伏見晃「談笑のうちにつくられた話」(69頁)
小林勝「「生れてはみたけれど」について」(70頁)
「シナリオ 生れてはみたけれど」(71-85頁)
齋藤達雄「小津さんのこと」(86頁)
北川冬彦「生れてはみたけれど」批評(86頁)
池田忠雄「舶来の匂いを求めた頃」(109頁)
小林勝「「出来ごころ」について」(110頁)
「シナリオ 出来ごころ」(111-129頁)
小津安二郎「世界にひろげたもの」(130頁)
飯田蝶子「小津さんの兵隊」(130頁)
坂本武「主演第一回作品」(130頁)
北川冬彦「出来ごころ」批評(130頁)
大黒東洋士「日本映画界 苦難の時代」(9-13頁)
八木保太郎「忘れられない苦労」(16頁)
小林勝「「限りなき前進」について」(17頁)
シナリオ「限りなき前進」(18-37頁)
紅沢葉子「徹夜の連続」(38頁)
小杉勇「さんさ時雨」(38頁)
碧川道夫「なつかしい時代」(38頁)
水町青磁「「限りなき前進」批評」(38-39頁)
小津監督に関して度々言及がある。例えば、176頁に、「『人情紙風船』が最後の作品になるのは、いややなあ‥」と、暗いことばを残して山中伍長は出征した。まったく私たちも、『紙風船』が遺作であっては困ると思ったが、それよりも、暗示的に彼が言い残したことばが心にかかった。その翌年の正月、おなじように応召した小津安二郎(オッちゃんとルビ)と現地でめぐりあった。その時の寄せ書きに「悪運尽きず」と書いてあったので、われわれの杞憂は晴れ、元気で生きて還るようなのぞみをいだいていたのだったが、十三年の九月十七日、北支開封野戦病院で戦没、年三十歳。山中の死は全映画人が悼しんだ。彼を偲んで追悼映画が製作されることになり、山中の遺稿『木屋町三条』を鳴滝組の残った七人でシナリオにして、題は『その前夜』とつけた。監督は愛弟子の萩原遼、出演は前進座だったが、梶原金八の名も山中の死とともに消えた。」
177頁には、稲垣浩に宛てた、小津安二郎の年賀状(軍事郵便)が掲載されている。山中貞雄が、さきの「悪運つきず」と書いている。
181頁には、「第二回NG祭りの会場で、サービスにつとめた田中絹代と小津安二郎」の写真が掲載されている。
182頁には、「昭和11年発足の日本映画巻頭協会の設立挨拶状」、183頁には、「日本映画監督協会の会報『映画監督』の第36号(表紙は小津監督の豆腐画)、第48号(表紙は、昭和33年の忘年会時の寄せ書き、小津監督の署名もある)が掲載されている。
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