蓮實重彦・山田宏一『トリュフォーそして映画』(1980年8月10日発行、話の特集、209頁)
フランソワ・トリュフォー:私は、昔、もう十七、八年前(1963年日仏交換映画祭)になりますが、小津の映画を一本だけシネマティークで見て、何がなんだかさっぱり分からなかった。人物たちがいつも座ったきりで、何か飲んだり食べたりしながら、無気力にポツリ、ポツリと喋っている。カメラは据えっぱなしだし、何もかも無気力な印象を受けました。
ところが、最近(1978年)パリで小津の映画が何本か公開されて、『秋日和』とか『東京物語』だとか『お茶漬の味』といった作品を連続してみて、たちまちそのえもいわれぬ魅力のとりこになってしまいました。日本映画は私たちにとっては、単なるエキゾチズム以上に、非常に神秘的な感じがするのですが、小津の作品ほど不思議な魅力に満ちた日本映画は見たことがありません。
フランソワ・トリュフォー:日本的と言えば、これほど日本的な映画もないのでしょうが、それ以上に、私にとって最も不思議なのは、その空間の感覚です。空間と人物の関係、といったほうがいいかもしれない。二人の人物が向かい合って話しているようなシーンがしょっちゅうあって、カメラは盛んに切り返すわけですが、どもこれがにせの切り返しというか、奇妙な切り返しまちがいの印象を与えるのです。小津の映画でカメラが動くことはないのですが、もしカメラが対話をしている二人の間をパンでとらえるようなことがあったとしたら、二人はじっと同じ場所に座っていないで、しょっちゅう場所を変えているに違いないというような印象を与えるのです。普通、向かい合って話をする二人をカメラが切り返しによってとらえる場合には、原則として同じ位置で、つまりこちら側だったらこちら側で、向こう側だったら向こう側で、切り返すわけです。つまり、パンするのと同じことになるわけです。ところが、小津の映画では、例えば一人をこっち側からカメラがとらえたかと思うと、次に相手を向こう側から切り返してとらえるような印象を受ける。これは印象ではなくて、そうしたとしか思えない意図的な演出のはずで、見る側としては、一人の人間の視線を追っていくと、実はそこには相手がいないのではなかという不安に襲われてしまう。カメラが切り返すたびに、そこにもう対話の相手がいないのではないかという‥。(9-10頁)
※このインタビュー(というか鼎談)は、お蔵入りになっていた『緑色の部屋』が岩波ホールで公開されることになり、その宣伝のために、フランソワ・トリュフォーが来日した、1979年12月に、三人で歓談した時のものである。