全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

『映画往来』第二十六號(1927年2月1日発行、89頁、キネマ旬報社)

乙雀「鶏肋戯語」(44-46頁)
※これは、田中眞澄氏が発見したものである。田中眞澄氏の「ボクシングのお話」『小津安二郎周遊』(文藝春秋社、2003年)から引用する。「乙雀とは何者か。おそらく小津安二郎の隠れ蓑と推定した。即ち、「雀」はスズメではなく、麻雀のジャンに通じる。乙雀は、彼が一九二三年八月に松竹キネマ蒲田撮影所に入社して以来、修正仲間うちで愛称として呼ばれた「おっちゃん」に文字をあてたものなのである。成瀬巳喜男、愛称みきちゃんが若いころ、三木池畔の名前でシナリオを書いたのと同じ発想。但し、小津が乙雀の名前を使ったのはこの時限りであった。ヒントは、一九二五年の松竹蒲田映画『麻雀』にあり。蒲田の女王、悲劇のヒロイン栗島すみ子の主演作なのに本邦最初の長篇ギャグ・コメディでもあるというこの映画(題名も同年公開のグロリア・スワンソン主演『蜂雀』のもじりなのだが)の監督は大久保忠素。小津はやがて大久保の助監督となるが、この時期は兵役にとられていた。しかし、彼が同じ蒲田の奇抜な話題作を知らなかったはずはない。そこで、乙雀=小津安二郎と認定するならば、小津が監督に昇進するのは一九二七年の秋だから、彼はまだ助監督であり、管見の限りでは彼の活字になったまず少ない文章の最初のものということになる。「鶏肋」という言葉に彼らしい韜晦(とうかい)のポーズは早くも明らかである。」(同11-12頁)
「しかしここでは、この出発以前の小津、つまり当時は一介の無名の助監督に過ぎなかった男に、今に残る記念碑的な文章を書かせた仕掛け人の功績に、注意を喚起しておくべきではないかと思う。その人物が、映画批評家の内田岐三雄(きさお)であることは、疑う余地がない。キネマ旬報社員、『映画往来』同人。本名内田胖(ゆたか)。冒頭に引いた岩崎昶の文章に出てくる亡友である。終戦直前に空襲で死亡。小津より二歳年長の一九〇一年生まれ。」(同29頁)

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