『キネマ旬報』No.1162(1963年9月1日発行、キネマ旬報社、144頁)
表紙:カレン・スティール
「ベルリンの小津安二郎映画」(45-46頁)
ベルリン映画祭で話題をよんだ小津安二郎作品展の模様を現地からドナルド・リチィ氏の報告を中心にさぐる
※冒頭を引用する。
第十三回ベルリン国際映画祭は、あまり成功とはいえなかった。現地の新聞クルフルシュテンダム紙は今度の映画祭について「ベルリン映画祭をなぜフィルム・フェアとよぶことにしないのだろう-しばらく前から既にフェスティバルではなくなっているのに‥」と書いた。
映画の商談も低調だったようだし、映画祭に参加したミケランジェロ・アントニオーニやスーザン・コーナーといった人たちも、一日か二日いただけで他のもっともしろい場所に行ってしまった。
だがそれだけに、こんな状態の中で、日本以外にはほとんど知られていない小津安二郎の映画が六本が上映されたことは、おおきな効果を生み出した。その六本の映画とは、昭和七年に作られたサイレント映画「生まれてはみたけれど」と戦後の「晩春」「東京物語」「早春」「お早よう」「秋日和」である。このうちヨーロッパで上映されたことのあるのは「東京物語」だけで、この作品はパリ・シネマテイクの世界映画ベスト・テンに入っている。
この作品展のプランをたてて上映前の解説者の役をつとめサイレントの「生まれてはみたけれど」上映の際はピアノ伴奏までやってのけたドナルド・リチィ氏も、アントニオーニ作品についで難しいという世評もある小津映画が、どんな反応をヨーロッパの観客の間にひきおこすかについては、多少の懸念がなくはなかったようだ。
しかし、六つの作品上映中に席を立ったものは一人としていなかったし、だれ一人眠った者もなかった。そして笑いをよぶ場面では間違いなく笑い声がわきおこり、「晩春」と「東京物語」のラスト・シーンではあらゆる観客が涙を浮かべた。
一作品一日に外の上映が終わるたびに、観客は立ち上がって盛んな拍手を送った。映画祭の作品展では、今まであまり例のなかったことである。そして評判は口づたえにひろまり、会場はぎっしり人で埋まった。
西ドイツ最大の新聞ディ・ヴェルト紙は、「今年のベルリン映画祭は無駄になるところだったが、オヅ作品展がそれを救ってくれた」と書いたし、ミュンヘンとハンブルクの新聞は小津安二郎についての長文の記事を載せ、ラジオ・ベルリンでヴェルナー・シュヴァイルという評論家は、「オヅ監督は今年の映画祭で真に観客を感動させた。偽りのない作品こそが、ドイツにあっても、日本にあっても、批評家からも一般のひとびとからも迎えられるものである」と放送した。
なかでも、もっとも強い影響をこの作品展から受けたのは、若い映画批評家や若い監督たちである。「今、正解には、まったくユニークな映画のスタイルが二つある。一つはアントニオーニ、もう一つはオヅだ」と、カイエ・デ・シネマの若い記者は言った。「オヅはカール・ドワイエルそっくりだ。自分の描きたいものを描くただ一つの方法を彼は心得ている」という意見もあった。