「志那事変特輯 戦線變りだね勇士 本誌調査 松竹の監督さん 小津安二郎伍長」246-248頁
※冒頭を引用する。
初秋の朝-。郊外にある高杉早苗の家の応接間。彼女はテーブルの上でしきりにペンを走らせて手紙を書いている。電話のベルが鳴る。
『あら。ミッチーなの。今日は銀座など行きたくないわ。あら。ニュースに先生が出るの。今、先生へお手紙書いているところなのよ。じゃ。二時きっかりにエスキモーよ。ほんとね。じゃミッチーさよなら』
ミッチーとは桑野道子のことだ。先生とは上海戦線に皇軍の一伍長として活躍する松竹大船撮影所の小津安二郎監督のことであった。
美しい女優たちの歓呼に送られて小津伍長が征途についてから既に数か月、時折新聞が伝える伍長の消息は、やっぱり皇軍の苦労そのものを十分に物語っていた。
十月十二日のことだった。上海戦線の泥濘の街道を軍用トラックが幾台も走って行く。その一台の助手席に六尺近い鬚武者伍長が怒鳴っている。これが東京へ伝えられた戦地で無事の小津伍長の姿であった。
彼は大船から送られて出征するときに川崎弘子、飯田蝶子、佐分利信、佐野周二などに日の丸の旗にいろいろ激励の文字を書いてもらったのを、戦地で輸送指揮のメガホンの代わりに振っていた。
『一死報国』と誰やらが書いた。
『映画人の面目にかけて闘へ』と書いたものもあった。
表紙:マルセル・シャンタル
小津安二郎「戰の野より」(37頁)
「〇之は大久保忠素氏への小津氏の便りです。「天使」云々は、本誌のコンテイニュイテイをお読みになってのご感想です。」
※冒頭を引用する。「駿河屋の羊羹、一日おくれて昨日手紙正に落手しました。このところ羊羹なら成田の羊羹でも垂涎しばしのところ、甚だ贅沢の極みで早速クリークの水で茶を入れて頂戴しました。」最後は、次の言葉で閉められている。「もとより生還は期してはいませんが、出来得べくんば生きて帰ります。では、一寸行って来ます、バイ!バイ!グド・ラック。兵隊さんにしては字は上手い方でしょうか。」
表紙:ダニエル・ダリュウ
木村伊兵衛「上海で小津安二郎氏をうつす」(20頁)
表紙:アリス・フエイ
「旬報グラフィック 小津軍曹と関口正三郎伍長、於:南京 1938年8月(11頁)
※内田岐三雄に届いた写真と手紙、その両者が紹介されている。
小津監督の手紙の冒頭を紹介する。「南京でははからずも佐野周二に会った。お互いに出勤を前の慌ただしい身體だった。泰准に行った。河に臨んだ菜館の窓近く、杯を上げてお互の無事を喜んだ。百日紅のさかりだった。」内田岐三雄による文章もある。冒頭を引用する。「小津安二郎君と僕とは、小津君が大久保忠素君の助監督をしていた時代からの知合いである。二人はすぐに親友になって、「おい」と肩を叩き、そして映画と人生を論じあふ仲となった。この時分から小津君はもう撮影所内でも、群を抜いて光った存在だった。例えて言えば島左近だった。皆からオッチャンと愛称されていた。親しみのある敬称も入っていたように思う。映画批評家で小津君と知己となったのは僕が最初だ、と僕は自負している。」
「本邦撮影所通信 松竹(大船)小津安二郎氏は出征中。」(81頁)
永見隆二「山中貞雄の花嫁」(76-78頁)
三村伸太郎「山中貞雄を偲ぶ」(78-79頁)
依田義賢「故山中貞雄を偲ぶ會の記」(80-83頁)
上野耕三「山中貞雄論」(84-91頁)
※冒頭、小津と山中の違いなど述べられている。
編輯後記から
「山中貞雄追悼號に対して寄せられた各方面の御支援を深謝致します。吾々作家協會員はシナリオ作家、映画監督者としての彼の業績、及び、友人、先輩としての交誼の中に残した彼の映画人的人間性に対し、その戦没に際して哀悼、敬愛の心の止み難く、切なるものを持ち、臨時増刊を敢えてし、作家協會員として心を籠めた彼への餞けとして本號を贈る。在天の彼の霊も吾々の友情を誼しとしていてくれる事でありませう。願わくば彼の霊よ、尚、天上に在りても眠ることなく、日本映画界の行く手に鋭く眼を放ち、鞭を持て吾等を殿より打ちて進ましめよ。」(172頁)
野田高梧「『いろは』の一夜」(8‐10頁)
池田忠雄「或る日の山中さん」(68―69頁)
山中貞雄「陣中日誌 附・戦線便り 遺稿」(330―344頁)
「遺書」(330―331頁)
「従軍記」(331―341頁)
「手紙」(341―344頁)
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