表紙:「東京物語」
「映画の本棚:「絢爛たる影絵」高橋治著」(4頁)
「東京画」(148-160頁)
「小津安二郎 映画監督へのきっかけは停学処分」(165―198頁)
「三回以上は観たい映画が、ある。
観るほどに芳醇に薫る巨匠・小津の傑作12本をレーザーディスクでコレクション。」
「小津監督作品をどう見るか」(15―22頁)
「見事な先人」(22―23頁)
「小津の戦争」(23―24頁)
「皇帝の兵」(24―25頁)
「シリーズ人生の達人 小津安二郎」(57―67頁)
「東京深川生まれ 中学二年で映画監督を志す」(58―59頁)
山下登久「優しかった兄、やっちゃん」(59頁)
「『生まれてはみたけれど』から『晩春』、『東京物語』へ」(60―62頁)
厚田雄春「小津組の”キャメラ番”」(60頁)
岡田茉莉子「父の友人、そして監督」(62頁)
高橋治「不思議な師」(63頁)
「しごとの合間に描き続けた絵」(64頁)
「自他共に認める酒豪 交友も幅広かった」(65頁)
山内静夫「小津監督の思い出」(65頁)
「特集①小津安二郎の東京下町案内」(22―37頁)
厚田雄春「小津監督は、下町っ子ですからね、舞台に山の手はあまりないんです」(23頁)
「はとバスツアー」(24―25頁)
「浅草」(26―28頁)
「佃・月島」(29頁)
「深川・門前中町」(30―31頁)
「人形町・浅草橋」(32―33頁)
「谷中・根津・千駄木」(34―35頁)
「東京土産」(36―37頁)
「限りなき前進 原作:小津安二郎」(31-36頁)
※冒頭を引用する。「小津安二郎が原作を提供し、八木保太郎がシナリオを書き、内田吐夢が監督をする。それは当時の日本映画にとって、一つの喜ばしい驚きだった。松竹の監督が思い描いた題材を日活の信頼できるスタッフに手渡し、それがひとつの作品となる。当時は今では考えられない程、映画製作はひとつの会社だけで完結し、移籍でもしなければ、他社の監督と話し合う機会すらなかった。しかもこの時期、小津安二郎はベストテン監督として、1作ごとに緻密な作風にみがきをかけ、内田吐夢は日活多摩川に入社以来(1935年)、脚本家の八木保太郎と組んで骨太な文芸映画の力作、問題作を発表していた。このような日本映画をリードする人々が、会社を越えて1本の映画作りに参加する。それは驚きであると同時に、象徴的な意味さえ持っていた。」続く。
巻頭グラビア「日本映画監督協会発会式」集合写真(小津監督他)、その夜の宴会 創立メンバーの寄書(小津監督他)、「月は上りぬ」(電電公社校舎幹部との会合、小津監督他)、「京都での総会」(小津監督他)、「再建10周年記念祝賀会」(小津監督他)、「第二回NGまつりの席上、小津理事長から新人賞を受ける大島渚」。昭和32年に事務局長に就任した著者が、日本映画監督協会の歴史を振り返る。小津監督は、創立メンバーで、昭和30年2月の役員改選で、理事長の東西交互論があり、溝口健二理事長に替わり理事長となる(95頁)。
「小津理事長の死」(121-123頁)
後藤淑「巻頭随筆 能と小津安二郎作品」(24頁)
第8回名作無声映画を見る会
日時:平成4年6月3日(水)
会場:名古屋市芸術創造センター
弁士:澤登翠 企画・構成:森卓也
「浮草物語」小津安二郎監督、昭和9(1934)年
宮内淳子「日本映画-たとえば小津安二郎」(85-89頁)
※宮内は、1960年代のヨーロッパにおける小津映画の受容について次のように紹介している。「ちょうど1963年にはベルリン映画祭で小津特集が企画され、その後巡回上映に入っており、同年の日仏交換映画祭ではパリにおいて十一本の小津作品が初めて上映されている。同じ年の「カイエ・デュ・シネマ」(No.16)には小津の紹介記事が載り、翌年にはその訃報が載った。」(85-86頁)
「序論」
「第一部 詩学の諸問題 1経歴、2背景、3素材、4構造、制限、戦略、5内在的規範に向かって、6自由と秩序、7枕とカーテン、8用途と効果」
「第二部 全作品」
「付録 数量的見地からみた小津作品」「用語解説」
「訳者あとがき」「参考文献」「原註」「索引」
シネマ・ジャック「原節子の総て」34作品上映記念
「晩春」「麦秋」(3頁)
「東京物語」(4頁)
「東京暮色」(9頁)
「秋日和」(15頁)
「小早川家の秋」(16頁)
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