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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1947年の関連文献・資料

1947
『長屋紳士録』台本(1947年発行、松竹撮影所印刷部、58頁)

紐綴じ、発行年がないので、便宜的に封切年とした。

『長屋紳士録』シーン割・セット割(1947年、小津組、7頁)

「シーン割」(1-4頁)
「セット割」(4-7頁)
※ガリ版刷、発行年がないので、便宜的に、封切年とした。

『映畫春秋』第四號(1947年1月1日発行、映畫春秋社、86頁)

表紙:グロリア・グレーハム RKO社提供のフランク・キャプラ作品「素晴らしき人生」に出ている新進。
滋野辰彦「作家研究 小津安二郎抄論」(13‐17頁)
※一部抜粋する。「『父ありき』や『戸田家の兄妹』以後、小津安二郎の映画に接しないことすでに数年である。かへりみれば日本映画にもっともすぐれた作品が揃って作られたのは昭和十年十一年のところで、早くも十年の昔となった。十二年は華北に事変のはじまった年である。」「昭和十年十一年ごろ、日本映画が最もすぐれた作品をつくり出していた当時、第一流の演出家として目されていたのは、わたくしの考えによれば溝口健二、伊丹万作、内田吐夢、小津安二郎の四人であった。近年この四人が一様にそろって、ほとんど仕事らしい仕事をしなかったことは、いかなる理由によるかをわたくしは詳らかにしない。」

『近代映画』第三巻第二號通巻第十三號(1947年2月1日発行、近代映画社、50頁)

表紙:木暮實千代
「コンビ復活‥‥巨匠小津安二郎監督・池田忠雄氏と起上がる」(16―17頁)
※長屋紳士録・物語 池田忠雄、写真は茅ケ崎のT館で出来たよと小津氏正面、記している池田氏、右頁くつろぎの一服。
原節子「私の周囲のこと」(24―25頁)
※冒頭を引用してみよう。
「日活多摩川撮影所を振り出しにして私の映画演技者としての生活は、もう十年にもなってしまった。けれども私は、本当に女優として生き抜こうという張り合いと言おうか、覚悟と言おうか、何となく自分の立場や、素質というものを朧気ながら客観手kに感じられるようになったのは、ほんの近頃になってからのように思われます。
 或いは、それは、終戦後の激しい社会情勢の変動と、女というものの開放される世界の到来を眼前にして、目隠しされたものが取り外されたような広々とした世界の風光を身近に感じ、そこから女優として、従来の日本の女優の幾多の封建的な制約が取り外されたことに、希望的な予感を感じ、私自身の未来にも、無限の希望を持つことが許されたよなある喜びが、私に、私の職業への自信を持たせたのかも知れない。」

『松竹』第二巻第二號(1947年2月15日発行、松竹事業部、42頁)

表紙:木暮實千代
「颯爽 小津安二郎」(11頁)
※目次上のカットを飾る小津監督の肖像、カメラ、帽子とスーツ姿。

『キネマ旬報』No.12憲法記念映画特集(1947年4月1日発行、キネマ旬報社、43頁)

表紙:シルヴィア・シドニイ
飯田心美「小津監督は語る」(14‐15頁)
※冒頭を引用する。飯田「小津さん。南方には大分ながいこといられたようですが、その間どんな風にすごしていられましたか」小津「マレイでは、軍の委嘱で記録映画を撮る準備中でしたが、仕事が始まらぬうちに情勢が悪化し、ひとまず中止のかたちとなり、やがて終戦となり、向うの収容所に入り、帰還するまで労務に従事してました。ゴム林の中で働く仕事を命じられ、そこに働いているあいだ暇をみては連句などをやっていました。撮影班の一行がその仲間なんです。故寺田寅彦博士もいわれていたが、連句の構成は映画のモンタージュと共通するものがある。われわれには、とても勉強になりました。軍の希望していた記録映画というのは劇の交った派手なものらしかったがぼくには全然不向で作る気も起こりませんでした。」
「日本映画紹介 長屋紳士録」(20頁)
「撮影所通信(三月二十五日調査) 松竹大船 小津安二郎は「長屋紳士録」の東京ロケを終了、引きつづき為吉の家のセット撮影中。完成は四月中旬ごろの予定」(36頁)
「長屋紳士録」と小津(40頁)
※撮影スナップ二葉「青木富廣の頬を抓る小津監督、動物園にて」、「小津監督と飯田蝶子」

『映画ファン』第七巻第四號通巻第六十八號(1947年4月1日発行、映画世界社、34頁)

表紙:高峰三枝子
大黒東洋士「今月の話題の映画 長屋紳士録」(14‐15頁)
※五年の沈黙を破る巨匠小津の新作。裏長屋の生活ににじむ心暖まる映画!
挿絵カット:直木久蓉
「春の各社新作展望 長屋紳士録」(34頁)
※写真は、上野公園のロケーションでスナップした飯田蝶子と吉川満子のお二人である。

『映畫春秋』第六號(1947年4月15日発行、映畫春秋社、146頁)

表紙:イングリッド・バーグマン
グラビア「小津安二郎と黒澤明」(14頁)
グラビア「志賀直哉氏と小津安二郎氏)(16頁)
対談「映画と文学」志賀直哉・小津安二郎 飯島正、飯田心美、如月敏」(17-34頁)

『松竹ウイークリー』No.22(1947年4月、松竹株式会社宣伝課)

「連続読物 小津安二郎作品2 長屋紳士録」
※冒頭を引用する。
 日本映画界の至宝小津安二郎監督が、いよいよメガホンを握った。
 日本映画の復興が叫ばれているとき、これは何たる快事であろうか。小津監督は昭和十七年『父ありき』を発表して以来、胸中に烈々たる映画愛を燃やしながらもメガホンを取る機会に恵まれず、今日に至ったのである。傑作脚本としてその映画化を待望されながら遂に当局の検閲の鋏によって闇に葬られたものに『お茶漬の味』があった。小津監督はこのとき激しい怒りを感じたようであった。小市民の生活に専らカメラを向けていた小津監督が、富裕階級の形式第一主義的な生活に皮肉な目を注ぎ始めたのは『お茶漬の味』であった。小津監督の胸中には、いつも人間の幸福を希求してやまぬ至高な愛情が流れている。小津監督が好んで描く小市民の世界にも、この愛情があればこそ、冷たい浮世に耐えて生活してゆけるのだ。

『近代映画』第三巻第五號通巻第十四號 五月特大號(1947年5月1日発行、近代映画社、42頁)

表紙:井川邦子・幾野道子
「スムースなクランク・小津組好調」(30‐31頁)
※写真説明「カメラの傍でポジションを計る小津安二郎監督のプロフィル‐東京上野動物園ロケにて」、「同じく動物園ロケ中の一点景―ペリカンの玩具を挟んだ飯田蝶子と吉川満子の対照が自然の可笑し味を誘います。何れも御両人の春風駘蕩的歓談スナップ。緻密な装置を凝らした長屋のセット。演技中の河村黎吉と飯田蝶子が見えます。上から順に、喜八の坂本武、おたねの飯田蝶子、田代の笠智衆、きくの吉川満子。

『松竹ウイークリー』No.23(1947年5月、松竹株式会社宣伝課、6頁)

「長屋紳士録
監督 小津安二郎
脚本 池田忠雄、小津安二郎
配役
梗概  」

『キネマ旬報』第十三号(1947年5月1日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:オリヴィア・デ・ハヴイランド
飯田心美「日本映画批評 長屋紳士録」(30頁)
※冒頭を紹介する。「この映画を見て第一に感じたものは、画面に漂う清潔な感触である。それは主として画面構図そのものから来たものであるが、物語の構成にうかがえる作者の無駄を排した素朴な話し方から来るものでもある。」
「撮影所通信(4月25日調査)松竹大船 小津安二郎は「長屋紳士録」を完成。」(36頁)
「フォト随筆 ある日の志賀先生」(39頁)
※一部抜粋する。「世田谷区新町の志賀直哉先生をお訪ねすると、里見弴氏と廣津和郎氏がみえられてい、私の持って行った映画雑誌のページを繰りながら、里見さんが-デコちゃんたあ一体何者だい。というと、志賀先生は笑いながら、-デコちゃんを知らないようじゃ、伊吾は映画を語る資格がないよ。(伊吾というのは里見さんの学習院時代の筆名である。)」

『新映画』第四巻第五號(1947年5月1日発行、日本映画出版株式會社、36頁)

表紙:田中絹代
「小津安二郎 遂に立つ 長屋紳士録」(14‐15頁)
池田忠雄「おっちゃんの事」(15頁)
※スチル「長屋紳士録」、ショット「カメラを覗く小津監督」あり。

『松竹映画宣傳資料 長屋紳士録』(1947年5月20日発行、松竹株式会社、1頁)

「長屋紳士録 小津安二郎帰還第一回監督作品
すたっふ、きゃすと、解説、小津安二郎作品目録、宣傳文案、放送原稿、梗概」

『東横ウィクリィ』No.7(1947年5月20日発行、白牡丹内ニツトク社、6頁)

「長屋紳士録 
 監督 小津安二郎
 脚本 池田忠雄・小津安二郎
 撮影 厚田雄春
 キャスト
 梗概
 新橋メトロ飛行館」(2頁)
 

『映画ファン』第七巻第六號通巻第七十號(1947年6月1日発行、映画世界社、34頁)

表紙:水戸光子
大黒東洋士「小津安二郎と『長屋紳士録』(表紙裏)
「みんな子供になって 賑やかな大船文化祭 J踊るのではなく、歩いている小津安二郎と井川邦子」(10―11頁)
※4月27日に、松竹大船恒例の文化祭が催された。当日は、よいお天気に恵まれて、早朝から大船駅は押すな押すなの人波で混乱を呈した。約二万人の群衆をむかえて、大船撮影所に臨時の出札口ができるという騒ぎであった。
「読者討論会・第二回 原節子論」(30―31頁)
「映画短評 「長屋紳士録」は小津安二郎久々の演出作品であり、脚本、演出、演技ともに一分のすきも無駄もない映画のお手本を見せてくれた。しかし、この映画は、数年前に小津監督が手がけてきた一連の市井物と変わるところがなく、その点で小津監督に新境地を期待した私には、なにか食いたりないものがあった。」(34頁)

『スクリーン・ステージ』第一號(1947年6月20日発行、スクリーン・ステージ新聞社、34頁)

表紙:イングリッド・バーグマン
小津安二郎「映画の文法」(18頁-19頁)
※二人の人物の視線をつなぐ線をカメラが横断する、切り返しのショットを何故使用するようになったのかについての小津監督自身の説明がなされている。

『キネマ旬報』第十五号(1947年7月1日発行、キネマ旬報社、34頁)

表紙:アイダ・ルピノ
「撮影所通信(6月7日調査)松竹大船 小津安二郎は次回作品準備中」(28頁)
登川直樹「厚田雄春」(34頁)
※冒頭を紹介する。「女房というものは、よほど偉くても、亭主が世間に頭があがらぬぐうたらだと、とかくそのかげにかくれて見忘られがちなものである。特に亭主が偉くても、女房の方もそれに匹敵する偉さを持ち合わせていないと、やはり顧みられることが多い。」「小津安二郎のよき女房訳が厚田雄春であることも見落とすことができない。」
「厚田家がキャメラのレンズを見ている」カット他。

『新映画』第四巻第六號(1947年7月1日発行、日本映画出版株式会社、34頁)

表紙:原節子
河上英一「映画批評」(30―31頁)
※小津監督の部分を紹介する。「小津安二郎帰還第一回演出作品『長屋紳士録』の焦点は、前作『父ありき』以来五年間前線にあって対インド向映画製作にあたっていたといくたびか報道された。その体験と時間がどれだけ小津イデオロギーを進展させたかにかかる。これを期待するのはぼくのまちがいだろうか。ともかく最大の不満は池忠に協力を求めた脚本と、相も変らぬ河村、坂本、笠、飯田、吉川を集めなければ、意図するものを発表できぬあまりにも消極的な態度である。例によって低いカメラの位置、片言隻句まで行き届いたダイアローグで、當今がさつな、そして軽薄極まる映画が横行する中では、まれにみる糞おちつきにおちついた作品ではあるが、昭和七年『生まれてはみたけれど』以来、十一年間の小市民的な小津作品のいずれにも、その作中人物に共感し得られたのに、この作品が観客席との間に深い溝を作っているのは、長屋の人々の人情の世界が全く実生活に裏付けされていないところに起因するのではあるまいか。なるほど繪面は焼跡のバラックに生きてはいるものの、昭和二十二年の時代感覚に故意に眼をつむった頗る観念的な人情噺以上のものではない。とりあげられる世界はいかにちっぽけで狭くとも、名匠は名匠らしくそこに内包された問題の解明を広く大きくありたく願うのはぼくひとりだけだろうか。」

『松竹』第二巻第八號(1947年11月1日発行、松竹事業部、34頁)

表紙:井川邦子
「スタジオニュース 小津安二郎監督 目下齋藤良輔と脚本執筆中」(22頁)

『キネマ旬報』No.760 第二十四号(1947年12月1日発行、キネマ旬報社、42頁)

表紙:リンダ・ダアネル
「特集 俳優の本質について」(12―21頁)
小津安二郎「性格と表情」(17頁)
※一部抜粋する。「表情がのうまい、まずいはおれに言わせれば問題じゃないと思う。大事なのは性格だな。性格をつかむことだと思うんだ。性格をつかんだ上で、感情を出すんでなければダメだと思う。」

『映畫春秋』第二十號(1947年12月10日発行、映畫春秋社、64頁)

表紙:グリア・ガアスン
津村秀夫「小津と吉村の作品」(9-17頁)
※小津の作品とは、ここでは、「風の中の牝雞」。

『月は上りぬ(假題)』台本(1947年発行、松竹撮影所印刷部、88頁)

紐綴じ
このシナリオは、『長屋紳士録』に続く戦後第二回作品として書かれたが、映画化されなかった。1954年に田中絹代監督が、一部改定の上、映画化した。シナリオは、『映画春秋』第10号(1948年)に掲載された。これは、『映画春秋』に掲載されたものと同じ内容である。

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