全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

『キネマ旬報』No.692(1939年9月11日発行、キネマ旬報社、104頁)

小津安二郎「雁来紅(はげいとう)の記 至道院一周忌に際して」(10頁)

冒頭を掲載する。「山中に召集令状が来たのは、暑い日だった。確か昭和12年8月25日だったと覚えている。僕は戦争を急に身近に感じた。その次の日の午下り、山中は瀧澤英輔、岸松雄と高輪の僕の家に来てくれた。丁度池田忠雄、柳井隆雄と脚本の相談をしていたところで、机の上の原稿を押しやりビールを抜いて祝盃を上げた。ひとしきり、上海戦の話が続いてから、さしづめ戦争に持って行く身の回りの品々を何かと話し合って細々と書き留めた。手帳、小刀、メンソレタム、剃刀、ダイモール。「おっちゃん、ええ花植えたのう。」気がつくと山中は庭を見ていた。庭には秋に近い陽ざしを受けて雁来紅がさかりだった。それは今上海で激しい戦争があるとはとても思はれぬ静けさだった。短い言葉に山中の今者の感慨があった。間もなく山中は帰って行った。その日東宝撮影所で山中の壮行会があるとのことだった。それから十五日目、僕にも召集令状が来た。次の年の秋、支那にもあちこちに雁来紅が咲いていた。桐城、固始、光州、信陽、壊された民家の日だまりに、路傍に、見る度にあの日の山中と高輪の庭を思い出した。それから間もなく山中の陣歿を聞いた。秋も深くなってから、東京からの手紙に雁来紅のことがあった。※先日君の留守宅を訪ねてお母さんに会った。お母さんは驚く程元気でおられた。庭に鶏頭が一茎、陽を逆に受けてその赤い色が目に沁みた。下葉が色褪せて垂れ下がって物悲しかった。お母さんと僕とは自然山中のことを話した。※内田吐夢

「本邦撮影所通信 松竹(大船)8月30日 小津安二郎は静養。」(63頁)

「編集後記 小津安二郎君と深川の宮川で鰻をくってから、深川八幡と不動さまとに行った。恰度(ちょうど)、八幡さまはお祭りで、この深川の風俗圖(ず)は、僕には生まれて始めて見たものだったので、僕の知らない東京の姿がここにある、ということなど、いろいろと印象深いものがった。内田」(104頁)

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