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小津監督を巡る文献・資料

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書誌情報
1969
『映画芸術』第17巻第2号258号(1969年2月1日発行、映画芸術社、118頁)

佐藤忠男「小津安二郎の芸術 第一回
 序章-私の見た小津安二郎」(39-42頁)
※佐藤忠男『小津安二郎の芸術』(1971年12月15日発行、朝日新聞社)は、本格的な最初の小津論であり、これ以降の小津論は、この小津論をベンチマークとして、それからいかに距離を取るのかを意識して、書かれてきたということができよう。本書は、当時『映画芸術』社長であった大橋恭彦氏の依頼で、同誌1969年2月号に、この「小津安二郎の芸術 第一回」の執筆を開始し、1970年5月号の第十五回執筆後に、朝日新聞出版局からの申し出で、単行本化することになった。

『映画芸術』第17巻第3号259号(1969年3月1日発行、映画芸術社、118頁)

佐藤忠男「小津安二郎作品のスタイル 小津安二郎の藝術(第二回)」(58-61頁)
※冒頭を一部引用する。
「すぐれた映画監督は、みんな、その作品にその監督固有のスタイルを持っているが、小津安二郎はそれがとくに極端であった。小津安二郎の映画を何本か観て、その演出の特徴を憶えた観客は、予備知識抜きでいきなり途中からフィルムを見せても、どれが小津安二郎の作品であるかをほぼ確実にあてることができるだろう。それほど、小津安二郎の演出には、彼のどの作品にも共通する一定のやり方があった。
 彼が、生涯につくり出した五十三本の映画のうち、昭和二年のデビュー作「懺悔の刃」が時代劇であり、そえから昭和六年ごろまで、ソフィステケイティッド・コメディを主として二十本ほどの喜劇を撮っている。そのころまでは、まだ、のちに小津調と呼ばれる固有のスタイルは、それほどはっきりした形にはなっていないようである。ストーリーも、青春ものありナンセンスものあり、ペーソスを主としたものありで、いくらかのバラエティを持っていた。しかし、今日完全なかたちで見ることのできる小津作品のうちの最も古い作品である昭和六年の「東京の合唱」と、昭和七年の「生れてはみたけれど」には、すでに固有のスタイルをはっきりと認めることができるし、そのストーリーも、小津安二郎が生涯ほとんど、それだけを描き続けたといっていい、家庭における親と子、夫と妻のデリケートな感情のスケッチにかぎられていた。小津安二郎は、それ以来、昭和三十七年のさいごの作品である「秋刀魚の味」にいたるまで、同じスタイルと同じテーマにだけ固執し続けたので、批評家はしばしば、彼を、進歩がないと云って非難した。これに対して、彼は俺は豆腐屋だ、豆腐屋は油揚げやがんもどきぐらいはつくれるが、トンカツはつくれない、というジョークで応酬して、固有のスタイルとテーマを決して変えようとしなかった。」

『映画芸術』第17巻第4号260号(1969年4月1日発行、映画芸術社、118頁)

佐藤忠男「小津演出のスタイル・その2 小津安二郎の芸術(第三回)」(51-54頁)
※冒頭を一部抜粋する。
「前回の原稿を書いてから一か月の間に、小津安二郎の映画を六回見た。シナリオ作家協会が、シナリオ作家志望者のための講習会で「晩春」を上映しているのをのぞかせてもらい、無声映画蒐集家の松田春翠が新宿の紀伊国屋ホールを借りてやっている無声映画鑑賞会で、「東京の合唱」を見、神田の岩波ホールが定期的にやっている岩波映画講座で、「東京物語」を見、さらに、フィルム・ライブラリー助成協議会の好意で、「生れてはみたけれど」と「東京物語」。それに「大学は出たけれど」の断片を試写してもらった。おおいに勉強してやっています、ということを云いたいためにこんなことを書くわけではない。パリやロンドンやニューヨークのように、フィルム・ライブラリーのすごいのがあるところならいざしらず、東京では映画の古典を研究するのは難しいように思われており、事実、それは大変困難なことである。しかし、そのつもりで機会を逃さないように注意していれば、まあ、かなり見ることはできるのであり、そういう機会を積極的にふやすことも可能なのである。
 ところで、こうして作品を見ながらノートを取ってゆくうち、前回の原稿にうっかり、いくつかの間違いを書いていることに気づいた。大きな間違いは、小津安二郎のロー・アングル(ロー・ポジションとも言うどっちでもいい)を、床の上、一メートルぐらいにカメラを据えること)と書いたことである。

『映画芸術』第17巻第6号262号(1969年6月1日発行、映画芸術社、118頁)

佐藤忠男「小津作品のスタイル・その4 小津安二郎の芸術(第五回)」(71-74頁)
※冒頭を一部抜粋する。
「小津安二郎にとって、彼がその作品の中でつくり出した人物たちは、すべて、彼の家に招待された客のような存在であった。そのように見えるいちばんはっきりした理由は、彼は、その作品の中でつくり出した人物たちに対して、失礼な撮り方や、失礼なふるまいを一度もしたことがなかったからである。人が、自分のこういう状態や、こういう姿は他人に見られたくないと感じるようなもの、それを、小津安二郎は、彼がつくりだした人物たちにいちども演じさせなかったし、撮ろうとしなかった。それだけでなく、小津安二郎は、彼がつくり出した人物たちに、つねに、他の人物に暖かく見守られていることを意識せずに行動している人物は、小津安二郎の作品にはほとんど出てこないのである。ということは、小津安二郎がつくり出した人物たちは、若干の例外を除いて、つねに、礼儀正しく行動するということであり、ときには、招かれて緊張している客のように、角に固い表情とポーズにさえもなった、ということである。簡単に解釈すれば、固い表情やポーズは、俳優たちが小津の名声と厳格すぎる演技指導に気押されて、のびのびした調子を失ったことになるが、同じように厳格極まる演技指導で有名だった溝口健二監督は、てっていしたリハーサルの繰り返しの末に、俳優たちの演技を完璧な自然さに到達させようとした。ところが小津安二郎は、てっていしたリハーサルの繰り返しの末に、俳優たちの延期を完璧な行儀よさに結晶させようとしたのである。おなじように完全主義といい、厳格主義とは言っても、ふたりの巨匠の目指していた方向ははっきりと違っていた。

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