全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

全て見る(2042件)

1937年の関連文献・資料

1937
「名扮装名場面 映画・芝居大寫眞帖」『冨士新年號附録』第十巻第一號(1937年1月1日発行、148頁)

「一人息子」野々宮つね 飯田蝶子(32頁)

『キネマ旬報』No.600(1937年2月1日発行、キネマ旬報社、116頁)

表紙:マール・オベロン
「旬報グラフィック 『淑女は何を忘れたか』のセットにて監督小津安二郎のある表情」(95頁)
「旬報グラフィック スチル『淑女は何を忘れたか』」(100―101頁)
全面広告『松竹トーキー 淑女は何を忘れたか』(102頁)
「日本映画紹介 淑女は何を忘れたか」(103頁)

『映画評論』第十九巻第二号(1937年2月1日発行、映画出版社、188頁)

特集:映画の三十六年
大塚恭一「日本映画の一年」(42―49頁)
※「小津安二郎が遂にトーキーを作った。彼が特有の藝術境に立って籠っている作家であることは、トーキーとなっても変わりがない。」
土屋精之「1936年度 映画技術界総覧」(73―83頁)
※「この年の中頃SMS式録音法(茂原氏の研究になるもの)が発表された。松竹式の鳴り物入りの宣伝で一向にその実際については察しるすべもなく、寧ろその宣伝文の中には技術的な矛盾すらも見受けられたが、最初の作品一人息子を観るに及んで兎に角成功したことを認め得るものであった。土橋式も始めから比べれば非常に進んできている。二つの録音法を擁して松竹映画はこの方面では益々優秀な映画を提供し得るに至るであろう。」(74頁)

『セルパン』第72號(1937年2月1日発行、靑年社、156頁)

北川冬彦「日本映画監督群」(87-90頁)
※小津安二郎の欄には、次のように書かれている。「この人のことも、伊丹万作と並んで、私はたびたび書いている。もう、いまのところ書くこともないようである。この人の、対象を丹念に凝視することは、十目の見るところである。『浮草物語』『一人息子』などそれが顕著である。その凝視が、余情となってコリ固まる場合が、小津安二郎の近来の作風だが、今人に一方、喜劇作家としての一面がある。夏期の諸作、並びに『箱入娘』などその系列に属すべきものである。今後、小津安二郎のこの面を掘り下げることによって小津安二郎は、おもひ掛け内鉱脈を掘り当てるのではないかと考えられる。」
小津安二郎・伏見晃「松竹大船シナリオ 淑女は何を忘れたか」(132-150頁)

『新宿松竹館週報』(1937年2月4日発行、新宿松竹館、12頁)

「大船特作オールトーキー
 脚本 ジェームズ槇・伏見晃
 監督 小津安二郎
 淑女は何を忘れたか?
 これこそ1937年度のトピックのアラモードです。
 往年の銀幕の女王栗島すみ子は暫く銀幕を遠ざかり兼て宿望の演劇に全国を行脚しておりましたが、再び懐かしのスクリーンに返り咲いて名匠小津と組み、新しい喜劇を製作して皆様を驚かせようとして居ります。これまた素晴らしい出来事ではありませんか。」(7頁)

『キネマ旬報 第十三回優秀映画銓衡録』(1937年2月24日発行、キネマ旬報社、16頁)

「キネマ旬報第十三回優秀映画銓衡に際して」(1頁)
第一回・大正十三年度、第二回・大正十四年度、第三回・大正十五年度、第四回・昭和二年度優秀映画(2頁)
第五回・昭和三年度、第六回・昭和四年度、第七回・昭和五年度、第八回、昭和六年度、第九回・昭和七年度(3頁)
第十回・昭和八年度、第十一回・昭和九年度、第十二回・昭和十年度、昭和十一年度優秀映画銓衡内外映画得点票(3頁)
「昭和十一年度優秀映画銓衡録}(4-13頁)
滋野辰彦「ミモザ館」(14頁)
友田純一郎「祇園の姉妹」(15頁)

『丸の内松竹劇場ニュース』No.143(1937年2月25日発行、丸ノ内松竹劇場、12頁)

「淑女は何を忘れたか」(表紙)
「淑女は何を忘れたか 脚本抜粋」(3頁)
「淑女は何を忘れたか 映画界の新しき話題 小津安二郎作品」(6-7頁)

『オール松竹』第16巻第3號通巻177號(1937年3月1日発行、映画世界社、112頁)

表紙:川崎弘子
「一面広告 淑女は何を忘れたか」(1頁)
「新作ピックアップ 淑女は何を忘れたか」(18頁)
「淑女は何を忘れたか」(20-21頁)
小津安二郎「ロケエションの辯」(34-35頁)
「オールモーション 伊藤宣二君が小津賞獲得」(61頁)
矢摩邦雄「スタジオ日記」(73頁)
※1月16日 喜八さん横丁よ。左様なら!「淑女は何を忘れたか」で小津監督歌舞伎座にロケる。
成生二郎「脚本屋商売裏話」(86-87頁)
※「淑女は何を忘れたか」の本読みの写真あり
「淑女は何を忘れたか」(98-99頁)
※ストーリーについて書かれている。
「大船新聞 大船に蹴球部発会」(100頁)
※大船のスポーツは現在水泳部野球部卓球部馬術部等が各々活躍しているが今般小津監督が音頭を取って、ラグビー部「S・R・C」が発会された。
「松竹スタジオニュース 1月22日調査」(104頁)
※小津安二郎氏は、問題の次回作品は、脚本伏見晃、ゼームス槇による全発声「淑女は何を忘れたか」と決定。

マッチラベル『淑女は何を忘れたか』(1937年3月発行、丸の内松竹)

「淑女は何を忘れたか 小津安二郎作品」

『京都座』(1937年3月発行、新京極 京都座、2頁)

「鬼才小津安二郎監督の明朗直角転換! 淑女は何を忘れたか?
 松竹トーキー・大船映画
 セルパン二月號に脚本掲載!」(1頁)

『京都座ニュース』No.60(1937年3月発行、新京極 京都座、8頁)

「淑女は何を忘れたか
 お読みになりましたか?セルパン(二月號)掲載の脚本を!
 鬼才小津安二郎監督の明朗直角転換!」(7頁)

『浅草帝國館ニュース』No.412(1937年3月3日発行、浅草帝國館、12頁)

「淑女は何を忘れたか スタッフ、配役、梗概」(4-5頁)
※浅草帝國館は、小津映画の封切館であり、この冊子が封切上映中に配布されたものである。

『松竹週報』No.973(1937年3月6日発行、松竹座宣傳部、4頁)

「近日公開 淑女は何を忘れたか?」(3頁)

『キネマ旬報』No.604(1937年3月11日発行、キネマ旬報社、124頁)

表紙:ジェッシイ・マシウズ(ゴーモン・ブリティッシュ)
水町青磁「主要日本映画批評 淑女は何を忘れたか」(111頁)
※「興行価値-大人の映画。都会的教養があれば特に興味深いが小津作品の従来の難解さによる敬遠は此の際一掃されていい。」
「本邦撮影所通信 松竹(大船)小津監督の記載なし」(123頁)

『話』五周年記念特大號(1937年4月1日発行、文藝春秋社、416頁)

小津安二郎「車中も亦愉し」(157―159頁)
※『話』五周年記念特大號には、「映画人ばかりの談話室」というコーナーが設けられており、稲垣浩「役者になりそこねた父」(152―154頁)、山本嘉次郎「酒徒の辯」(154―155頁)、衣笠貞之助「ベルリンの女中さん」(156―157頁)、小津安二郎「車中も亦愉し」(157―159頁)、島津保次郎「自動車と肉體」(159―160頁)で構成されている。
1931年に満州事変、1937年7月7日に盧溝橋事件おき、日中戦争へと進んでいく。そんななかでの、小津監督一流のユーモアあふれる文章である。これほどユーモアあふれたものは小津監督の書かれたものの中でも他にないのではないかと思われるほど愉しい文章となっている。ちなみに、この年は、松竹キネマ株式会社が松竹興行株式会社を吸収合併し、松竹株式会社が設立した年でもある。

『映画評論』第十九巻第四號(1937年4月1日発行、映画評論社、212頁)

大塚恭一「淑女は何を忘れたか ★明るくないユーモア」(132-133頁)
澤村勉「淑女は何を忘れたか ★★幸福の吐息はかなし」(133-137頁)

溝口健二『溝口健二作品シナリオ集』(1937年5月15日発行、文萃書房、276頁)

題簽:小津安二郎

滋野辰彦『映画探求』(1937年6月1日発行、第一文藝社、254頁)

「小津安二郎についての感想」(99-115頁)
「『一人息子』の来歴」(154-166頁)

『新潮』第三十四年第八號(1937年8月1日発行、新潮社、248頁)

シナリオ「愉しき哉保吉君(百三十枚)現作・小津安二郎、脚色・八木保太郎」(201-245頁)

『映画之友』第十五巻第九號(1937年9月1日発行、映画世界社、160頁)

「我れ等のホープ!」(27頁)
※山中貞雄と小津安二郎、ここにも亦ヒゲ男あり、これなんオッちゃん安二郎の温顔なり。

大塚恭一『日本映画監督論』(1937年9月10日発行、映画評論社、356頁)

「日本映画監督論」(1―63頁)
「監督並に作品-評論集」(65―356頁)
尚、小津安二郎監督に関しては、以下の通りである。
「小津安二郎論 昭和5年4月」(150―159頁)
「『落第はしたけれど』昭和5年7月」(159―162頁)
「『其夜の妻』昭和5年9月」(162―164頁)
「『お嬢さん』昭和6年2月」(164―169頁)
「『淑女と髯』昭和6年3月」(169―171頁)
「『東京の合唱』昭和6年9月」(172―174頁)
「『出来ごころ』昭和8年10月」(174―179頁)
「『浮草物語』昭和10年1月」(179―182頁)
「『一人息子』昭和11年9月」(182―185頁)
「『淑女は何を忘れたか』昭和12年3月」(185―187頁)

『オール松竹』第十六巻第十號通巻一八四號(1937年10月1日発行、映画世界社、120頁)

表紙:坂東好太郎
「松竹スタジオニュース 大船通信 小津安二郎氏は、既報山本有三原作「路傍の石」を次回に廻し新作品はジェームス槇・池田忠雄共同脚本のオリジナル物と決定した。」(72頁)

岸松雄『日本映画様式考』(1937年10月10日発行、河出書房、272頁)

装填:小津安二郎
「小津安二郎作品抄」
「1 春は御婦人から」(207―209頁)
「2 また逢ふ日まで」(209―211頁)
「3 『間』の問題」(211―214頁)
「4 四本目の喜八物」(214―217頁)
「5 浮草物語」(218―220頁)
「6 『大学よいとこ』に現はれた小津安二郎の否定的精神」(220―223頁)
「7 結」(223頁)

台本『愉しき哉保吉君』(1937年11月3日発行、日活)

「内田班 限りなき前進 愉しき哉保吉君
 現作:小津安二郎
 脚色:八木保太郎
 轟夕起子・現代劇第一回出演 
 監督:内田吐夢
 撮影:碧川道夫」

『横濱日活週報』No.94(1937年11月3日発行、横濱日活館、8頁)

「近日封切 限り無き前進
原作 小津保(ママ)二郎
脚色 八木保太郎
監督 内田吐夢
撮影 碧川道夫
◇内田吐夢が快心の原作を得て秋の映画壇に放つ問題作
◇小津・八木・内田トリオに依って完成された「限り無き前進」こそ映画無窮の前進を表徴するものである。」(8頁)

『ていこくうゐくり』第八百一號(1937年11月11日発行、京都新京極帝國館、12頁)

「限りなき前進
原作 小津安二郎「愉しき哉保吉君」
脚色 八木保太郎
監督 内田吐夢
撮影 碧川道夫
キャスト 梗概」(4-5頁)
友田純一郎「限りなき前進」(7頁)
「映画に藝術を強力に意欲する二人の映画作家がこの作品のなかに確り結ばれている。と云う作品以前のはなしはさして重要ではないが、藝術を意欲するさへ稀な日本映画の中では小津安二郎が内田吐夢の演出する映画にシナリオを托した協同操作は、作品の成果を引き離してもわるくない話だ。しかも、この映画を完成するや、内田吐夢は、「先ず小津君にこの映画を見せたかった」との感慨を洩らしたほど自信に満ちた制作を終えたのである。われわれ映画人は林長の引抜き話のあれこれよりもこんな話を数多くきいて映画界のなかに生きていたいものであろう。(続く)」

『八丁堀日活館週報』(1937年11月18日発行、グランドキネマ内編輯、4頁)

表紙「限りなき前進」原作 小津安二郎 監督 内田吐夢 全力傾注快作

「パテ―九ミリ半特価提供フィルム目録」(1937年12月15日、両面)

特大缶(一巻約九十米)
品番52「大學は出たけれど」全二巻
品番494「淑女と髯」全三巻

シナリオ文學全集委員會代表筈見恒夫『シナリオ文學全集第四巻 映画人オリジナル・シナリオ集』(1937年12月23日発行、河出書房、296頁)

「父ありき」(小津安二郎・池田忠雄・柳井隆雄)121-161頁
「愉しき哉保吉君-限りなき前進-」(小津安二郎・八木保太郎)201-252頁
※筈見恒夫著作とあるが、筈見による解説等はない。

『札幌日活舘』1938No.1(1937年12月30日発行、日活映画配給社直営札幌日活舘)

謹んで戦時の信念をお祝い申しげます
小津安二郎原作八木保太郎脚色内田吐夢監督
”限りなき前進”
小杉勇、轟夕起子、江川宇禮雄共演
原名 愉しき哉保吉君

このホームページ内のテキスト・画像の無断使用はご遠慮下さい。