『高田保対談集 二つの椅子』(1950年6月20日発行、朝日新聞社、358頁)
装填・挿画:清水崑
「17 小津安二郎・野田高梧」(317―334頁)
※一部抜粋する。野田「君は近ごろの撮影所なんて、あまり覗かんだろう。時折りはやって来給えよ。面白いんだ。小津組の撮影の時なんか見ていると、「もうチョイ鎌倉」とか「もうチョイ東京」というふうなことを言ってるんだ。何のことか分かるかい。」高田「「いざ鎌倉」なら分かるけれども、「いざ東京」なんて判らん。(笑)。野田「撮影所のあるのが東海道の大船だろう?だから「チョイ鎌倉」は鎌倉の方角へちょいと寄せろという意味なんだ。つまり方角だよ。壁に囲まれた撮影所の中では、東だの西だの言っても通用しない。」小津「右とか左とかいってもね。こっちからいう右なのか、向うからいう左なのか、こんがらがるんでね。」、
小津「ぼくが松竹へ入ったのは震災ちょっと間でだったが、あの当時三十を越してた人は野村芳亭さんだけで、ほかにはいませんでしたね。ぼくは二十歳であそこへ入って、それから兵隊に行ったんだ。うちじゃ、どうしても学校へいって勉強しろといって許さなかったんだが、学校へ入るだけの金を使わせてくれるなら、活動屋にして使わせろといって頑張ってね。やっぱり頑張らなければ通れない道でしたよ。その頃うちのおばあさんが映画館へいって、島津さんの作品を見たんですね。それでね。「うちの安二郎は活動屋になったが、やっぱり活動屋なんて恥かしいとみえて小津安二郎という名前を島津保次郎と変えてたよ」といったそうです。(笑)高田「で、おばあさんはその後に島津保と小津安の区別を知ったの?」小津「いや、知らずに死んでしまった。」
高田「そこですよ。何の雑誌だったかで君の肖像写真を見たら、君は茶室の炉端でキチンと座り込んで、陶器か何か、とにかく骨董をいじくってるんだ。それを見てぼくは、こういう骨董の美というような味の不かいものを映画に持ち込もうとしたら、ずいぶん困るんじゃないかナと考えた。」小津「だから私は日本人の生活を撮りながら、床の間というものを出したことがないんですよ。床の間を画面に入れないんです。」