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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1939年の関連文献・資料

1939
『キネマ旬報』新春特別号No.667(1939年1月1日発行、キネマ旬報社、318頁)

表紙:ジーン・アーサー
小津安二郎「手紙」(64―65頁)
※手紙、小津安二郎は、小津監督の直筆を使用。ライカを持つ軍服姿の小津監督のショットあり。
「内田吐夢、清水宏映画放談」(203-210頁)
※小津安二郎の手紙について言及している。
「本邦撮影所通信 松竹(大船) 小津安二郎は、出征中。」(254頁)
「昭和十三年十一月調査 撮影所主要従業員住所録 松竹大船撮影所 小津安二郎 監督部 芝区高輪南町二八(公務服務中)」(275頁)
「編輯後記 別項本文記載の原稿「手紙」に添えて小津安二郎氏が書いて送られた一文、この欄に掲げて置きます。池田」(318頁)として、小津監督の添え状を掲げている。小津監督らしく、添え状にも近況などが丁寧に書き添えられている。

「近日公開 原作・山中貞雄 その前夜」(1939年2月1日発行)

「原作 山中貞雄
脚色 梶原金八
演出 萩原遼
東宝・前進座提携作品 その前夜
 戦陣の中を馳駆!赫々たる武勲を立て惜しくも戦病死せる山中貞雄の遺作「その前夜」は追悼の情やるかたなき彼の愛弟子荻原遼が演出し、故人に育てられた前進座一党の出演、美術考証は故人と縁故深かりし、岩田専太郎画伯が擔當で製作される。近日公開 ご期待下さい!!

『オール松竹』第十八巻第五號(通巻第二〇三號)五月特別號(1939年5月1日発行、映畫世界社、140頁)

表紙:水戸光子
「佐野周二の留守宅訪問 ④撮影所のお宮の傍には所内から出征した人々の名前が掲げられてあって、その中の一つに関口正三郎(周二の本名)と読めます。上には、小津安次〔ママ〕郎とあるのにもご注意!」 (15‐16頁)
池田忠雄「近事雑片」(40‐41頁)
※後段に小津についての言及がある。「さて、いよいよお時間も切れそうに相成ったところで、尊敬すべき小津ちゃんの近況をお伝えする光栄を担わして頂く。ここにきて、バタバタと三本ぶっ続けに手紙を貰った。僕の口から云うのは甚だ失礼のわけであるが、益々人間小津が力強く出来上がってきたのがしのばれてうれしかった。小津ちゃんびいきの方もそうでない方も、ともに喜んで頂きたい。こんな事書いて、帰って来て、靑ン僧何をぬかす!と僕は小津ちゃんからぶん殴られるかも知れない。それでもいい、僕は敢えて大きな声で云う。人物小津が出来上がった!!」
「松竹スタジオ・ニュース 大船通信 小津安二郎氏は、出征中」

里見弴『短篇小説第十三集 本音』(1939年6月15日発行、小山書店、406頁)

装填 志賀直哉 
「鶴亀」(81-143頁)
「悪日好日」(311-341頁)
小津の日記
1939年1月26日(水)
 衛兵所で蠟燭をつけて紅茶をのんで 里見弴の鶴亀をよむ。会話のうまみにほとほと頭が下る。序に火野葦平の<煙草と兵隊>をよむ。こんな簡単な兵隊がいるのかと思ハれるのが誠に気恥しい程に感傷に満ちたものだ。<麦と兵隊>だけであとハ書かない方がよかった。部隊内での評判もどうやらよろしくない。下番就床。近日漢口集結。黒川 堀江に先発する。
1939年2月22日(水)
 里見弴 悪日好日 を読む。
 画像は、里見が「鶴亀」を脚色する久保田万太郎に宛てたもの。

『キネマ旬報』No.685(1939年7月1日発行、キネマ旬報社、220頁)

表紙:プリシラ・レーン

小津安二郎「続 手紙」(72-74頁)

『丸ノ内松竹劇場ニュース』No.18(1939年7月8日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「淑女は何を忘れたか スタッフ、配役、梗概」(8頁)

『キネマ旬報』No.688(1939年8月1日発行、キネマ旬報社、120頁)

表紙:ジューン・ラング
「旬報グラフィック 小津安二郎還る―右は島津保次郎」(11頁)
※内田岐三雄による解説、冒頭を引用する。「小津安二郎が帰って来た。小津君が応召出征したのは、一昨年九月のことである。その時は小津君は歩兵伍長だったけれども今は軍曹である。中支の戦線で敵を追って各地を馳せめぐり、春夏秋冬をその地で送った二か年に近い奮戦の勲功が、君の上に燦然と輝いている。」
「本邦撮影所通信 松竹(大船)小津安二郎氏はあしかけ三年ぶりに戦線より内地に帰還し七月十六日除隊となった。当分休養する。」(97頁)

『オール松竹』第十八巻第八號通巻二百六號(1939年8月1日発行、映画世界社、112頁)

表紙:三宅邦子
「松竹スタジオニュース 大船通信 小津安二郎氏は、出征中。」(68頁)
佐分利信「代用教員から映画俳優に」(82-83頁)
※佐分利信は、東京市土木課の職員、その後、故郷北海道の母校歌志内村小学校の代用教員を一年間勤めている。小津監督も、三重県飯高町の宮前小学校で、代用教員をしており、共通点がある。

『大陸』第九號(1939年8月10日発行、改造社、448頁)

小津安二郎「小津安二郎戦場談」(198-202頁)
※「語り了えて、じっと葉鶏頭に見入る、戦地ですっかり灼けした顔には、亡き友を回想する哀愁がただよっていた。八月四日、松竹大船撮影所監督者、小津安二郎軍曹の自宅で、帰還後のあはただしい閑に以上の談を得た。文責は記者にある。」と最後にあり、戦場談を記者がまとめたものである。

『オール松竹』第十八巻第九號(通巻第二〇六號)(1939年9月1日発行、映畫世界社、140頁)

表紙:上原謙
「特輯グラフ 萬歳!小津ちゃん還る」
①昨年八月南京で初めて佐野周二に会った時の戦線に在った時の小津軍曹の思ひ出で、この頃は今日還る日のことを心の片隅にでも思ったでしょうか。②召集解除当日、監督協会の出迎えを受けて靖国神社へ帰還報告の帰り中央に小津ちゃん、他に清水宏、五所平之助、野村浩将、宗本英男、原研吉、吉村公三郎、大庭秀雄(以上大船)、島津保次郎、内田吐夢、斉藤寅次郎、瀧澤英輔、成瀬己喜男監督の他に、日活小杉勇の顔も見えます。③「戦争は平凡な私たちの考えを超越したものです。激戦中にも警備の余暇にもその一齣一齣に生き生きとした命が流れている。この尊い体験を無上の喜びと思っています」こう語りながら、戦地では不足しがちだった煙草の紫の煙りをすーと吹いて小津ちゃんは懐かしい微笑を漂わせます。④靖国神社の大鳥居の前で三年ぶりの背広姿で小津ちゃんの笑顔。⑤終わりにもう一度前線の思い出を拾って半身濁水に漬かりながら労苦の渡河作業、しかしその面に浮かぶ微笑は昔も今も変わらぬ温かさがこぼれています。ついに小津ちゃんは還ってきた。私たちはこれから小津ちゃんに何が期待できるだろう?」(20‐21頁)
「佐野周二戦地画譜 第三輯 ⑬(佐野周二自記)昭和十三年八月二八日、南京にて渡支してより南京で始めて小津ちゃんに逢った日-右端が周二でその肩に手をかけているのは今はもう還って来た小津ちゃん(小津安二郎)です。」(31頁)
水町青磁「松竹月評 ☆小津軍曹帰還」(39頁)
「松竹スタジオ・ニュース 小津安二郎氏は、出征中のところ、この程晴れの帰還、大船監督部へ復帰した。」(88頁)
「松竹新聞 小津軍曹帰還 松竹大船の小津安二郎監督いや指宿部隊の小津軍曹が三か年に亘る中支戦線の武勲も輝かしく〇〇日早朝同部隊一部隊勇士と共に帰還した」(91頁)
「監督軍曹小津ちゃん還る」(本誌記者)(102―103頁)
春風會代子「大船豚珍日記 還って来た小津ちゃん」(115頁)

『映画之友』第十七巻第九號(1939年9月1日発行、映画世界社、156頁)

表紙:デイアナ・ダービン
「小津ちゃん元気で歸る!」(20-21頁)
寫眞6葉
A.元気で歸った小津ちゃんは靖国神社に参拝した。監督協会旗を〇に懐かしい小津ちゃんの姿。
B.出迎への成瀬巳喜男監督(右)と島津保次郎監督(左)
C.語る小津ちゃん(右)小杉勇(中)内田岐三雄(左)
D.靖国神社前で小津ちゃんの万歳三唱。
E.懐かしのわが家で、小津ちゃん(右)内田吐夢(中)清水宏(左)。
F.記念撮影(靖国神社)
「編集後記」(156頁)
 映画界が今次の聖戦に送った勇士の内、岡譲二少尉と小津安二郎軍曹の二人が、この程晴れの帰還をしました。岡少尉の方は南支にあること一年余、今度の帰還は内地勤務のためらしいですが、われ等の小津ちゃんは、足掛三年に亙る中支方面における御奉公の後、晴れて召集解除となったのです。
 小津安二郎氏の凱旋につけても、思い出すのは山中貞雄氏のことです。山中氏建材になりせば…の感深きものがあります。小津ちゃんよ、亡き戦友山中氏の仕残した仕事も一緒にして、日本映画界のために大いに働いて下さい。私達はいや全日本映画界は、貴方の帰還を心から祝い、そして今後の貴方の仕事に対して萬腔の期待をかけています。

『映画朝日』第16巻第9號(1939年9月1日発行、東京朝日新聞社・大阪朝日新聞社、208頁)

表紙:田中絹代
「戦塵を洗って 小津安二郎帰る」(41頁)
グラビア「団扇を持つ浴衣姿の小津監督」
※一部を引用する。「松竹大船のオッチャン小津安二郎監督が七月十六日除隊した。六月にマラリアをやって二貫目ほども体重が減ったよと言ってはいるが、仲々どうして戦塵焼けした赤顔は元気なもので、幾多赫々たる戦績を泛べている。」
※108~115頁には「松竹映画の全貌」が掲載されている。「小杉勇さんのお住居拝見」(118―119頁)には、屏風の前に座っている小杉勇氏のスナップとともに、次のような記述がある。「奥六畳の間を覗いたら素晴らしい寄せ書きの屏風を発見した。俳優小杉勇の交友の広さを裏書きする逸品である。撮影所関係者では、内田吐夢、田坂具隆、小津安二郎、書家の向井潤吉、鈴木信太郎、木下公男、写真家の金丸重嶺諸氏に混ってファンク、ゼップ・リストの名も見える。」

『キネマ旬報』No.692(1939年9月11日発行、キネマ旬報社、104頁)

小津安二郎「雁来紅(はげいとう)の記 至道院一周忌に際して」(10頁)

冒頭を掲載する。「山中に召集令状が来たのは、暑い日だった。確か昭和12年8月25日だったと覚えている。僕は戦争を急に身近に感じた。その次の日の午下り、山中は瀧澤英輔、岸松雄と高輪の僕の家に来てくれた。丁度池田忠雄、柳井隆雄と脚本の相談をしていたところで、机の上の原稿を押しやりビールを抜いて祝盃を上げた。ひとしきり、上海戦の話が続いてから、さしづめ戦争に持って行く身の回りの品々を何かと話し合って細々と書き留めた。手帳、小刀、メンソレタム、剃刀、ダイモール。「おっちゃん、ええ花植えたのう。」気がつくと山中は庭を見ていた。庭には秋に近い陽ざしを受けて雁来紅がさかりだった。それは今上海で激しい戦争があるとはとても思はれぬ静けさだった。短い言葉に山中の今者の感慨があった。間もなく山中は帰って行った。その日東宝撮影所で山中の壮行会があるとのことだった。それから十五日目、僕にも召集令状が来た。次の年の秋、支那にもあちこちに雁来紅が咲いていた。桐城、固始、光州、信陽、壊された民家の日だまりに、路傍に、見る度にあの日の山中と高輪の庭を思い出した。それから間もなく山中の陣歿を聞いた。秋も深くなってから、東京からの手紙に雁来紅のことがあった。※先日君の留守宅を訪ねてお母さんに会った。お母さんは驚く程元気でおられた。庭に鶏頭が一茎、陽を逆に受けてその赤い色が目に沁みた。下葉が色褪せて垂れ下がって物悲しかった。お母さんと僕とは自然山中のことを話した。※内田吐夢

「本邦撮影所通信 松竹(大船)8月30日 小津安二郎は静養。」(63頁)

「編集後記 小津安二郎君と深川の宮川で鰻をくってから、深川八幡と不動さまとに行った。恰度(ちょうど)、八幡さまはお祭りで、この深川の風俗圖(ず)は、僕には生まれて始めて見たものだったので、僕の知らない東京の姿がここにある、ということなど、いろいろと印象深いものがった。内田」(104頁)

『映画ファン』第4巻第11號(1939年11月1日発行、映画世界社、164頁)

表紙:轟夕起子
小津安二郎・内田吐夢・筈見恒夫(本誌・小倉武志)「『戦争と映画』を語る」(52-57頁)
9月5日、於:虎ノ門晩翠軒
三村伸太郎「山中貞雄と人情紙風船」(68-70頁)

『オール松竹』第十八巻第十一號通巻二百九號(1939年11月1日発行、映画世界社、140頁)

表紙:北見禮子
「東西スタジオキャメラ行脚」(34-35頁)
※➁貴賓室の前で、高声の笑い話が聞こえてくるので、行ってみると、珍しく小津安二郎監督(中央)が池田製作部長(左)と清水宏監督と話していた。まだ当分は休養する筈の小津ちゃんは時々はこうして撮影所に現われて昔懐かしい人々と語り合うのが楽しいのである。(大船)
池田忠雄「ひがんばな」(38-39頁)
※所内大会で野球試合をし、「小津ちゃんは戦地で暇を見ては野球をやった由、頻りに張り切っていた。」と書いている。
「スター奥様訪問記 うるはしい日独親善結婚 齋藤達雄夫人の巻」(64-65頁)
※小津映画常連俳優齋藤達雄の夫人について、インタビューした記事が掲載されている。
「スター奥様訪問記 力強い生活の協力 笠智衆夫人の巻」(67-68頁)
※小津映画常連俳優笠智衆のふじんについて、インタビューした記事が掲載されている。
「松竹スタジオニュース 大船通信」(88頁)
※「小津安二郎氏は、先夜を馳駆して帰還後休養中の処今度文化映画部兼任となり、今後は劇映画のみならず文化映画をも随時製作することに決定した。」とある。
「松竹新聞 第二百四號 昭和十四年十一月一日 大船文化映画部機構の大改正断行 強力陣で製作に邁進」(90頁)
※小津監督は、清水宏監督と共に、常任顧問(兼務)となっている。
桑木廣介「大船文化映画部の整備」(103-104頁)
※一部引用する。「清水宏、小津安二郎が顧問にひっぱり出されたのは興味深い。勿論二人とも劇の監督と兼任である。大陸の聖戦から帰還した軍曹小津安二郎の第一回作品は火野葦平の「廣東進軍抄」だと発表された。これは小津安二郎のあの往年の凝視力と戦火を潜ってきて獲得してきたであろう、人生に対する新しい情熱を考えれば、甚だうってつけの題材ではないか。だが、まだ戦塵を洗い落したばかりの小津監督が、すぐこんな直接的な題材に手を出すかどうか、もし之が大船一流の宣伝でなければ幸いだ。」

『中央公論』第54年第13號第628號(1939年12月1日発行、中央公論社、512頁)

小津安二郎「戦争と映畫雑櫃」(310―313頁)
※戦争映画、山中貞雄の『陣中日記』、戦地においてライカで1000枚ほど撮影したこと、杏子の花が砲弾で散った光景、敵の機関銃と味方の機関銃の音の違いを擬音係を連れていき再現できるか、支那兵が逃げていくときに壁に残す日本語の文章のことなどについて述べられている。

『帝劇ウイクリイ』No.11(1939年12月、帝国劇場、4頁)

”邦楽座”に寄せてということで、清水宏(大船監督)、小津安二郎(大船監督)、徳川無声、中村武羅夫(小説家)、濱本浩(小説家)、楢崎勤(小説家)、飯島正(映画評論家)、田村幸彦(パ社支配人)、橘弘一路(映画世界社主)が文章を寄せている。
発行日はないが、田村が、「邦楽座がパラマウントの直営で外国映画専門館となったのは、私の記憶によれば、昭和二年の春である。明ければ十三年の昔になるわけだ。」と書いているので、昭和14年12月とした。

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