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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1979年の関連文献・資料

1979
佐藤忠男『日本映画の巨匠たち』(1979年1月25日発行、学陽書房、317頁)

「小津安二郎」(149-161頁)
※あとがきで、「小津安二郎についての章が比較的少ないのも、『小津安二郎の芸術』(朝日選書)という本を書いているからである。」と述べている。

『流動』第11巻第2号(1979年2月1日発行、流動出版、266頁)

清水哲男「東京物語 小津安二郎」(80-81頁)
小川徹「麦秋 小津安二郎」(94-95頁)

『映画史研究』No.13(1979年発行、佐藤忠男編集、96頁)

及川満「小津安二郎論序説(8)」(57-61頁)

『映画史研究』No.14(1979年発行、佐藤忠男編集、96頁)

藤田明「代用教員・小津安二郎-宮前での巣立ち-」(54―60頁)
※編集後記に以下のような記述がある。「この号には、同人雑誌に掲載されていた論文から二篇の力作を転載させていただきました。大阪の「あしかび」に連載中の米田儀一さんの「伊丹万作雑抄」(一)(二)(三)と、三重の「二角獣」に四年前に発表された藤田明さんの「代用教員・小津安二郎」がそれです。いずれも映画専門の雑誌ではありません。だから、せっかく映画史家にとって貴重なこれらの論文が、映画研究家たちの目にあまり触れないままにすぎてしまうのはあまりに残念ですので、とくに転載をお願いしました。」

尾崎宏次『戦後のある時期』(1979年3月31日発行、早川書房、202頁)

「九か月ほどいたシンガポールで、私は二人の知人にあい、一人の友人にあいそこなった。
 司令官官邸の警備が終って、その日は官邸内のプールで遊ぶことになった。夕陽が沈むころになると、南の空は赤と紫の絵具を散らしたような色になった。少し高いところにあるプールへ、階段を上がっていくと、誰もいなかった。兵隊がどやどやあがって腰をおろすと、その誰もいないと思ったプールんのまんなかへんに水がゆれて、抜き手でこっちへ泳いでくる人がいた。波紋が底に映るようであった。その人は偶然私の目のまえにあがった。私は胸がどきんとうったような気がした。
「小津さん」
 思わず大きな声をだした。小津安二郎の大きな体と笑顔があった。短い話をした。毎日こんなことをしているよ、と言った。私たちは、小津監督が映画をつくるために南方へ派遣されたということをはやく知っていたが、かれはひとこまも撮らずに終った。私はそのとき、プールにひとり浮いていた小津安二郎に無言のレジスタンスを見たと思った。戦後出版された『小津安二郎』という大型本に元軍人が、もう少し長くいたら彼は傑作をつくったであろう、ということを書いていたが、追悼にもならない愚文だと思った。」(6-7頁)

『人生読本 映画』(1979年7月20日発行、河出書房新社、269頁)

ドナルド・リチイ(山本喜久男訳)「家の問題 小津安二郎 映像における日本的なもの」(93―98頁)
※初出は、学橙社『国文学』1976年6月号である。

柳井隆雄『小さき世界-私のシナリオ墓標-』(1979年12月23日発行、映人社、289頁)

口絵写真「昭和十七年 茅ケ崎館にて『父ありき』執筆中 左より 柳井隆雄、小津安二郎、池田忠雄」
「シナリオ 父ありき」(125―168頁)
「『父ありき』後記」(169―170頁)
※一部抜粋する。「『父ありき』執筆の動機が誰の発案であったか、父君を失って間のない小津安二郎の、父君に対する追慕が動機であったかと追想されるのである。」(169頁)。
「回想の蒲田<日記抄>」(263―264頁)
※一部抜粋する。「昭和四年十一月十日 コンストラクション出来ず、自分の才能を疑うことしきりなり。野田さんのところへ道を拓いて貰うべく行く途中撮影所へ寄る。野田さんに会う。今日は親類へ行くとのこと。相談中止。試写室で「アスファルト」の試写を見る。よろしき写真。日本での工業は全然ダメかも知れん。検閲通過困難。ベッティ・アーマンの性的魅力は悩ましきかな。皆な変な憂うつな気持になる。小津、清水(宏)、小松(北村)池忠の四兄と、「喜久のや」なる料亭に上る。芸者三名、十一時まで騒ぐ。詩人小津安二郎の面目、朗らかな池忠の面目、無邪気な清水、善良で物解りの良い小松ちゃんの面目、そして、それぞれのエネルギッシュな溌溂さ、羨ましく快き限りであった。一人偽善者に似た自分の存在が淋しかった。頑な、はにかみ屋の自分、その為に人を不快にさせはしないか、時々それが気になる。」

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