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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1946年の関連文献・資料

1946
『松竹』第一巻第三號(1946年8月1日発行、松竹事業部、34頁)

表紙:水戸光子(宍戸次郎撮影)
柳井隆雄「私の映画入門」(8‐9頁)
グラビア「遠く南の地に撮影下調べの爲にいた小津安二郎監督は、この度二年四か月ぶりで復員した。すっかり南方やけのした人懐こい顔の小津監督が才腕を吾々に見せてくれるのはいつだろう。恐らく今年の秋ごろには久しい間見られなかった小津作品が観られるに違いない。」「溝口さんと女性映画と言われる程溝口監督の撮った女性映画は数多い。撮影所の中庭に田中絹代と立った彼、いかなる作品を抱くや。」(この写真は、田中絹代を挟んで溝口監督と小津監督が並んでいる。)(31頁)

『近代映画』第二巻第八號通巻第七號(1946年8月1日発行、近代映画社、50頁)

表紙:原節子
「スタジオは大騒ぎ」(48―49頁)
※⑤「オッちゃん」こと小津安二郎監督が、南方から無事復員してきました。今は、千葉に引っ越して鋭気を養っています。我々がまた彼のリリシズムに酔わされる日も、あまり遠くはないでしょう。写真は大船撮影所でお歴々との記念撮影です。左から同じく復員の厚田雄春技師、日映の復員者新井勝之氏、佐々木啓祐監督、小津安二郎氏、佐々木康監督、木下恵介監督、脚本家柳井隆雄氏、野村浩将監督、脚本家津路嘉郎氏。(階段に座ったスナップで、皆スーツ姿である。)

『新映画』第三巻第八號(1946年8月1日発行、日本映画出版株式会社、34頁)

表紙:風見章子
有波米太「作家の系譜6 小津安二郎論」(26‐27頁)

『映画ファン』第六巻第四號(1946年9月1日発行、映画世界社、34頁)

表紙:原節子
「厳粛なる東京裁判を直視せよ。世界の視聴を集めて、日本が今裁かれている。映画界とて、この裁かれるものの枠内にある!」「小津安二郎、吉村公三郎、澁谷實帰還、田坂具隆病気快方に向ふ。持ち駒がそろそろそろって来た。この秋を待とう!」(1頁)
「ハガキ回答 齋藤達雄 一、あなたが初めて出演した恋愛映画の題名「落第はしたけれど」二、製作された年:昭和五年三月。三、演出者の名前:小津安二郎氏、四、あなたの相手役は?田中絹代氏。五、あなたは恋に成功したか 大学はカンニングの失敗で卒業できなかったが、恋人は獲得できた。反対に卒業した奴らは、就職難にあえいでいるといった話。六、その時の感想 今の年頃の娘さんが聞いたら、或いは噴き出すかもしれないが、その娘さんたちがまだおしめを引きずりながら、はいはいをやっていた自分、これでも私は真面目にラブシーンなどやったこともある。田中絹代氏、飯田蝶子氏等と。ただそれらの映画が恋愛映画とは言えないけれど、なぜならこれらの映画はほとんどがスラップステイクな喜劇の形式だったから。そういう意味で「落第はしたけれど」も、単なる恋愛映画じゃない。小津安二郎氏の細緻を極めた演出に、好ましいギャクの連発、ユーモアの流露、ペーソスの湧出、等々。特に私は下宿の二階への薄暗い階段での絹代さんとのラブシーンは、とても印象的で未だに私の頭から消えない。」(29頁)

『松竹』第一巻第五號(1946年11月1日発行、松竹事業部、34頁)

表紙:佐野周二
「噂 監督と住宅難 松竹大船では、小津安二郎、渋谷實、吉村公三郎と演出陣の三巨星が相続いて復員し、とみに活況を呈してきたが、この三人留守中に家族が疎開していた関係で、小津監督は千葉、渋谷監督が埼玉、吉村監督が茨城と、東京を股いだ大船とはおよそかけはなれた住居であるが、三人共早くも復員第一回作に取りかかり何かと忙しくなったが昨今の乗物地獄にはるばる遠方から通うのはとてもやり切れず「あんな苦労をして大船へ一寸皆の顔をみてくるようなもんじゃ」とスッカリ悲鳴をあげ、大船近くにせめて間借と探したが全然なく、仕方がないから三人共同演出で貸家貸室求むの広告映画でも作ろうかと相談中」(13頁)
「スタジオ往来 小津安二郎監督目下だ一回作品自身銓衡中である。」(28頁)
グラビア「撮影所のひととき 小津安二郎の南方やけの顔と健康的な佐野周二に、右が最近好演技を示す三井秀男」(34頁)

『光 LA CLARTE』第二巻第十一號(1946年11月1日発行、光文社、64頁)

表紙:憩へる農夫(ミレー)
小津安二郎「映畫一班」(53―55頁)
※冒頭を引用する。「この二月に外地から帰還して、もう半年になるが、東京へ出るには半日がかりの田舎ぐらしで、たつきの映画も、あまりというより殆どみていないから、最近の映画について知ることは、まことにうすい。けれども外地生活の間、百数本の劇映画をみているから、それを手懸りに今後の日本映画と、わたくしの製作について思いつくままに多少しるしてみたい。」(53頁)

伊丹万作『靜臥後記』(1946年12月25日発行、大雅堂、222頁)

「序」
※冒頭を引用する。「現在の健康状態から推すと、或は此の本は私の最後の随筆集と成るのではないかと思はれるが、もしもそれが私の思ひ過しであるなら私にとって是程幸福なことはない。」
「一咳一語」(11―56頁)
※「昭和十四年 七月十四日。金曜。曇後晴。小津君今日復員の由。」とある。

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