」(165―202頁)

『映画芸術』第24巻第4号通巻312号復刊27号(1976年8月15日発行、編集プロダクション映芸・映画芸術新社、122頁)

篠田正浩「小津・吉田論争とわが浮沈激しき時ー<乾いた花>から<暗殺>まで」(107-109頁)

1977
Donald Richie『OZU』Paperback Edition(1977年発行、University of California Press,275頁)

「Preface」
「Introduction」(1-17頁)
「Script」(18‐104頁)
「Shooting」(105-158頁)
「Editing」(159-185頁)
「Conclusion」(186-192頁)
「Biographical Filmography」(193-252頁)
「Notes」(253-263頁)
「Bibliography」(265-269頁)
「Index」(271-275頁)

『映画史研究』No.9(1977年発行、佐藤忠男編集、96頁)

TADAO SATO「THE ART OF YASUJIRO OZU(5)」(88-96頁)

『映画史研究』No.10(1977年発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「小津安二郎論・序説(5)」(68-78頁)
TADAO SATO「THE ART OF YASUJIRO OZU(7)」(91-96頁)

『京都フィルムライブラリーNO2-小津安二郎特集-』(京都府文化事業室企画、1977年5月1日発行、夕刊京都新聞社、16頁)

かいせつ「長屋紳士録」、「晩春」(2‐3頁)
「小津安二郎監督作品一覧」(4‐5頁)
伊藤大輔「その石はそこに在る」(6‐7頁)
岸松雄「小津安二郎の『豆腐の味』 『長屋紳士録』と『晩春』と」(8‐9頁)

『リクエスト作品選』(1977年9月28日発行、銀座並木座、4頁)

「麦秋」(表紙)

1978
Audie Bock『Japanese Film Directors』(1978年発行、Kodansha International LTD.、370頁)

「YASUJIRO OZU」(69―98頁)
「Movie Mania」(72―73頁)
「From “Nonsense” to social Realism」(73―77頁)
「The Human Order」(78―81頁)
「Looking Up and Beyond」(81―84頁)
「Tokyo Story」(84―87頁)
「Target for Iconoclasts」(87―88頁)
「Notes」(88―89頁)
「YASUJIRO OZU:Filmograohy」(90―98頁)

『映画史研究』No.11(1978年発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「小津安二郎論・序説(6)第二章「早春」の頃(続き)」(46-91頁)
TADAO SATO「THE ART OF YASUJIRO OZU (8)」(91-96頁)

『映画史研究』No.12(1978年発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「小津安二郎論・序説(7)」(82-91頁)

戦後日本映画研究会編『日本映画戦後黄金時代3 松竹大船調』(1978年1月10日発行、日本ブックライブラリー、199頁)

「長屋紳士録」(14頁)
「風の中の牝鶏」(15―16頁)
「6 観照的な様式 大船調の至高・小津安二郎」(161―185頁)

戦後日本映画研究会編『日本映画戦後黄金時代10 松竹の監督』(1978年1月10日発行、日本ブックライブラリー、199頁)

「ポスター お早よう」(1頁)
「7特別招待席の巨匠たち 小津安二郎」(182―184頁)

山田宏一『友よ映画よ <わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』(1978年2月10日発行、話の特集、323頁)

「日本映画への視線-アンケート’66」(147-156頁)
※当時のヌーヴェル・ヴァーグの小津評を知ることができる貴重なアンケートである。例えば、アラン・レネは次のように答えている。「パリで見られる日本映画の数はたかが知れたもので、なぜもっと見れないものかと腹立たしいくらいである。その数少ない日本映画のうち、私の心に最も深く残っているものは、まず『東京物語』、『早春』、『一人息子』、『東京の合唱』などの小津安二郎の諸作品である。小津作品の魅力を一言でいうのは不可能だが、少なくとも、彼の作品のほとんどの音楽的なリズム感は全くユニークなものだ。全てが静のようにみえながら、実は全てが確実な生命の躍動感に息づいている。セリフ、そして人物の目のまばたき、手の動き‥それら全ての些細なジェスチャーは、作品全体の旋律を構成する一つ一つの音符のような感じがする。私の作品の中で、『ミュリエル』(1963年)の画面構成に最も大きな示唆を与えてくれたのは小津作品である。」(154-155頁)

ドナルド・リチー『小津安二郎の美学 映画のなかの日本』(山本喜久男訳、1978年4月5日発行、フィルムアート社、397頁

はしがき(7-13頁)
序章(17-37頁)
第一章=脚本(39-152頁)
第二章=撮影(153-223頁)
第三章=編集(225-262頁)
終章=結論(263-270頁)
伝記と作品目録(271-357頁)
訳注(358-370頁)
参考資料(371-377頁)
謝辞(378-379頁)
訳者あとがき(380-385頁)
索引(386-397頁)

1979
佐藤忠男『日本映画の巨匠たち』(1979年1月25日発行、学陽書房、317頁)

「小津安二郎」(149-161頁)
※あとがきで、「小津安二郎についての章が比較的少ないのも、『小津安二郎の芸術』(朝日選書)という本を書いているからである。」と述べている。

『映画史研究』No.13(1979年発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「小津安二郎論序説(8)」(57-61頁)

『映画史研究』No.14(1979年発行、佐藤忠男編集、96頁)

藤田明「代用教員・小津安二郎-宮前での巣立ち-」(54―60頁)
※編集後記に以下のような記述がある。「この号には、同人雑誌に掲載されていた論文から二篇の力作を転載させていただきました。大阪の「あしかび」に連載中の米田儀一さんの「伊丹万作雑抄」(一)(二)(三)と、三重の「二角獣」に四年前に発表された藤田明さんの「代用教員・小津安二郎」がそれです。いずれも映画専門の雑誌ではありません。だから、せっかく映画史家にとって貴重なこれらの論文が、映画研究家たちの目にあまり触れないままにすぎてしまうのはあまりに残念ですので、とくに転載をお願いしました。」

『人生読本 映画』(1979年7月20日発行、河出書房新社、269頁)

ドナルド・リチイ(山本喜久男訳)「家の問題 小津安二郎 映像における日本的なもの」(93―98頁)
※初出は、学橙社『国文学』1976年6月号である。

柳井隆雄『小さき世界-私のシナリオ墓標-』(1979年12月23日発行、映人社、289頁)

口絵写真「昭和十七年 茅ケ崎館にて『父ありき』執筆中 左より 柳井隆雄、小津安二郎、池田忠雄」
「シナリオ 父ありき」(125―168頁)
「『父ありき』後記」(169―170頁)
※一部抜粋する。「『父ありき』執筆の動機が誰の発案であったか、父君を失って間のない小津安二郎の、父君に対する追慕が動機であったかと追想されるのである。」(169頁)。
「回想の蒲田<日記抄>」(263―264頁)
※一部抜粋する。「昭和四年十一月十日 コンストラクション出来ず、自分の才能を疑うことしきりなり。野田さんのところへ道を拓いて貰うべく行く途中撮影所へ寄る。野田さんに会う。今日は親類へ行くとのこと。相談中止。試写室で「アスファルト」の試写を見る。よろしき写真。日本での工業は全然ダメかも知れん。検閲通過困難。ベッティ・アーマンの性的魅力は悩ましきかな。皆な変な憂うつな気持になる。小津、清水(宏)、小松(北村)池忠の四兄と、「喜久のや」なる料亭に上る。芸者三名、十一時まで騒ぐ。詩人小津安二郎の面目、朗らかな池忠の面目、無邪気な清水、善良で物解りの良い小松ちゃんの面目、そして、それぞれのエネルギッシュな溌溂さ、羨ましく快き限りであった。一人偽善者に似た自分の存在が淋しかった。頑な、はにかみ屋の自分、その為に人を不快にさせはしないか、時々それが気になる。」

1980
『映画史研究』No.15(1980年発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「小津安二郎論序説(9)「早春」の頃」(68-75頁)

蓮實重彦・山田宏一『トリュフォーそして映画』(1980年8月10日発行、話の特集、209頁)

フランソワ・トリュフォー:私は、昔、もう十七、八年前(1963年日仏交換映画祭)になりますが、小津の映画を一本だけシネマティークで見て、何がなんだかさっぱり分からなかった。人物たちがいつも座ったきりで、何か飲んだり食べたりしながら、無気力にポツリ、ポツリと喋っている。カメラは据えっぱなしだし、何もかも無気力な印象を受けました。
ところが、最近(1978年)パリで小津の映画が何本か公開されて、『秋日和』とか『東京物語』だとか『お茶漬の味』といった作品を連続してみて、たちまちそのえもいわれぬ魅力のとりこになってしまいました。日本映画は私たちにとっては、単なるエキゾチズム以上に、非常に神秘的な感じがするのですが、小津の作品ほど不思議な魅力に満ちた日本映画は見たことがありません。
フランソワ・トリュフォー:日本的と言えば、これほど日本的な映画もないのでしょうが、それ以上に、私にとって最も不思議なのは、その空間の感覚です。空間と人物の関係、といったほうがいいかもしれない。二人の人物が向かい合って話しているようなシーンがしょっちゅうあって、カメラは盛んに切り返すわけですが、どもこれがにせの切り返しというか、奇妙な切り返しまちがいの印象を与えるのです。小津の映画でカメラが動くことはないのですが、もしカメラが対話をしている二人の間をパンでとらえるようなことがあったとしたら、二人はじっと同じ場所に座っていないで、しょっちゅう場所を変えているに違いないというような印象を与えるのです。普通、向かい合って話をする二人をカメラが切り返しによってとらえる場合には、原則として同じ位置で、つまりこちら側だったらこちら側で、向こう側だったら向こう側で、切り返すわけです。つまり、パンするのと同じことになるわけです。ところが、小津の映画では、例えば一人をこっち側からカメラがとらえたかと思うと、次に相手を向こう側から切り返してとらえるような印象を受ける。これは印象ではなくて、そうしたとしか思えない意図的な演出のはずで、見る側としては、一人の人間の視線を追っていくと、実はそこには相手がいないのではなかという不安に襲われてしまう。カメラが切り返すたびに、そこにもう対話の相手がいないのではないかという‥。(9-10頁)
※このインタビュー(というか鼎談)は、お蔵入りになっていた『緑色の部屋』が岩波ホールで公開されることになり、その宣伝のために、フランソワ・トリュフォーが来日した、1979年12月に、三人で歓談した時のものである。

『現代の眼』第313号(1980年12月1日発行、東京国立近代美術館、8頁)

山本喜久男「小津安二郎論寸感」(2-4頁)
※冒頭を引用する。
「これから、さまざまな人によって書かれた小津安二郎論について論じるわけだが、これは小津安二郎についての全文献の収集と解説をするのではないことをまずお断りしておこう。それに自分はもともと比較映画史をやっているので、結局はおもにそういう視点から目について重要な小津安二郎論をとりあげることになるだろう。比較映画史の視点は追々説明していきたい。」(2頁)
「フィルムセンターだより 小津安二郎監督特集 一月六日~二月二十日」(7頁)

八尋不二『映画の都のサムライ達』(1980年12月25日、六興出版、245頁)

「交遊記 伊丹万作、小津安二郎」(39―49頁)
「小津安二郎」(44―49頁)
※一部抜粋する。「小津安二郎は僕より一つしか年上でないにもかかわらず初対面の時から大人(タイジン)の風格があった。それは山中や鳴滝組と、鬼怒川温泉で例の合作をやっていた時のことで、或る日、黒だったか、グレーだったか、ハッキリ思い出せないが、黒っぽいコートにスーツの大きな男が、「いよう、やってるか」といいながら、自分の室に戻ってきたような気易さで入ってくるなり、ゆったりと胡坐をかいて、煙草をくわえた。それが小津安二郎だった。誰も紹介しないし、お互いに挨拶を交わしたりもしない。それでいて百年の知己の如く、隔てない話に花が咲いて、酒になった。誰もが彼のことを小津ちゃん(オッチャン)というので僕もそう呼んだ。何となく気が合って、それから彼が京都へでると必ず同席したし、また彼は京都が好きで、よく京都を舞台にしたり、そうではくてもシナリオ・ハンチングにかこつけては京都に寄り、いきつけの「なるせ」や「開陽亭」で酒杯を傾けた。酒が入ると機嫌がよくなり、冗談を言ったり洒落を飛ばしたりするが、いくら飲んでも酔い潰れるということは決してなかった。いつも愉快な春風駘蕩たる酒であった。いつだったか、依田義賢が滔々と映画論をブチ始めると、「京都の人は酒の席に仕事の話を持ち込むんだね」と軽くイナされて、依田は途端に鼻白んでしまったことがある。」(45―46頁)

招待葉書『小津安二郎監督特集』(1980年12月、東京国立近代美術館フィルムセンター)

※本状にて1名1回限り入場できますが、満席の場合はご遠慮願うことがあります。

『小津安二郎監督特集』(1980年12月、東京国立近代美術館フィルムセンター)

 小津安二郎監督は、溝口、黒澤と並んで、世界で最もよく知られた日本映画監督の一人であります。彼の低位置からとらえられた端正で静止的な画面は、<小津調>といわれる独特の世界を生み出し、確固とした美学をうちたてております。
 フィルムセンターは、これまでに2回の大特集と無声作品を中心にした1回の小特集を企画上映いたしておりますが、近年において小津監督・作品の研究はますますさんかんであり、国内のみならず海外においても次から次へと新しい研究成果が発表されております。そこで、そういったものをふまえた上で、新たな視点から小津作品を再評価していただくべく、現存する全作品34本(断片1本含む)を新たに連続上映することにいたしました。
 映画研究家のみならず、広く映画愛好者の方々にご鑑賞をおすすめする次第であります。
1月6日(火)~2月20日(金)

1981
『映画史研究』No.16(1981年発行、佐藤忠男編集、96頁)

佐藤忠男「古典研究 青春の夢いまいずこ」(12-13頁)
及川満「「早春」の頃(2)」(80-92頁)
 

『フィルムセンター64 小津安二郎監督特集』(東京国立近代美術館フィルムセンター編、1981年1月6日発行、東京国立近代美術館、48頁)

蓮實重彦「小津安二郎-その並置と共存の構造」(2‐9頁)
かいせつ「若き日」、「大学は出たけれど」、「朗らかに歩め」、「落第はしたけれど」、「その夜の妻」、「淑女と髯」、「東京の合唱」、「生まれてはみたけれど」、「青春の夢いまいづこ」、「東京の女」、「非常線の女」、「出来ごころ」、「母を恋はずや」、「浮草物語」、「東京の宿」、「一人息子」、「淑女は何を忘れたか」、「戸田家の兄弟(原文ママ)」、「父ありき」、「長屋紳士録」、「風の中の牝雞」、「晩春」、「宗方姉妹」、「麦秋」、「お茶漬の味」、「東京物語」、「早春」、「東京暮色」、「彼岸花」、「「お早よう」、「浮草」、「秋日和」、「小早川家の秋」、「秋刀魚の味」(10‐43頁)
「小津安二郎監督作品目録」(44頁)
「小津安二郎文献一覧」(45‐48頁)
※奥付の発行日は、1981年11月6日となっている。表紙は正しく表記されている。

ポール・シュレイダー『聖なる映画 小津・ブレッソン・ドライヤー』(山本喜久男訳、1981年2月10日発行、フィルムアート社、292頁)

小津については、第一章(38-98頁)

『映画史上の名作/小津安二郎監督特選(アンコール上映Ⅱ)』(1981年4月、東京国立近代美術館フィルムセンター)

小津安二郎監督特選(アンコール上映Ⅱ)
1981年4月11日(土)~1981年5月16日(土)
「晩春」、「宗方姉妹」、「麦秋」、「東京物語」、「東京暮色」、「秋日和」

『映画芸術』第29巻第2号(復巻52号)No.337(1981年4月20日発行、編集プロダクション映芸<映画芸術新社>、138頁)

斎藤良輔「渋谷實の映画的生涯と蒲田大船ベル・エポック回顧」(40-46頁)
※小津監督に言及している部分を一部抜粋する。
「渋谷さんとは、蒲田の時代に会った。僕が一番初めに会った渋谷さんというのは、僕が入社したのが、昭和7年で、脚本『僕の丸髷』が映画化するというので、成瀬さんの部屋で打合せ、-向こうは先輩で、こっちは教わっているようなものですけど、-してた時に、渋谷さんが入ってきた。なんかえらく威張っていた。夏なんで、バスタオルをひっかけて。ひょっと入って来て、「じゃあ、行って来ます」と言って出て行っちゃった。で、「誰ですか?」と聞いたら、「助手だよ」というんで。その当時は、まだ、渋谷さんとは言わず、片山君といったと思ったな。それで「どこへ行くんですか」と聞くと、プール行くのかどこ行くのか分からないけど、水泳に行った。水泳がうまかった。成瀬さんに「随分態度が大きいですね」といったら「態度は大きいけれど、中々神経細かいんだよ。まあ、いい監督になるんじゃないかな」といってました。まだ、僕も入りたて一年を過ぎたところだった。松竹にはシナリオ研究所があって、三年に一辺採り、僕らが第二回生。一般から試験をして入れて、ふた月か三月教えてくれる。それで卒業制作を書かせて、そのうちから三人か四人脚本部に入社できたわけです。当時、世の中の景気がよくなかったから志願者が多かった。小津さんの『大学は出たけれど』(29)が出たのが、僕らが入る前でした。
 僕らが入った時にやっていたのが、『東京の合唱』(31)。あらはなかなかの傑作で、研究所にいる頃、野田高梧さんが脚本を書いていてその話をしてくれたのを聞いた覚えがある。生徒は、四、五百人いたんじゃないかな。」
「小津さんとシナリオ奇話 小津さんというのは、もう脚本の時から自分の頭の中にイメージ出来ちゃってるんです。だから脚本書くときに一緒に書かないと駄目なんです。たいがいみんなこもって書いてます。小津さんと一緒に。僕も二、三本つき合ったけれど。これもしんどかったですがね。戦争から帰って来てすぐの『風の中の牝鶏』(48)です。評判としては、まあまあでしたけれど。小津さんのはいつもベストセラーに入ってたけれど、これは入っていない。主に茅ケ崎館で書いた。大船の仕事をする人間は、だいたい茅ケ崎館でやってた。あとは、どこか蓼科です。小津さんの脚本には苦労した。小津さんは脚本書くときには、頭の中でセットみたいなものができてしまう。人物の配置みたいなものが、だいたい。全部じゃないでしょうけれど。だから、同じ部屋で話してても、側で話してるのと遠くで話しているのでは性格のニュアンスが違いますから。それを「こんなことをいったらどうです?」と言うと「まあ、そうでしょう。」ということになるけれど、性格のニュアンスみたいなことが違いますから、パッとこうしようああしようとかいうことができますから。『風の中の牝鶏』で箪笥か何かの話がありまして、箪笥を売っちゃったとか売らないという話がありまして、するとその部屋にいて、そういうことは箪笥がなければいけない。小津さんの頭の中では、だけど、そんなことは不可能で、そうならない(笑)何か、一回、銀行の支配人の話をやる時にどうしても銀行のセットが出来ないらしい、頭の中で、また、セットを建てる能力みたないものを考える。できるかできないか。写真になってしまうとかいうことも考える訳です。それで、「これやめようや」と言って、その話やめちゃったこともある。…つづく」
淡島千景「ああ気に入らないんだナチキショウめの日々」(62-64頁)
※「小津先生とは両極端」として、渋谷實と小津監督の演出の違いについて、述べている。
「シナリオ 小津安二郎’34 出来ごころ」(65-78頁)
井上和男「小津さんの日記から」(78頁)
一部抜粋する。
「キネマ旬報の小津安二郎追悼号に載っていた「出来ごころ」の脚本と、出来上がった映画との間には、幾つかの改訂箇所がある。おそらく本読みからクランク・インまでの十日間に脚本直しが行われたのであろうが、特に、名シーンといわれる盆栽シーン-中略-やその後の親子喧嘩などがない。それと、ラストの北海道行きの汽船のシーンも、終わりまでがらりと変わっている。十年前、「小津安二郎・人と仕事」を刊行して以来、何故か責任を感じて、そういう形で残っている脚本も、時間が許せば、プリントと対照してできる限り完全な形にして残しておきたいと思っていた。」「プリントをスタインベックで一カットずつ、キネ旬本と対照しながら廻すことができ、収載したのがこの脚本である。」

『ユリイカ』1981年6月号、「特集=小津安二郎 甦る映像の世界」(1981年6月1日発行、青土社、238頁)

蓮實重彦「連鎖と偏心 小津安二郎論1」(48‐57頁)
山根貞男「水位ゼロのダイナミズム 小津安二郎小論」(58‐67頁)
佐藤忠男「小津安二郎の『画面構成』について」(68‐76頁)
ノエル・バーチ(西嶋憲生・杉山昭夫訳)「小津安二郎論 戦前作品にみるそのシステムとコード」(77‐103頁)
四方田犬彦「死者たちの招喚」(104‐113頁)
モーリス・パンゲ(鹿島茂訳)「小津安二郎-透明性と深さ」(114‐120頁)
岡島尚志「小津安二郎 まなざしの過剰と身体の確認」(121‐127頁)
宇田川幸洋「ウィンザーと真似」(128‐131頁)
伊藤俊治「夜汽車のメタモルフォーゼ 1930年代の小津安二郎」(132‐139頁)
K・トンプソン+D・ボードウェル(出口丈人訳)「小津作品における空間と説話(上)」(140‐153頁)
「小津安二郎作品リスト」「小津安二郎略年譜」(134頁)

1982
『映画史研究』No.17(1982年発行、佐藤忠男・佐藤久子編集、96頁)

及川満「「早春」の頃(3)」(60-73頁)

高橋治『絢爛たる影絵-小津安二郎』(1982年11月30日発行、講談社、317頁)

「第一部 春」(5‐105頁)
「第二部 夏」(107‐198頁)
「第三部 秋」(199‐311頁)
「あとがき」(312‐317頁)

1983
『映画史研究』No.18(1983年発行、佐藤忠男・佐藤久子編集、96頁)

及川満「「早春」の頃(4)」(86-94頁)

蓮實重彦『監督小津安二郎』(1983年3月30日発行、筑摩書房、281頁)

「序章 遊戯の規則」(3‐10頁)
「Ⅰ 否定すること」(11‐30頁)
「Ⅱ 食べること」(31‐48頁)
「Ⅲ 着換えること」(49‐68頁)
「Ⅳ 住むこと」(69‐96頁)
「Ⅴ 見ること」(97‐128頁)
「Ⅵ 立ちどまること」(129‐154頁)
「Ⅶ 晴れること」(155‐178頁)
「終章 快楽と残酷さ」(179‐194頁)
<付録1>「厚田雄春氏インタヴュー」(195‐226頁)
<付録2>「井上雪子氏インタヴュー」(227‐237頁)
<付録3>「『東京物語』『秋日和』撮影記録(厚田雄春)(238‐248頁)
「監督作品目録」(249‐258頁)
「年譜」(259‐277頁)
「参考文献」(278頁)
「あとがき」(279‐281頁)

『話の特集』第209号(1983年5月1日発行、矢崎智英編・発行、154頁)

蓮實重彦「監督・小津安二郎の映画的冒険」(121―134頁)
※東駒形コミュニティ会館において『麥秋』上映(1983年2月12日)前の講演録

『別冊かまくら春秋 追悼 素顔の里見弴』(1983年5月20日発行、かまくら春秋社、240頁)

「秋日和」打ち上げの宴(昭和35年9月)(グラビア)
山内静夫「父へ」(166-168頁)

『月刊イメージフォーラム』No.35「監督小津安二郎を読む」(1983年8月1日発行、ダゲレオ出版、166頁)

吉田喜重インタビュー「小津安二郎・残酷な映画作家」(48‐63頁)
岡島尚志「一冊満腹主義-天使の飽食」(64‐67頁)
村山匡一郎「瞳が織りなす物語」(68‐71頁)
西嶋憲生「フィルム=視線と物語の批判 蓮實重彦/小津安二郎の運動」(72‐79頁)

井上和男編『小津安二郎作品集Ⅰ』(1983年9月16日発行、立風書房、265頁)

「大学は出たけれど」(5-34頁)
「落第はしたけれど」(35‐58頁)
「瓦版かちかち山」(59‐92頁)
「足に触った幸運」(93‐116頁)
「お嬢さん」(117‐166頁)
「美人哀愁」(167‐208頁)
「東京の合唱」(209‐246頁)
井上和男「解説」(247‐265頁)

井上和男編『小津安二郎作品集Ⅱ』(1983年10月26日発行、立風書房、257頁)

「生まれては見たけれど」(7-36頁)
「また逢う日まで」(37‐60頁)
「出来ごころ」(61‐100頁)
「浮草物語」(101‐134頁)
「箱入娘」(135‐164頁)
「東京の宿」(165‐196頁)
「大学よいとこ」(197‐234頁)
井上和男「解説」(235‐257頁)

松竹編『小津安二郎作品展』(1983年10月29日発行、松竹株式会社事業部、22頁)

「BIOGRAPHY 小津安二郎」(2頁)
山内静夫「製作に当って 果てしない連峰にも似た小津監督」(3頁)
井上和男「監督の言葉 監督小津安二郎、その崇高な60年の軌跡」(4頁)
「小津安二郎伝 生きてはみたけれど 名場面の数々と、ゆかりの人々の証言でたどる小津安二郎の人と仕事の軌跡。」(5-6頁)
「東京物語 解説・物語」(7-8頁)
「秋刀魚の味 解説・物語」(9-10頁)
「名匠・小津安二郎監督が遺した全54作品」(11-12頁)
「彼岸花」(13-14頁)
「秋日和」(15-16頁)
里見弴「藝の蟲」(17-18頁)
伏見晃「斜陽以前」(17-18頁)
牛原虚彦「「おっちゃん」が貫いた豆腐の味」(19頁)
大庭秀雄「独自な文体」(20頁)
那須良輔「小津さんのペーソス」(21頁)
エピソード1「溝口健二と小津安二郎」(22頁)
エピソード2「人生は8勝7敗」(22頁)
野田高梧「交友四十年」(22頁)
※発行日がなかったので、「小津安二郎伝」の封切日を発行日とした。

『小津安二郎伝-生きてはみたけれど-』(準備稿台本)(1983年10月29日発行、松竹株式会社、120頁)

☆この構成脚本は、小津安二郎の生い立ちから、生(ママ)に至るまで、その生涯の人となり、作品を年譜的につづったものである。
☆インタビュー及び作品の紹介に関しては、必ずしも順序通りではない。
☆取材が多岐にわたると思われるので、年代順とした方が便宜的であると考えたからである。(3頁)

特別ご鑑賞券『小津安二郎作品展』(1983年10月29日、松竹株式会社)

「名作の宝庫《松竹クラシック》鑑賞会
小津安二郎作品展 全期間中上映 生きてはみたけれど 小津安二郎伝」

『小津安二郎作品展』(1983年10月29日、文芸地下劇場)

1983年10月29日(土)~11月11日(金)
「生きてはみたけれど―小津安二郎伝―」全期間中上映
期間中2本立・同時上映作品
「東京物語」、「秋刀魚の味」、「彼岸花」、「秋日和」

『シネサロン ニュース』No.30(1983年11月12日、オフィスヌーヴェルヴァーグ編、大洋シネサロン発行)

1983年11月12日(土)~11月25日(金)
「生きてはみたけれど」名場面の数々と、ゆかりの人々の証言でたどる小津安二郎の人と仕事の軌跡。
大洋シネサロン:福岡市博多区中洲
小津安二郎作品展 「秋刀魚の味」、「東京物語」、「秋日和」、「彼岸花」
小津安二郎監督の作品一覧表

1984
井上和男編『小津安二郎作品集Ⅲ』(1984年1月20日発行、立風書房、262頁)

「一人息子」(5‐34頁)
「淑女は何を忘れたか」(35‐68頁)
「戸田家の兄妹」(69‐130頁)
「父ありき」(131‐166頁)
「風の中の牝鶏(ママ)」(167‐200頁)
「晩春」(201‐244頁)
井上和男「解説」(245‐262頁)

井上和男編『小津安二郎作品集Ⅳ』(1984年3月12日発行、立風書房、391頁)

「麦秋」(5‐64頁)
「東京物語」(65‐122頁)
「東京暮色」(123‐180頁)
「お早よう」(181‐222頁)
「秋日和」(223‐278頁)
「小早川家の秋」(279‐322頁)
「秋刀魚の味」(323‐369頁)
井上和男「解説」(370‐391頁)

リブロポート編(編集協力 西嶋憲生・堀切保郎・前川道博)『リブロ・シネマテーク 小津安二郎 東京物語』(1984年3月30日発行、リブロポート、326頁)

「『東京物語』映像デクパージュ」(9‐226頁)
佐藤忠男「『東京物語』について」(227‐247頁)
インタビュー厚田雄春「『東京物語』のカメラワーク」(インタビュー協力=大場正敏)(248‐257頁)
インタビュー斎藤高順「『東京物語』のテーマ音楽(258‐261頁)
野田高梧「『東京物語』の頃(キネマ旬報別冊 昭和39・2」(261頁)
『東京物語』資料、新聞・雑誌時評(262‐272頁)
『東京物語』資料、スタッフ・キャストプロフィール(273‐291頁)
小津安二郎関連文献(291頁)
「付録『東京物語』小津監督使用台本(293‐326頁)

『小津安二郎作品特集』(1984年5月2日発行、銀座並木座、4頁)

「小津安二郎監督」(表紙)

梅本洋一『映画は判ってくれない』(1984年11月20日発行、フィルムアート社、297頁)

「蓮實重彦『監督小津安二郎』(258-263頁)

1985
『映画史研究』No.20(1985年発行、佐藤忠男・佐藤久子編集、96頁)

及川満「「早春」の頃(5)」(75-93頁)

『小津安二郎監督名作選』(1985年1月3日発行、銀座並木座、4頁)

「東京物語」(表紙)

『Shochiku Cinesalon news No.13 小津安二郎フェア』(1985年3月2日発行、松竹シネサロン、4頁)

松竹シネサロン開場一周年記念特別企画「小津安二郎シネフェア」
井上和男「特別寄稿 小津さんを想う-「海の水は何故塩辛いか」

「映画会 出来ごころ」(1985年5月18日、文京区立水道端図書館、4頁)

映画会 出来ごころ 松竹蒲田作品 1933年無声(活弁トーキー)
監督 小津安二郎
主演 坂本武、伏見信子
解説 山田和夫
日時 1985年5月18日(土)13:30開場 14:00開演
会場 文京区立水道端図書館

高橋治『絢爛たる影絵-小津安二郎』(1985年5月25日発行、講談社、422頁)

「第一部 春」(7‐109頁)
「第二部 夏」(111‐203頁)
「第三部 秋」(205‐319頁)
「幻のシンガポール」(321-408頁)
「あとがき」(409‐414頁)
E・G・サイデンステッカー「解説」(415-422頁)

結城一朗『実録蒲田行進曲 キネマの都 虹と光の中に』(1985年6月20日発行、KKベストブック、239頁)

「演技派監督-小津安二郎」(161―163頁)
※一部抜粋する。「私が初めて小津作品に出演したのは、『若き日』というスキーを扱った学生ロマンス映画である。ちょうど、田中絹代さんと、九州、中国と御挨拶旅行の途中から急遽呼び戻されて、赤倉温泉スキー場へ出発した。この赤倉温泉が撮影の舞台になったのは、小津監督のキャメラを担当していた茂原英雄氏(後に茂原式トーキーの発明者)の実家が、赤倉温泉で旅館を経営していた関係である。小津監督も茂原キャメラマンも、赤倉スキー場で何度か滑っているということで、信越線田口駅へ降りた時は、鮮やかにスキーを熟していた。ところが私ときたら、スポーツは専ら野球の方で、スキーのスの字も知らない全くの素人である。小津監督の命令で、田口駅ですぐスキーを履かされたが、なんと一歩も歩けない。進もうとすると途端にスッテンコロリンである。」

蓮實重彦『映画はいかにして死ぬか 横断的映画史の試み』(1985年8月10日発行、フィルムアート社、286頁)

「第Ⅳ講 三人の作家 小津安二郎/F・トリュフォー/鈴木清順」(137-228頁)
「小津安二郎1 『麦秋』をめぐって」(138-162頁)
「小津安二郎2 『東京物語』をめぐって」(163-183頁)

蓮實重彦『シネマの煽動装置』(1985年9月20日発行、話の特集、289頁)

「小津を語っても不自然でない時代はジャック・ベッケルを忘却するという不自然の上に築かれている」(95―99頁)
「もうじき小津は外国へ行かないとみられなくなるかもしれない」(134―138頁)
「周防正行の『変態家族・兄貴の嫁さん』は必見の傑作であり、まだ見ることのできぬ黒澤清の新作とベストワンを競うだろう」(230―233頁)
「厚田雄春=レナート・ベルタ対談は創造的な観客が国境を越えて惹き起こした歴史的な事件である」(256―259頁)

『季刊リュミエール1』1985-秋(1985年9月20日発行、筑摩書房、216頁)

「厚田雄春インタビュー 私は小津監督の「キャメラ番」でした」(聞き手:ヴィム・ヴェンダース)(49-53頁)
※1983年4が16日、ホテルプレジデント青山にて、「以上は、『東京画』の撮影に際して行われたインタビューである。ヴェンダースの準備した質問を蓮實が日本語にしてそれに厚田氏が答えている。映画では厚田氏の声と、ヴェンダースによるフランス語の解説がかなさり、『東京画』の最も感動的な部分を構成している。」という註が付けられている。

山田宏一『新版 友よ映画よ <わがヌーヴェル・ヴァーグ誌』(1985年12月10日発行、話の特集、431頁)

全面改稿された増補決定版!書下し120枚、未公開写真32頁。
「日本映画への視線-’66」(169-178頁)
「映画少年の夢-フランソワ・トリュフォーの冒険」(243-274頁)

1986
『映画史研究』No.21(1986年発行、佐藤忠男・佐藤久子編集、96頁)

及川満「「早春」の頃(6)」(66-80頁)

『小津安二郎監督作品選』(1986年1月3日発行、銀座並木座、4頁)

「麦秋、東京物語、秋日和、彼岸花」(表紙)

『季刊リュミエール4』1986-夏(1986年6月20日発行、筑摩書房、216頁)

ジル・ドゥルーズ「不変のフォルムとしての時間 小津安二郎論」(松浦寿輝訳)(12―16頁)
※一部抜粋する。「ヨーロッパの監督たちは彼を模倣したわけではない。彼ら自身の方法によって小津に追いついたのであった。いずれにせよ、小津が視覚記号<オプシーニュ>と音響記号<ソンシーニュ>の創始者であることは間違いない。」「『原始的な映画』への回帰と見えるかもしれないが、実はこれは、驚くほどに節度をそなえた現代的スタイルの洗練された姿でもまたあるのである。」
「厚田雄春インタヴュー 小津安二郎という名の汽車は今日も走りつづける」(聞き手:蓮實重彦)(17―24頁)
「『晩春』シナリオ=完全採録 採録 谷口康之」(191―215頁)

『特別展 小津安二郎展 人と仕事』図録(1986年6月1日発行、鎌倉市教育委員会・鎌倉文学館、24頁)

「プロフィール 生いたち、監督への道、ゆかりの地鎌倉」(2‐3頁)
「監督時代 小津映画、新進監督、トーキー映画、映画芸術」(4‐7頁)
「野田高梧の日記」(8頁)
「知友・書簡」(9‐10頁)
「字をかく」(11頁)
「絵をかく」(12頁)
「ノートから」(13頁)
「愛用のもの」(14頁)
「作品紹介」(15‐21頁)
「小津安二郎と私 九州への旅:笠智衆、駅・省線電車:厚田雄春」(22‐23頁)
「略年譜」(24頁)
※1986年6月1日から7月13日に鎌倉文学館で開催された特別展の図録である。

『フィルムセンター85 日本映画史研究(3)-蒲田映画の世界〈1921~1936〉-』(東京国立近代美術館フィルムセンター編、1986年9月13日発行、東京国立近代美術館、120頁)

御園京平「蒲田映画小史―開所から移転まで」(2-7頁)
佐伯知紀「蒲田モダニズムへの一視点-〈蒲田美術部〉を中心に-」(8-13頁)
「若き日」(15-17頁)
「朗らかに歩め」(19-21頁)
「落第はしたけれど」(21-23頁)
「その夜の妻」(25-27頁)
「淑女と髯」(30-32頁)
「生まれてはみたけれど」(40-43頁)
「非常線の女」(47-49頁)
「一人息子」(72-74、120頁)

『季刊リュミエール5』1986-秋(1986年9月20日発行、筑摩書房、216頁)

万田邦敏「『小津らしさ』のグロテスク 周防正行『サラリーマン教室・係長は楽しいな』(132―133頁)

『Cinéastes du japon Yasujirô Ozu Début d’été』(1986年12月発行、Publications Orientalistes de France、86頁)

de Yasujirô Ozu
Type :Scénario
Sujet :Un Film > Début d’été 「麦秋」
Mots Clés :Yasujirô Ozu, scénario
Année d’édition :1986 (épuisé)
Editeur :POF – Publications Orientalistes de France
Collection :Cinéastes du japon
Langue :français
Format :Broché • 86 pages • ? € 15 x 21 cm
ISBN :978-2-7169-0252-6

『Cinéastes du japon Yasujirô Ozu Crépuscule à Tôkyô』(1986年12月発行、Publications Orientalistes de France、78頁)

de Yasujirô Ozu
Type :Scénario
Sujet :Un Film > Crépuscule à Tôkyô 「東京暮色」
Mots Clés :Yasujirô Ozu, scénario
Année d’édition :1986 (épuisé)
Editeur :POF – Publications Orientalistes de France
Collection :Cinéastes du japon
Langue :français
Format :Broché • 78 pages • ? € 15 x 21 cm
ISBN :978-2-7169-0251-9

『Cinéastes du japon Yasujirô Ozu Le Goût du saké』(1986年12月発行、Publications Orientalistes de France、78頁)

de Yasujirô Ozu
Type :Scénario
Sujet :Un Film > Le Goût du saké 「秋刀魚の味」
Mots Clés :Yasujirô Ozu, scénario
Année d’édition :1986 (épuisé)
Editeur :POF – Publications Orientalistes de France
Collection :Cinéastes du japon
Langue :français
Format :Broché • 78 pages • ? € 15 x 21 cm
ISBN :978-2-7169-0254-0

『季刊リュミエール6』1986-冬(1986年12月10日発行、筑摩書房、200頁)

厚田雄春「恐れ入りました‥ベルタさんのキャメラは完璧ですね 『満月の夜』を語る (十月二十九日、湯島にて)」(84-91頁)

1987
『小津安二郎監督名作集』(1987年1月21日発行、銀座並木座、4頁)

表紙「東京物語」

升本喜年『人物・松竹映画史 蒲田の時代』(1987年5月14日発行、平凡社、294頁)

「豊かな個性 蒲田の監督たち」(102-121頁)
※小津監督に関しては、110~118頁

笠智衆『俳優になろうか[私の履歴書]』(1987年5月18日発行、日本経済新聞社、214頁)

「目に見えぬはからい」(1―4頁)
「蒲田まで」(5―33頁)
「大部屋十年」(35―81頁)
「大船撮影所」(83―128頁)
「映画最盛期」(129―178頁)
「あるがままに」(179―198頁)
「笠智衆略年譜」(199―212頁)
「あとがき」(213―214頁)

田中眞澄編『小津安二郎全発言 1933~1945』(1987年6月10日発行、泰流社、308頁)

和田滋「小津安二郎との一問一答」(11‐18頁)
「『會議は踊る』合評 出席者:飯島正、筈見恒夫、徳山璉、小津安二郎、藤山一郎、伏見晃、鈴木重三郎、大黒東洋士」(18‐21頁)
「映画監督打明け話座談会(抄) 出席者:池田義信、石山稔、野村芳亭、小津安二郎、五所平之助、清水宏」(22‐27頁)
岸松雄「小津安二郎のトーキー論」(27‐30頁)
筈見恒夫「『彼』の心境―小津安二郎との一問一答」(31―33頁)
岸松雄「安二郎・貞雄・己喜男(抄)」(33頁)
「『ルネ・クレール』合評会ー『最後の億萬長者』を迎えてー 出席者・飯島正、清水千代太、内田岐三雄、岩崎昶、佐伯孝夫」(34―38頁)
岸松雄「蒲田区蒲田町蒲田撮影所(抄)」(39頁)
「『麥秋』合評 出席者:池田忠雄、田中敏男、相馬泰三、中村武羅夫、野田高梧、岡田三郎、小津安二郎、小泉夏夫、岸松雄、大黒東洋士」(40‐44頁)
「小津安二郎座談会 出席者:小津安二郎、筈見恒夫、滋野辰彦、岸松雄、友田純一郎、北川冬彦、飯田心美」(45―65頁)
「トーキー鏡獅子 撮影余話 小津安二郎談」(66―67頁)
「小津安二郎監督の『東京の宿』を語る」(67―70頁)
「小津安二郎清水宏を囲んで映画放談 出席者:小津安二郎、清水宏、内田岐三雄、筈見恒夫、岸松雄」(71―79頁)
「局外批評お断り/小津安二郎氏」(79―81頁)
吉村公三郎「心境映画について」(81―82頁)
「”沈黙を棄てる監督”/小津氏との一問一答」(82‐84頁)
「日本映画監督協会とスタンバアグ歓迎の一夜(抄)」(85―86頁)
「小津安二郎は/何を忘れたか/僕は年をとったらしい」(86―87頁)
「日本映画はどこへ行く?座談会 出席者:大森義太郎、北村小松、村山知義、衣笠貞之助、小津安二郎、内田吐夢、木村荘十二、岩崎昶、筈見恒夫、唐澤、宮澤、久住、山口」(88―95頁)
「助手席の鬚伍長/やあ小津監督/『もう砲弾のお見舞』(96‐97頁)
「戦地で憶う戦争映画/‥‥今までのはなってなかった‥‥/上海戦線で小津監督語る」(97―98頁)
「陣中スターの卵/小津伍長監督の下/支那二少年の夢」(98―99頁)
「秋晴れの戦線に/魚獲りの興味/監督小津軍曹の気焔」(99―100頁)
「戦争を体験して/小津安二郎新しき出発/帰還‥休養‥それから仕事」(100―102頁)
「”悲壮の根本に明るさを/盛り込んだ戦争物”/戦線から帰還の小津監督の制作抱負」(102―103頁)
「田坂・小津両監督対談会 出席者:田坂具隆、小津安二郎」(103―109頁)
「小津安二郎戦場談」(109―114頁)
「ぼんやりしていたい/小津安二郎の帰還心理」(115―116頁)
「『戦争と映画』を語る 出席者:小津安二郎、内田吐夢、筈見恒夫、小倉武志」(116―125頁)
「小津安二郎と語る 出席者:小津安二郎、内田岐三雄、清水千代太」(126―138頁)
「彼氏映画を語る/何故戦争物を作らぬか/小津監督の帰還第一作」(139―140頁)
「さあ帰還第一作だ!/小津安二郎氏は語る」(141―143頁)
「『最後の一兵まで』合評 出席者:溝口健二、田坂具隆、内田吐夢、小津安二郎、小杉勇、南部圭之助、筈見恒夫」(144―154頁)
「『旅する人々』合評 出席者:小津安二郎、清水宏、滝沢英輔、岸松雄、筈見恒夫」(154―159頁)
小倉武志「小津安二郎に心境を訊く」(160―161頁)
「帰還第一作に着手する/小津監督との一問一答/安全第一を願わざるを得ない!」(162―163頁)
「昭和十五年の映画はどうであったか 出席者:内田吐夢、小津安二郎、南部圭之助」(164―172頁)
「一寸した匪賊討伐戦だよ/『戸田家の兄妹』を完成した」(172―174頁)
「『戸田家の兄妹』検討 出席者:里見弴、溝口健二、内田吐夢、小津安二郎、池田忠雄、津村秀夫、南部圭之助」(175―193頁)
「『城砦』合評 主として演出について 出席者:田坂具隆、内田吐夢、清水宏、小津安二郎、内田岐三雄、筈見恒夫、清水千代太」(194―210頁)
「小津安二郎氏に映画と写真をきく」(211―216頁)
「内田吐夢・小津安二郎対談」(217―227頁)
「映画も武器の一つ/我々は其心で制作する 小津安二郎氏談」(227―228頁)
「たのしく面白い映画を作れ 作家と語る/小津安二郎氏訪問 文 大塚和 漫画 杉浦幸雄」(229―232頁)
「小津監督に物を聴く対談 出席者:小津安二郎、上野耕三」(232―247頁)
林勝俊「小津安二郎放談」(248―251頁)
「松竹はビルマ戦線を描く(抄)」(251―252頁)
<註>(253―274頁)
<解題>(275―280頁)
田中眞澄「解説」(281―288頁)
「付 <文章・発言一覧(戦前)、監督作品目録、略年譜>(289―308頁)

1988
『映画史研究』No.22(1988年発行、佐藤忠男・佐藤久子編集、96頁)

及川満「小津安二郎論・序説 晩年の諸作品(1)」(83-96頁)

『季刊リュミエール11』1988-春(1988年3月20日発行、筑摩書房、176頁)

「厚田雄春インタヴュー 小津安二郎と松竹蒲田撮影所」(聞き手:蓮實重彦)(8―15頁)

『季刊リュミエール12』1988-夏(1988年6月20日発行、筑摩書房、168頁)

「厚田雄春インタヴュー 露出計なんて高嶺の花でしたね」(聞き手:蓮實重彦)(22―29頁)
※グラビア「戦後、帰国して間もない頃、京都の清水宏を訪ねた小津安二郎」

高橋治『人間ぱあてい』(1988年8月29日発行、講談社、271頁)

「小津安二郎」(174―188頁)

蓮實重彦『映画からの解放 小津安二郎「麦秋」を見る』(河合ブックレット14、1988年9月20日発行、101頁)

「Ⅰ 映画からの解放-小津安二郎『麦秋』を見る」(5-72頁)
「Ⅱ 内なる制度と戯れる」(73-90頁)
石原開「解放としての倒錯性」(91-101頁)
※1987年6月に、河合塾千種校での講演をもとに作成された。

梅本洋一『映画=日誌 ロードムーヴィーのように』(1988年11月1日発行、フィルムアート社、374頁)

「小津への敬意が作品を生む ヴィム・ヴェンダース『東京画』」(128-131頁)
「ベストワン1985年 フランク・ボーゼージ『第七天国』」(144-147頁)
「東京を映し出す二本の映画」(179-181頁)
「真実と現実を<わたし>に伝えるヴェンダースの声」(182-186頁)

藤田明『三重・文学を歩く』(1988年12月5日発行、三重県良書出版会、325頁)

「小津安二郎 書簡(昭和二年十月三日)-映画的文体-」(122-124頁)

1989
『小津安二郎監督名作集』(1989年1月25日発行、銀座並木座、4頁)

「晩春」(表紙)

児井英生『伝・日本映画の黄金時代』(1989年3月3日発行、文藝春秋社、334頁)

「第五章 小津安二郎との賭け」(131―157頁)
※「宗方姉妹」プロデューサーである児井の回想録
児井のために寄稿された文書(31本)をまとめた「児井さんへのラブコール」(私家版)とともに謹呈された。

ヴィム・ヴェンダース(梅本洋一訳)『東京画 旅日記』(1989年4月1日発行、発行:Longue Distance、発売:ダゲレオ出版、64頁)

独語・仏語・英語版 日本語訳別冊10頁
『東京画』からのカラー写真9葉(数寄屋橋風景、第一勧業銀行・ビックカメラ他、笠智衆、パチンコ・エスカレーター他、東京タワーミニチュアと公衆電話(黄・赤)、原宿で踊る若者、蟹と厚田雄春、監督墓とキャメラ他)
冒頭を引用する。
「もしわれわれの世紀が聖なるものにまだ場を与えるとすれば、映画の神殿を建てるとすれば、私は個人的にそこに日本の映画作家、小津安二郎の作品を置くだろう。彼は二十年代には無声映画を、三十年代、四十年代には白黒映画を、そして、1963年12月12日、60歳の誕生日に亡くなるまではカラー映画を、全部で54本の作品を撮った。」

「If in our century something sacred still existed…if there were something like a sacred tresure of the cinema,then for me that would have to be the work of the Japanese director,Yasujiro Ozu. He made fifty-four films. Silent films in the Twenties, black-and-White films in the Thirties and Fourties,and finally color films until his death on December 12th.1963,on his birthday.」

田中眞澄編『小津安二郎 戦後語録集成 昭和21(1946)年ー昭和38(1963)年』(1989年5月1日発行、フィルムアート社、493頁)

「目次」
「凡例」
「第Ⅰ章 昭和21(1946)年-昭和26(1951)年」(15‐110頁)
「第Ⅱ章 昭和27(1952)年-昭和29(1954)年」(111―222頁)
「第Ⅲ章 昭和30(1955)年-昭和33(1958)年」(223―314頁)
「第Ⅳ章 昭和34(1959)年-昭和37(1962)年」(315―408頁)
「終章 昭和38(1963)年」(409―423頁)
「追補」(424―426頁)
「註」(427―469頁)
「文献付記」(470―473頁)
「索引」(474―493頁)
「後記」

厚田雄春・蓮實重彦『リュミエール叢書1 小津安二郎物語』(1989年6月1日発行、筑摩書房、315頁)

厚田雄春「序にかえて」(ⅰ‐ⅱ)
「Ⅰ 大震災で蒲田に行けた」(3‐22頁)
「Ⅱ 小津組キャメラ番の誕生」(23‐46頁)
「Ⅲ 小津安二郎と蒲田の仲間たち」(47‐78頁)
「Ⅳ 露出計もない修業時代」(79‐108頁)
「Ⅴ 日本軍占領地に英国国旗ひろがえる」(109‐138頁)
「Ⅵ 小津組の役者たち」(139‐172頁)
「Ⅶ お召列車に敬礼」(173‐202頁)
「Ⅷ 『お釜』と「蟹」のロー・ポジション」(203‐238頁)
「Ⅸ 真夏のロケ・ハン」(239‐266頁)
「Ⅹ ピーカンの光の中で」(267‐291頁)
「小津安二郎監督作品目録」(292‐300頁)
「厚田雄春撮影監督作品目録」(301‐310頁)
「おわりに」(311頁)
「あとがき」(312頁)
索引

『marie claire マリ・クレール日本版』No.79(1989年6月1日発行、中央公論社、383頁)

蓮實重彦「映画に無が眩んで㊴「生きていてよかったと思いますよ」という厚田雄春の言葉はヴェンダースに捧げられた最上のオマージュである。」(266-269頁)

『東京画』(1989年6月17日発行、東宝出版事業室、23頁)

「イントロダクション」(2-3頁)
ヴィム・ヴェンダース「東京画」(4-5頁)
淀川長治「日本人が外国人の「東京画」を見るつもりが‥。」(6-7頁)
「WHO’S WHO」(8-9頁)
景山民夫「失われたものの意味」(10頁)
中野翠「二人の監督の才能」(11頁)
笠智衆「小津先生の思い出」(12頁)
厚田雄春「ヴェンダースさんのこと」(13頁)
「ヴィム・ヴェンダース フィルモグラフィー」(14-15頁)
「東京画」シナリオ採録(16-23頁)

キネマ旬報編集部編『小津安二郎集成』(1989年12月16日発行、キネマ旬報社、255頁)

「日記抄」(5-74頁)
「小津安二郎をめぐって・PART1」
野田高梧「小津安二郎という男-交遊四十年とりとめもなく-」(76-84頁)
厚田雄春「ロー・ポジションの秘密」(85‐88頁)
八尋不二「祇園の一夜-小津さんのこと-」(89‐91頁)
伊藤大輔「石・紫蘇・など…」(92‐95頁)
「評論&ルポ」
新藤兼人「小津映画から何を学ぶか」(98‐110頁)
岩崎昶「小津安二郎と日本映画」(111‐122頁)
中川信夫「小津安二郎について」(123‐127頁)
飯田心美「ルポ 東京暮色と小津監督」(128‐129頁)
双葉十三郎「小津芸術の形式」(130‐134頁)
「小津安二郎をめぐって・PART2」
岸松雄「小津のごひいき俳優たち」(136‐143頁)
笠智衆「小津先生とわたし」(144‐145頁)
佐田啓二「老童謡『高野行』‐小津さんのこと」(146‐148頁)
「作品評」
「戸田家の兄妹」内田岐三雄「演出」、筈見恒夫「小津安二郎一つの成長」(150‐155頁)
「父ありき」飯島正(156‐163頁)
「風の中の牝鶏」北川冬彦・登川直樹(164‐166頁)
「晩春」清水千代太「世界無比の小津芸術」、清々しい生活「水町青磁」(167‐170頁)
「全自作を語る&批評」(171‐254頁)
「初出一覧」(255頁)

1990
永井健児『小津安二郎に憑かれた男 美術監督・下河原友雄の生と死』(1990年4月25日発行、フィルムアート社、261頁)

「まえがき」
「第一章 小津安二郎への執着」(19-96頁)
「第二章 小津安二郎への畏敬と盲従、失望」(97-140頁)
「第三章 小津安二郎の愛の孤独」(141-220頁)
「終章 ふたつの死」(221-257頁)
「下河原友雄フィルモグラフィ」(258-261頁)
※「まえがき」において、『小津安二郎・人と仕事』で下河原友雄が借りた小津日記14冊が再発見された経緯が書かれている。

『アサヒグラフ』1990年6月1日号「秘蔵写真大公開!人間・小津安二郎の魅力」(1990年6月1日発行、朝日新聞社、90頁)

「映画監督 小津安二郎 人間の魅力 撮影の現場で」「戦地」「交友」
岸恵子「青春時代の出会い」(37頁)
田中眞澄「兵士・小津安二郎」(40‐41頁)
山内静夫「ジャレられた父・里見弴」(43頁)
北川靖記「いい絵の下で昼寝がしたい」(44‐45頁)

1991
『名匠 小津安二郎の世界』(1991年1月3日発行、銀座並木座、4頁)

「麦秋」(表紙)

中井貴惠『父の贈りもの』(1991年5月20日発行、文化出版局、206頁)

「小津先生の思い出」(117―121頁)
「小津先生と父の看護日誌」(122―130頁)

笠智衆『大船日記 小津安二郎先生の思い出』(1991年6月27日発行、扶桑社、221頁)

「プロローグ 夢の涯てまでも」(9―14頁)
「第一章 俳優になったけれど」(15―48頁)
「第二章 先生ありき」(49―108頁)
「第三章 小津組紳士録」(109―156頁)
「第四章 別れの味」(157―180
「小津安二郎・監督作品リスト」(181―187頁)
「笠智衆・出演作品リスト」(189―218頁)
「あとがき」(219―221頁)

『小津安二郎の世界』(1991年6月22日発行、シネマ5、16頁)

『東京物語』(2頁)
『長屋紳士録』(3頁)
『晩春』(4頁)
『淑女は何を忘れたか』(5頁)
『秋日和』(6頁)
『お茶漬の味』(7頁)
グラビア(8-9頁)
『麦秋』(10頁)
『一人息子』(11頁)
『彼岸花』(12頁)
『東京暮色』(13頁)
『秋刀魚の味』(14頁)
『父ありき』(15頁)
「現在の小津 小津をめぐる近年の著作の紹介」(16頁)

『シネマ5スペシャル・クラシックス 小津安二郎の世界』(1991年6月22日発行、シネマ5、4頁)

表紙:小津安二郎
「上映作品解説、名場面再現『東京物語』」(2-3頁)」
「小津安二郎自筆の『東京物語』創作ノート(4頁)

中村伸郎『永くもがなの酒びたり』(1991年8月15日発行、早川書房、213頁)

「わが師たち」(37―66頁)
「追想、里見弴先生」(46―49頁)
「里見弴先生と私」(50―55頁)
「小津安二郎先生」(56―61頁)

岩本憲児編著『日本映画とモダニズム 1920-1930』(1991年9月30日発行、リブロポート、258頁)

「淑女は何を忘れたか」ポスター掲載(95-96頁)
「小津安二郎とダンディズム」(178-187頁)

蓮實重彦『映画に目が眩んで』(1991年11月25日発行、中央公論社、765頁)

「小津安二郎をめぐるヴェンダースと厚田雄春の出会い。『東京画』の撮影に立ち合って」(16-19頁)
「「私は最後のアメリカ映画の作家だ」ヴィム・ヴェンダースとの一時間」(182-191頁)
「小津安二郎のストップウォッチ」(191-193頁)
「二十六歳のオーソン・ウェルズは小津安二郎に「こわいね」とつぶやかせた。」(255-258頁)
「敬愛する小津安二郎の鎌倉の墓を訪れたジム・ジャームッシュは、ベニーニからもらった栗をそっとそなえた。」(264-270頁)
「映画では、ときとして出来ない相談があっさりと実現してしまうことがある。『カイエ・デュ・シネマ』誌400号記念を手伝う。」(338-341頁)
「「生きててよかったと思いますよ」という厚田雄春の言葉は、ヴェンダースに捧げられた最上のオマージュである。ヴィム・ヴェンダース監督『東京画』」(444-452頁)

1992
『名匠 小津安二郎の世界』(1992年1月15日発行、銀座並木座、4頁)

表紙:「東京物語」
「映画の本棚:「絢爛たる影絵」高橋治著」(4頁)

ヴィム・ヴェンダース(三宅晶子・瀬川裕司訳)『映像(イメージ)の論理』(1992年1月31日発行、河出書房新社、290頁)

「東京画」(148-160頁)

『知っているつもり⁉2 学校ぎらいの天才たち』(1992年1月10日発行、日本テレビ放送網株式会社、256頁)

「小津安二郎 映画監督へのきっかけは停学処分」(165―198頁)

『小津安二郎戦後松竹作品全集』(1992年2月25日発行、パイオニアLDC、両面)

「三回以上は観たい映画が、ある。
観るほどに芳醇に薫る巨匠・小津の傑作12本をレーザーディスクでコレクション。」

高橋治『花と心に囲まれて』(1992年2月25日発行、講談社、216頁)

「小津監督作品をどう見るか」(15―22頁)
「見事な先人」(22―23頁)
「小津の戦争」(23―24頁)
「皇帝の兵」(24―25頁)

『ノーサイド』第二巻第四号(1992年4月1日発行、文藝春秋、152頁)

「シリーズ人生の達人 小津安二郎」(57―67頁)
「東京深川生まれ 中学二年で映画監督を志す」(58―59頁)
山下登久「優しかった兄、やっちゃん」(59頁)
「『生まれてはみたけれど』から『晩春』、『東京物語』へ」(60―62頁)
厚田雄春「小津組の”キャメラ番”」(60頁)
岡田茉莉子「父の友人、そして監督」(62頁)
高橋治「不思議な師」(63頁)
「しごとの合間に描き続けた絵」(64頁)
「自他共に認める酒豪 交友も幅広かった」(65頁)
山内静夫「小津監督の思い出」(65頁)

『サライ』第4巻第8号通巻63号(1992年4月16日発行、小学館、126頁)

「特集①小津安二郎の東京下町案内」(22―37頁)
厚田雄春「小津監督は、下町っ子ですからね、舞台に山の手はあまりないんです」(23頁)
「はとバスツアー」(24―25頁)
「浅草」(26―28頁)
「佃・月島」(29頁)
「深川・門前中町」(30―31頁)
「人形町・浅草橋」(32―33頁)
「谷中・根津・千駄木」(34―35頁)
「東京土産」(36―37頁)

『フィルムセンター90 内田吐夢監督特集』(東京国立近代美術館フィルムセンター編、1992年5月23日発行、東京国立近代美術館、112頁)

「限りなき前進 原作:小津安二郎」(31-36頁)
※冒頭を引用する。「小津安二郎が原作を提供し、八木保太郎がシナリオを書き、内田吐夢が監督をする。それは当時の日本映画にとって、一つの喜ばしい驚きだった。松竹の監督が思い描いた題材を日活の信頼できるスタッフに手渡し、それがひとつの作品となる。当時は今では考えられない程、映画製作はひとつの会社だけで完結し、移籍でもしなければ、他社の監督と話し合う機会すらなかった。しかもこの時期、小津安二郎はベストテン監督として、1作ごとに緻密な作風にみがきをかけ、内田吐夢は日活多摩川に入社以来(1935年)、脚本家の八木保太郎と組んで骨太な文芸映画の力作、問題作を発表していた。このような日本映画をリードする人々が、会社を越えて1本の映画作りに参加する。それは驚きであると同時に、象徴的な意味さえ持っていた。」続く。

柿田清二『日本映画監督協会の五〇年』(1992年5月24日発行、協同組合日本映画監督協会、261頁)

巻頭グラビア「日本映画監督協会発会式」集合写真(小津監督他)、その夜の宴会 創立メンバーの寄書(小津監督他)、「月は上りぬ」(電電公社校舎幹部との会合、小津監督他)、「京都での総会」(小津監督他)、「再建10周年記念祝賀会」(小津監督他)、「第二回NGまつりの席上、小津理事長から新人賞を受ける大島渚」。昭和32年に事務局長に就任した著者が、日本映画監督協会の歴史を振り返る。小津監督は、創立メンバーで、昭和30年2月の役員改選で、理事長の東西交互論があり、溝口健二理事長に替わり理事長となる(95頁)。
「小津理事長の死」(121-123頁)

『観世』平成四年六月号、第五十九巻第六号(1992年6月1日発行、檜書店、110頁)

後藤淑「巻頭随筆 能と小津安二郎作品」(24頁)

『國文学』第37巻8号「蓮實重彦 挑撥する批評」(1992年7月10日発行、學燈社、188頁)

宮内淳子「日本映画-たとえば小津安二郎」(85-89頁)
※宮内は、1960年代のヨーロッパにおける小津映画の受容について次のように紹介している。「ちょうど1963年にはベルリン映画祭で小津特集が企画され、その後巡回上映に入っており、同年の日仏交換映画祭ではパリにおいて十一本の小津作品が初めて上映されている。同じ年の「カイエ・デュ・シネマ」(No.16)には小津の紹介記事が載り、翌年にはその訃報が載った。」(85-86頁)

デヴィッド・ボードウェル『小津安二郎 映画の詩学』(1992年11月16日発行、青土社、609頁)

「序論」
「第一部 詩学の諸問題 1経歴、2背景、3素材、4構造、制限、戦略、5内在的規範に向かって、6自由と秩序、7枕とカーテン、8用途と効果」
「第二部 全作品」
「付録 数量的見地からみた小津作品」「用語解説」
「訳者あとがき」「参考文献」「原註」「索引」

中央興業宣伝企画室『スターシリーズPART1 原節子の総て』(1992年12月12日発行、中央興業有限会社、17頁)

シネマ・ジャック「原節子の総て」34作品上映記念
「晩春」「麦秋」(3頁)
「東京物語」(4頁)
「東京暮色」(9頁)
「秋日和」(15頁)
「小早川家の秋」(16頁)

1993
『名匠 小津安二郎の世界』(1993年1月1日発行、銀座並木座、4頁)

表紙:「麦秋」
「映画の本棚:”小津を知り、小津を愛する友に” ドナルド・リチー談」(4頁)

『東京人』No.64 1993年1月号「特集 映画の中の東京」(1993年1月3日発行、都市出版、165頁)

「東京人インタビュー43 篠田正浩」(8-12頁)
※一部抜粋する。「小津さんは、作家としてデビューした時から、自分と等身大の人間を見るというのが、映画作家の本質的なリアリティーだということを見抜いていらした。だから、『生まれてはみたけれど』で階級社会の矛盾を描いても、階級社会のジレンマに怒り狂うのではなく、そのペーソスを淡々と描いたんです。偉い奴には偉い奴の滑稽さがあるだろうし、それに従わなければならない下役の哀しみは哀しみである。決して階級闘争という次元には踏み込まず、人々をじっと描き続けた。」
上野昂志「東京を映した映画30選」(37-44頁)
※「生まれてはみたけれど」、「風の中の牝鶏」、「東京物語」、「東京画」他

前田英樹『小津安二郎の家-持続と浸透』(1993年1月10日発行、書肆山田、135頁)

「1 知覚する機械-歩く人/猟師に見える鹿のイマージュ/記号化によるイリュージョン/知覚によるイマージュ」(9‐26頁)
「2 映画-世界から何かを差しひくこと/フレーム/身体の視線とロー・ポジション・キャメラ/日本家屋と過去の潜在/知覚と記憶」(27‐46頁)
「3 イマージュの多層的秩序-敷居と鴨居・障子と襖・座る人物/身体がめざす行動/空虚と充満/灯台とビール瓶/笑いと無常/ストーリー」(47‐66頁)
「4 開かれた過去の反復-思い出を語る/無人の室内・沈黙する人物/玄関の九ショット/世界が繰り返す巨大な記憶/静止・空虚」(67‐92頁)
「5 イマージュ=運動-飛んでいくボール/純粋視聴覚記号による映画/退くことと進むこと・移動・浜辺を走る自転車/壺・スリッパ・パンのかたまり」(93‐113頁)
「6 小津安二郎の家-崩壊・構築と浸透・分離/極小のストーリー/登場人物/映画の架空性・<ほんもの>/「もののあわれ」「無常迅速」/隠されている瞬間」(114‐132頁)
「あとがき」(134‐135頁)

浜野保樹『小津安二郎』(1993年1月20日発行、岩波書店、226+15頁)

「第1章 生ける伝説」(1―25頁)
「第2章 芸術のことは自分に従う」(27―62頁)
「第3章 ちょくさい先生」(63―93頁)
「第4章 蓼科、鎌倉、そして大船」(95―123頁)
「第5章 映画に文法はない」(125―160頁)
「第6章 ストーリーのないドラマ」(161―190頁)
「第7章 俺は後でいい」(191―222頁)
「あとがき」(223―226頁)
「参考文献」(1―15頁)

『月刊Asahi』1993新春特大1・2合併号vol.5 No.1「ビジュアル特集 小津安二郎『こだわりの美学』」(1993年2月1日発行、朝日新聞社、218頁)

「小津安二郎のこだわり」企画構成:宮脇洋、取材・文:吉村克己、撮影:鷹野晃、取材協力:浜野保樹
「晩年の名作生んだ 聖地・蓼科」(132―133頁)
「幻と消えた小津山荘」(134―135頁)
浜野保樹「変わらないものこそ新しい」(136―137頁)
「小津安二郎愛用カタログ」(138―140頁)
「インタビュー 杉村春子 上等の練り羊羹のよう」(139頁)
「元祖グルメが通った店」(141頁)
「鎌倉での一流人との交わり」(142―143頁)

『映画撮影』No.119 (1993年3月10日発行、日本映画撮影監督協会、88頁)

「特集・追悼 厚田雄春さん」(58-67頁)
蓮實重彦「厚田さんの死に、まだ慣れることはできません」(58-59頁)
宮島義勇「厚田雄春君を偲ぶ」(59-60頁)
山内静夫「さようなら、厚田さん」(60頁)
大庭秀雄「厚田さんを偲んで」(60頁)
笠智衆「私たちは小津組の同期でした」(60-61頁)
高村倉太郎「厚田雄春さんを偲ぶ」(61頁)
斎藤高順「厚田さんとの思い出」(61頁)
井上和男「厚田さんを悼む」(61-62頁)
間宮幹彦「厚田さんとの十年」(62頁)
楠田浩之「忘れがたい人」(62-63頁)
川又昂「弔辞」(63頁)
中井貴恵「厚田さんの想い出」(63頁)
馬野光晴「厚田さんを偲んで」(63-64頁)
丸山恵司「巨匠 厚田雄春逝く」(64頁)
満井担彦「手の温もり」(64頁)
兼松煕太郎「厚田さんへ」(64頁)
「厚田雄春 フィルモグラフィおよび略年譜」(65-67頁)

佐々木康『佐々木康の悔いなしカチンコ人生』(1993年3月31日発行、けやき出版、265頁)

「小津監督から学んだこと―蒲田での修業時代」(37-52頁)
※一部抜粋する。「清水監督は、私を寝るまで放そうとしなかった。なにかにつけて「ズー、おい、ズー」と、私を呼ぶのである。「ズー」というのは、私の東北訛りを聞いて、清水監督がつけたあだ名である。このあだ名は、映画関係者の間に広まり、その後、私は「ズーさん」と呼ばれることが多くなった。」(40頁)「なぜ、小津組に入ったのかというと、小津監督には、助監督がひとりしかいなかったからである。みんな小津さんの下で働きたいのだが、チーフ助監督をしていた小川二郎という人物の評判がすこぶる悪く、だれもその下につこうという者がいなかったのである。そこで、小津監督が助監督として仕えたことのある、大久保忠素製作部長と、小津さんが責任を持つからというので、私が小津組に行くことになったのである。」(43頁)「私が、助監督として初めてついたのは、高田稔、田中絹代主演の『大學は出たけれど』(昭和四年・一九二九)という作品だった。」(44頁)「小津監督といえば、徹夜好きでも有名だった。俳優に、念の入った細かな演技をつけるので、どうしても時間を食ってしまうのである。」(45頁)

『キネマ旬報』No.1919 第1105号(1993年5月1日発行、キネマ旬報社、226頁)

表紙:笠智衆
「追悼特集:さよなら笠智衆さん」
「グラビア」(16―18頁)
「対談 木下恵介・白井佳夫 二十世紀の終焉を告げる笠智衆さんの死」(19―24頁)
石坂昌三「『不器用』を装った俳優の偉大な生涯の物語」(25―27頁)
山田洋次「私たちが愛した笠智衆さん 桜の樹の下での笠さんとの約束」(28―29頁)
山田太一「私たちが愛した笠智衆さん 輪郭のはっきりした男の魅力」(29―30頁)
前田吟「私たちが愛した笠智衆さん ユーモラスで品があった猥談」(30頁)
倍賞千恵子「私たちが愛した笠智衆さん 人間として俳優としての支え」(30―31頁)
渥美清「私たちが愛した笠智衆さん 陽射しが当たる題経寺境内で‥」(31頁)
「笠智衆最後のインタビュー 僕と大船の監督さんたち 小津安二郎、島津保次郎、清水宏、吉村公三郎、木下恵介、澁谷実、大庭秀雄、山田洋次」(32―34頁)

榛葉明彦『名作の映像を探る「父ありき」覚書』(1993年6月10日発行、87頁)

限定100部
「1.まえがき」(1頁)
「2.もくじ」(2頁)
「3.「父ありき」と小津安二郎」(3‐4頁)
「4.「父ありき」あらすじと全シーン、ショット一覧」(5-11頁)
「5.「父ありき」の生れるまで-その時代背景」(12-15頁)
「6.名場面の探求」(16-56頁)
「7.「父ありき」におけるカメラワーク」(57-62頁)
「8.昭和13年~17年の新聞記事スクラップより」(63-72頁)
「9.小津作品の系譜・その人生(折り込み)」(73-75頁)
「10.小津安二郎・あれこれ」(76-77頁)
「11.出演俳優プロフィール」(78-83頁)
「12.笠智衆・その歩み」(84-85頁)
「13.参考資料・あとがき」(86頁)
「14.スチール」(87頁)

「俳優 笠智衆 わたしと松竹大船撮影所」(1993年7月21日、SHV松竹ホームビデオ)

俳優 笠智衆 私と松竹大船撮影所
1993年7月21日新発売!! 2500円
1993年3月16日。享年88歳で、俳優・笠智衆は永遠の眠りについた。松竹に25年1期生として入所して以来、約70年間俳優一筋に生きた人生と言えよう。遺作は「男はつらいよ寅次郎の青春」。

『CINETIC』第1号(1993年7月30日発行、洋々社、248頁)

「グラビア 撮影監督・厚田雄春を送る」(1-5頁)
田中眞澄「追悼=厚田雄春 残響 厚田さんを偲んで」(36-37頁)
木村健哉「書評 前田英樹著『小津安二郎の家―持続と浸透』を読む」(222-226頁)

『キネマ旬報』No.1114、1993年9月下旬号「特別企画 小津安二郎 生誕90年」(1993年9月15日発行、キネマ旬報社、218頁)

「復元リニューアル、ニュープリントで蘇る小津作品」
「スナップでたどる小津安二郎監督」
「座談会 ドナルド・リチー・田中康義・川又昂・大嶺俊順 キャメラの前で正座した“小津の子供たち”」(19‐22頁)
「小津と語る 世界の映画作家が語る小津安二郎 ドキュメンタリー『小津と語る』より抜粋」
スタンリー・クワン「『東京物語』は、私に父を思い起こさせた」(23‐24頁)
アキ・カウリスマキ「私の墓石には、『生まれてはみたけれど』と刻みます」(24頁)
クレール・ドニ「『晩春』は大好きな作品です。私の人生の一部とも重なり合うようにも感じました」(25頁)
リンゼイ・アンダーソン「多くのイギリス人が、地上から2インチ離れた感じを持った」(25‐26頁)
ポール・シュレーダー「単純に見えるスタイルも、コピーすることは不可能です」(26頁)
ヴィム・ヴェンダース「彼の全作品が、偉大な一つの作品です」(27頁)
侯孝賢「小津監督はどうして時代に対してあんなにも近くに寄れたり、遠くから見たり出来たのか」(28頁)
「アンケート 小津安二郎を語る 井上和男、山田太一、森崎東、三村晴彦、羽田澄子、大林宣彦」(30‐32頁)
井上和男「小津安二郎・野田高梧の蓼科『有縁碑』」(33頁)
「小津安二郎生誕90年 関連上映・出版・イヴェント第一覧」(34頁)

都築正昭『小津安二郎日記 無常とたわむれた巨匠』(1993年9月20日発行、講談社、430頁)

「プロローグ」(9―13頁)
「第一章 憂い」(15―105頁)
「第二章 いのち」(107―139頁)
「第三章 親子」(141―166頁)
「第四章 人情」(167―186頁)
「第五章 家族」(187―250頁)
「第六章 しあわせ」(251―280頁)
「第七章 心たのしも」(281―348頁)
「第八章 ものの哀れ」(349―412頁)
「終章 男の背中」(413―420頁)
「あとがき」(421―423頁)
「主要引用参考文献」(424―425頁)
「小津安二郎監督作品一覧」(426―430頁)

シナリオ作家協会「野田高梧 人とシナリオ」出版委員会編『野田高梧 人とシナリオ』(1993年9月24日発行、シナリオ作家協会、430頁)

「シナリオ 晩春」(11―64頁)
「シナリオ 麦秋」(65―138頁)
「シナリオ 東京物語」(139―216頁)

『カイエ・デュ・シネマ・ジャポン』No.9(1993年9月25日発行、フィルムアート社、171頁)

「小津安二郎30―90」(22―71頁)
「シナリオ肉体美」(23―31頁)
「最初の小津」(36―45頁)
アラン・ベルガラ「立ちあがる男」(46―55頁)
山口英則「かつて隣にいた者へ」(56―59頁)
桜井通開「ファースト・サークル」(60―63頁)
坂本安美「無意識の仕草のように美しい」(64―67頁)
井上紀州「小津、中上、もうひとりの小津」(68―71頁)

『フィルムアート通信 Wassioy4』(1993年9月25日、フォルムアート社、8頁)

田中眞澄「コラム ワッショイの良心 例之酒癖一杯綺言映画篇その3 小津が死んで三日後に力道山が死んだ」(2頁)
丹野達弥「みだりに小津に近づくインテリに近づくな」(6頁)
HA「あらゆる評価を忘れ果て、みよう見よう、小津を観よう」(7頁)

松竹(株)映像版権部編『小津安二郎映画讀本 [東京]そして[家族]』(1993年9月25日発行、フィルムアート社、112頁)

小津安二郎「ぼくは「豆腐屋」だから豆腐しかつくらない」(表表紙裏)
ドナルド・リチー「小津安二郎は、長い間日本人によって最も日本的な映画監督と見なされてきたが、その作品は国際的に確かな地位を占めてもいる」(表表紙裏)
「東京物語の思い出」(2―7頁)
「遺文・小津安二郎」(8―11頁)
「斎藤良輔氏(脚本)に聞く」(12―15頁)
「東京 小津安二郎のいた場所」(16―21頁)
「川又昴氏(撮影)に聞く」(22―25頁)
「小津とその<家族>・その遺品」(26―34頁)
「現存36作品紹介」(35―107頁)
「小津安二郎略年譜1903~1963」(108―109頁)
「小津安二郎・失われた18作品」(110―111頁)
※小津安二郎生誕90年フェアを記念して、松竹が作成したもの。

『小津安二郎生誕90年フェア』リニューアル・ニュープリント現存作品一挙上映(1993年9月25日発行、渋谷松竹セントラル)

小津安二郎生誕90年フェア
リニューアル・ニュープリント現存作品一挙上映
9月25日(土)~10月8日(金) 当日700円均一、当別回数券3,500円
リニューアル・ニュープリント「東京物語」11月27日(土)よりロードショー

『小津安二郎生誕90年フェア「現存作品一挙上映」スケジュール』(1993年9月25日発行、渋谷松竹セントラル)

9月25日(土)~10月8日(金)

『小津安二郎生誕90年フェア』前売券(1993年9月25日発行、渋谷松竹セントラル)

小津安二郎生誕90年フェア
リニューアル・ニュープリント現存作品一挙上映
完全入れ替え制、6枚綴り、¥3,500

前売入場券『小津安二郎生誕90年フェア・特別企画「小津安二郎展』(1993年9月25日、松竹株式会社)

第6回東京国際映画祭協賛
小津安二郎生誕90年フェア・特別企画「小津安二郎展」
1993年9月25日(土)~10月3日(日)10:00~19:00
会場 Bunkamura ザ・ミュージアム
松竹株式会社・東京新聞共催
500円(前売入場券)

松竹編『小津安二郎新発見』(1993年9月28日発行、講談社、301頁)

「小津安二郎の肖像と語録」(3-16頁)
「小津映画の名優たち」(21-82頁)
「小津映画の撮影現場 田中康義、清水富二、青木富夫」(83-118頁)
「小津安二郎交友録 立原りゅう、山内静夫、北川靖記、吉田喜重」(119-150頁)
「小津安二郎の生涯 小津ハマ、中井麻素子」(151-172頁)
「小津安二郎の秘密 今村昌平、川又昂、斎藤高順、浦岡敬一」(173-198頁)
「小津映画と私 大林宣彦、川本三郎、市川準、竹中直人、周防正行、加藤和彦、さだまさし」(199-214頁)
「小津映画全作品」(215-287頁)
「小津家家族図」(288頁)
「小津安二郎 年譜」(289-301頁)
※帯に、「松竹が総力編集!大船撮影所で発見された多数の未公開写真や遺族・関係者の新証言で綴る 『OZU本』の決定版!!写真四百枚収録」とある。

井上和男編著、松竹映像出版監修『陽のあたる家 小津安二郎とともに』(1993年10月1日発行、フィルムアート社、349頁)

「序にかえて 小津に惹かれて」8-15頁)
「笠智衆」(16-25頁)
「厚田雄春」(26-33頁)
「浜田辰雄」(34-45頁)
「佐藤忠男」(46-55頁)
「川喜多かしこ」(56-61頁)
「ドナルド・リチー」(62-67頁)
「小津新一」(68-83頁)
「山下登久・小津信三」(84-103頁)
「教え子たち」(104-111頁)
「奥山正次郎、慶光院俊、中井助三」(112-126頁)
「小津安二郎の手紙1 昭和2年8月29日、深川亀住町から友人置塩高に宛てたもの」(127-128頁)
「小津安二郎の手紙2 昭和2年10月3日、友人置塩高、吉田与蔵に宛てたもの」(129-131頁)
「伏見やえ」(132-147頁)
「佐々木康」(148-157頁)
「木下恵介」(158-161頁)
「斎藤良輔」(162-177頁)
「淡島千景」(178-183頁)
「三宅邦子」(184-189頁)
「岸恵子」(190-195頁)
「有馬稲子」(196-201頁)
「岡田茉莉子」(202-207頁)
「司葉子」(208-213頁)
「岸田今日子」(214-215頁)
「岩下志麻」(216-221頁)
「中村伸郎」(222-229頁)
「東野英治郎」(230-233頁)
「三上真一郎、桜むつ子、須賀不二男」(234-241頁)
「山内静夫」(242-249頁)
「野田静」(250-257頁)
「山内玲子」(258-271頁)
「今村昌平」(272-277頁)
「山田洋次」(278-283頁)
「横山隆一」(284-287頁)
「新藤兼人」(288-297頁)
「今日出海」(298-303頁)
「中井貴恵」(304-305頁)
「佐田啓二の『小津安二郎看護日記』(一部)」(306-309頁)
「杉村春子」(310-317頁)
井上和男「小津さんのこと」(318-349頁)
※「序にかえて」(14-15頁)には、「実は、この本の前半部は、私が『生きてはみたけれど-小津安二郎伝』(昭和五十八年松竹)をつくった際由縁の皆さんにインタビューした全テープを、録音技師・故吉田正太郎氏が再生し、故小津信三氏に寄贈したものを、奥さんの小津ハマさんが文字お越ししてくださったものである。」とある。

キネマ旬報社・オムロピクチャーズ編『小津安二郎集成Ⅱ』(1993年10月1日発行、キネマ旬報社、254頁)

「小津自身による文章・発言」(7‐68頁)
「作家論」(69‐120頁)
「撮影の現場から」(121‐132頁)
「スタッフ・キャストが見た小津」(133‐152頁)
「小津安二郎の死を悼んで」(153‐162頁)
「作品論」(163‐210頁)
「死後の再評価」(211‐226頁)
「小津への新しいアプローチ」(227‐254頁)

『小津安二郎生誕90年フェア』リニューアル・ニュープリント現存作品一挙上映(1993年11月13日発行、横浜シネマリン)

小津安二郎生誕90年フェア
リニューアル・ニュープリント現存作品一挙上映
11月13日(土)~11月26日(金) 当日700円均一、当別回数券3,500円
リニューアル・ニュープリント「東京物語」11月27日(土)よりロードショー

『小津安二郎生誕90年フェア』ビデオ新発売(1993年11月21日発行、SHV松竹ホームビデオ)

”OZU”RETROSPECTIVE
小津安二郎生誕90年フェア 時間を越え、今、甦る!
好評発売中、22作品
11月21日新発売!!
特典付記念パック販売30本パック
8本パック

『小津安二郎生誕90年フェア リニューアル・ニュープリント32本一挙上映』(1993年10月16日、kYOTO朝日シネマ)

小津安二郎生誕90年フェア リニューアル・ニュープリント32本一挙上映
1993年10月16日(土)~29日(金)
●小津安二郎展/京都文化博物館にて12月開催予定
 小津安二郎の遺品、秘蔵写真、小津作品のスチール他、初公開のものも含めた本格的展示

『小津安二郎生誕90年フェア』リニューアル・ニュープリント現存作品一挙上映(1993年11月27日発行、松竹セントラル3)

小津安二郎生誕90年フェア
リニューアル・ニュープリント現存作品一挙上映
12月11日(土)~12月24日(金) 当日700円均一、当別回数券3,500円
リニューアル・ニュープリント「東京物語」11月27日(土)よりロードショー

『東京物語 同時上映「小津と語る」』(1993年11月27日発行、松竹株式会社)

 本年1993年は、小津安二郎監督が生誕して90年、また60歳の誕生日にその生涯を終えてから30年という記念すべき年にあたります。これを機会に、小津安二郎監督の代表作であり、日本映画が残した最高の遺産の一つでもある「東京物語」が全国ロードショーされることになりました。

 なお、今回のロードショーについては、小津安二郎について世界の映画界の第一線で活躍する映画監督7人が語るドキュメンタリー作品「小津と語る」を併映します。
 11月27日(土)よりロードショー

前売券『東京物語 同時上映「小津と語る」』(1993年11月27日発行、松竹株式会社)

”OZU”RETROSPECTIVE
同時上映「小津と語る」世界に誇る監督たちが今、小津に語りかける

テレホンカード『小津安二郎”OZU”RETROSPECTIVE』(1993年11月27日発行、松竹株式会社)

小津安二郎作品リスト
小津安二郎、東京物語
略歴 -蓼科日記より-小津安二郎

『小津安二郎生誕90年フェア 特別企画 小津と語る 第一稿』(1993年11月27日発行、松竹株式会社、68頁)

構成・脚本 田中康義
※発行日がないので、映画公開日を発行日とした。

『FB』創刊号1993秋(1993年11月10日発行、行路社、252頁)

杉山平一「小津安二郎の水平思考」(61-65頁)

『小津安二郎生誕90年フェア』小津安二郎展・名画鑑賞会(1993年12月3日発行、鎌倉芸術館)

 鎌倉芸術館開館記念事業
 幾多の優れた映画を創造し、鎌倉を終の棲家とした映画監督・小津安二郎。
 小津が創造した作品は、日本だけでなく世界的にも評価は高く、昨年、イギリスの権威ある映画誌Sight&Sound誌の、世界各国の著名批評家による映画史上ベストテンの第3位に、代表作「東京物語」が選出されました。
 本年は、小津安二郎の生誕90年、没後30年という年にあたります。鎌倉市では、鎌倉芸術館の開館記念事業として、「小津安二郎展」と「名画鑑賞会」を開催いたします。
 小津安二郎は、昭和27年、四十九歳の時に、北鎌倉の山ノ内に転居してきました。
 鎌倉には小津の仕事場である大船撮影所があるだけでなく、創作面でのパートナーである脚本家・野田高梧氏も住んでいました。
 鎌倉に居を構えてからの小津は、鎌倉在住の文化人たちの集まり「鎌倉ペンクラブ」などを通じ、里見弴、大佛次郎、今日出海、横山隆一、川喜多長政・かしこ夫妻らと交流を深めていきました。鎌倉での充実した生活は、小津の創作意欲を大いに高め、鎌倉転居の翌年には代表作「東京物語」を撮り、以降も、小津・野田のコンビにより数々の名作が生まれました。
 小津の遺骨は北鎌倉の円覚寺に葬られ、墓碑には「無」と刻まれています。小津安二郎は、鎌倉の誇る文化人の一人と言えるでしょう。
●小津安二郎展 93年12月3日(金)~12月2日(日)
●名画鑑賞会 93年12月10日(金)~12月12日(日)
主催・製作 鎌倉市
製作協力 松竹株式会社

『小津安二郎生誕90年フェア』(1993年12月11日発行、小津安二郎生誕90年フェア事務局)

奥山融(「小津安二郎生誕90年フェア」エグゼクティブ・プロデューサー 松竹株式会社代表取締役社長)「淡々と、そして悠々と」
生誕100年を迎える脚本家野田高梧氏
1993年3月16日 映画俳優 笠智衆氏逝く
小津安二郎作品リスト
小津安二郎プロフィール

田中眞澄編『全日記 小津安二郎』(1993年12月12日発行、フィルムアート社、861頁)

「1933年~1963年」(27‐815頁)
「付記/校異・映画題名・関連人名抄」(818‐855頁)
「解題」(856‐861頁)
※解題の冒頭を引用する。「本書は、小津安二郎(1903―1963)が生前に書き残した日記のうち、現存するすべてを公開し、この世界にも類稀れなる映画作家に対する、将来の新たな研究の進展に寄与することを、第一義的な意図として提供される。現存する小津の手帖及びノート類の中で、日記帳として認定し得るものは、断片的な記述に終わったもの、スケジュール表的な性格を併せ持つものも含めて、三十二冊に達する(日記的記述以外の目的に使用した日記帳は含めず、また一冊の日記帳で日記本体の他にスケジュール表へも日記的記述をしたものは、本書では別に区分している)。そのうち二十冊は小津家に残されていたものであり、十二冊は1989年に故下河原友雄氏未亡人宅で発見され、小津家に返還されたものである。三十二冊中三十冊(1935年そのニ、1963年そのニ以外)は、各種の小型の手帖式日記帳が使用されている。それらの日記帳の本文の全文を本書に収録した。現時点で読むことができる、小津安二郎の日記のすべてである。」
※画像は、特装限定版

『全日記 小津安二郎 栞』(1993年12月12日発行、フィルムアート社、13頁)

長井秀行「伯父からの手紙」(2―3頁)
山内静夫「追想」(4―5頁)
中井麻素子「小津先生のこと」(6―7頁)
※「蓼科日記」に記された子供の頃の中井貴恵の記述、ますこさんの記述掲載。
須賀不二男「ハムツイタ、デモヤクハナイ」(8―9頁)
清水富二「車夫馬丁はトリスを飲め!」(10―11頁)
立原りゅう「蓼科で」(12―13頁)

『キネマ旬報』No.1935 第1121号(1993年12月15日発行、キネマ旬報社、238頁)

特集:小津安二郎を生きなおすために(166―174頁)
西河克己「バトルロイヤル小津本縦断書評①たのしい小津安二郎入門書 松竹編 小津安二郎新発見」(167頁)
木村威夫「バトルロイヤル小津本縦断書評②多数の証言が作る小津の輪郭 陽のあたる家」(168頁)
井上和男「バトルロイヤル小津本縦断書評③加筆引用によって小津のリズムが壊された」(169頁)
富田均「バトルロイヤル小津本縦断書評④小津の製作動機を流れで追う作品解説が圧巻 小津安二郎映画讀本」(170頁)
武藤康史「バトルロイヤル小津本縦断書評⑤同時代の発言から一層開ける眺望 小津安二郎集成Ⅱ」(171頁)
中山信如「古書店にとっての小津書誌学 死去当時に少なかった小津文献中、光る装填本」(172―173頁)
筒井武文・阿部嘉昭「TV評「吉田喜重が語る小津さんの映画」吉田は小津の反復とズレを生きる」(173―174頁)

吉田喜重『吉田喜重が語る 小津安二郎の世界』(1993年12月、ジェネオンエンタテインメント、180分)

1993年NHKクリエイティブ+アドホックシステムズ作品/カラー/ビデオ(4×3)/ステレオ
45分×4回(NHK教育放送で「ETV特集」として1993年12月13日から16日まで4夜連続放映)

構成・演出   吉田喜重
制作統括    中村彰良・丸山健一
プロデューサー 黒川慶二郎・秦暢弘
撮影      前島一男
音響効果    田中稔
編集      高橋智子
映像技術    森田文雄・村岡弘規・大津雅久
取材      高嶋弘
映像資料協力  松竹
資料提供    鎌倉文学館・川喜多記念映画財団

第一回「サイレントからトーキーへ/映画との出会い 反復とずれ」
第二回「戦中戦後の軌跡/映画が言葉を発するとき」
第三回「『晩春』と『東京物語』/限りなく開かれた映像」
第四回「その短すぎた晩年/無秩序な世界につつまれて」

1994
「CS放送 MONTHLY GUIDE 衛星劇場1」(1994年1月1日、衛星映画演劇放送株式会社)

CS放送 MONTHLY GUIDE 衛星劇場1
1994年1月1日~1月31日、衛星映画演劇放送株式会社
小津安二郎生誕90年フェア 小津監督32作品一挙放映!!

「江戸東京博物館開館1周年記念 映画にみる”江戸・東京” Vol.4」(1994年5月25日、江戸東京歴史財団)

江戸東京博物館開館1周年記念 映画にみる”江戸・東京” Vol.4 
小津安二郎監督特集 
1994年5月25日(水)~5月28日(土)
江戸東京歴史財団

『The Complete OZU for Macintosh CD-ROM』(1994年発行、東芝EMI株式会社)

監修:小津安二郎生誕90年フェア事務局・山内静夫・田中眞澄
日本映画が世界に誇る名匠小津安二郎の静かな世界がMacintoshのCD-ROMになって登場
松竹株式会社、小津安二郎生誕90年フェア事務局、フィルムアート社及び多数の小津関係者の
全面的な協力により映像(32作品の映画のワンシーン、現存する予告編6作品、関係者へのインタビューなど)テキスト(ドナルド・リチー著『小津安二郎の美学』ほか)、ビジュアル資料(遺品、ポスターなど)ならびに関係者のプロフィールなどを豊富に収録、話題のエキスパンド・ブックを使用した、マルチメディア・タイトルならではのインタラクティビティー溢れる構成で名匠小津の世界が検索可能

『芸術新潮』1994年1月号(1994年1月1日発行、新潮社、160頁)

「小津安二郎の『早春』ロケ地狩り」(84-87頁)
※「映るものすべてに細心の注意を払い映画作りの上で何ひとつゆるがせにしなかった監督・小津安二郎-ロケ・ハンにも時間をかけ、キャメラマンと共に東京中を歩きまわって心にかなう「風景」を探した。昭和30年「早春」ロケ・ハンのスナップ写真には、在りし日の懐かしい「東京」がある。

『クラシック映画ニュース』No.427(1994年2月1日発行、マツダ映画社内無声映画観賞会、15頁)

「活弁付きで見る 小津安二郎の名作」
「小津安二郎の名作は活弁付きで」(3頁)
「自作を語る 小津安二郎 大学は出たけれど、東京の合唱」(5頁)
「大学は出たけれど」(6-7頁)
「東京の合唱」(8-10頁)
澤登翠「小津映画を語る難しさ」(12頁)

『小津の「突貫小僧」が見つかった!』(1994年2月23日発行、ビクターブックス/ビクターエンタテインメント株式会社)

小津安二郎監督の幻の作品、初のビデオ化!
作品発見の経緯などを記した読みごたえのある保存版ブック付
併録内容:青木富夫氏「突貫小僧 大いに語る」「天国その日帰り」(内田吐夢/昭和5年/サイレントモノクロ)
山根貞男「突貫小僧が見つかった」(2-3頁)
特別対談 周防正行・山根貞男「小津安二郎は神様です。」(4-17頁)
青木富夫インタビュー「突貫小僧、大いに語る」(聞き手:山根貞男)(18‐21頁)
小津安二郎フィルモグラフィー(22-23頁)

『marie claire マリ・クレール日本版』No.136(1994年3月1日発行、中央公論社、204頁)

「小津安二郎の誘惑 ”世界のOZU”が今語りかけるもの」(129-141頁)
四方田犬彦・武藤康史「対談 小津映画に現代的意味」(130-135頁)
須賀敦子「イタリア・ペサロで見た『東京物語』」(136-137頁)
中条省平「原節子の声と爪 小津映画に隠された性の奔騰」(138-139頁)
「小津映画ビデオリスト」(140頁)
「小津安二郎ブックリスト」(141頁)

笠徹『春風想 父・笠智衆の思い出』(1994年3月16日発行、扶桑社、255頁)

「蓼科の夏」(118-126頁)
「笠智衆年譜」(248-252頁)

川本三郎『今ひとたびの戦後日本映画』(1994年3月24日発行、岩波書店、286頁)

「戦争未亡人と死者」(1-16頁)
「穏やかな父-笠智衆」(235-250頁)

『名匠 小津安二郎の世界』(1994年3月30日発行、銀座並木座、4頁)

表紙:「東京物語」
「映画の本棚:”小津安二郎と構図第一主義 佐藤忠男著」(4頁)

川本三郎『映画の昭和雑貨店』(1994年4月1日発行、小学館、140頁)

「死語」(8―11頁)
※『長屋紳士録』(「おやかましゅう」、「けんのん(剣呑)、けんのん(剣呑)」)、『麥秋』(「嫁に行くでもなし婿を取るでもなしタイの浜焼き食うじゃなし」)
「甘いもの」(20―23頁)
※『麥秋』(いくら、これ」、「九百円」、「高いのねえ、あたし、もう食べるのいやんなっちゃった」)
「自転車」(36―39頁)
※『晩春』(「自転車で七里ガ浜までお散歩してきたのよ」)
「パチンコ」(40‐43頁)
※『お茶漬の味』(「強く弾いちゃだめなんですよ」、「十八番、出ないよ」)『東京暮色』(「むずかしいもんだな」「ゴルフのようにはいかないさ。指先の呼吸ひとつだからな。」)
「女の酒」(84―87頁)
※『晩春』(「これで三杯め。五杯までは大丈夫。いつか六杯飲んだらひっくりかえっちゃった」「おじさま、いいとこあるわ。感激しちゃった」)
「貧乏文士」(108―111頁)
※『東京暮色』(「この本なんか、四、五日前に丸善へ来たばかりなんですがね、今日学校へいってみたら、もうやっている奴がいるんだからかないませんや」
「銭湯」(116―119頁)
※『東京物語』(「お義父さん、風呂に行きましょう」「お義母さん、帰りにあずきアイスでも食べますか」)
「子どもの好物」(132―135頁)
『長屋紳士録』(「おばちゃんが好きかい?」「うん」「おばちゃんとこの子になっちゃうかい」「うん」)

「OZU20」(1994年4月2日、シネマジャック)

シリーズ:日本の映画監督 Part6 小津安二郎特集
1994年4月2日(土)~5月20日(金)
20作品7週間一挙(2本立)上映
スーパープログラム映画館 シネマジャック

『JAPANESE FILM FESTIVAL’94 OZU YASUJIRO RETROSPEVTIVE』(1994年8月29日発行、JAPAN CULTURAL CENTER,BANGKOK、18頁)」

Dr.Boonrak Boonyaketmala「Tokyo Story:A Glimpse of Yasujiro Ozu’s Art and Worldview」(1-4頁)

「The Act of Seeing OZU-WENDERS The relation between the Japanese and the German film directors」(1994年8月29日発行、Goethe-Institut Bangkok , Japan Cultural Center,31頁)

Donald Richie,Yasujiro ozu and World Cinema,pp7-9
Norbert Grob,Wenders & Ozu,pp.10-13
Yasujiro ozu Biographical data,p.14
Wim wenders Biographical data,p.15
I was Born..But p.16
Alice In The Cities p.17
Early Summer p.18
Wrong movement p.19
Tokyo Story p.20
Kings of The Road p.21
The Flavour of Green Tea Over Rice p.22
The American Friend p.23
Floating Weeds p.24
The State of Things p.25
Late Autumn p.26
Wings of Desire p.27
Tokyo-Ga p.28
Yasujiro Ozu Filmography p.30
Wim Wenders Filmography p.31

『シリーズ日本映画の名匠たち 小津安二郎の美学』(1994年9月10日、池袋文芸坐2)

シリーズ日本映画の名匠たち 小津安二郎の美学
1994年9月10日(土)~10月7日(金)
36作品連続上映
 今回の特集では、昨年「小津安二郎生誕90年フェア」にあたって松竹が修復・復元した貴重なサイレント作品を含む33作品が、ニュープリントでの上映となります。この機会に、是非ご高覧くださいませ。
 期間中、小津作品ゆかりの方々をゲストにお招きして、対談を予定しております。
1994年9月1日「朝日新聞」によれば、ゲストは、篠田正浩氏(12日)、大島渚氏(15日)、岡田茉莉子氏(16日)、杉村春子氏(28日)とある。

『PAPAS』1994-1995 AUTUMN & WINTER CIRCUIT Vol.23(1994年9月20日発行、青英舎、96頁)

特集「帽子」
「聖なる映画 聖なる帽子 監督小津安二郎とその先品における帽子について」(34-41頁)
高橋治「例外の人の帽子」(36-39頁)
佐伯誠「帽子ありき」(40-41頁)

『小津安二郎/1929~1934コンプリート・コレクションLD BOX』(1994年10月21日、アイ・ヴィー・シー)

映画生誕100年特別企画、総監修:淀川長治 山田洋次監督推薦
小津安二郎/1929~1934コンプリート・コレクションLD BOX
松田春翠・いま、甦る活弁の世界
LD全5枚組 完全生産限定(4,000セット)
スタンダードサイズ/モノクロ/モノラル/380分
DISC1 大学は出たけれど 東京の合唱
DISC2 生れてはみたけれど 
DISC3 出来ごころ
DISC4 浮草物語
特典DISC 伊豆の踊り子(五所平之助)

「第9回国民文化祭・みえ94 映像祭ー残像その世界ー」(1994年10月23日、第9回国民文化祭松阪市実行委員会)

第9回国民文化祭・みえ94 映像祭―残像 その世界―
1994年10月23日(日)
会場:松阪市文化会館・サンライフ松阪、松阪市立歴史民俗資料館
◎小津安二郎監督作品の上映
◎吉田喜重(映画監督)による講演会
◎小津安二郎展
◎パネルディスカッション

片岡義男『彼女が演じた役 原節子の戦後主演作を見て考える』(1994年11月30日発行、早川書房、245頁)

「はじめに-『東京物語』を見てから」(7-14頁)
「第一部 なぜ彼女は令嬢あるいは先生なのか」(15-102頁)
「第二部 原節子は紀子そのものとなり、小津安二郎が彼女を物語った。なんのために?」(103-196頁)
「第三部 紀子のあとの陳腐な人妻と未亡人。主演女優は消えるほかない」(197-243頁)
「本書で取りあげた原節子の戦後主演映画」(244-245頁)

金井美恵子『愉しみはTVの彼方に』(1994年12月10日発行、中央公論社、414頁)

「原節子のパール入りネイル・エナメルの光り方は異様だ」(125-128頁)

1995
『名匠 小津安二郎の世界』(1995年1月1日発行、銀座並木座、4頁)

表紙:「お茶漬の味」

武藤康史編『里見弴 秋日和 彼岸花』(1995年1月20日発行、夏目書房、353頁)

「1973年8月、秋山正太郎撮影 里見弴」
「小津安二郎とてんぷらの会。茅ケ崎館の旅館「柳」にて(1955年)」、「里見邸にて映画『秋日和』ガーデンパーティ」
「活弁と思はれる」、「截紙刀」、「洋傘と襟巻」、「縁談窶」、「T・B・V」、「自惚鏡」、「晩年の癇癪」、「ひと昔」、
「彼岸花」(233―289頁)
「秋日和」(291―333頁)
「解題」(335―353頁)
※「解題」から一部抜粋する。「平成七年、里見弴の十三回忌に合わせるようにして本書は刊行される。」「里見弴ならではのいきいきとした短篇はもとより、映画・演劇にまつわる作品を多く収めることになった。」

『クラシック映画ニュース』No.440(1995年3月1日発行、マツダ映画社内無声映画観賞会、15頁)

「小津が描く子供の世界、大人の哀歓」
「小津作品を上映する意義」(3頁)
「生れてはみたけれど」(8-10頁)
「自作を語る 小津安二郎 生れてはみたけれど、青春の夢いまいづこ」(11頁)
澤登翠「拝啓齋藤達雄様」(12頁)

「映画100年・戦後50年~蘇る昭和~ 映画監督・小津安二郎」(1995年4月1日、ACTミニシアター、4頁)

1995・ACT特別企画「映画100年・戦後50年~蘇る昭和~ 映画監督・小津安二郎」
1929年 若き日 第8作。主として短篇喜劇で腕を磨いていた小津初の長編作。
1929年 大学は出たけれど 第10作。昭和初期の不況を背景にコメディ・タッチで描いた快作。現存する12分短縮版。
1930年 朗らかに歩め 第14作 清水宏原案の恋愛ものを思いきりモダンに演出。背景に映るポスターが見もの。
1930年 落第はしたけれど 第15作。洗練されたギャグいっぱいの小津初のカレッジもの。笠智衆が初めて役付き。
1930年 その夜の妻 第16作。心理劇を極めて精緻で密度の濃い作品に仕上げた小津モダニズム映画の逸品。
1931年 淑女と髯 天才役者岡田時彦にほれ込んだ小津第20作。そのアクション・ギャグの見事さは必見。
1931年 東京の合唱 第22作。ハリウッド完全指向から転換点となもなる注目作。この年、コンテ第一主義を宣言。
1932年 生れてはみたけれど 第24作。”大人の見る絵本”というサブタイトルの付いた小津小市民映画の最高傑作。
1932年 青春の夢いまいづこ 第26作。小津得意の学生喜劇だが、明朗なキャラクターの中に人生の感慨をにじませる。
1933年 東京の女 第28作。ロー・ポジションのカメラアングルなど小津独特の技法を典型的に採用した意欲作。
1933年 非常線の女 アメリカ映画の影響を色濃く受けた、前作に続く小津サイレント技法の逸品。
1933年 出来ごころ 第30作。東京下町を舞台にした人情喜劇”喜八もの”シリーズの傑作。キネ旬ベストワン。
1934年 母を恋はずや 第31作。母子の情愛を細やかに描いた秀作。全9巻のうち1巻と9巻が現在未発見で欠落。
1934年 浮草物語 第32作。人情噺を得意とした小津喜八ものの傑作。本作でキネ旬ベストワン三年連続受賞。
1935年 東京の宿 第34作。深刻な社会不況を背景に、人情味あふれる喜八がとった行動とは?サウンド版。
1936年 一人息子 第36作。茂原式の完成を熱望していた小津初のトーキー作。この年蒲田閉鎖。大船開所。
1937年 淑女は何を忘れたか 第37作。小津のモダニストぶりがあふれるソフィスティケイテッド・コメディの傑作。
1941年 戸田家の兄妹 第38作。父の死による家族の解体を見つめた秀作。厚田雄春が正キャメラマンとして初参加。
1942年 父ありき 第39作。古武士の如き利巧化された父と子の交流を描いた名作。笠智衆がフケ役を熱演。
1947年 長屋紳士録 第40作。ほのぼのとした人情とユーモアあふれる小津戦後第一作。喜八ものだが脇に徹す。
1948年 風の中の牝鶏 第41作。戦後の混乱時に一度だけ売春した妻と帰還した夫の苦悩。移植の小津戦後第二作。
1949年 晩春 第42作。野田高梧との名コンビで後期の小津映画の基調を定めた傑作。原節子が実に美しい。
1950年 宗方姉妹 第43作。古風な姉と新しがりやの妹を対照的に描いた小津初の他社作品。大佛次郎原作。
1951年 麦秋 第44作。娘の結婚をめぐる家族の人間模様を描いた小津の佐久港傑作の一つ。キネ旬ベストワン。
1952年 お茶漬の味 第45作。戦時中に検閲で却下された脚本をもとに映画化。戦地への応召が海外出張に改訂。
1953年 東京物語 第46作。戦後日本の家族生活の崩壊を描いて、人間の孤独感、死生観をも描写した傑作。
1956年 早春 第47作。倦怠期の夫婦の危機を、若い世代との交流を通して描いた珍しいシリアスドラマ。
1957年 東京暮色 第48作。寂漠の人間模様を甘い感傷に溺れる事なく描写した戦後小津映画の異色作。
1958年 彼岸花 第49作。豪華な女優陣を配した華やかな小津ホームドラマの名作。初のカラー作品。
1959年 お早よう 第50作。住宅地に住む人々ののどかな日常を、オナラごっこ等ユーモアたっぷりに描いた佳作。
1959年 浮草 第51作。戦前の「浮草物語」のリメイクだが、大映で映画化。カメラに宮川一夫を起用。
1960年 秋日和 第52作。それまでの娘役の原節子が母親役を演じた晩年の傑作。東宝より司葉子が特別参加。
1961年 小早川家の秋 第53作。小早川家にかかわる人々の悲喜こもごもを感情豊かに描いた名作。初の東宝作品。
1962年 秋刀魚の味 第54作。娘を嫁にだした父の孤独を笠智衆が迫真の演技。小津の遺作。翌年60歳にて死す。
34本 見よ! 小津の魔法使い
4月1日(土)~5月20日(火)

『CINETIC』第2号(1995年4月30日発行、洋々社、288頁)

特集:変容としての映画史
「グラビア 発見された『東京物語』オリジナル予告篇」(8頁)
北垣善宣「発見された『東京物語』オリジナル予告篇について」(42―45頁)
田中眞澄「北村小松から小津安二郎へ―物語・蒲田モダニズム」(104―141頁)
前田秀樹「『全日記 小津安二郎』をいかに読むか」(254―257頁)
「グラビア 発見された『東京物語』オリジナル予告篇」(裏表紙)

『ごもく映画通信』Vol.48(1995年5月25日発行、ファニーフェイス、19頁)

「GOMOKU SPECIAL 小津は魔法使い」
「この人達のオヅ症状、そこから生まれたもの。
 ヴィム・ヴェンダース、周防正行、竹中直人経由D・リンチ、アキ・カウリスマキ、大島弓子経由金子修介、市川準」(4-13頁)
「よくわかる小津のテーマ分析」(14-15頁)
「この一言も‥やっぱり魔法」(16-17頁)

川本三郎『続・映画の昭和雑貨店』(1995年6月10日発行、小学館、140頁)

「ライスカレー」(20―23頁)
※『父ありき』(「めしの上に黄色いのがかかっているのなんていうんだ」「ライスカレーだろ」「あれうめえな」)
「家電製品」(32―35頁)
※『秋刀魚の味』(「こういうものって次々に新しいのが出るから先に買うと損だわ」)
「ラーメン」(36―39頁)
※『お茶漬の味』(「どうです、うまいでしょ。ラーメンはおつゆがうまいんです。」「こういうものはうまいだけでなく安くなくちゃ」「世の中には安くてうまいものがたくさんあるんです」)
「すき焼き」(100―103頁)
※『早春』(「お肉、あたしが買う」「じゃあたしご飯たく」「百匁でいいわね」「充分よ、うち、いつも五十匁」)
「美容師」(108―111頁)
※『東京物語』(「奥様、一度アップにしてごらんないさいましよ。そのほうがお似合いになりましてよ。ネックラインがとてもおきれいですもの。レフトサイドをぐっとつめて、ライトサイドにふんわりウェーブでアクセントをつけ」
「女のタバコ」(112―115頁)
※『淑女は何を忘れたか』(「あんたタバコ吸うの。ダメよ。そんなもの吸っちゃ。まだ、あんたお嫁入り前でしょ。」)

石坂昌三『小津安二郎と茅ケ崎館』(1995年6月20日発行、新潮社、331頁)

スナップ「ロケハン中の小津安二郎」(6頁)
「一 敗戦の町に現われた英国紳士」(7―17頁)
「二 「ボチボチやりますか」(18‐25頁)
「三 浮浪児(『長屋紳士録』)」(26―34頁)
「四 大船の「梁山泊」」(35―45頁)
「五 「お米のジュースがあれば‥‥」」(46―53頁)
「六 金雀枝」(54―60頁)
「茅ヶ崎駅周辺地図」(56―57頁)
「七 茅ケ崎館の創業」(61―64頁)
「八 国木田独歩の通夜」(65―70頁)
「九 茅ケ崎館の主」(71―78頁)
「十 風浪の歴史」(79―86頁)
「十一 脚本の神様」(87―97頁)
「十二 『花嫁御寮はなぜ泣くのだろ』」(98―111頁)
「十三 小津コック長」(112―124頁)
「十四 野球狂時代」(125―136頁)
「十五 ”小津調”脚本作法」(137―157頁)
「十六 原節子のこと」(158―167頁)
「十七 「もののあわれ」」(168―175頁)
「十八 『晩春』から『麦秋』のころ」(176―187頁)
「十九 散歩(茅ケ崎館周辺/団十郎、貞奴、与志/三人の冒険家/南湖院余聞)(188―203頁)
「二十 のぞき事件」(204―211頁)
「二十一 姥島と砂丘」(212―220頁)
「二十二 無為の間」(221―228頁)
「二十三 茅ヶ崎は”キー・ウェスト”」(229―248頁)
「二十四 おゆうさん」(249―257頁)
「二十五 「無」への軌跡」(258―276頁)
「別稿 『東京物語』執筆中の小津日記」(277―305頁)
「あとがき」(306―309頁)
「年譜」(310―329頁)
「参考文献」(330―331頁)

キネマ旬報社編『シネマの世紀 映画生誕100年博覧会』(1995年7月22日発行、川崎市民ミュージアム、162頁)

1995年7月22日(土)~9月17日(日)
「結婚学入門」ビラ(86頁)
「淑女は何を忘れたか」ポスター(100頁)
「限りなき前進」ポスター(101頁)
「東京物語」ポスター(111頁)
「キネマニュース 東京の女、また逢ふ日まで」(144頁)

『ノーサイド』No.52第5巻第10号(1995年10月1日発行、文藝春秋、154頁)

「特集 日本酒を究める」
田中眞澄「小津安二郎と蓼科の酒」(68-73頁)
※この論稿がきっかけとなり、1998年に小津安二郎記念蓼科高原映画祭が開催されたと言われている。

有馬稲子『バラと痛恨の日々 有馬稲子自伝』(1995年11月7日発行、中央公論社、235頁)

「思い出の映画」(60―81頁)
※一部抜粋する。「映画女優だったころ、数多くの名監督についたが、とりわけ小津安二郎監督のことが強く印象に残っている。今井正監督も厳しい方だが、それとは違う意味で、小津監督も仕事に厳しい方だった。昭和三十二年に、原節子さん、笠智衆さんと「東京暮色」に出演し、翌三十三年の「彼岸花」では、大映から山本富士子さんを迎えて共演した。小津組のセットというのは、まず他と空気が違う。ピーンと緊張していて、それこそしわぶきひとつしない。ほかの監督さんの場合だと、ライトマンが大声で怒鳴っていたりするものだけど、ここは実に静か。手まね、足まね、ジェスチャーで合図を送っているという感じだった。小津先生はカメラに映るお茶碗ひとつ、コップひとつにもこだわって、どれを使うかなかなか決まらないことがあった。あるときなど、ご飯をいただくシーンの器が気に入らなくて、スタッフがわざわざ東京の小料理屋さんまで借りに行くことになり、それでその人の撮影が中止になったことがある。」(60―61頁)

『キネマ旬報』No.1990 第1176号(1995年11月13日発行、キネマ旬報社、254頁)

「1位 東京物語」(8-9頁)
※一部抜粋する。「東京物語」は戦後の小津作品のなかでネガが失われた唯一の作品である。全国公開に先立ち松竹がネガの焼き増しを発注した会社が火事を起こしたため「東京物語」のネガフィルムは灰と化し、プリントはポジから取られた。一般的には小津の代表作と言われている「東京物語」が、監督自身が意図した本来の映像とは異なった状態でしか見ることができず、しかもその状態で高い評価を得いているというのは実に皮肉な現実である。キャメラを担当した厚田雄春によれば、本来の「東京物語」では室内の人物の顔色はもっと暗く抑えられていた。夏は室内より屋外のほうが明るいからである。例えば、汗を流す人物といったストレートな映像よりも、照りつける太陽の光を映画の中で見せることで、夏という季節を表現する狙いがあったのだという。」
「11位 麦秋」(71頁)
「25位 晩春」(78頁)
「80位 秋刀魚の味」(90頁)
「日本映画女優ベストテン 1位 原節子」(95頁)

『小津安二郎フェア 幻の映画「鏡獅子」劇場初公開』(1995年12月2日発行、千日前弥生座)

小津安二郎フェア 幻の映画「鏡獅子」劇場初公開
鏡獅子 1935年作品
小津安二郎監督のはじめてのトーキー作品であり、唯一のドキュメンタリーである。

荒木正見編著、鈴木右文共著『尾道を映画で歩く-映像と風景の場所論-』(1995年12月8日発行、中川書店、158頁)

「尾道を映画撮影地として世界に知らしめたのは、小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)である。スタッフが宿舎にした竹村家の当主、武田和頼氏によれば、実際に尾道入りした俳優は、笠智衆、原節子、香川京子の三人だけであったというように、ほとんどがセットで作られたにもかかわらず、挿入された美しくなつかしい尾道の風景は世界中に強烈な印象を与えた。なかでも浄土寺は、主要な撮影地であった。」(74-75頁)
「魚信の角から東側をみると、未知の南側に栗吉木材の看板を目にすることができる。ここから少し西で撮影された「東京物語」に一シーンにも栗吉木材店の看板を目にしたが、このあたりは明治末頃の埋め立てを契機として、木材、竹材、石材などの商家が軒を連ねていた。今日もそれらの店がビルに建て代わって認められるのは心強い。」(80頁)他

1996
『名匠小津安二郎の世界』(1996年1月3日発行、銀座並木座、4頁)

1996年1月3日~2月20日
「映画の本棚 都築正昭著 ”寂寥という友”」(4頁)

白井佳夫『黒白映像 日本映画礼讃』(1996年4月10日発行、文藝春秋、374頁)

「永遠性に到達した日本的ホーム・ドラマ『東京物語』」(192―205頁)

川本三郎『続々・映画の昭和雑貨店』(1996年6月10日発行、小学館、140頁)

「夏の風物詩」(4―7頁)
※『浮草』も夏の物語。キャンディーやかき氷、ラムネが出てくる。
「物干台」(8―11頁)
※『東京物語』に物干台が出てくる。尾道から東京に出て来た笠智衆と東山千栄子の両親が、長女の杉村春子の家に泊まる。浅草あたりの美容院で、一階が店舗、二階が住居、その上に物干台が付いている。夏の一日、笠智衆は、所在なげにこの物干台で夕涼みをする。
「医者の往診」(20―23頁)
※『東京物語』の山村聰も、東京の下町(墨田区の堀切駅近く)に内科・小児科の病院を開いている。故郷の尾道から両親がやって来たので、今日は一家そろって東京見物に出かけることにする。ところが運悪くそこに、「先生、来て下さい。」患者の様態は悪く、熱が下がらないという、そういわれれば医者としては往診に行かざるを得ない。せっかく子どもたちが楽しみにしていた”おでかけ”を中止して、往診に出かけていく。
「電報」(24―27頁)
※『東京物語』には、よく電報が出てくる。冒頭、尾道から東京へ出かけようとしている笠智衆と東山千栄子は、途中、大阪にいる三男の敬三が駅に迎えに出ているかどうかでこんな会話を交わす。「これだと大阪六時だね」「そうですか。じゃ敬三もちょうどひけたところですね。」「ああホームへ出てるだろう。電報打っといたから」
「将棋と囲碁」(32―35頁)
※小津安二郎の映画を見ていると、男たちがよく碁を打っている。『麦秋』、『秋刀魚の味』、『父ありき』。
「町の書家」(40―43頁)
※『東京物語』の十朱久雄の家は「代書」屋。
「日本趣味」(44―47頁)
※『晩春』のお見合い、『宗方姉妹』の田中絹代の日本趣味、『彼岸花』ではラジオで長唄。
「文金高島田」(48―51頁)
※『晩春』の原節子
「夜行列車」(64―67頁)
※『東京物語』、『東京暮色』

『Cinema Daisukiシネマ・ダイスキ』41集「小津そして/あるいはヴェンダース」(1996年8月5日発行、よみうりテレビ、14頁)

「Introduction」(2頁)
「第1夜 晩春」(3頁)
「第2夜 東京画」(4頁)
「第3夜 お茶漬の味」(5頁)
「第4夜 都会のアリス」(6頁)
「第5夜 浮草」(7頁)
「第6夜 左利きの女」(8頁)
中条省平「ヴィム・ヴェンダースから見た小津安二郎」(9頁)
西田宣善「80年代は小津とヴェンダースの時代だった」(10頁)

周防正行監督『サラリーマン教室』(1996年8月21日発売、TBS、カラー45分/モノラルHi-Fi)

製作年:1986年
スタッフ プロデューサー:佐生哲雄(松竹)
     原作:蛭子能収
     脚本:岩松了
     音楽:周防義和
     監督:周防正行
キャスト 柄本明、竹中直人、小林稔侍、山口美也子、上田耕一、蛭子能収(特別出演)
※発売日は、VHSレンタル版商品の発売である。
「たった一本の映画『変態家族・兄貴の嫁さん』を撮っただけの僕に舞い込んできたチャンス、それがTBSの新進ドラマシリーズの監督だった。とにかく僕らしく、思い切ったことをやろうと思った。そこで、『変態家族・兄貴の嫁さん』でやり残したことをテレビという枠組みの中でやってみることにした。つまりそれはもう一度「監督小津安二郎」にこだわるということだった。今思えば「なんと無謀な」と思うが、そうすることを許してくれたのは、とりも直さず、スタッフやキャストの皆の理解があったからである(周防正行)。

『映画研究誌FB』第8号(1996年12月20日発行、行路社、232頁)

沼田純子「論文 如是我聞『父ありき』」(152―174頁)
※構成は以下の通り。
「はじめに」、
「『父ありき』-題名の意味」、
「<教師辞職>と<父子別離>」、
「吉田のはどのように描かれているか」、
「<五輪塔>とそれに相通する形相の<もの>」、
「<こうもり傘>」、
「《死》を予兆・喚起する<もの・ことば・こと・音響>」、
「縁がなくて-縁がないとでもいうのですか」、
「塩原温泉における堀川の長口舌」、
「良平、無言の受諾」、
「堀川の<無言>、良平の<不問>」、
「臨終」、
「<夜汽車>と<行商風の女たち>との対応」、
「おわりに」

1997
『名匠 小津安二郎の世界』(1997年1月3日発行、銀座並木座、4頁)

表紙:「東京物語」
「映画の本棚 ”小津語録”」(4頁)

Edited by David Desser『Ozu’s Tokyo Story』(1997年発行、Cambridge University Press 、173頁)

「Frontmatter」(pp.i-vi)
「Contents」(pp.vii-viii)
「List of Contributors」(pp.ix-xiv)
David Desser 「Introduction: A Filmmaker for All Seasons」(pp.1-24)
Arthur Nolletti 「1.Ozu’s Tokyo Story and the “Recasting” of McCarey’s Make Way for Tomorrow」(pp.25-52)
Linda C. Ehrlich 「2.Travel Toward and Away: Furusato and Journey in Tokyo Story」(pp.53-75)
Darrell William Davis 「3.Ozu’s Mother」(pp.76-100)
Kathe Geist 「4.Buddhism in Tokyo Story」(pp.101-117)
Hasumi Shigehiko 「5.Sunny Skies」(pp.118-130)
「Filmography」(pp.131-144)
「Reviews of “Tokyo Story”」(pp.145-168)
「Select Bibliography」(pp.169-170)
「Index」(pp.171-173)

『エスクァイア日本版別冊Cine-Book Vol.1 Cinema&Interior』(1997年6月1日発行、エスクァイマガジンジャパン、155頁)

川本三郎「日本映画と昭和建築」(133―137頁)
※一部抜粋する。「昭和二、三十年代は日本映画の黄金時代だが、この時代の日本家屋は、いうまでもなくほとんどが木造、障子があり襖があり畳がある。食事は卓袱台を囲む。縁側がある。物干台がある。井戸がある家も多い。細い空間を多様に使って工夫する。同じ部屋が、布団を敷けば寝間になり、布団を押入れに片付ければ居間になる。寝る場所と食事をする場所が、同じひとつの部屋で足りてしまうなど、日本家屋ならではの工夫であり、西洋人が見たら魔術に思えるかも知れない。」(133頁)『東京物語』の杉村春子の美容院、原節子の同潤会アパート、『麥秋』の鎌倉の家、『早春』の淡島千景の家などの言及がある。

『The Complete Ozu 小津安二郎の世界』(1997年6月25日発行、東芝EMI株式会社)

 日本が世界に誇る名匠、小津安二郎の世界をCD-ROM1枚に凝縮しました。「映画ダイジェスト~全作品完全解説」では全54作品中32作の一部および、6作品の予告編を完全収録。「キャスト~小津映画出演者プロフィール(106人)」「スタッフ~小津組スタッフプロフィール」では、撮りおろしインタビューをはじめ、二度と入手できない貴重なデータを満載。「小津安二郎の東京~小津の愛した東京アクセス・マップ」「小津を語る~インタビューと愛用品スライドショー」では、誰も知らなかった小津の素顔に迫ります。
 そしてさらに、ドナルド・リチーの名著「映画の中の日本~小津安二郎の美学(訳:山本喜久男)」をまるごと一冊収録。詳細な脚注と訳注、動画やサウンドを総動員し、エキスバンドブックの魅力をフル活用しています。

村川英編『成瀬己喜男演出術 役者が語る演技の現場』(1997年7月1日発行、ワイズ出版、253頁)

高峰秀子、香川京子、杉村春子、岡田茉莉子、司葉子が、それぞれ成瀬監督と小津監督の演出を比較して語っている。

『東京人』1997年9月号「特集 小津安二郎 汲めど尽きぬ映画の泉」(1997年9月3日発行、(財)東京都歴史文化財団、166頁)

「『お茶漬の味』監督使用台本」(20頁)
「『秋刀魚の味』監督自筆絵コンテ」(21頁)
「『戸田家の兄妹』撮影スナップ(22‐23頁)
青木富夫「突貫小僧、かく語りき」(聞き手=山根貞男)(24‐31頁)
筒井武文「小津流演出の“味”。映画に文法はない。」(34‐39頁)
森田祐三、堀家敬嗣「『東京大学厚田文庫』誌上公開。名キャメラマンの遺品から。」(40‐44頁)
三宅邦子「足の裏まで小津映画」(聞き手=厚田雄春・蓮實重彦)(47‐53頁)
「鏡に向かって撮られたセルフ・ポートレート」(54‐55頁)
川本三郎「いまひとたびの『東京物語』」(56‐63頁)
冨田均「ロケ地で綴る東京クロニクル」(64‐71頁)
重金敦之「監督自筆のグルメ手帖」(72‐75頁)
須賀不二男「小津おやじは日本映画の大旦那である」(聞き手=田中眞澄)(76‐83頁)
武藤康史「里見弴と小津安二郎」(84‐89頁)
坂尻昌平「渋谷実という映画監督。もうひとりの笠智衆をつくった男」(90‐95頁)
「北鎌倉の家で母あさゑと」(96‐97頁)

「第3回小津安二郎・青春のまち大賞 生れてはみたけれど」(1997年12月12日、飯高町・飯高オーヅ会)

第3回小津安二郎・青春のまち大賞 メッセージ募集!
生れてはみたけれど
🔶小津監督と飯高町
 映画界の巨匠小津安二郎監督は、映画界に身を投じる前年の1年間(1922~1923年)を、三重県飯高町で小学校教員として過ごしました。当時の小津監督を知る教え子たちの回想によると、型にはまらない独特な教育方法が好評で、生徒から「オーヅ先生」と親しまれていたようです。こうした小津監督への敬意と親近感を、何かの形のあるものとして残したいと考え、「小津安二郎・青春のまち大賞」を創設しました。
 あた、当時の教え子が中心となって「飯高オーヅ会」が結成されました。オーヅ会では小津監督の命日(12月12日)に監督を偲ぶイベントを開催したり、映画の上映会を定期的に行うなどの活動を行っています。

1998
Shigehiko Hasumi 『Yasujirô Ozu』(1998年発行、Cahiers du cinéma : Diffusion Seuil,238頁)

「Preface」(9-12頁)
「Introduction」(13-20頁)
「Ⅰ.NIER」(21-38頁)
「Ⅱ.MANGER」(39-58頁)
「Ⅲ.SE CHANGER」(59-82頁)
「Ⅳ.HABITER」(83-112頁)
「Ⅴ.VOIR」(113-146頁)
「Ⅵ.S’IMMOBILISER」(147-182頁)
「Ⅶ.BEAU TEMPS」(183-212頁)
「Epilogue」(213-228頁)
「Filmographie」(229-233頁)
「Index」(235頁)

『エスクァイア日本版』Cine-Book Vol.4(1998年1月1日発行、エスクァイアマガジンジャパン、151頁)

「小津安二郎の「料理屋」」(130-139頁)
「麺」(132-133頁)
「揚物」(134-135頁)
「飯」(136-137頁)
「洋食」(138頁)
「甘味」(139頁)

『マップルマガジン鎌倉・湘南’98』(1998年1月1日発行、昭文社、160頁)<