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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1941年の関連文献・資料

1941
『新映画』第一巻第一號 新年號(1941年1月1日発行、映畫出版社、146頁)

表紙:「戸田家の兄妹」坪内美子・高峰三枝子 小津安二郎作品
※編集後記に次のようにある。「表紙はいささか甘い調子になってしまった。之も勝手がわからないので見当がつかなかった。このことで、わざわざこの為に、一日をさいて、演出の労をとられた小津安二郎氏にお詫びしなければならない」つまり、この表紙の演出は、小津安二郎そのものであることが分かる。

『心斎橋松竹』(1941年1月15日発行、心斎橋松竹、4頁)

「近日上映の戸田家の兄妹 小津安二郎帰還第一回作品
「日本の美徳」-家族の問題を取り上げて革新日本一億に愬ふる秀麗情操の一篇です。銃火咆哮する大陸に戦ふこと数百日-小津安二郎の心懐に宿るものが、この一篇を通して諸君の前に拡げられるのです。御期待ください。」(1頁)

『銀映週報』第百五十七號(1941年1月30日発行、銀座映画劇場、6頁)

「戸田家の兄妹 松竹大船映画小津監督帰還第一回作品」(6頁)

『新映画』第一巻第二號 二月特別號(1941年2月1日発行、映画出版社、146頁)

表紙:「白鷲」入江たか子
「映画界ニュース解説 松竹の新動向 小津安二郎は、「戸田家の兄妹」の次には、かねて脚本の出来ていた「父ありき」を予定している。(2頁)
半頁(縦)広告「戸田家の兄妹」(4頁)
「昭和十五年の映画はどうであったか 内田吐夢、小津安二郎 本誌南部圭之助」(82―87頁)(12月12日)
※小津監督の言葉を幾つか拾ってみよう。「『駅馬車』は面白かった。あちこちと『駅馬車』の批評を見たが、批評家ももっと直截に物が言えないものかね。面白いことは一応認めながら、書いていることは右顧左眄したものの言い方なのだ。他の人の顔色は覗かなくてよろしい。ああいう写真は批評家も面白がって見ていいんだよ。」「ハワード・ホークスは、アメリカには珍しいカットの細かい人だね。キング・ヴィドアなんかに比べて二倍以上細かいんじゃないかな。」「僕はデュヴィヴィエはあまり好きじゃない。精力的なところは買うけど‥。ルネ・クレエルの方が遥かに好きだね。」
※この鼎談は、1940年12月12日、小津監督37歳の誕生日に実施されている。

『映画旬報』第四號(1941年2月21日発行、映画出版社、82頁)

表紙:「戸田家の兄妹」桑野通子、高峰三枝子

『新宿松竹週報』第五十四號(1941年2月22日発行、新宿松竹館、6頁)

「小津安二郎帰還第一作 戸田家の兄妹
 久しきにわたる沈思のうちに、小津安二郎の想念やうやく昻り、ここに日本の家族制度の中核に鋭く喰い込んだ!昨日の碁石に今日の生活はたてられる。現代人の思想と道徳に深い反省を求める問題作!」(表紙)
「小津安二郎帰還第一歩」(3-4頁)

『神田松竹映画劇場』NO.162(1941年2月22日発行、神田松竹映画劇場、6頁)

「次週封切『戸田家の兄妹』」(表紙)
「松竹大船作品 小津安二郎帰還第一回作品 戸田家の兄妹 転戦三年弾雨のもとに巨匠は何を考えたか!」2-4頁)

『銀映週報』第百五十八號(1941年2月22日発行、銀座映画劇場、6頁)

「銀映千一夜 帰って参りました 佐野周二」(2頁)
※一部抜粋する。「特に私は小津監督の帰還第一回作品『戸田家の兄妹』に私自身の身に引き較べて最大の期待をかけております。小津監督は勇敢に戦って見えたのだ。そして恐らくは一演技者としての私より数十倍の人間として鍛錬を成し遂げて来られたに相違ない。この大作に吐露されるであろう小津監督の精神の息吹!それを私は一日も早く感じたいと思っております。」
「銀映映画辞典 小津安二郎監督作品に就いて」(6頁)

『中劇だより』第五十八號(1941年2月25日発行、名古屋 中京劇場、6頁)

「春を呼ぶ世紀の待望篇戸田家の兄妹遂に完成!
 次週一日大封切決定
 今年こそは松竹の天下だ!暴れ暴れて暴れまくる!
 スパイはあなたの側にいる」(表紙)
「佐野周二来る 時・三月二日 一日限り!
 戸田家の兄妹
 小津安二郎万歳待望久しき名匠が霊腕の冴え!
 群画、色を失ふ本年度の王座!」(2-3頁)

『有楽だより』(1941年3月1日発行、福岡市東中洲有楽館、4頁)

「小津安二郎帰還記念作 戸田家の兄妹 見おとしてはいけません!」(表紙)

『銀座映画劇場鑑賞券』「戸田家の兄妹」(1941年3月1日発行、銀座映画劇場、1頁)

「巨匠 島(ママ)津安二郎帰還第一回作品 脚本池田忠雄」

『新宿松竹週報』第五十五號(1941年3月1日発行、新宿松竹館、6頁)

「今週のプログラム 日本ニュース、文化映画:牧場・初島、戸田家の兄妹」(2頁)
「戸田家の兄妹 スタッフ、キャスト、梗概」(3-4頁)
「清水宏おぼえ書」(3-4頁)

『エンギザニュース 豫告のしほり みかへりの塔・戸田家の兄妹』(1941年3月1日発行、エンギザ)

戸田家の兄妹、桑野、高峰、佐分利、坪内、三宅、五大スター共演、これはまた素晴らしい魅力!
名匠小津安二郎作品

『札幌松竹座御案内』(1941年3月6日発行、札幌松竹座)

小津安二郎監督・帰還第一回作品
戸田家の兄妹
いのちといのちが火花する弾雨のもとに、転戦三年その中で小津安二郎は何を考えていたであろう!
そして、今ここに戦塵と共に持ち帰ったものは何であろうか?
私達はそう思っただけでも気余の待望がやっと果されることに大きな喜びを感じないでは居られない。
名匠小津安二郎の問題作は遂に完成したのだ。

『圡市劇場 戸田家の兄妹』(1941年3月8日発行、圡市劇場、1頁)

発行日がないので、封切日直近の3月8日とした。
「日本の家族制度の中核に鋭く食い込んだ!昨日の基石に今日の生活はたてられる現代人のイデオロギーとモラルに深い反省を求めて止まない問題作!」

『映画旬報』第七號(1941年3月11日発行、映画出版社、94頁)

表紙:「歌女おぼえ書」水谷八重子
「技能審査管見 技能審査委員控室での吐夢と小津。小津曰く「早く映画監督になったばっかりに落第のうきめにをのがれたようなもんだね、われわれは‥」、内田これに答えて「どうだい、許可証を返還して受験してみたら、誰が何と言っても、俺はきみに落第点をやる。」(11頁)
「演出家受験者名簿をひろげて吐夢が「星島二郎というひとね、「限りなき前進」の一部を廻してくれたカメラ・マンだよ」「そうか、僕はこの人に漢口で会った。朝日ニュースでやってきていた。」と安二郎。昨日の知己、今日は受験生。(12頁)
「”戸田家の兄妹”批評特輯」(32-38頁)
内田岐三雄「演出」(32-33頁)
田中敏男「撮影」(33-35頁)
伊藤龍雄「演技」(35-36頁)
野口久光「装置、音楽、録音」(36-37頁)
筈見恒夫「小津安二郎、一つの成長」(37-38頁)

『映画旬報』第八號(1941年3月21日発行、映画出版社、84頁)

表紙:「誓いの休暇」インゲボルグ・テーク、ロルフ・メエビウス
「封切映画興行価値 戸田家の兄弟(ママ)」(71頁)
※「名監督の定評が一般観客にまで侵潤している小津安二郎の帰還第一作である。」

『日本映画』第六巻第四號(1941年4月1日発行、大日本映画協會、300頁)

「特集批評・戸田家の兄妹」(90-
中村武羅夫「「戸田家の兄妹」を見て」(90-93頁)
澤村勉「「戸田家の兄妹」」(93-95頁)
小堀杏奴「「戸田家の兄妹」を見て」(95-98頁)
山根銀二「音楽から見る」(98-100頁)
古志太郎「「戸田家」をめぐる感想」(100-102頁)

『改造』第二十三巻第七號(1941年4月1日発行、改造社、512頁)

津村秀夫「小津安二郎論」(222―227頁)
※「戸田家の兄妹」を中心に展開されている。

『新映画』第1巻第4號(1941年4月1日発行、映畫出版社、130頁)

表紙:清水宏作品『歌女おぼえ書』原案デザイン岩田専太郎
「戸田家の兄妹」ロケ撮影グラビア2カット(13頁)
「戸田家の兄妹 戸田本邸・セット カメラ・プラン 設計:浜田辰雄 撮影:厚田雄春」(15‐19頁、119頁)
※セットとカメラ・プランが図とカットのショットにより詳細に解説されている。
「映画協会で実施された第二回技能審査のスナップ・ショット(小津監督と内田吐夢監督)」(45頁)
「戸田家の兄妹・検討」里見弴、溝口健二、内田吐夢、小津安二郎、池田忠雄、津村秀夫、南部圭之助」(48―57頁)

『映画旬報』第九號 春季特別號(1941年4月1日発行、映画出版社、160頁)

表紙:「十日間の人生」井上正夫、田中絹代
グラフ「わが師を語る 小津安二郎先生 原研吉」(20頁)
「城砦合評 主として演出について 田坂具隆、内田吐夢、清水宏、小津安二郎、内田岐三雄、筈見恒夫、清水千代太」(107―114頁)

『寫眞文化』第22巻第5號(1941年4月20日発行、アルス、120頁)

「小津安二郎戦線寫眞集」(522―528頁)
「映画技術から学ぶもの(二) 小津安二郎氏に『映画と寫眞をきく』」(572―575頁)
※「小津安二郎戦線寫眞集」(522―528頁)には、合計8枚の寫眞が掲載されている。タイトルが掲載されているものは、以下の4枚である。「春日水浴圖」、「かい掘り」、「残暑河を渡る」、「盛夏船艙」。616頁の「編集後記」では、以下のように述べられている。全文引用しよう。「小津安二郎氏の戦線で撮影された作品を拝借したいといふ事は、ずいぶん前から考へてゐた事なのですが、本月やっと非常な御厚情のもとに拝借することが出来ました。映畫を通して描き出される氏の温い人間味、それが戦場にあふれて刮目すべき戦線寫眞であります。敵性国家の寫眞による逆宣傳に使はれ易い作品は避けねばならず、特に戦争と人間を對照とした優れた寫眞は、平和になって幾年か後でなければ世に現れない、と痛感します。」
「映画技術から学ぶもの(二) 小津安二郎氏に『映画と寫眞をきく』」は、田中眞澄編『小津安二郎全発言 1933~1945』(1987年6月10日発行、泰流社、308頁)に収録されているが、小見出しは、全てカットされているので、ここに掲載する。「戦争体験と寫眞」、「カメラアングルの決定」、「説明的要素とドラマ的要素」、「俳優と演出の指導」、「クローズアップの問題」、「ロケーションの場合」。573頁に映画撮影中の小津監督のカット、574頁に中国戦線で撮影された山中貞雄監督とのツーショットのカットが掲載されている。そこには、「日本の映画界の代表的な二人の名監督、左、小津安二郎氏と、右、故山中貞雄氏、相前後して出征され、不幸、山中氏は名誉の戦死をとげられた、戦場で二人並んで寫した軍服姿のただ一枚の記念寫眞。」のキャプションがある。

『築劇ニュース』五月八日版(1941年5月8日発行、築劇、4頁)

「待望愈々! 近日公開 戸田家の兄妹」(2-3頁)

『映画旬報』第十三號(1941年5月11日発行、映画出版社、90頁)

表紙:「愛の砲術」市川男女之助、市川登美
「準備中の各社新作 松竹大船 「父ありき」小津安二郎の帰還第二回監督作品で、自身及び池田忠雄、柳井隆雄との共同脚本を更に改定中。」(22頁)

『新宿第一週報』第三十五號(1941年5月22日発行、新宿第一劇場、6頁)

「戸田家の兄妹 スタッフ、配役、梗概」(2-4頁)

大日本映畫協會編『映畫演技學讀本』(1941年8月10日発行、大日本映畫協會、324頁)

小津安二郎「第六課 映畫演技の性格」(168-184頁)

『映画評論』第一巻第九號(1941年9月1日発行、映画日本社、134頁)

「追想・山中貞雄」
稲垣浩「山中貞雄の追憶」(54頁)
三村伸太郎「身邊風景」(55―56頁)
岸松雄「追憶・山中貞雄」(56―57頁)
※岸松雄の文章の後段を引用しよう。「山中貞雄の碑が菩提寺の境内に立つ。碑の文字は総計六百字内外。小津安二郎が書いたものである。「山中ほどの仕事をしてもそれが僅か六百字内外に詰めて語られてしまふかとおもうと淋しいな」とあまり上等でない珈琲をすすりながら小津安二郎はぼそぼそと私につぶやいて、「しかし俺たちが死んだってこんな碑は建ちつこないんだから、まあそう考えれば幸福な奴さ」とその後へつけ足した。」
「撮影中の山中貞雄監督」(63頁)
「山中貞雄作品スチル集」(64―65頁)
筈見恒夫「山中四周忌」(65頁)
「世界映画通信 日本(8月19日現在)松竹大船 小津安二郎 帰還第二作「父ありき」は池田忠雄、柳井隆雄との共同脚本も脱稿し、配役も笠智衆、佐野周二、津田晴彦、水戸光子、佐分利信、日守新一などで編成を終えたので、上越飯田方面に撮影担当の厚田雄春とともにロケハンに赴いている。」(110頁)

『映画旬報』第二十四號(1941年9月1日発行、映画出版社、62頁)

表紙:「桜の國」水戸光子
「至道院四回忌」(22頁)
※一部引用する。「至道院殉山貞雄居士の四周忌も近い。右の碑文は三周忌法要に際して建立される筈の碑のためのものである。文は、日本映画雑誌協会理事長田中三郎のものとするところ。之を小津安二郎が執筆した。天才的映画人であった山中貞雄の麗もこの碑を贈られて、定めし地下に微笑むであろう。」以下、碑文全文が掲載されている。軍服姿で歩兵銃を持つ「在りし日の山中貞雄監督」。
「小津安二郎 人と藝術」(25-30頁)
岸松雄「人間即映画」(25-26頁)
※一部引用する。「‥ところが帰還した小津安二郎を迎へた時、私はおやおやと思った。見たところ出征前とあまり変っていない。マラリヤのため少し痩せたと言うが、それとても際立ってどうかうということはない。話をしても戦争の話ひとつするでなし、他愛ない雑談に時のうつるのも忘れるほどであった。どこにも昂奮の様子が見えない。大陸で結んだであろう映画の夢、それすらもうすつかり戦塵と共に洗い落したかのようである。盃をあげてその無事を祝し酔うて小説界の近状に及べば、里見弴はますます立派であり志賀直哉はいよいよ偉いをくりかえす。小津安二郎は変わらない、と私に思わせる。そこが変ったところである。ありていに言えば、小津安二郎は変わった。ただその変り方がいかにも彼らしい変り方をしたまでのことである。職場という巨きな舞台を通って来ながら肩ひとついからすでなく眉毛一つ吊り上げるでもない。昔通りの小津安二郎である。むしろ彼にも亦多くの人と同じような或る種の目立った変り方や昂奮を期待していた私の方によりいやらしいジャーナリ屋的な気持が動いていたことを恥じる。しかも彼はこんなような迎え方をした私を別段怒るでもなく、今年から俺は年に四本撮るつもりだよと嘯くようにいうのである。フィルムの潤沢な時でさえ、寡作をもって聞こえたこのひとが今時こんなことをいったって、ひとびとは冗談事のようにおもふかもわからないが、戦争に征く前にだって彼はよくそんなことをいっていたものだ。こんなわけで戦地から帰って来た小津安二郎から私はいまだによく戦争の話も訊いていなければ戦争映画の抱負もきいていない。戦地に於ける蚤について書いた随筆がさきごろ朝日新聞に載っていたが、それは恐らく彼が帰還後に書いた二、三の文章のうちの一つにちがいない。帰って来てからもう二年もたっているというのに文章でさえ碌に発表しようとしない。そういえば、彼は「映画界には言葉が多すぎる」といっている。」
中村武羅夫「小津安二郎氏の芸術」(26-27頁)
内田岐三雄「断章-小津安二郎-」(27-29頁)
※一部引用する。「小津安二郎が文をよくすることは、既に知る人も多いであろうが、かつて「映画往来」の編輯に僕が関係していた自分、僕の乞いを容れて、二度寄稿してくれた。その時の筆名は乙雀。撮影所内の愛称小津ちゃんをもじっての二字。これも助監督時代のことである。」
清水崑画「小津安二郎像」(28頁)
筈見恒夫「「父ありき」について」(29-30頁)

『中劇だより』第八十三號(1941年9月4日発行、名古屋 中京劇場、6頁)

「天下の風雲を呼ぶ『父ありき』遂に撮影の火蓋切らる!
 右より 佐野周二・佐分利信・名匠小津安二郎監督」(表紙)

『東宝四階劇場ニュース』71(1941年9月11日発行、東宝四階劇場、4頁)

「次週上映「一人息子」の飯田と葉山
今週の番組 山中貞雄追悼週間 場内にて山中貞雄追悼展開催中」(表紙)
※山中貞雄は、1938年9月17日に逝去。3頁に「今年はその四回忌に当たる」とあるので、発行年はないが、1941(昭和16)年であることが分かる。「次週十八日より、「一人息子」と「空の少年兵」の上映とあるので、後者から、その年が、昭和16年であることが分かる。

『東寶』第九十三號(1941年10月1日発行、東寶発行所、160頁)

筈見恒夫・岸松雄・萩原遼・武山政信・藤田潤一・三村伸太郎・林文三郎・小津安二郎・清水宏『故山中貞雄を偲ぶ-座談会―』(98-103)(九月二日・於銀座富多葉)

『映画評論』第一巻第十號 特別號(1941年10月1日発行、映画日本社、118頁)

池田忠雄・柳井隆雄・小津安二郎「シナリオ 父ありき」(16‐31頁)
野田高梧「進みべき道」(44―46頁)
池田忠雄「随録」(74―75頁)
「世界映画通信 日本(9月2日現在) 松竹大船 小津安二郎 国民映画「父ありき」のロケハンを終へスチル撮影および諸般の準備中である。」(126頁)

『新映画』第一巻第十號(1941年10月1日発行、映画出版社、126頁)

表紙:「桜の國」高峰三枝子
「グラヴィア 小津安二郎監督の新作「父ありき」の本読みがすんだ。右より佐野周二、佐分利信、小津監督。これまた、「指導物語」と共に現代劇の花形である。」(29頁)
「グラヴィア 山中貞雄賞設定」(32―33頁)
※「おそらく、日本映画有史以来、最も純粋なるシネアストとして呼ばれ得る者は、故山中貞雄氏一人であろう。」(32頁)
山中会「山中賞制定由来」(64―65頁)
※一部抜粋する。「以下少しく会員の顔ぶれを紹介しよう。まず監督仲間としては井上金太郎、井上さんには公私とも大変お世話になったと山中貞雄は遺書のなかにさえ書いているほどである。秋山耕作は現在大船へ転籍になったがまだ下加茂にいた頃、それも山中貞雄がデビュウした昭和七年前後には時代映画の新鮮ないぶきを與へるような仕事を次々に示したものだった。大船では清水宏、小津安二郎の二人。山中貞雄がいかにこのひとたちに啓発されたかわからない。小津作品が封切られるやいの一番に駆けつける山中貞雄。シナリオの話をしていて、ふと「清水は天才やからな」と羨ましそうに言う山中貞雄。」(64頁)
「戸田家の兄妹」のスチル写真(75頁)
「フィルム制限と各社 松竹大船 準備中のものは小津安二郎の「父ありき」‥「父ありき」は情報局の国民映画出品予定であるから制作をするだろう。」(76頁)
「ベストテン一覧 昭和九年-十五年 日本映画の部(そのニ)(84―87頁)

『菊水館週報』第百拾壹號(1941年10月8日発行、菊水キネマ商会直営菊水館、4頁)

「小津安二郎帰還第一回作品 戸田家の兄妹 大船が贈る超豪華巨編 文部省推薦」(1頁)

『映画旬報』第二十八號(1941年10月11日発行、映画出版社、62頁)

表紙:「川中島合戦」市川猿之助
「父ありき 待望の国民映画 愈々登場!」
演出:小津安二郎
脚本:池田・柳井・小津

『映画旬報』第二十九號(1941年10月21日発行、映画出版社、82頁)

表紙:「君と僕」文藝峰
「撮影所早耳帖 「父ありき」のロケーションは、金澤と決まったが、小津安二郎監督は、まだ撮影にかかっていない。笠智衆に代わって、小杉勇が、お父さん役で特別出演という噂があったが、今回はついに実現を見るに至らなかった。小津監督と小杉の顔合わせ、小杉と佐野周二の顔合わせ、‐玄人筋さへ狂喜させたろうに!」(23頁)
池田忠雄「今までの作品」(36―37頁)
※「小津安二郎氏の帰還第一回作品「お茶漬の味」は、われわれの苦心にもかかわらず遂に日の目を見ることが出来ない始末となった。‥」その後、「戸田家の兄妹」について書いている。

『映畫之友』第一巻第十一號(1941年11月1日発行、映畫世界社、96頁)

表紙:「次郎物語」より轟夕起子
グラビア「父ありき 大船撮影所小津氏の部屋にて、小津氏を真中に左が出演者佐分利信、右が津田晴彦。」(3頁)
※三人の背に「戸田家の兄妹」のセットの中にあった屏風がある。小津監督自身の書からなる「鯛夢出鳴門圓也(タイム・イズノット・マネー」が見える。
「季節の展望」(17頁)
③三十歳の若さで戦病死した山中貞雄が、わが國の映画界に残した業績は決して少ないものではない短かった山中貞雄の生涯を忘却せぬよう、山中の精神を映画界に生かすようにと、山中賞がこの程設定された。これは九月十七日の命日に、京都雄大〔ママ〕寺に於ける山中忌のスナップで、井上金太郎、清水宏、小津安二郎、筈見恒夫の諸氏。
岸松雄「監督に秋の大作を訊く 父ありきを小津安二郎監督に訊く」(28‐30頁)
稲垣浩「雑記帳 山中忌」(46頁)

『中野映画劇場』(1941年11月6日発行、中野映画劇場、4頁)

「戸田家の兄妹 高峰三枝子、坪内美子」(1頁)
「次週上映 戸田家の兄妹 巨匠・小津安二郎作品」(2頁)
※「名監督の定評が一般観客にまで浸潤している小津安二郎の帰還第一作である。内容は富が人間性をそこなふテーマを上流家庭の家族を中心にして描いたものである。小津の倫理は観者の感性に深く滲みる訴求力を有している点、感銘価値豊富な作品である。単に都心の映画観客だけに鑑賞されるものではなく、ひろく、ふかく一般に通ずる感動をこの映画は孕んでいる。中略 由来小津安二郎の映画はその高き藝術価に比して、興行様態がさんたんたることを常とし、栗島すみ子・岡田時彦主演の「お嬢さん」を除けば一本のヒット作品もない非難を浴び続けて今日に至った。今回の小津作品が遂に作品価値と興行価とを立派に併有することを得たことには、さまざまな理由があるとしても所謂事業的な常識に則せず、よし興行に逃るるとも小津の厳粛なる匠魂を貫遂させ、今日の円満なる境地に到達させた城戸四郎のプロデューサー・ワークは製作界の範として讃賞す可きものである。小津作品に押し寄せる厖大な観衆をみて松竹大船撮影所長は感慨深きものがあったに違いない。」(映画旬報)

『映画旬報』第三十一號(1941年11月11日発行、映画出版社、58頁)

表紙:「女医の記録」田中絹代
「製作便り 松竹の「父ありき」(池田忠雄、柳井隆雄、小津安二郎原作脚本、小津安二郎監督)も十月末より、撮影を開始した。」(15頁)
「広告 父ありき」(30~31頁の間)
※画像のもの
「山中貞雄追悼週間 梅田小劇場でも開催」(55頁)

『映画旬報』第三十二號(1941年11月21日発行、映画出版社、62頁)

見開き広告「父ありき」(広告6-7頁)
「内田吐夢 小津安二郎対談」(4-7頁)
※冒頭を引用する。
小津 いつ発って、いつ帰ったの。
内田 八月一日に発って、十月二十日に帰った。
小津 八十日いたわけだね。台湾にどのくらいいたの?
内田 台湾に一月-。
小津 端の端まで行ったの?
内田 鵞鑾鼻という南の端から東海岸の台東街、これは実に風景のいいところで、それを廻って花蓮港に行き、そうして台北へ帰って来て、基隆から三日三晩かかって廣東に着いた。廣東に一週間ばかりいて、澳門-ポルトガル領の東洋のモナコというところだが、澳門に五日だったか、一週間ぐらいいた。また廣東へ帰って来て、廣東から飛行機で上海に飛んで、それで南京へ行って、そうして総軍報道部の嘱託になって漢口へ飛行機で飛び、それから湖南戦線へ前進した部隊と一緒に‥
小津 歩いたの?
内田 歩いた場所もあるが、殆どトラックだった。
小津 台湾へは何で行ったの?
内田 これは結局勉強に行ったわけだ、いっちゃ變んだけれども‥。

『映画』第一巻第十二號(1941年12月1日発行、映画宣伝総合會、102頁)

「国民映画特輯 父ありき」(12―13頁)
「随想 小津安二郎」(36―37頁)
※小津監督の直筆署名、

『映画旬報』第三十三號(1941年12月1日発行、映画出版社、66頁)

表紙:「父ありき」(笠智衆、津田晴彦)
「「父ありき」はじまる」(11頁)
「父ありき」(24頁)
※この映画は、名匠小津安二郎が「戸田家の兄妹」の次に放つ帰還第二回作品である。この脚本は、小津監督が応召出征前より考想三年に及び、帰還後大船脚本部の精鋭池田忠雄・柳井隆雄と協力して新しく改稿したものだが、彼小津の執拗な現実凝視とその卓抜の演出技術は、その素材を見事に藝術化することと思われる。

『新映画』第一巻第十二號(1941年12月1日発行、映画出版株式会社、106頁)

表紙:綿谷哲郎画
「グラビア 父ありき」(5頁)
※笠智衆、津田晴彦を演出する小津監督他。
「内外製作だより 本邦 松竹 小津安二郎は「父ありき」の信州ロケーションから開始した。一週間の予定で、金澤に至る。俳優は笠智衆と子どもたちである。」(96頁)
「新年號予告 「父ありき」演出ノート」(98頁)
※新年号では、小津監督から「父ありき」の演出ノートを拝借し、公開するとあるが、この企画は、新年号を見る限り、なくなったと思われる。

『中劇だより』第九十六號(1941年12月17日発行、名古屋 中京劇場、4頁)

「天下を湧かすぞ此一篇!!
 名匠・小津安二郎の父ありき
 一億火の玉!米英打倒!」(表紙)

『聚樂館週報』No.35(1941年12月25日発行、神戸新開地聚樂館、4頁)

「構想三年戦塵の中になほも消えやらぬ名匠小津の秘材遂に結晶。
小津伝統はここいまた素晴らしい映画藝術を完成した!
父ありき
「父ありき」ができるまで
日本映画屈指の名匠小津安二郎の戸田家の兄妹」に次ぐ帰還第二回作品である。この脚本は、彼が出征前に、池田忠雄、柳井隆雄の二人と協力して書き上げたものであったが、日々変貌する社会情勢は、も早四年前のこの脚本を両びとりあげることは夢物語に近いやうな気持で、どうしても改稿する必要があった。それならば、きれいさっぱりと全部を捨て去ってしまへばいいと云えば云えるのであるが、父親の在世中はとかく父親の情愛に甘へて親孝行がおろそかになり、父親死して始めて親の恩、親の有難さを知るといふ父と子の愛情の切々さに小津安二郎の人間性が断ち難い愛着を持っているから、この「父ありき」の脚本も全部捨て去るに忍びないのであろう。この点からみると、前作の「戸田家の兄妹」に於いては、裕福な家庭であったが、「父ありき」の家庭は、あれ程裕福でなく、而も、没落しない、サラリーマンの家庭として描かれている。小津安二郎の小市民もの、それが時代の洗礼を受けて現代の一風景としてお説教するのでなく、極めて自然さをもってわれわれの胸を打つに違いない。今度の「父ありき」も、やはり池田忠雄と柳井隆雄の二人が協力している。主演には佐野周二が選ばれることになったが、戦場において、この二人がゆくりなくも邂逅したときに、「無事で帰れたら、二人でやろう」と誓い合った言葉が、今ここに実現するのである。」

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