『新潮45』通巻219号第19巻第7号(2000年7月1日発行、新潮社、292頁)
村川英「雪国の土蔵から出てきた「幻の小津映画」」(229-235頁)
現存しないといわれた小津の初期作品。昭和初年のモダニズムを体現する傑作がなぜ新潟の土蔵に眠っていたのか。
一部抜粋して紹介する。
三十本の幅広いコレクション
宇賀山家という旧家の土蔵から、日本映画史上「幻のフィルム」とされているサイレント時代のフィルムが、大量に出てきたのだ。
発見されたのは1920年代から30年代(大正後期から昭和初期)に作られた日本映画。当時はフランスのパテ社が開発した「パテ・ベビー」という9.5ミリフィルムが世界中に普及しており、日本でもその撮影機と映写機が好事家の間に広まっていた。高額のため持つのは富裕層に限られていたが、映画作品のパテ・ベビー短縮版も発売されており、ちょうど今のビデオのような形で使われていた。そのパテ・ベビー短縮版の形で「幻のフィルム」が出てきたのである。
なんだ短縮版か、と言うなかれ。映画は商品として消費される時代が長く続き、日本では文化財として保存されるようになったのは1960年代以降のこと。戦前、特にサイレント時代の映画はほとんど現存していないのだ。
例えば小津安二郎は1927年~62年の間に54本の監督作品があるが、このうち18本は残っていないとされてきた。巨匠・小津でさえ三分の一は失われているわけで、制作された映画の八割が残っていないといわれる草創期の映画にとっては、たとえ短縮版であっても貴重な資料なのだ。(中略)
正昭氏の記憶によれば、正範氏がパテ・ベビーを買ったのも、この昭和10年前後。東京に商品の仕入れに行った際に買い求めたらしい。当時、正範氏は東京に頻繁に行っていた。塩沢町の芸者衆の要求は高く、彼女たちが欲しがるかんざしや髪飾りは東京でなければ仕入れが難しかったのだ。パテ・ベビーは九段にあったパテ社の代理店、伴野商会で求めたものだった。
正昭氏は父親に連れられて、五、六歳頃から小学校の三、四年頃まで、よく、九段に行ったことを覚えている。八畳位の場所に9.5ミリの短縮版のフィルムがずらっと並んでいて、題名を見て作品を選んでいった。別に正範氏はキネマ旬報などの映画雑誌から情報を得ていたような映画青年ではなかった。幻灯機や、活動写真の映画説明レコードなどを売っていたので、その延長としてパテ・ベビーも認識していたようだ。正範氏が作品を選ぶと、伴野貿易は事務所の奥の試写室で試写をしてくれたという。