全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

尾崎宏次『戦後のある時期』(1979年3月31日発行、早川書房、202頁)

「九か月ほどいたシンガポールで、私は二人の知人にあい、一人の友人にあいそこなった。
 司令官官邸の警備が終って、その日は官邸内のプールで遊ぶことになった。夕陽が沈むころになると、南の空は赤と紫の絵具を散らしたような色になった。少し高いところにあるプールへ、階段を上がっていくと、誰もいなかった。兵隊がどやどやあがって腰をおろすと、その誰もいないと思ったプールんのまんなかへんに水がゆれて、抜き手でこっちへ泳いでくる人がいた。波紋が底に映るようであった。その人は偶然私の目のまえにあがった。私は胸がどきんとうったような気がした。
「小津さん」
 思わず大きな声をだした。小津安二郎の大きな体と笑顔があった。短い話をした。毎日こんなことをしているよ、と言った。私たちは、小津監督が映画をつくるために南方へ派遣されたということをはやく知っていたが、かれはひとこまも撮らずに終った。私はそのとき、プールにひとり浮いていた小津安二郎に無言のレジスタンスを見たと思った。戦後出版された『小津安二郎』という大型本に元軍人が、もう少し長くいたら彼は傑作をつくったであろう、ということを書いていたが、追悼にもならない愚文だと思った。」(6-7頁)

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