全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

『大衆文芸』第四十六巻第四号(1986年4月1日発行、新鷹会、58頁)

棟田博「シンガポールの小津安二郎」(24-26頁)
※冒頭を紹介する。
 自分が生れた同月同日に亡くなった人は、これまでぼくの知人の中では一人しかいない。
 映画監督の小津安二郎氏がそうであった。「オッちゃん」が、生れたのは明治三十六年十二月十二日で、病死したのは、昭和二(ママ)十八年十二月十二日、ということは、満六十歳誕生日、つまりちょうど還暦の日にあたる。
 腮源性癌腫であった。
「オッちゃん」などとぼくは心安(こころやす)だてに呼んでいたが、それほど深いつきあいではなかった。しかし、小津さんでも、小津先生でもぴったりしない。やっぱりオッちゃんがいちばんふさわしかった。
 あれは、昭和十八年の秋ごろだった。当時、ぼくは大本営陸軍部の報道班員で、しばらくジャワに草鞋(わらじ)を脱いでいたが、昭南市(シンガポール)から来た日映の友人から、小津さんが昭南に来ていると聞いておどろいた。
 前年、小津さんは、「戸田家の兄姉(ママ)」を発表し、この年、「父ありき」を世に問うていた。これはぼくが南方に来ていたので、まだ見ていなかったが、評判は、仄聞していた。
 日映の友人の話では、
「なんでもインド独立軍の映画を作ってくれという南方総軍の要請で、シナリオの斎藤良輔、カメラの厚田碓(ママ)春を伴って来ているそうですよ」ということであった。
 ぼくは少し腑に落ちない気がしたが、しばらくして昭南市に行ってみると、なるほど小津さんは、当時、シンガポール唯一の高層ビル、キャセイホテルの九階に腰を据えていた。当時には英軍が残していったスコッチウイスキーが、バニヤバニヤ(マレー語で沢山の意)あり、それにオランダのエダムチーズが、これまたバニヤバニヤあって、小津さんを満悦させていた。で、飲みながら詳しい話を聞いたが、ぼくは内心で首を傾けないではおられなかった。
 彼が撮ろうというのは、ヒンドスタニー語で「チャロー・デリー」、日本語で言えば、「進めデリーへ」といい、印度独立の志士、スバス・チャンドラー・ボースひきいるI・B・C(自由インド独立義勇軍)が、日本のインパール作戦軍と手を携えて祖国の首都デリー目指して進撃するという、つまり軍のプロパガンダ映画であった。
 小津安二郎は歩兵軍曹で、中支で転戦した経歴を持つが、少なくとも今日までの小津映画を知る者には、この企画は小津向きと思われない。もっといえばお門違いだ。‥」

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