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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1995年の関連文献・資料

1995
『名匠 小津安二郎の世界』(1995年1月1日発行、銀座並木座、4頁)

表紙:「お茶漬の味」

武藤康史編『里見弴 秋日和 彼岸花』(1995年1月20日発行、夏目書房、353頁)

「1973年8月、秋山正太郎撮影 里見弴」
「小津安二郎とてんぷらの会。茅ケ崎館の旅館「柳」にて(1955年)」、「里見邸にて映画『秋日和』ガーデンパーティ」
「活弁と思はれる」、「截紙刀」、「洋傘と襟巻」、「縁談窶」、「T・B・V」、「自惚鏡」、「晩年の癇癪」、「ひと昔」、
「彼岸花」(233―289頁)
「秋日和」(291―333頁)
「解題」(335―353頁)
※「解題」から一部抜粋する。「平成七年、里見弴の十三回忌に合わせるようにして本書は刊行される。」「里見弴ならではのいきいきとした短篇はもとより、映画・演劇にまつわる作品を多く収めることになった。」

『クラシック映画ニュース』No.440(1995年3月1日発行、マツダ映画社内無声映画観賞会、15頁)

「小津が描く子供の世界、大人の哀歓」
「小津作品を上映する意義」(3頁)
「生れてはみたけれど」(8-10頁)
「自作を語る 小津安二郎 生れてはみたけれど、青春の夢いまいづこ」(11頁)
澤登翠「拝啓齋藤達雄様」(12頁)

「映画100年・戦後50年~蘇る昭和~ 映画監督・小津安二郎」(1995年4月1日、ACTミニシアター、4頁)

1995・ACT特別企画「映画100年・戦後50年~蘇る昭和~ 映画監督・小津安二郎」
1929年 若き日 第8作。主として短篇喜劇で腕を磨いていた小津初の長編作。
1929年 大学は出たけれど 第10作。昭和初期の不況を背景にコメディ・タッチで描いた快作。現存する12分短縮版。
1930年 朗らかに歩め 第14作 清水宏原案の恋愛ものを思いきりモダンに演出。背景に映るポスターが見もの。
1930年 落第はしたけれど 第15作。洗練されたギャグいっぱいの小津初のカレッジもの。笠智衆が初めて役付き。
1930年 その夜の妻 第16作。心理劇を極めて精緻で密度の濃い作品に仕上げた小津モダニズム映画の逸品。
1931年 淑女と髯 天才役者岡田時彦にほれ込んだ小津第20作。そのアクション・ギャグの見事さは必見。
1931年 東京の合唱 第22作。ハリウッド完全指向から転換点となもなる注目作。この年、コンテ第一主義を宣言。
1932年 生れてはみたけれど 第24作。”大人の見る絵本”というサブタイトルの付いた小津小市民映画の最高傑作。
1932年 青春の夢いまいづこ 第26作。小津得意の学生喜劇だが、明朗なキャラクターの中に人生の感慨をにじませる。
1933年 東京の女 第28作。ロー・ポジションのカメラアングルなど小津独特の技法を典型的に採用した意欲作。
1933年 非常線の女 アメリカ映画の影響を色濃く受けた、前作に続く小津サイレント技法の逸品。
1933年 出来ごころ 第30作。東京下町を舞台にした人情喜劇”喜八もの”シリーズの傑作。キネ旬ベストワン。
1934年 母を恋はずや 第31作。母子の情愛を細やかに描いた秀作。全9巻のうち1巻と9巻が現在未発見で欠落。
1934年 浮草物語 第32作。人情噺を得意とした小津喜八ものの傑作。本作でキネ旬ベストワン三年連続受賞。
1935年 東京の宿 第34作。深刻な社会不況を背景に、人情味あふれる喜八がとった行動とは?サウンド版。
1936年 一人息子 第36作。茂原式の完成を熱望していた小津初のトーキー作。この年蒲田閉鎖。大船開所。
1937年 淑女は何を忘れたか 第37作。小津のモダニストぶりがあふれるソフィスティケイテッド・コメディの傑作。
1941年 戸田家の兄妹 第38作。父の死による家族の解体を見つめた秀作。厚田雄春が正キャメラマンとして初参加。
1942年 父ありき 第39作。古武士の如き利巧化された父と子の交流を描いた名作。笠智衆がフケ役を熱演。
1947年 長屋紳士録 第40作。ほのぼのとした人情とユーモアあふれる小津戦後第一作。喜八ものだが脇に徹す。
1948年 風の中の牝鶏 第41作。戦後の混乱時に一度だけ売春した妻と帰還した夫の苦悩。移植の小津戦後第二作。
1949年 晩春 第42作。野田高梧との名コンビで後期の小津映画の基調を定めた傑作。原節子が実に美しい。
1950年 宗方姉妹 第43作。古風な姉と新しがりやの妹を対照的に描いた小津初の他社作品。大佛次郎原作。
1951年 麦秋 第44作。娘の結婚をめぐる家族の人間模様を描いた小津の佐久港傑作の一つ。キネ旬ベストワン。
1952年 お茶漬の味 第45作。戦時中に検閲で却下された脚本をもとに映画化。戦地への応召が海外出張に改訂。
1953年 東京物語 第46作。戦後日本の家族生活の崩壊を描いて、人間の孤独感、死生観をも描写した傑作。
1956年 早春 第47作。倦怠期の夫婦の危機を、若い世代との交流を通して描いた珍しいシリアスドラマ。
1957年 東京暮色 第48作。寂漠の人間模様を甘い感傷に溺れる事なく描写した戦後小津映画の異色作。
1958年 彼岸花 第49作。豪華な女優陣を配した華やかな小津ホームドラマの名作。初のカラー作品。
1959年 お早よう 第50作。住宅地に住む人々ののどかな日常を、オナラごっこ等ユーモアたっぷりに描いた佳作。
1959年 浮草 第51作。戦前の「浮草物語」のリメイクだが、大映で映画化。カメラに宮川一夫を起用。
1960年 秋日和 第52作。それまでの娘役の原節子が母親役を演じた晩年の傑作。東宝より司葉子が特別参加。
1961年 小早川家の秋 第53作。小早川家にかかわる人々の悲喜こもごもを感情豊かに描いた名作。初の東宝作品。
1962年 秋刀魚の味 第54作。娘を嫁にだした父の孤独を笠智衆が迫真の演技。小津の遺作。翌年60歳にて死す。
34本 見よ! 小津の魔法使い
4月1日(土)~5月20日(火)

『CINETIC』第2号(1995年4月30日発行、洋々社、288頁)

特集:変容としての映画史
「グラビア 発見された『東京物語』オリジナル予告篇」(8頁)
北垣善宣「発見された『東京物語』オリジナル予告篇について」(42―45頁)
田中眞澄「北村小松から小津安二郎へ―物語・蒲田モダニズム」(104―141頁)
前田秀樹「『全日記 小津安二郎』をいかに読むか」(254―257頁)
「グラビア 発見された『東京物語』オリジナル予告篇」(裏表紙)

『ごもく映画通信』Vol.48(1995年5月25日発行、ファニーフェイス、19頁)

「GOMOKU SPECIAL 小津は魔法使い」
「この人達のオヅ症状、そこから生まれたもの。
 ヴィム・ヴェンダース、周防正行、竹中直人経由D・リンチ、アキ・カウリスマキ、大島弓子経由金子修介、市川準」(4-13頁)
「よくわかる小津のテーマ分析」(14-15頁)
「この一言も‥やっぱり魔法」(16-17頁)

川本三郎『続・映画の昭和雑貨店』(1995年6月10日発行、小学館、140頁)

「ライスカレー」(20―23頁)
※『父ありき』(「めしの上に黄色いのがかかっているのなんていうんだ」「ライスカレーだろ」「あれうめえな」)
「家電製品」(32―35頁)
※『秋刀魚の味』(「こういうものって次々に新しいのが出るから先に買うと損だわ」)
「ラーメン」(36―39頁)
※『お茶漬の味』(「どうです、うまいでしょ。ラーメンはおつゆがうまいんです。」「こういうものはうまいだけでなく安くなくちゃ」「世の中には安くてうまいものがたくさんあるんです」)
「すき焼き」(100―103頁)
※『早春』(「お肉、あたしが買う」「じゃあたしご飯たく」「百匁でいいわね」「充分よ、うち、いつも五十匁」)
「美容師」(108―111頁)
※『東京物語』(「奥様、一度アップにしてごらんないさいましよ。そのほうがお似合いになりましてよ。ネックラインがとてもおきれいですもの。レフトサイドをぐっとつめて、ライトサイドにふんわりウェーブでアクセントをつけ」
「女のタバコ」(112―115頁)
※『淑女は何を忘れたか』(「あんたタバコ吸うの。ダメよ。そんなもの吸っちゃ。まだ、あんたお嫁入り前でしょ。」)

石坂昌三『小津安二郎と茅ケ崎館』(1995年6月20日発行、新潮社、331頁)

スナップ「ロケハン中の小津安二郎」(6頁)
「一 敗戦の町に現われた英国紳士」(7―17頁)
「二 「ボチボチやりますか」(18‐25頁)
「三 浮浪児(『長屋紳士録』)」(26―34頁)
「四 大船の「梁山泊」」(35―45頁)
「五 「お米のジュースがあれば‥‥」」(46―53頁)
「六 金雀枝」(54―60頁)
「茅ヶ崎駅周辺地図」(56―57頁)
「七 茅ケ崎館の創業」(61―64頁)
「八 国木田独歩の通夜」(65―70頁)
「九 茅ケ崎館の主」(71―78頁)
「十 風浪の歴史」(79―86頁)
「十一 脚本の神様」(87―97頁)
「十二 『花嫁御寮はなぜ泣くのだろ』」(98―111頁)
「十三 小津コック長」(112―124頁)
「十四 野球狂時代」(125―136頁)
「十五 ”小津調”脚本作法」(137―157頁)
「十六 原節子のこと」(158―167頁)
「十七 「もののあわれ」」(168―175頁)
「十八 『晩春』から『麦秋』のころ」(176―187頁)
「十九 散歩(茅ケ崎館周辺/団十郎、貞奴、与志/三人の冒険家/南湖院余聞)(188―203頁)
「二十 のぞき事件」(204―211頁)
「二十一 姥島と砂丘」(212―220頁)
「二十二 無為の間」(221―228頁)
「二十三 茅ヶ崎は”キー・ウェスト”」(229―248頁)
「二十四 おゆうさん」(249―257頁)
「二十五 「無」への軌跡」(258―276頁)
「別稿 『東京物語』執筆中の小津日記」(277―305頁)
「あとがき」(306―309頁)
「年譜」(310―329頁)
「参考文献」(330―331頁)

『ノーサイド』第5巻第7号(1995年7月1日発行、文藝春秋、146頁)

田中眞澄「小津安二郎 瓦斯隊一兵卒に平常心あり」(54頁)
田中眞澄「佐野周二 体育会系のナイーブな兵士」(54頁)
グラビア「昭和13年12月、小津安二郎(右)と佐野周二は中国の漢口で兵士として出会ったが、笑顔は平時と変わらない。」(55頁)
丹野達弥「池部良 ”告発”より”揶揄”を選ぶ」(56-57頁)
田中眞澄「加東大介 再認識した俳優の使命」(57頁)

キネマ旬報社編『シネマの世紀 映画生誕100年博覧会』(1995年7月22日発行、川崎市民ミュージアム、162頁)

1995年7月22日(土)~9月17日(日)
「結婚学入門」ビラ(86頁)
「淑女は何を忘れたか」ポスター(100頁)
「限りなき前進」ポスター(101頁)
「東京物語」ポスター(111頁)
「キネマニュース 東京の女、また逢ふ日まで」(144頁)

『ノーサイド』No.52第5巻第10号(1995年10月1日発行、文藝春秋、154頁)

「特集 日本酒を究める」
田中眞澄「小津安二郎と蓼科の酒」(68-73頁)
※この論稿がきっかけとなり、1998年に小津安二郎記念蓼科高原映画祭が開催されたと言われている。

有馬稲子『バラと痛恨の日々 有馬稲子自伝』(1995年11月7日発行、中央公論社、235頁)

「思い出の映画」(60―81頁)
※一部抜粋する。「映画女優だったころ、数多くの名監督についたが、とりわけ小津安二郎監督のことが強く印象に残っている。今井正監督も厳しい方だが、それとは違う意味で、小津監督も仕事に厳しい方だった。昭和三十二年に、原節子さん、笠智衆さんと「東京暮色」に出演し、翌三十三年の「彼岸花」では、大映から山本富士子さんを迎えて共演した。小津組のセットというのは、まず他と空気が違う。ピーンと緊張していて、それこそしわぶきひとつしない。ほかの監督さんの場合だと、ライトマンが大声で怒鳴っていたりするものだけど、ここは実に静か。手まね、足まね、ジェスチャーで合図を送っているという感じだった。小津先生はカメラに映るお茶碗ひとつ、コップひとつにもこだわって、どれを使うかなかなか決まらないことがあった。あるときなど、ご飯をいただくシーンの器が気に入らなくて、スタッフがわざわざ東京の小料理屋さんまで借りに行くことになり、それでその人の撮影が中止になったことがある。」(60―61頁)

『キネマ旬報』No.1990 第1176号(1995年11月13日発行、キネマ旬報社、254頁)

「1位 東京物語」(8-9頁)
※一部抜粋する。「東京物語」は戦後の小津作品のなかでネガが失われた唯一の作品である。全国公開に先立ち松竹がネガの焼き増しを発注した会社が火事を起こしたため「東京物語」のネガフィルムは灰と化し、プリントはポジから取られた。一般的には小津の代表作と言われている「東京物語」が、監督自身が意図した本来の映像とは異なった状態でしか見ることができず、しかもその状態で高い評価を得いているというのは実に皮肉な現実である。キャメラを担当した厚田雄春によれば、本来の「東京物語」では室内の人物の顔色はもっと暗く抑えられていた。夏は室内より屋外のほうが明るいからである。例えば、汗を流す人物といったストレートな映像よりも、照りつける太陽の光を映画の中で見せることで、夏という季節を表現する狙いがあったのだという。」
「11位 麦秋」(71頁)
「25位 晩春」(78頁)
「80位 秋刀魚の味」(90頁)
「日本映画女優ベストテン 1位 原節子」(95頁)

『小津安二郎フェア 幻の映画「鏡獅子」劇場初公開』(1995年12月2日発行、千日前弥生座)

小津安二郎フェア 幻の映画「鏡獅子」劇場初公開
鏡獅子 1935年作品
小津安二郎監督のはじめてのトーキー作品であり、唯一のドキュメンタリーである。

荒木正見編著、鈴木右文共著『尾道を映画で歩く-映像と風景の場所論-』(1995年12月8日発行、中川書店、158頁)

「尾道を映画撮影地として世界に知らしめたのは、小津安二郎監督の「東京物語」(1953年)である。スタッフが宿舎にした竹村家の当主、武田和頼氏によれば、実際に尾道入りした俳優は、笠智衆、原節子、香川京子の三人だけであったというように、ほとんどがセットで作られたにもかかわらず、挿入された美しくなつかしい尾道の風景は世界中に強烈な印象を与えた。なかでも浄土寺は、主要な撮影地であった。」(74-75頁)
「魚信の角から東側をみると、未知の南側に栗吉木材の看板を目にすることができる。ここから少し西で撮影された「東京物語」に一シーンにも栗吉木材店の看板を目にしたが、このあたりは明治末頃の埋め立てを契機として、木材、竹材、石材などの商家が軒を連ねていた。今日もそれらの店がビルに建て代わって認められるのは心強い。」(80頁)他

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