2021.03.30
田島良一「戦後映画思潮と小津安二郎」『日本大学芸術学部紀要』第七号(1977年発行、日本大学芸術学部、9頁)
Ⅰ~Ⅲ
冒頭を引用する。
「監督の小津安二郎さん(五八)が映画界で初めて芸術院会員になった。(中略)大正十二年松竹蒲田撮影所に入所、昭和二年の処女作「懺悔の刃」以来、「彼岸花」「宇戦物語」「東京物語」「晩春」そして最近の「秋刀魚の味」まで詩情のにじみ出た作品を発表してきた小津さんは、昭和三十三年紫綬褒章、三十四年芸術院賞(三十三年度)を受けているからこんどの”会員選出”は一面からみれば遅すぎた感があった。(「毎日新聞」昭和三十七年十一月二十八日付)
小津安二郎が菅原通済の推輓で映画界初の芸術院会員となったのは右の報伝にある昭和三十七年十一月二十七日(発令は三十八年二月一日付)のことである。小津はこの年の翌年、奇しくも還暦の日に当たる昭和三十八年十二月十二日に頭部悪性腫瘍(腮源性癌腫)のためお茶の水の東京医科歯科病院で不帰の客となった。因みに小津の死に先立つ半年前の六月十一日には、風俗喜劇に異彩を放った川島雄三が心臓衰弱のため四十五歳の若さで逝っている。昭和二年に『懺悔の刃』でデビュー以来、戦前は『生まれてはみたけれど』『出来ごころ』『浮草物語』でキネマ旬報ベストテン三年連続一位、戦後は芸術院会員と名声の絶頂を極めたこの巨匠であったが、周知の通りその晩年は、このような名声とは裏腹に、当時擡頭してきた戦後映画のヌーヴェル・ヴァーグを支持する若手批評家や観客によって、その形式主義や時代を遊離したブルジョワ的低徊趣味を攻撃され、正に集中砲火を浴びている観があった。」(99頁)