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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1953年の関連文献・資料

1953
『東京暮色』(初稿台本)(1953年2月5日発行、新映株式会社、37頁)

一段組、小津監督『東京暮色』の5年前(1953年2月5日)に公開された齋藤達雄監督、池田忠雄脚本による『嫁ぐ今宵に』(新映プロ、配給:新東宝)の初稿のタイトルは、何と「東京暮色」という題名であった。これはその時の珍しい台本である。
発行日がないので、封切日とした。

読売新聞社教育部編『私の少年時代 ー現代日本の100人が語るー』(1953年3月28日発行、牧書店、224頁)

小津安二郎「僕は映画の豆監督」(49―51頁)

『キネマ旬報』第60号(1953年4月1日発行、キネマ旬報社、210頁)

表紙:コリンヌ・カルヴェ
「映画人クローズアップ(グラフィック)小津安二郎」(147頁)

『キネマ旬報』No.879第64号(1953年5月15日発行、キネマ旬報社、122頁)

表紙:ザ・ザ・ガボール
「日本映画このコンビ 野田高梧・小津安二郎」(19頁)

スピードポスター『香川京子 松竹映画4大作に主演』(1953年5月、松竹株式会社)

熱情を秘める愛のまなざし 香川京子
松竹映画4大作に主演
「愛慾の裁き」「その妹」「青銅の基督」「東京物語」

『アサヒカメラ』第三十八巻第六号通巻ニ三八号(1953年6月1日発行、朝日新聞社、200頁)

表紙:ジプシー・ローズ(撮影:稲村隆正)
「映画宣伝写真はなぜ進歩しないか 座談会 小津安二郎、三浦光雄、木下恵介、生方敏夫、島崎清彦、田中敏男」(114―119頁)
※銀座「中島」にて。小津監督の冒頭の言葉を引用する。「この宣伝スチルを作るというのは監督にって大変に厄介なものでしてね。僕なんかたいそう嫌いなんだ。いったい宣伝スチルは何のために撮るかというと、ポスターをこしらえる下絵として撮る場合が、いまの松竹などでは大変多いのです。それで、ポスターのために急がされるわけですが、僕なんかスチルマンと協力して、コンポジションを見てやったり、そのため「お茶漬の味」の時などまる一日つぶしてしまったこともあるくらいですが、結局、どうも映画の撮影と同時に撮って行くやつが一番いい。ところがそうすると、どうしてもポスターをこしらえるのに間も合わない。また、撮影の際、この場面がいいからスチルに撮ろうということになると、映画撮影の方は、そこで一時気が抜けてしまうのです。また、映画の方では35ミリで撮るのに、スチルは乾板に写すというわけで、折角決まっているライトも全部移動しなければならない。こいつは大変なので、それで結局、その場でスチルを撮るということができなくなってしまうのです。」(114頁)

『アサヒカメラ』第三十八巻第七号通巻ニ三九号(1953年7月1日発行、朝日新聞社、210頁)

表紙:撮影アービング・ペン
「続・映画座談会 映画撮影の新技術-色彩映画を中心として-生方敏夫、三浦光雄、小津安二郎、田中敏男、島崎清彦、木下恵介」(149―154頁)
※一部抜粋する。小津「色彩映画も、カット、カットをこまかくすると、色の調子が揃って来ないので困りますね。そういう欠点を監督技術で補うとなると、やりたいことがやれません。」田中「だから、色彩映画で一番困るのは小津さんでしょう。カラーではカット・バックが一番厄介で、赤が主題になっていたのが、次のカットではそれが青いということがあり得るでしょう。そこで結局カメラを動かすよりしようがない。」

『キネマ旬報』No.884第69号(1953年8月1日発行、キネマ旬報社、122頁)

表紙:エヴァ・ガードナー
陸知足「映画人新地図 東京都(その四)Tの部」(84頁)
※「五所平之助より一つ若く、東京は深川亀住町に生れた小津安二郎は、昭和二年に、時代劇「懺悔の刃」を処女作として発表した。彼の父は、都会で少年時代を過ごさせることは、、子弟の教育上よろしくないと云って、尋常四年の時に、彼を父の郷里伊勢の松阪に送り、中学時代は宇治山田中学に学ばせた。中学を出ると、父の希望で神戸高商を受験することになり、その間の幾月かを、伊勢の山の中の小学校で代用教員をした。彼の父は、彼の令兄が現に第一銀行の重役をしているように、彼も実業界に立たせたい意向だったらしいが、小学生時代に安二郎少年が軽い脳膜炎をやって、算数なんかをやると頭が痛くなるという始末なので、この方はあきらめていた。神戸高商の受験をすべっても、一ぺんでその方は断念した。中学時代からの友人で、一緒に神戸高商を受けてすべった仲間に、現在三重石炭の社長をしている井阪栄一がいる。この井阪と彼は、中学時代によく松阪の映画館(先年焼けた神楽座)へ通った。「この神楽座がなかったら、僕は映画監督なんかになってなかったかも知れない」と、彼自身述懐するほど、これは決定的な影響を彼に与えた。だから、高商をあきらめて上京した彼は、真っ先に松竹撮影所を目指し、監督見習いに入るつもりだったところ、その方は欠員がないからと云って、カメラマンの助手となり、それからしばらくして、時代劇の監督をしていた大久保忠素の助監督として、斎藤寅次郎と共に、ある時は剣劇、ある時はナンセンス物と、大久保師匠の手足となって働いた。」続く

『近代映画』第9巻第9号通巻93号(1953年9月1日発行、近代映画社、158頁)

表紙:原節子
「香川京子さんデマに表明 私は松竹の専属ではありません!!若いスターでフリーの代表的な人は香川京子さん。その香川さん「愛欲の裁き」、「その妹」出演依頼、引き続いて「青銅の基督」、(監督渋谷実)、「東京物語」(監督小津安二郎)、「二十四の瞳」(監督木下恵介)と、松竹映画出演が決定しており、さては松竹と専属契約を!という噂も瀕り。所がこれは単なる噂で当のご本人は左の如くデマに対して談話を表明している。」(95頁)

『キネマ旬報』No.888 第七三号(1953年9月15日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:ジョーン・ドルウ
グラビア「東京物語 尾道ロケ 原節子と香川京子」(1頁)
グラビア「東京物語 尾道ロケ 笠智衆と原節子、香川京子他」(2―3頁)

『映画と演芸』アサヒグラフ別冊、秋季特別号(1953年9月20日発行、朝日新聞社、66頁)

表紙:岸恵子(絵:田村孝之介)
「新映画紹介 松竹『東京物語』」(21頁)スチル4枚
※「お茶漬の味」に次ぐ小津安二郎の監督作品。中国地方の街・尾道に住む老夫婦が、東京で医院を開いている長男。美容院を経営している長女やその孫たちに逢いに出かけるが、それぞれ一人立ちの社会人になった子供たちは、老夫婦が内心期待したとおりには二人を珍客として迎えなかった。
大佛次郎「私の描いた女たち」(25頁)
大佛次郎自身が、「宗方姉妹」を観た感想、小説のイメージと違う部分についてなどを述べている。
「ストーリー集 東京物語」(27頁)

『キネマ旬報』No.890第75号(1953年10月1日発行、キネマ旬報社、220頁)

表紙:アン・ブライス
大黒東洋士「小津安二郎の演出ー「東京物語」の撮影を見るー」(60-62頁)
※「東京物語」のシナリオを一部採録。

『松竹映画秋の大作 花の生涯・グラフと読物』(1953年10月発行、松竹大阪支店映画宣伝部宣伝課、7頁)

「巨匠小津安二郎監督本年度作品 東京物語 キャスト、解説 十一月上旬封切」(7頁)

『キネマ旬報』No.891 第七六号(1953年10月15日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:ジャネット・リイ
全面広告「東京物語」(9頁)

『松竹映画ウイークリー』No.212「山を守る兄弟・處女雪」(1953年10月27日発行、新世界出版社、6頁)

裏表紙:次週公開 東京物語
発行日がないので、「山を守る兄弟」の封切日とした。

『婦人倶楽部』第三十四巻第十三号(1953年11月1日発行、大日本雄弁会講談社、468頁)

「東京物語演出風景-松竹-」(76-77頁)
グラビア8(うち7に小津監督)、尾道ロケ随行記

『試寫御案内 東京物語』(1953年11月1日発行、松竹株式会社宣伝課、1頁)

試寫御案内状、題名:東京物語 日時 11月1日午后1時30分
場所:交詢社ホール5階

『「東京物語」特別試写会』(1959年11月1日発行、松竹株式会社、4頁)

「スタッフ、キャスト、解説、梗概」(2-3頁)

『小津作品・東京物語・鑑賞の栞』(1953年11月1日発行、松竹株式会社、7頁)

表紙:香川京子、原節子
「梗概、スタッフ、キャスト」(2頁)
村上忠久「小津安二郎の足跡」(3頁)
京極錬太郎「海の見える丘から 東京物語尾道ロケ随行記」(4-5頁)
「緊張する”小津芸術”原節子、香川京子」(5-6頁)
滝沢一「撮影余話」(6頁)

『藝能画報』第二巻第十一号(1953年11月1日発行、国際写真通信社、46頁)

表紙:ジェーン・ラッセル
「東京物語 松竹作品」(28頁)
カラーグラビア「原節子と香川京子」

『映画ファン』第147号(1953年11月1日発行、映画世界社、148頁)

表紙:若尾文子
全面広告「東京物語」(4頁)
※原節子の画像は「麦秋」時の物を使用している。
グラビア「東京物語」(116頁)
※尾道の浄土寺の灯篭の前に座る原節子と香川京子
「殺到するファンに悲鳴をあげて 東京物語」(117―118頁)
※「東京物語」の尾道ロケに関する記事

『新映画』第10巻第11号(1953年11月1日発行、映画出版社、108頁)

表紙:若尾文子
グラビア「東京物語」
※6カット(うち小津監督4カット)「★強烈な夏の陽差しが柔らかになり、くさむらにすだく虫の鳴き声がしきりになると、映画界にも秋の芸術祭の開幕を告げる参加作品の候補が、いろいろと巷の映画ファンたちの下馬評にのぼり始めます。★さて、黒澤明の「七人の侍」と共にそのファンたちの口の端にのぼっている最も有力な芸術賞受賞候補作品が、この小津監督の「東京物語」です。そこで、今月は、ここに「東京物語」のレポートをロケからセットから、それぞれのぞいてみました。」
「東京物語、尾道へ往く」(42-43頁)
八月十四日から十八日までのロケについて詳細に書かれている。

『東京物語』(縮刷シナリオ)(1953年11月3日発行、松竹株式会社、28頁)

三段組、発行日がないので、封切日とした。

『松竹映画ウイークリー』No.213「東京物語・若君逆襲す」(1953年11月3日発行、新世界出版社、6頁)

「スタッフ、キャスト、解説、梗概」(2-3頁)
裏表紙:広告「色白の美肌をつくる 特殊薬効クリーム 黒龍(原節子)」

『平凡』昭和二十八年十一月号(1953年11月5日発行、凡人社、250頁)

表紙:高峰秀子
「東京物語 ロケ便り」(49―51頁)
※「原節子と香川京子のスナップ」(49頁)、「海に面したお座敷で笠智衆と囲碁をする香川京子」、「原節子と香川京子」他(50頁)、「原節子と香川京子を演技指導する小津監督」他(51頁)
「東京物語 瀬戸内海ロケ随行記」(209―211頁)
※一部抜粋する。「松竹の好意で今回は、特に雑誌社では「平凡」だけがロケに参加させて貰えるという願ってもない話。おまけに特別二等車で、旅費は松竹宣伝課が出してくれるといううまい話。一行は、案内役の大船宣伝課のサブちゃん、「平凡」のカメラマンはシゲちゃんに、かくいう記者のブンちゃんことぼくの三人づれ。「とにかくね、松竹名物年一本の大作だろ、こんどだけはシンチョウにねきをつけてくれよ、特にキミはオッショコチョイだから‥」「オヤジというのは、小津安二郎監督のニックネームだ。東宝の黒沢明監督が黒沢天皇と呼ばれておそれられていれば、松竹の小津監督は大船の神様ということになっている。」
スナップ「ロケ宿のベランダでボートのファンに応える笠智衆さんと香川さん」、「浄土寺の夜明けのシーンで原節子さんと小津安二郎監督」、「初秋の風がそよぐ納涼船上の原さんと香川さん」(210―211頁)

『九條松竹・ニュース』(1953年11月8日、大阪府九條松竹)

入場料半券付120円也、28.11.8の印あり
今週の映画「東京物語」 キャスト・梗概


『松竹座ニュース No.89』(1953年11月12日発行、金沢松竹座、6頁)

「東京物語 物語、配役紹介、スタッフ」(2-4頁)
「東京物語 ストーリー」(5頁)

『キネマ旬報』No.893 第七十八号(1953年11月15日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:シモーニュ・シニョレ
登川直樹「日本映画批評 東京物語」(67―68頁)
※冒頭を引用する。「現代世相のとらえかたにおいて、その表現の様式において、小津安二郎の老成した芸風を如実に物語る作品である。がそればかりでなく、いつに変わらぬ独自の様式のうちにも、この作者がここで新しい試みに踏み出している点で重要な意義をもつ作品であると私はおもう。」

『丸 MARU』第6巻第12号(1953年12月1日発行、総合プレス社、134頁)

池田哲郎「小津監督の芸・色・髭」(40‐50頁)
※田中眞澄編『小津安二郎 戦後語録集成 昭和21(1946)年ー昭和38(1963)年』(1989年5月1日発行、フィルムアート社、493頁)に掲載されているが、冒頭の言葉や小見出しは、全てカットされている。冒頭には、次の言葉がある。「映画俳優なら誰でも一度小津映画に出演したいと考えている。小津は何と云っても日本映画監督の大御所だ。彼の作品には庶民の溜息が流れている。”たそがれ芸術”の作家と評される巨匠の製作態度とその人間性に深く触れてみよう。」。次に、小見出しを拾うと以下の通りである。「小津の監督ぶりを見る」、「名調子『たそがれ芸術』」、「最も日本的な美しさ」、「スロモーといわれる原因」、「すべてお好みの登場人物」、「標準語と訛りと台詞」、「無技巧のカメラ技術」、「彼の映画に悪人は出ない」、「プロデューサーはかく語る」、「彼はなぜ独身なのか」、「確実にあてる監督」。
編集後記欄の上段にある「丸について」というスペースに、菅原通済の一文がある。

『キネマ旬報』No.894 第七九号(1953年12月1日発行、キネマ旬報社、126頁)

表紙:ジーン・ティアニイ
「日本映画座談会 上野一郎、滋野辰彦、登川直樹、大黒東洋士、萩正弘」(32―43頁)
※「東京物語」について取り扱っている(33―34頁)。
「新・盛り場風土記 静岡」(87―90頁)
※ちょうど、「東京物語」を上映中の静岡映画劇場のスナップが掲載されている。「東京物語」の大きな看板が見える。

早稲田大学映画研究会『東京物語 観客調査』(1953年12月発行、早稲田大学映画研究会、20頁)

「東京物語 スタッフ、キャスト、梗概」(1頁)
「調査意図、調査概要」(2頁)
※調査意図は、以下の通りである。「戦後、日本映画の企画の貧困さ愈々行き詰まりの感を呈している。かかる混乱せる風潮の中にあり、一年一作に精魂を傾け、『晩春』、『麦秋』、『お茶漬の味』等一連の名作佳篇を作り上げた巨匠小津安二郎監督が、久々に芸術祭参加作品として、その円熟せる枯淡な味わいをいかんなく発揮した『東京物語』は吾々に興味深いものを感じさせると共に他面観客層の中に一種の幅広い”小津族”なるものを作らしめた事は尚一層興味をそそる問題である。早稲田大学映画研究会はかかる年一作の小津作品に対する観客層の期待を考察し加えて『東京物語』の内容について調査を試みた。当研究会としては調査は初めての試みであり、未熟なる学生の研究的資料に過ぎないが鑑賞後のご参考の一助にもなれば幸いである。尚、この調査に当たっては、松竹本社調査のご指導を仰ぎ予期以上の成果を得られましたことを深く感謝しております。」なお、調査日は、11月3日の初日、調査場所は、浅草松竹、新宿松竹、銀座松竹の三会場である。
「観客構造」(3頁)※観客を年齢別でみると、40歳以上が約1割ほどしかなく、40歳未満が約9割である。

松竹本社調査室『第11回営業会議資料別冊 東京物語観客調査』(1953年12月、松竹本社調査室、20頁)

早稲田大学映画研究会の「東京物語観客調査」をベースに作成されたものである。

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