全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

1956年の関連文献・資料

全て見る(1977件)
書誌情報
1956
スピードポスター『早春』(1956年1月、松竹株式会社)

「東京物語」以来、満二年の構想成って小津安二郎監督遂に起つ!
脚本 野田高梧・小津安二郎
都会の一組の夫婦を中心に若い世代の生活と愛情と悲哀を見事に描いた最高の名作!
★日本映画第一線スタアを総動員した豪華キャスト★ 早春

プレスシート『早春』(1956年1月、松竹株式会社)

二年ぶりに放つ芳醇な小津芸術の最高峰!
早春
スタッフ、キャスト、梗概、解説、放送原稿、配列表、文案

『OFUNA TIMES』NO.33~9 TOTAL No.4(1956年1月14日発行、松竹大船撮影所宣傳課)

名匠小津安二郎監督が満三年の精魂こめて
久々に放つ全映画界注目の芸術巨編「早春」
完成いよいよ目睫に迫る!

『映画旬刊』第8号(1956年1月15日発行、雄鶏社、146頁)

表紙:シド・チャリッシ
登川直樹「小津安二郎演出「早春」撮影を見る」(40-42頁)
※冒頭を引用する。
 小津安二郎のこの前の作品は「東京物語」であった。一昨々年の秋に封切られて、その年の代表作になった。小津安二郎の作品の基調をなしている俳諧趣味といったものを考えると、これまでのいろいろな作品のいろいろな印象的な情景が頭に浮かんでくるのだが、「東京物語」はそれまでと少し調子が変わったのではないかしら。とかく、自然の情景のような風景画的人物が多かったそれまでにくらべて、「東京物語」ではズンと俗っぽい人間が登場した。人は小津調の洗練などというけれど、やはりこれは大きな屈折ではないのだろうか。すると、こんどの「早春」はどういうことになるのだろう。「晩春」「麦秋」などと同じたぐいで相も変わらず季題じみているが、果して中味も同じ調子なのだろうか。

野田高梧・小津安二郎『シナリオ新書・5 松竹映画シナリオ 早春』(1956年1月15日発行、映画タイムス社、157頁)

「口絵(「早春」6葉、「小津安二郎」、「野田高梧」、「早春ロケ」)」
「解説」(3頁)
「スタッフ」(4頁)
「キャスト」(5頁)
「シナリオ 早春」(6‐147頁)
津村秀夫「小津安二郎の芸術」(148―150頁)
「作者紹介 小津安二郎・野田高梧」(151―153頁)

野田高梧・小津安二郎『松竹シナリオ 早春』(1956年1月15日発行、映画タイムズ社、157頁)

シナリオ新書5
解説(3頁)
スタッフ(4頁)
キャスト(5頁)
シナリオ(6-147頁)
津村秀夫「小津安二郎の芸術」(148-150頁)
「小津安二郎」(151頁)
「野田高梧」(152-153頁)

『松映ニュース』No.4(1956年1月15日発行、名古屋松竹映画劇場、8頁)

「早春完成記念 フォト・コンテスト作品募集
「早春」の歓声を記念して、左の要項によりフォト・コンテストを行います。奮ってご応募下さい。
一、テーマ 早春
一、サイズ 自由
一、枚数 制限なし
作品の裏に住所氏名を必ず記入のこと
一、締切り一月三十一日
一、賞金及び商品 一等賞金 参萬円及び副賞(一名) 二等賞金 壱萬円及び副賞(三名)
主催 松竹株式会社
後援 富士写真フィルム株式会社」(3頁)
「構想三年、遂に成る! 名匠小津安二郎作品 長らくお待たせしました 1月29日大公開」(7頁)

『松竹ニュース』No.224(1956年1月23日発行、金沢松竹座、4頁)

早春 二十八日堂々封切!!
「満三年の沈黙を破る全映画界注目の小津安二郎監督の最高芸術作!!
脚本・小津安二郎・野田高梧 監督・小津安二郎
キャスト ☆小津安二郎監督のこと

『松竹ニュース』No.5~5 「近日上映『早春』」(1956年1月、銀座松竹映画劇場・松竹株式会社事業部、4頁)

「早春 スタッフ・キャスト他」(4頁)
発行日がないので、封切日とした。

『松竹NEWS』NO.5~7(1956年1月、銀座松竹映画劇場・松竹株式会社事業部、4頁)

「早春 ものがたり、スタッフ、キャスト」

前売券『早春』(1956年1月28日、松竹株式会社)

満三年の沈黙を破る小津安二郎監督の最高作
早春 28日堂々封切
庶民の悲哀と愛情と善意が胸を打つ名作!

『早春』B5横型チラシ(1956年1月29日発行、松竹株式会社、両面)

表:待望小津安二郎監督の最高傑作、グラビア13カット
浦:キャスト、梗概

『SHOCHIKU MOVIE PHOTO NEWS 写真ニュース 早春』(1956年、松竹株式会社)

小津安二郎監督の自信作!
第一線スターを総動員して、しみじみと心にかよう庶民生活を描いた珠玉篇!
映画藝術の粋をつくして堂々完成!
520×725

『早春』(縮刷シナリオ)(1956年1月29日発行、松竹株式会社、34頁)

三段組、発行日がないので、封切日とした。

『早春』(1956年1月29日発行、日本映画宣伝社、6頁)

表紙:岸恵子、池部良
「スタッフ、キャスト」(2頁)
「物語、解説」(3-4頁)

『早春』(1956年1月29日発行、松竹株式会社東京支店邦画部宣伝課、10頁)

表紙:岸恵子、池部良
「小津安二郎監督のこと」(1頁)
「解説」(2頁)
「物語、スタッフ」(3-4頁)
「グラビア 7カット」(5-6頁)
「池部、高橋、岸の豪華顔合せに 見物人は大喜び、蒲田、六郷ロケ・ルポルタージュ ロケスナップ 5カット(全てに小津監督)」「淡島千景・池部良 初顔合せ対談」(7-8頁)
「池部、岸の息づまるラブシーン、小津作品、初の接吻場面、ゴシップ集 グラビア10カット(うち6カットに小津監督)」(9-10頁)
裏表紙:「小津監督快心のクランク 茅ケ崎ロケ報告」

『松竹直営広小路中劇ニュース』(1956年1月、広小路中劇)

今週の御案内 
早春 名匠小津安二郎監督作品! スタッフ、キャスト

『高校コース』第一巻第十一号(1956年2月1日発行、学習研究社、354頁)

小津安二郎「宇治山田に学んだ頃」(58-59頁)
※「青春時代を顧みて」という特集で、小津監督の他に、大家壮一、サトウ・ハチロー、杉靖三郎(東京教育大教授)、水谷八重子の4名のものが掲載されている。小津監督と水谷八重子の文末には(文責在記者)とある。
冒頭を引用する。
「僕は東京で生まれたが、中学時代は宇治山田市で過ごした。伊勢神宮のある今の伊勢市で、静かな町である。その町の美しい風物の思い出は今でもありありと残っている。僕の学んだ中学は、生徒が全部で五百人ばかりの県立の学校だった。当時の田舎の中学と言えば、そこに学ぶ生徒も、中学を卒業して、そのまま社会に出て実業につく人が多かったし、またその上の学校もなかったので、その地方では、まあまあ最高の教育機関だった。しかし、その中学校の校風はどちらかと言えば、表面上の格式を重んじていたため、非常に堅苦しいものであった。したがってそういった環境の学校に学んだ僕にとって、学校生活での楽しい思い出はあまりない。学校の先生にもあまり好意を持てなかった。学問的な意味での敬意は払えたが、人間的には親しみが持てなかった。しかし、友達はたくさんいた。そして、多くの友と、共に語り、共に遊ぶのが、当時の最も楽しいことであった。だが、それらの友の中でやはりのちのちまで自分の心の中に残っている友は、いろいろなことをお互いに話し合った友である。」

『早春/恋と金・お嬢さん女中』(1956年2月12日、上田映画劇場、上田中央劇場)

日本映画が遂に生んだ最高芸術作!大松竹超特作
邦・洋画ファンに贈る絶妙の名演出
小津安二郎監督作品 文部省選定 優秀映画鑑賞会推薦 東京都教育庁選定

『早春/若い樹』(1956年2月19日、末廣劇場)

19日~25日まで!待つこと久しい!名匠小津が贈る香り高き最高芸術作!歴史的公開成る!!
「晩春」「麦秋」「東京物語」等幾多の映画賞に輝く
小津安二郎監督の最高芸術作!感動の名画
早くもベストテン第1位決定的!!
堂々2時間半感動の連続!!

小津安二郎・野田高梧『日本シナリオ文学全集7 小津安二郎・野田高梧集』(1956年2月20日発行、理論社、254頁)

「晩春」(3‐47頁)
「麦秋」(49‐109頁)
「東京物語」(111‐169頁)
「早春」(171‐242頁)
津村秀夫「解説」(243‐254頁)

前売入場券『早春』(1956年2月23日、ミナト座)

前売り入場券 120円ノ処90円
若い人達の愛情と生活の問題を描いた最高芸術作
小津安二郎監督 早春

『現代日本文学全集』月報46(1956年3月、筑摩書房、8頁)

小津安二郎「名代の味」(3-4頁)
※『現代日本文学全集25 里見弴・久米正雄集』(1956年3月15日発行、筑摩書房)の月報に寄せた小津安二郎の文章である。同月報には、小津の文章の他に、辰野隆「里見弴集のために」、河盛好蔵「『自然解』から」が寄せられている。
冒頭を引用する。「里見先生の小説を読んだのは、僕が中学生の頃、たしか、「桐畑」が始めじゃなかったかと思います。それ以来、僕は長い間の愛読者の一人なのですが、今では時々、先生の小説を、無断であちこち借用しては、映画のシナリオのねたにする、まことに、たちの悪い愛読者の一人かも知れません。いつか、僕の「戸田家の兄弟」という映画の試写に、思ひがけなく、先生が来られ、初めてお目にかかり、あいにく、その映画には無断借用の箇所が多く、甚だ汗顔、閉口頓首したことがあります。爾来、先生もあきれられ、万事、大目に見て下さる模様ですし、以来、僕は無断借用の常習となりました。」(3-4頁)

『映画旬刊』第11号(1956年3月1日発行、雄鶏社、148頁)

表紙:スーザン・ヘイウォード
尾崎宏次「特集グラフ・映画作家訪問 小津さんを訪ねる」(43-46頁)
※一部抜粋する。「玄関を入ると、直ぐに六畳くらいの日本間があって、小さな囲炉裏が掘ってあった。きれいな障子と白い唐紙が、清潔で、なんの飾りっ気もなかった。右の棚にツボと仏像がおいてあり、正面に「游於芸 秋艸道人」という掛軸がかかっている。会津八一氏の書で、ふんわりとした筆の運びが、いかにも芸にあそぶという感じをただよわせていた。岸田劉生の絵も三点あった。武者小路実篤の絵は、赤い唐辛と青い唐辛をかいたものがあって、このひとらしく、-思い切って青く、思ひ切って赤く、思ひ切って辛し、辛くない唐辛又面白し」と書いてあった。辛くない唐辛又面白し、というのは、この絵をみた武者小路氏の子供が、「このなかには辛くないのが描いてあるよ。」といったので、あとで氏が書き足した字句なのだそうだ。小津さんは年老いた母親とふたりで住んでいた。部屋にはなんの装飾もなかった。庭には白梅と紅梅がちょうどきれいに咲いている頃であった。コタツに入ってウイスキイを飲みながら話しているが、ふと見ると、いろんな売薬を並べた箱が目についた。-みんな二日酔いの薬でね。-その入れ物が珍しいですね。-運び膳ですよ。湯河原辺りで使っている。そして、その上の棚には、洋酒のビンがずらりと並んでいた。-毒と薬を一緒に置いてあるようなもんですね。そう言って笑ったが、その洋酒のビンの並んでいる左の隅に、劉生の小さなスケッチが掛けてあった、雀右衛門を描いたものだった。」「ははァと、そばにあったたんすに目をやると、正面に大きく鯨とかいた金具がついていた。-鯨というのはなにか意味があるんですか?-ぼくの昔のペンネームからとったもんですよ。さあ、二十六、七年も前ですかね。僕は燻屋鯨兵衛というペンネームでシナリオを書いていた。「生まれてはみたけれど」のときに使っています。清水宏が鯨屋当兵衛でね。僕も清水もクジラが好きだったんですよ。何でも大きなものが好きだった。そのころ作ったタンスで、当時百円しましたかな。燻屋ですか。ぼくタバコばかり吸っていたから。」

『映画旬刊』第12号(1956年3月15日発行、雄鶏社、146頁)

表紙:マリナ・ヴラディ
「特集グラフィック 映画劇場解剖9 東劇」(23-26頁)
※「正面玄関の右地下に試写室があるが、偶然にも小津安二郎監督が志賀直哉さんを案内して出て来られた。「早春」の試写の日だった。」二人はコート姿。
大黒東洋士「日本映画批評 早春」(72頁)

『映画芸術』第四巻第四号(1956年4月1日発行、共立通信社出版部、106頁)

「学生と映画」(32-39頁)
※慶応、お茶の水、立教、法政、東京、早稲田、日本、明治の映画関係の研究会の学生が出席して、映画について議論されている。37~38頁において、小津監督の「早春」について、否定的な評価が語られている。当時の学生の小津映画に関する評価の一端をみることができる。
小倉真美「小津安二郎氏への手紙 -「早春」を見て想う-」(48-51頁)
※筆者は、「自然」編集長。28年前から、京都で学生だった時に、「肉体美」を見て、その諷刺に感心して、それ以来、ずっと小津作品を見てきたという筆者による。小津映画回顧と、「早春」についての評である。
杉山平一「作品研究 早春」(52-53頁)

『映画藝術』第四巻第九号(1956年9月1日発行、共立通信社出版部発行、102頁)

戸井田道三「あまりに微温的な -小津安二郎とコメディイ-」(28-29頁)

城戸四郎『日本映画傳 映画製作者の記録』(1956年9月20日発行、文藝春秋新社、268頁)

表紙:淡島千景、城戸四郎、小津安二郎
「小津安二郎と天井」(74-76頁)
※一部を紹介する。
「小津安二郎は、僕が洋行前の昭和二年八月に、大久保忠素の助監督から一本立ちになって、はじめは二巻物の短篇喜劇を作っていたが、「肉體美」(昭和三年)の頃から、所謂小市民ものをやるようになって、批評家に評判がよく、僕がアメリカから帰った頃は、些か得意の時であったが、これは要するに、その頃は不景気だったから、左翼思想がはげしくなって来ているのだ。それは大正の末期からつづいたが、そのころはー現に僕がソヴェートに行って来たくらいだから、日本政府は思想的には押さえていたけれども、漁業その他の関係でソヴェートと付き合っていたわけだ。そこでソヴェートの共産主義思想が、日本の一部の学生や若い人達の間に浸潤して行って、映画界でも辻吉郎の「傘張剣法」だとか、内田吐夢の「生ける人形」のような傾向映画が流行していた。」
「小津は以前からそうだけれども、どっちかというと意地が悪く、自然それが、彼の個性となったのだが、今までの蒲田調というものが、小津としては安手に見えたのだろう。社会との安易な妥協がありすぎるという見解に基づいて、自分だけはもっと體当りをしてみようという考え方を持った。小津の態度の中に、そういうことが感ぜられた。小津がカメラを疊の上にジカに据えて、広角で日本の座敷をとらせたことは、小津の創案として、日本の映画に一つのスタイルを作ったが、彼は元カメラマンから転向して監督になったので、カメラのポジションには特別のセンスがあったわけだろう。僕は、カメラを疊の上にジカに持って行かなくても、照明の工合でも立体感は出ると思うのだが、しかし少なくとも、彼がカメラが下へ持って行ったために、セットに天井をつけなければならなくなったことは事実だった。ほかの監督ほど天井を使わない。小津は下から仰がざるを得ないから、今までのセットにない、天井までつけなければならなくなった。」

菅原通濟『六十の味』(1956年10月15日発行、常盤山文庫出版部、338頁)

「早春 映画早春始末記」(111―129頁)
※冒頭を引用する。「押しかけ女房以上のネバリを見せたので、小津安二郎サン野田高梧サンが、二年越苦心の”早春”に出してもらうことに成功?した。暑いさなから、お正月まで、大船に通い見学した。度を越した熱心ぶりに、或は両君も持てあましたかも知れない。そのときのうれしい数々を綴ってみる。正確に云えば、私の出番は一分間で、百四十四分の一、特別出演したことになる。」「新年会」、「娘の入学試験」、「おでんに恨みあり」、「自画賛」の小見出しが付けられている。

このページのトップへ

このホームページ内のテキスト・画像の無断使用はご遠慮下さい。