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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1940年の関連文献・資料

1940
『キネマ旬報』No.702 新春特別号(1940年1月1日発行、キネマ旬報社、228頁)

表紙:オランプ・ブラドナ
小津安二郎、内田岐三雄、清水千代太「小津安二郎と語る」(123-126頁)
「本邦撮影所通信 東京 松竹」(12月9日調査)
▽小津安二郎は、帰還第一回作品として有閑階級への風刺と時局性を取り入れた自身原案の「彼氏南京へ行く」と決定して準備中。脚本は池田忠雄が執筆した。(195頁)

『映畫之友』第十八巻第一號(1940年1月1日発行、映画世界社、160頁)

表紙:ジーン・アーサア
「スタジオニュース 日本 小津安二郎監督の帰還第一回作品は、池田忠雄と共同で脚本執筆中であったが、この程いよいよ脱稿をみたので、新春早々クランクを開始することとなった。」(109頁)

『新映画』第十巻第二號(1940年1月4日発行、新映画社、110頁)

表紙:MYRNA LOV
小倉武志「小津安二郎はどんな映画を作るか 「彼氏南京へ行く」を語る。
※冒頭を引用する。
「二年余の戦陣をすっかり洗い落として、軍曹小津安二郎から映画監督小津安二郎にたち返ったその彼の第一回作品はどんな内容の映画であろうか。これこそわれわれが刮目して期待している課題である。(中略)私は待ちきれないで遂々小津監督を自宅に訪れて第一回作品の筋書きを聞かせてもらった。脚本は既に脱稿して、今池田忠雄氏が清書しているということであった。この脚本は、小津監督の腹案により池田忠雄氏と共同で執筆したものであるという。」以下、「彼氏南京へ行く」のあらすじがかかれている。
 最後に、「今度の作品は云わばこの(「淑女は何を忘れたか」)系統をゆくもので「有閑マダムは何を忘れたか」というべきものである。「この映画で一番むずかしいのは会話です。味のある会話だけが、この映画を面白くみせます。題名は今のところまだ決まっていないけれど。僕は、「彼氏南京へ行く」という題はどうかなと思っている。「お茶漬の味」というのも考えたが‥。」以下続く。

北川冬彦『散文映畫論』(1940年1月10日発行、作品社、211頁)

小津監督への言及は、例えば、「小津安二郎原作、八木保太郎脚色シナリオを読んだとき、恐らく、映画は、悲惨な事実を描きながらも、與える感銘は、明るい愉快なものだろうと考えていたところだが、内田吐夢の「限りなき前進」を見ると、意外にも、それは反対なのである。陰鬱なのである。それというのは、シナリオでは、北君という、青年のくせに妙にさとった、一寸得体の掴めない無職の男に力を入れてある。ところが、映画では、内田吐夢は、二十五年勤続のサラリーマン保吉を中心に、一篇の物語をくりひろげている。」(77-78頁)
「大森義太郎と「一人息子」」(189-191頁)などがある。

『映畫之友』第十八巻第二號(1940年2月1日発行、映画世界社、148頁)

表紙:キャロル・ロムバアド
「小津安二郎氏帰還第一回作「彼氏南京へ行く」のシナリオ、本誌次號に全載!」(19頁)
「次回作の抱負を訊く 小津安二郎氏に帰還第一回作品をきく」(48-49頁)
※一部抜粋する。「小津監督は私にあるときこう語ったことがあった。「世間の人は、自分の第一回作品をあるひは戦争ものか又は私が戦地で経験した事実などによって作るであろうと考えていられるかも知れないが、私としては二年間も泥の中に足をつっこんで来た今、またそのままの生活を仕事の上に持って来ることは一寸今はできない気がする。僕はもっと気楽な自分の身に合ったものを作りたい。」」

『映画ファン』第5巻第2號(1940年2月1日発行、映画世界社、140頁)

表紙:花柳小菊
「監督キャメラ訪問 小津安二郎氏を訪ねて」(36-37頁)
※冒頭を引用する。
「当分気楽に仕事をしたい!
聖戦に参加しせにゃを馳駆すること二年餘、天晴れ映画人の真価を示した小津安二郎監督は、今や銃執る手に再び懐かしいメガフォンを執ることになった。一度お会いして親しくその近況を知りたかったのであったが、帰還直前患ったマラリアが再発して病床にあるという話を聞き、私は戦争の苦しさが未だ小津さんの身体から離れないことを思い、今更のように小津ちゃんの二年余の苦闘を思うのであった。「明日は丁度身体が空いている。良かったら来給え。」という電話をもらった。案じていたマラリアも治ったという。何よりもそれが嬉しかった。小津ちゃんの家の閾をまたぐのはこれで二度目である。最初は小津ちゃんが元気に帰還した喜ばしい日であった。「今日は馬鹿に寒いね。北支はもう雪だ。寒かろう。」と小津ちゃんは窓外に目をやりながら分かれてきた戦友の身を思うのであった。ふと庭をみると、鶏頭が真っ赤な血の色をしていた。「山中はうちの葉鶏頭が好きだったよ。」と山中貞雄追悼会の時、小津ちゃんがしみじみと言った言葉を私は思い出した。「仕事はいつごろから始めますか。」「さあいつになるかな、いま漸く脚本が出来たところだ。池田君(池田忠雄氏)が今最後の手を入れてをしているよ。」「どんな話ですか!戦争ものですか?」「いや戦争ものじゃない。大体二年も戦地で生活していて、帰って来てすぐまた戦争を扱った仕事はできるもんじゃないよ。世間の人は僕の帰還第一回作品をどう考えているか知らないが、僕は当分気楽に仕事がしたいね。云わば自分の性に合った仕事をしたいね。と言っても、「一人息子」、「生れてはみたけれど」なんてのはもう作らんよ。戦争に行くと、凡ての考えが、肯定的になるんだ。それでなくちゃ戦争はできんのだ。まあ僕が変ったと言えば、それくらいのもんだね。」

『オール松竹』第十九巻第二號(通巻第二一一號)二月特別號(1940年2月1日発行、映畫世界社、132頁)

表紙:桑野通子
「昭和十四年度作品表 大船1監督の巻 小津安二郎-支那事変応召、昨夏帰還し作品なく「彼氏南京へ行く」の準備中。」(51頁)
「松竹スタジオ・ニュース 大船通信 小津安二郎氏は、帰還第一回作品は池田忠雄と協力の創作シナリオによる「彼氏南京へ行く」と決定。目下執筆中」(80頁)
「帰還勇士に訊く さあ第一回作だ!小津安二郎氏は語る」(112―113頁)
写真「語る小津監督、芝高輪の自宅にて 火鉢の前に座る小津監督」

山中貞雄『山中貞雄シナリオ集 上』(1940年2月20日発行、竹村書房、314頁)

装幀:小津安二郎
「街の入墨者」(5-44頁)
「帯とけ佛法」(45―78頁)
「風流活人劍」(79―98頁)
「なりひら小僧」(99―122頁)
「河内山宗俊」(123―190頁)
「人情紙風船」(191―258頁)
「薩摩飛脚 後篇」(259―304頁)
筈見恒夫「跋」(305―307頁)
三村伸太郎「巻末に」(308―311頁)
岸松雄「あとがき」(312―314頁)

『映畫之友』第十八巻第三號(1940年3月1日発行、映畫世界社、148頁)

表紙:ゲイリー・クーパー
「撮影所通信 松竹 小津安二郎の帰還第一回作品は、すでに池田忠雄のシナリオも脱稿され”お茶漬の味”という題名により、製作することになった。」(104頁)
「シナリオ お茶漬の味 池田忠雄・小津安二郎作」(136-148頁)

『國劇ニュース』NO.5(1940年3月7日発行、國際劇場、12頁)

「松竹大船スタヂオ通信 ◎お茶漬の味‥小津組(桑野、三宅、水戸、佐分利)‥近日着手」(5頁)
「野心大作 お茶漬の味 小津安二郎帰還第一回作品」(10頁)
※発行日がないので、今週の豪華三大プログラム筆頭の『美女桜後編』(大曾根辰夫監督)の封切日を発行日とした。
幻のお茶漬の味の広告が掲載された、國劇ニュース。「皆様の國際劇場は、松竹映画代表披興露行(ママ)劇場として松竹代表映画を封切上映」とある。

『映畫之友』第十八巻第四號(1940年4月1日発行、映画世界社、148頁)

表紙:マレーネ・デートリッヒ
「ライカに描く」
●小津安二郎監督は帰還第一回作品「お茶漬の味」が検閲を通過しないので大クサリ。清水オヤジは次回作品、どうやら感化院物と内定。だがその次のものが一向アテなし。結局、野口晋徹宣伝部長が御両人のお小言の聞き役という訳。「なんかいい原作物はないですかね?」「僕は朝鮮を背景にしたものがほしいなあ」と小津つあんと清水オヤジは野口部長を困らせている。
小津監督と清水監督は室内でコート、小津監督は黒いマスクをしている。
小津安二郎・清水宏・瀧澤英輔・岸松雄・筈見恒夫「『旅する人びと』合評」(109-111頁) 

『映畫之友』第十八巻第五號(1940年5月1日発行、映画世界社、148頁)

表紙:コリンヌ・リユシエール
北川冬彦「小津安二郎への手紙」(66頁)
「シナリオ「お茶漬の味」読後感」(74-77頁)
内田岐三雄「「お茶漬の味」を読んで」(74-75頁)
飯島正「「お茶漬の味」を読む」(75-76頁)
飯田心美「お茶漬の味」の役割」(76-77頁)

『オール松竹』第十九巻第七號(通巻第二一六號)十八周年記念七月特別號(1940年7月1日発行、映畫世界社、112頁)

表紙:三浦光子
高倉京太「小津安二郎の帰還第一作は?」(52―53頁)
※冒頭を引用する。「小津安二郎の帰還第一作として予定された「お茶漬の味」は、ご承知の如く事前検閲の結果却下される事となった。そのシナリオの全貌は、姉妹誌たる「映画の友」に発表されて、映画関係者や批評家及び一般ファンの絶賛を受けたのであった。小津安二郎は何といっても現代第一線の映画作家であるということだが、そのシナリオを通じて今更の如く人々の脳裏に焼き付けられたのであった。」
「松竹スタジオ・ニュース 小津安二郎氏は、次回作品を準備中である。」(68頁)

山中貞雄『山中貞雄シナリオ集 下』(1940年9月20日発行、竹村書房、308頁)

装幀:小津安二郎
「中村仲蔵」(5-64頁)
「森の石松」(65-118頁)
「鼠小僧次郎吉」(119―146頁)
「口笛を吹く武士」(147―172頁)
「盤獄の一生」(173―204頁)
「武蔵旅日記」(205―240頁)
「磯の源太 抱寝の長脇差」(241―258頁)
「戀と十手と巾着切」(259―287頁)
「戦線手記(遺稿)付・戦線便り」(289―308頁)

『文藝』第八巻第十號(1940年10月1日発行、改造社、280頁)

「小津安二郎帰還第一作シナリオ 『戸田家の兄妹』小津安二郎・池田忠雄共作」(104―154頁)

『映画之友』第十八巻第十號(1940年10月1日発行、映画世界社、136頁)

表紙:高峰秀子(早田雄二・撮影)
「次回作品の抱負を訊く 小津安二郎に「戸田家の兄弟」をきく」(66-67頁)
※冒頭を引用する。
「お茶漬の味」を中止して以来、小津安二郎は、再び池田忠雄と第一回作品の脚本に取り掛かった。五月の始め頃だった。その後三か月余、この程漸く脱稿をみた。「帰還してからまる一年遊んでしまった。尤も「お茶漬の味」がやれていたら少なくとも一本は作っているわけだが‥。原作ものやろうかと思って、いろいろ探したんだがね。結局また池忠さんとオリジナルつくることになってしまった。脚本というものは難しいもんだ。一年かかって大の男が二人よって二本しか書けないんだからね。
「日本映画通信」(109頁)
「小津安二郎新作決定 小津安二郎はいよいよ帰還第一回作品に着手する。作品は池田忠雄脚本執筆の「戸田家の兄弟」、原田(ママ)雄春のキャメラで帰還以来一年二か月振りに開始となった譯。

『オール松竹』(1940年10月1日発行、映画世界社、112頁)

表紙:田中絹代
「帰還勇士ハリきる 小津安二郎」(16頁)
事変が始まると同時位に出征した小津安二郎、戦線にあること二年半、
帰還してから一年三か月「お茶漬の味」が中止となって、改めて新作は
鋭意傑作を作り上げようと努力していたが、此のほど池田忠雄の脚本
を得て「戸田家の兄弟」を演出する事になった。
眞木潤「小津安二郎氏に」(30-31頁)
「昨夜の夕刊を見ると、あなたの帰還第一回作品は池田忠雄氏執筆の「戸田家の兄弟」と決定、厚田雄春氏のカメラで撮影に着手するむね発表されてありました。「お茶漬の味」が中止になったので、私たちもこれでようやく何年目かにあなたの作品に接することになったのですが、私一人の気持ちを言えば、まるでもうそはそはしながらその完成を待っていると言ってもいいのであります。こういうことは何もあなたに直接の関係はありませんが、私は映画を見る目を実に多くあなたの作品から教わって来ました。もし今日の私がいくらかの映画論を持っているとすれば、それはサイレント期からの小津安二郎監督映画に負うことが少なくないのです。」

さよなら後記
〇「オール松竹」の前進「蒲田」を創刊したのは、私が紺絣(こんがすり)の着物が似合う年頃だった。満十八年と三ヶ月、號を重ねる事ニニ〇號、日本映画雑誌中では最古参のキネマ旬報に次ぐ歴史を持つ本誌である。日本映画雑誌中最大の発行部数を誇った事もある本誌である。その本誌を、突然止めなくてはらなくなった。映画世界社として政府の新体制に沿う為の意に他ならない。読者諸兄姉よ、よくも今日まで本誌を慈しみ育てて下さった。お別れに際して深く感謝致します。(橘弘一路)
〇「オール松竹」が今月號を以って終刊となる。思えば創刊以来十八年、げにも恙(つつが)なく愉しき旅路であったもを‥‥。哀(ママ)別離苦とでもいうべきか。ただただ愛惜の念に堪えず。惟(おも)うに編集長として同誌を愛育して来たつた矢野健兒君の感慨たるや、切々として別れるに忍び難きものがあるのであろう。それを想う時暗然となる。然し今は個人的な感傷に浸るべき秋ではない。健ちゃんよ。別れていくものに元気に別れの挨拶を交わそうではないか。(大黒東洋士)
〇何とも言いようのない感慨にふけり乍ら、この後記を認めます。さぞや突然の事で驚きの事と思います。私自身でさえが驚いているのです。長い事よくこそご愛読下さいました。大きな時勢の変りです。なべて自粛の秋です。一雑誌の成敗など微々たることにすぎないというのです。長年、手塩にかけて来た本誌、去られたくないという気持ちの切なるものがありますが、既にして萬事は休したのであります。ああもし、こうもしたいと、本誌の今後への熱意は益々熾烈なるものがあったのでありましたが、諦念、一切苦を無にして、「映画ファン」へ合併し、第二の出発を計ります。盡(つ)きぬ別れを残して「オール松竹」は風と共に去ります。(矢野健兒)

『スタア』秋季特別號(1940年10月25日発行、スタア社、90頁)

表紙:水戸光子
グラビア「戸田家の兄妹」(24頁)
グラビア「小津安二郎 「淑女は何を忘れたか」を遺して戦線に立つてからもう三年、「お茶漬の味」中止依頼半歳、小津安二郎はいよいよ新年「戸田家の兄妹」にとりかかった。佐分利信の主人公の喋る台詞に小津安二郎の情感を乱すということは、われわれの単なるセンチメンタリズムなのであろうか。」(30頁)
筈見恒夫「小津安二郎 撮影開始!」(31頁)
カット「楽しい衣装調べ。みんな嬉しそうです。小津監督は丹念に、モノトーン・フィルタアで画面に現れる色の調子をみています。」
「東京・京都各社撮影所製作表(10月12日現在)松竹大船撮影所 戸田家の兄妹 セット撮影中、12月中旬封切予定」(72頁)
広告「山中貞雄シナリオ集 映画に生き、映画に死んだ若き天才の遺作集!故人の代表作傑作を悉く網羅!竹村書房」(90頁)

『松竹』第十一巻第十一號(1940年11月1日発行、豊国社、112頁)

表紙:高峰三枝子
「お訣れの言葉」(57頁)
本誌もこの重大時局に鑑み、率先して新体制の要請に応じ、本号を限り廃刊を断行し、僚誌『キネマ』に合体することにいたしました。
「戸田家の兄弟」(60-61頁)
「製作現況 ☆小津安二郎 池田忠雄との共同シナリオによる「戸田家の兄弟」を帰還以来初めて着手することに決定した。」(89頁)

『日本映画』第五巻第十一號(1940年11月1日発行、大日本映画協會、240頁)

北川冬彦「シナリオ時評 「戸田家の兄妹」(18-24頁)
※冒頭を引用する。「先に小津安二郎帰還第一回作品シナリオとして、「お茶漬の味」が書かれたが、これは事前検閲にひっかかり改作を要求された。当事者はあっさり撤回したため、映画化の運びに至らなかったが、シナリオ「お茶漬の味」はその風味のおっとりしたところ、いかにも戦陣より帰還した小津安二郎の想いが現われ、そのシナリオ技術の旨さは私をして、舌なめずりする思いで読ましめたものである。」(18頁)

『キネマ旬報』No.732 (1940年11月1日発行、キネマ旬報社、64頁)

表紙:入江たか子
「日本映画紹介 戸田家の兄妹」(27頁)

『新映画』第10巻第12号(1940年11月4日発行、新映畫社、110頁)

表紙:入江たか子
「戸田家の兄妹」(グラビア4カット)(10‐11頁)
※うち一枚は、「デパートに於ける衣装調べのスナップ・ショット」で、三宅邦子と小津安二郎監督がデパートの着物売り場にいるところが映し出されている。
「撮影所現場 戸田家の兄妹」(グラビア1カット)(49頁)
※「クランク開始のファースト・シーンです。坪内美子、近衛敏明のいる場面。左手帽子の主が小津監督。(松竹大船)」というキャプションがある。

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