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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1982年の関連文献・資料

1982
小笠原隆夫「小津安二郎とダンディズムについて覚書」『日本大学芸術学部紀要』第11号(1982)

「要約 ➀粋でハイカラで格好いい趣味、➁自己の表現スタイルの徹底的完成、➂描出されたフィルム的世界の美の独自性、➃登場人物やテーマ等の描出の仕方、等の観点から、小津安二郎の創作の中心的原理にダンディズムがあるのではないか、というテーマを究考した小論覚書である。分量の関係で個別にはサイレント期作品「東京の宿」(サウンド版)までしか(抜けた作品もある)ふれられなかった。」

『映画史研究』No.17(1982年発行、佐藤忠男・佐藤久子編集、96頁)

及川満「「早春」の頃(3)」(60-73頁)

フィルムアート社編『小津安二郎を読む 古きものの美しい復権』(本の映画館ブック・シネマテーク5)(1982年6月20日発行、フィルムアート社、390頁)

永遠の静止 すべては 小津の眼差しに守られて ただ 画面のなかに 生きつづける 沈黙と抑制 ノスタルジーと余韻 失われたものが 美しくよみがえる
「年譜 小津の時代、小津の足跡」(18-41頁)
「小津安二郎前映画」(42-267頁)
「小津事典 小津に現われたものの集積」(268-380頁)
食物、酒、娯楽、スポーツ、電話、時計、店、海、トイレ、建物(病院、工場、オフィス)、犬、テレビ、乗物、壺、ポスター、役名、映画の引用、英語、記念撮影、職業、東京の町(丸の内、銀座・池袋、上野、江東)、郊外、都会-近郊-田舎、子供(子供の病気)、小学校、大学生、カンニング、同窓会、教師、雪と雨、看板、キス、着換え、旅、晩春コンテ、挿入曲、BGM、古典芸能、現実音(工場の音、時計の音、音楽、ポンポン蒸気の音、木魚の音、蝉の声)、ギャグ、天気、性(性の暗喩)、木立ち、色彩、オナラ、方言、スター・映画の話題、家の中、時間帯、畳、間取り、東京物語コンテ、秋刀魚の味コンテ、画面の写真性、循環形式、プロット、正面ショット、リアクション、セリフ(セリフのオブジェ化)、間、移動撮影1、移動撮影2、パン・ティルト・クレーン、空ショット、カメラの定位、画面のサイズ、焦点、ショットのつなぎ1,ショットのつなぎ2、視線、家族、儀式、死、ファースト・ショットとラスト・ショット
「小津関係文献」(381-390頁)
著述、シナリオ集、論集・評伝・パンフレット、評論・回顧他、作品批評・解説、フランス語文献(雑誌、新聞、単行本)、英語文献

高橋治『絢爛たる影絵-小津安二郎』(1982年11月30日発行、講談社、317頁)

「第一部 春」(5‐105頁)
「第二部 夏」(107‐198頁)
「第三部 秋」(199‐311頁)
「あとがき」(312‐317頁)

岡村辰雄『如是多聞』(1982年12月15日発行、岡村多聞堂、408頁)

「小津先生追想」(228-230頁)
冒頭を引用する。
 映画監督小津安二郎先生の名声は早くから存じ上げていたが、間接には志賀先生のお宅で、里見弴先生をはじめ文壇の人達と親しくされていたことが機縁であった。
 直接には私が赤坂の仮住居に移った時、貴多川氏の紹介であった。今でも目に残っている。小林古径の鮒の小品と岸田劉生先生の鵠沼風景の水墨画の二点で、いずれもしばらしい作品の額装のご依頼を受けたのが最初であった。
 小津先生と貴多川氏との縁は、昭和二十二、三年の頃とのことである。凝り性の先生が、自分の映画の中で使う茶わん、湯のみなどを選択されていた時、進んでお手伝いしたのがそもそもの始まりで、二十八年に挙げた貴多川氏の結婚式には、小津先生が仲人をされる程信頼されていた。以来、先生の映画作品の小道具に関しては、何かと相談預かっていたようである。
「伊豆の休日」(230-232頁)
 かねて先生方の希望もあったので、貴多川氏と相談して、入江相政、山口蓬春、小津安二郎の異なった分野の先生方にお集まり願い、一夕清談の機会をつくることを思い立った。二人が世話役となって、橋本明治、杉山寧、東山魁夷、高山辰雄、森田沙伊、加藤栄三の諸先生にも呼び掛けて、二泊三日の伊豆旅行が実現した。第一回は、昭和三十五年の一月であった。
「小津先生の諸作品」(232-235頁)
 小津先生は三十五年は、「秋日和」を撮影されていた。先生のおまねきがあって、グループを揃って初めて、大船の撮影所へ見学に行った。その日は、塩原の昔風の温泉宿二階座敷のセットであった。笠智衆・司葉子・原節子が登場の場面であった。わすか一カットの短場面であったが、例の小津先生独特の低く据えたカメラで、凝りに凝った撮影振りであった。

帯に、如是多聞の命名由来が書かれているので、引用する。
「岡村さんは署名を『如是多聞』とした。周知のように、釈尊の教えの多くを祖述した十大弟子の一人阿難尊者は、経典の冒頭に『如是我聞』と冠した。尊者は、多聞第一を称せられたという。多聞堂岡村さんが経典の一字を変えて『如是多聞』としたのは偶然ではない。」(高尾亮一)

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