『オール松竹』(1940年10月1日発行、映画世界社、112頁)
表紙:田中絹代
「帰還勇士ハリきる 小津安二郎」(16頁)
事変が始まると同時位に出征した小津安二郎、戦線にあること二年半、
帰還してから一年三か月「お茶漬の味」が中止となって、改めて新作は
鋭意傑作を作り上げようと努力していたが、此のほど池田忠雄の脚本
を得て「戸田家の兄弟」を演出する事になった。
眞木潤「小津安二郎氏に」(30-31頁)
「昨夜の夕刊を見ると、あなたの帰還第一回作品は池田忠雄氏執筆の「戸田家の兄弟」と決定、厚田雄春氏のカメラで撮影に着手するむね発表されてありました。「お茶漬の味」が中止になったので、私たちもこれでようやく何年目かにあなたの作品に接することになったのですが、私一人の気持ちを言えば、まるでもうそはそはしながらその完成を待っていると言ってもいいのであります。こういうことは何もあなたに直接の関係はありませんが、私は映画を見る目を実に多くあなたの作品から教わって来ました。もし今日の私がいくらかの映画論を持っているとすれば、それはサイレント期からの小津安二郎監督映画に負うことが少なくないのです。」
さよなら後記
〇「オール松竹」の前進「蒲田」を創刊したのは、私が紺絣(こんがすり)の着物が似合う年頃だった。満十八年と三ヶ月、號を重ねる事ニニ〇號、日本映画雑誌中では最古参のキネマ旬報に次ぐ歴史を持つ本誌である。日本映画雑誌中最大の発行部数を誇った事もある本誌である。その本誌を、突然止めなくてはらなくなった。映画世界社として政府の新体制に沿う為の意に他ならない。読者諸兄姉よ、よくも今日まで本誌を慈しみ育てて下さった。お別れに際して深く感謝致します。(橘弘一路)
〇「オール松竹」が今月號を以って終刊となる。思えば創刊以来十八年、げにも恙(つつが)なく愉しき旅路であったもを‥‥。哀(ママ)別離苦とでもいうべきか。ただただ愛惜の念に堪えず。惟(おも)うに編集長として同誌を愛育して来たつた矢野健兒君の感慨たるや、切々として別れるに忍び難きものがあるのであろう。それを想う時暗然となる。然し今は個人的な感傷に浸るべき秋ではない。健ちゃんよ。別れていくものに元気に別れの挨拶を交わそうではないか。(大黒東洋士)
〇何とも言いようのない感慨にふけり乍ら、この後記を認めます。さぞや突然の事で驚きの事と思います。私自身でさえが驚いているのです。長い事よくこそご愛読下さいました。大きな時勢の変りです。なべて自粛の秋です。一雑誌の成敗など微々たることにすぎないというのです。長年、手塩にかけて来た本誌、去られたくないという気持ちの切なるものがありますが、既にして萬事は休したのであります。ああもし、こうもしたいと、本誌の今後への熱意は益々熾烈なるものがあったのでありましたが、諦念、一切苦を無にして、「映画ファン」へ合併し、第二の出発を計ります。盡(つ)きぬ別れを残して「オール松竹」は風と共に去ります。(矢野健兒)