全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

『映画旬報』第二十四號(1941年9月1日発行、映画出版社、62頁)

表紙:「桜の國」水戸光子
「至道院四回忌」(22頁)
※一部引用する。「至道院殉山貞雄居士の四周忌も近い。右の碑文は三周忌法要に際して建立される筈の碑のためのものである。文は、日本映画雑誌協会理事長田中三郎のものとするところ。之を小津安二郎が執筆した。天才的映画人であった山中貞雄の麗もこの碑を贈られて、定めし地下に微笑むであろう。」以下、碑文全文が掲載されている。軍服姿で歩兵銃を持つ「在りし日の山中貞雄監督」。
「小津安二郎 人と藝術」(25-30頁)
岸松雄「人間即映画」(25-26頁)
※一部引用する。「‥ところが帰還した小津安二郎を迎へた時、私はおやおやと思った。見たところ出征前とあまり変っていない。マラリヤのため少し痩せたと言うが、それとても際立ってどうかうということはない。話をしても戦争の話ひとつするでなし、他愛ない雑談に時のうつるのも忘れるほどであった。どこにも昂奮の様子が見えない。大陸で結んだであろう映画の夢、それすらもうすつかり戦塵と共に洗い落したかのようである。盃をあげてその無事を祝し酔うて小説界の近状に及べば、里見弴はますます立派であり志賀直哉はいよいよ偉いをくりかえす。小津安二郎は変わらない、と私に思わせる。そこが変ったところである。ありていに言えば、小津安二郎は変わった。ただその変り方がいかにも彼らしい変り方をしたまでのことである。職場という巨きな舞台を通って来ながら肩ひとついからすでなく眉毛一つ吊り上げるでもない。昔通りの小津安二郎である。むしろ彼にも亦多くの人と同じような或る種の目立った変り方や昂奮を期待していた私の方によりいやらしいジャーナリ屋的な気持が動いていたことを恥じる。しかも彼はこんなような迎え方をした私を別段怒るでもなく、今年から俺は年に四本撮るつもりだよと嘯くようにいうのである。フィルムの潤沢な時でさえ、寡作をもって聞こえたこのひとが今時こんなことをいったって、ひとびとは冗談事のようにおもふかもわからないが、戦争に征く前にだって彼はよくそんなことをいっていたものだ。こんなわけで戦地から帰って来た小津安二郎から私はいまだによく戦争の話も訊いていなければ戦争映画の抱負もきいていない。戦地に於ける蚤について書いた随筆がさきごろ朝日新聞に載っていたが、それは恐らく彼が帰還後に書いた二、三の文章のうちの一つにちがいない。帰って来てからもう二年もたっているというのに文章でさえ碌に発表しようとしない。そういえば、彼は「映画界には言葉が多すぎる」といっている。」
中村武羅夫「小津安二郎氏の芸術」(26-27頁)
内田岐三雄「断章-小津安二郎-」(27-29頁)
※一部引用する。「小津安二郎が文をよくすることは、既に知る人も多いであろうが、かつて「映画往来」の編輯に僕が関係していた自分、僕の乞いを容れて、二度寄稿してくれた。その時の筆名は乙雀。撮影所内の愛称小津ちゃんをもじっての二字。これも助監督時代のことである。」
清水崑画「小津安二郎像」(28頁)
筈見恒夫「「父ありき」について」(29-30頁)

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