全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

『週刊朝日』第54巻第52号通巻1563号(1949年12月25日発行、朝日新聞社、34頁)

小津安二郎・野田高梧(絵・清水崑)「高田保・連載対談 二つの椅子 第十七回」(30-33頁)
※一部を紹介する。
「野田 君は近ごろの撮影所なんて、あまり覗かんだろう。時折りはやって来給えよ。面白いんだ。小津組の撮影の時なんか見ていると、「もうチョイ鎌倉」とか「もうチョイ東京」というふうなことを言ってるんだ。何のことか判るかい。
高田 「いざ鎌倉」なら判るけれども、「いざ東京」なんて判らん。(笑)
野田 撮影所のあるのが東海道の大船だろう。だから「チョイ鎌倉」は鎌倉の方角へちょいと寄せろという意味なんだ。つまり方角だよ。壁に囲まれた撮影所の中では、東だの西だの言っても通用しない。
小津 右とか左とかいってもね。こっちからいう右なのか、向うからいう左なのか、こんがらがるんでね。
高田 そういう無鉄砲な新語を無遠慮に出すのは、撮影所人種が第一だったんだが、近ごろはどうかね。昔の蒲田時代に比べると、今もやっぱり盛んかな。
小津 そりゃあ蒲田時代の方が滅茶だった。あの頃のは傍若無人だったから。
高田 新語というやつは生活力の旺盛な所から自然発生的に出るものなんじゃないかナ。だから新語の生産が今一番激しいのは世界中でアメリカだというけれども、アメリカは生活力が旺盛だからなんだナ。
小津 蒲田時代を考えますとね、撮影所の連中の平均年齢が今とまるで違ってるんです。今の監督といえば殆どが四十代だが、昔は二十代でしたからね。助監督といっても、今は三十五、六が多いですよ。しかし蒲田時代は女房がいて子供が二人もある助監督なんて、夢にも考えられなかった。」

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