全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

『映画撮影』No.70(1980年1月20日発行、日本映画撮影監督協会、82頁)

厚田雄春「桃栗三年、柿八年(談)」(16-17頁)
特集「イーストマン・コダックの100年」イーストマン・フィルムとのふれあい‥3
※冒頭を紹介する。
 私はキャメラマンになったのが遅く、戦争でそろそろイーストマンのフィルムがなくなった頃に一本立ちになったので、イーストマンを通して使ったことはありません。助手時代が長く、桃栗三年、柿八年、厚田雄春十五年といってくさらずがんばっていました。
 松竹に入ったのは、大正11年です。当時は演劇興行の松竹合名社と活動写真の松竹シネマの二本立で、シネマの方に入りたかったのですが、姉の反対で合名社に入りました。当時は会社の組織も小さかったので、城戸さんとも平気で話ができる雰囲気でした。それでお願いして、城戸さんが震災後蒲田の所長で行く時に、一緒に連れていってもらいました。
 蒲田にいってからは、城戸さんのお宅においてもらいました。奥さんに、学校にゆくようにいわれましたがきらいで、撮影所のいろいろな手伝いをしていたんですが、そのうちに中村登監督のおじさん中村正夫キャメラマンがきさくな人で、この人の組について撮影助手をやらせてもらうことになりました。
 今でもそうですが、最初はフィルム係の助手です。ちょっとやって入営しました。大正十四年兵です。兵隊から帰ってもえんえん助手をやりました。
 入営中、外出して見た蒲田映画で、小田浜太郎さん撮影の作品だったと思いますが、空に浮かんだ雲が写っているのを見てビックリしました。どうして撮影したのかなあと思っていましたが、満期除隊後、これがパンクロという新しいフィルムだということを聞かされました。
 兵隊から帰ってからは、もっぱら茂原英雄さんの助手をやりました。茂原さんは当時キャメラマンになりたての頃で、助手は栗林実氏と私の二人だけでした。偉いキャメラマンは、組づきの助手が三人も四人もいていばったものでした。
 フィルムは、もちろん、イーストマン・コダックのもので赤色に黒文字のラベルが貼ってありました。パンクロが出廻っていましたが、オーソよりちょっと値段が高かったので、作品全体に使うというよりオーソを使っていて、ここだけはパンクロでいきたいというところだけ、パンクロにしていたようです。その結果、仕上がりの調子が揃わなくて苦労していました。会社は、この頃からフィルムにケチで、予算をきびしくいったんです。

最新の記事

カテゴリ

月別に見る

このホームページ内のテキスト・画像の無断使用はご遠慮下さい。