全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

『オール松竹』第17巻第10号通巻第196号(1938年10月1日発行、映画世界社、144頁)

表紙:田中絹代
「坂本武・家庭スケッチ 喜八をもうお忘れでせうか?」(26-27頁)
喜八と言うのは、小津ちゃんが志那で鉄砲を担ぐ代わりにまだスタジオで台本を持っていた頃、ゼームス・槇の名に於いて一人の期の優しい親父を作り上げた、その親父の名であり、またそれがとりも直さず坂本武の適役でもあった。とまあ言えばそんな訳であったのです。この喜八もこの頃では、よき相談相手の小津先生を失っているのであの学のない喜八の頃の深味を無くしてしまって、ややともすれば漫才に堕し兼ねない軽薄ぶりに終始するようになってきたのは、愛すべき喜八のために惜しむべきことです。
「カンカン帽考現学」(28-29頁)坂本武、爽やかな笠智衆
齊藤良輔「町内」(52-53頁)
※冒頭引用する。新宿の追分から甲州街道を一直線に二キロ余り行くと幡ヶ谷という町がある。その幡ヶ谷に、僕はもう十年近くも住んでいる。「大船まで通うの大変ですね。二時間くらいかかるでしょう。」初対面の人などには必ず言われる。
青木勇「北京で佐野周二君に逢ふ」(66-67頁)
※冒頭を引用する。世紀の大会戦たるかの徐州の一大殲滅戦に、従軍カメラマンとして参加し得た僕は、幾多の貴重なる体験を得ることができた。当時の戦況は、新聞やニュースによってご案内の通りだから省略することとする。戦火の樹州の撮影も一通り済んで、僕は今まで労苦を共にした、○○部隊に別れを告げて、独り北京に引き上げることになった。
 (中略)まだ、僕が徐州へ徐州へと進んでいるときにもこんなことがあった。棗荘(なつめそう)という、徐州の東北方三十里の地点で、部隊の行動を撮影している時だった。東宝の山中監督が、○○部隊にいると聞いてすぐに駆け付けたのだったが、その朝早く、南に向けて出発してしまったとのことで、同じ場所にいながら相会う機会を逸してしまった。
 北京に着いた僕は、軍報道部へ出頭して、所定の報告を済ますと、直ぐに、佐野君のことを訪ねた。
高畑侃「小津伍長の置土産 脚本「父ありき」はどうなっているのか?」(75頁)
※一部抜粋する。「小津安二郎から城戸所長宛に手紙が来た。「父ありき」の脚本は、自分が心血を注いだものだが、自分は戦線にある身だ。明日あることを誰も約することはできない、幸いにも原君が監督に昇進したとの事故、何にもして上げられない今の自分は、せめてこの脚本を、彼の門出の祝いとした、事情が許す限り何分にもよろしく頼むとのことだ。然し城戸所長は、小津安二郎の美しい情誼の前に、これを許さなかった。
黒井瞳「大船監督子弟物語 小津安二郎と原研吉」(77頁)
※冒頭を引用する。小津安二郎だけは興業政策を無視して仕事をすることが許されていた。この人は「淑女は何を忘れたか」で新しい喜劇を見出したとたんに出征してしまった。戦争はこの人に大きな主題と四つに組む機会を与えてくれるだろう。この人のようにひたむきに芸術的精進のできる監督の下に働ける助監督は幸福である。しかし反面その芸術に取り憑かれるかも知れない。
「さあ、いらっしゃい 大船スタジオ誌上案内一」(82-85頁)
※一部引用する。出征中の小津監督の室内は、一寸と数寄屋風に種々と配置がされてありここばかりはドアを開けて中をのぞくと「うーい、一寸一杯付けておくんなさい」と言いたくなるようです。配置の中央にはどこで見つけ出したか、コリ性の小津監督をまざまざと見せつけられるような見事なそして大きな火鉢が厳然とすえつけてあります。この火鉢の運搬に要した額が何と数十圓であったと言われますから、いかに小津監督が細心の注意を払われたかお判りでしょう。


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