城戸四郎『日本映画傳 映画製作者の記録』(1956年9月20日発行、文藝春秋新社、268頁)
表紙:淡島千景、城戸四郎、小津安二郎
「小津安二郎と天井」(74-76頁)
※一部を紹介する。
「小津安二郎は、僕が洋行前の昭和二年八月に、大久保忠素の助監督から一本立ちになって、はじめは二巻物の短篇喜劇を作っていたが、「肉體美」(昭和三年)の頃から、所謂小市民ものをやるようになって、批評家に評判がよく、僕がアメリカから帰った頃は、些か得意の時であったが、これは要するに、その頃は不景気だったから、左翼思想がはげしくなって来ているのだ。それは大正の末期からつづいたが、そのころはー現に僕がソヴェートに行って来たくらいだから、日本政府は思想的には押さえていたけれども、漁業その他の関係でソヴェートと付き合っていたわけだ。そこでソヴェートの共産主義思想が、日本の一部の学生や若い人達の間に浸潤して行って、映画界でも辻吉郎の「傘張剣法」だとか、内田吐夢の「生ける人形」のような傾向映画が流行していた。」
「小津は以前からそうだけれども、どっちかというと意地が悪く、自然それが、彼の個性となったのだが、今までの蒲田調というものが、小津としては安手に見えたのだろう。社会との安易な妥協がありすぎるという見解に基づいて、自分だけはもっと體当りをしてみようという考え方を持った。小津の態度の中に、そういうことが感ぜられた。小津がカメラを疊の上にジカに据えて、広角で日本の座敷をとらせたことは、小津の創案として、日本の映画に一つのスタイルを作ったが、彼は元カメラマンから転向して監督になったので、カメラのポジションには特別のセンスがあったわけだろう。僕は、カメラを疊の上にジカに持って行かなくても、照明の工合でも立体感は出ると思うのだが、しかし少なくとも、彼がカメラが下へ持って行ったために、セットに天井をつけなければならなくなったことは事実だった。ほかの監督ほど天井を使わない。小津は下から仰がざるを得ないから、今までのセットにない、天井までつけなければならなくなった。」