全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

『日本映画』第七巻第六號(1942年6月1日発行、大日本映画協會、176頁)

「小津監督に物を聴く対談」(小津安二郎氏、上野耕三氏)(54―68頁)
※一部抜粋する。上野「『戸田家の兄妹』の主人公が最後の方で殴るところがありますね。私の聞いた範囲では大陸に一年やそこら行ったからとて、大陸風を吹かして殴るようないやなやつをそのまま出すということは、作家として怪しからぬじゃないかという意見が非常にあったのですね。そう言われて見ると、大陸風を吹かして殴る、成程、きざかな?という気も一寸したのですが、しかし、あれがあるので実は胸がすっとしたわけです。ああいう批評に対していろいろ考えて見た訳ですが、大陸風を吹かしてあそこで殴るというのではなしに、最初の場面で写真を撮るところからあの男があのまま殴ってもいいような人間として出されているじゃないか、そういうことを私は感じたわけです。それについて小津さんに何か語って貰うというのは、要求する方が無理かもしれませんが、ああいう風な一般の批評界の空気に対してどういう風にお考えておいでですか。」小津「やはり、大陸に一年言って来たから殴るというのでなしに、もともとあの男には、どこか一面に野性的なものを持たせたかったのです。これは僕の好みから云って、出て来る人間がどちらかと言えば、まあ欠点の少ない人間で、一見甚だ円満に見えて、努めてその円満なことを一つの処世術だと心得ているような、何と言いますか、昔小学校で級長をしていた、未だにまだその級長面の抜けない常識的な男を人間としてあまり好まないのです。」(54―55頁)
※現存する『戸田家の兄妹』のフィルムには、脚本にもある昌二郎が綾子の頬を打つシーンはカットされている。
他にも、小津「オーバーラップは嫌いですね。これはフェード・イン・アウトなどと較べて遥かに嫌いです。あの映画のオーバー・ラップはよかったという外国映画を見ても一向に感心しません。強いて言えば、無声時代のルービッチの『結婚哲学』の女同志の会話とか、チャップリンの『巴里の女性』での壁にかかった額などの使用法が最上のもので、僕も初期の『會社員生活』というのに一度使いましたが、使えば仲々便利で、まことにそれは簡単な方法ではあるけれど、どうも感心した技法ではないと思うのです。」(56―57頁)
伊丹万作「洛北通信」(74―78頁)
※「父ありき」の音声が聞き取りにくいことについて書いている部分がある。一部抜粋する。「私が、『父ありき』を観たのは、京都では一流の館であり、座席も一番上等の場所であったが、それでも聞き取れないせりふの方が多かった。声は絶えずわんわんと耳朶を打っているのであるが明瞭に意味の通じない場合が多いのである。そして一番判りにくいのが肝腎の父親のせりふであったため、私は非常に疲れてしまった。」「次に、口に合っていない部分が所々にあったことについては、これが日本で最も良心的な監督と言われる小津君の作品だけに私は非常に憂鬱なのである。」(77頁)
「父ありき」のフィルムの音の不明瞭さは現在でも際立っている(ゴスフェルモフォンド版はいささかましである)が、当時から、音声が聞き取りづらかったことが伊丹の指摘で分かるところである。伊丹は1900年1月2日生まれで、小津監督の学年で3年先輩である。
松浦晋「昭和十七年度春期 技能審査雑感」(102―105頁)
カット「左より佐分利、小杉、小津、一人置いて南部の各審査員」(103頁)
石川純「新聞映画欄側面月評 「父ありき」」(106―108頁)
樋口周一「観客の声」(109頁)※「最近見た数本の映画の中から、小津安二郎氏の力作「父ありき」を選出し、検討したいと思う。

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