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1965年の関連文献・資料

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書誌情報
1965
置塩高・井坂栄一・奥山正次郎・吉田與蔵編『小津安二郎君の手紙』(1965年10月発行、64頁)

「一、 昭和二年八月廿九日:置塩宛」(1-3頁)
「二、 昭和二年十月三日:置塩・吉田宛」(4-8頁)
「三、 昭和九年六月三日:置塩宛」(9頁)
「四、 昭和十年十月二十日:寄書 奥山、橋本上京紀念 日本橋 浜のや 置塩宛」(10頁)
「五、 昭和十四年八月六日:寄書 小津帰還祝級会(有馬兵衛に於て一泊)」(11頁)
「六、 昭和十四年八月八日:置塩宛」(12頁)
「七、 昭和十四年十二月四日:置塩宛」(13頁)
「八、 昭和十八年五月十一日:置塩宛」(14頁)
「九、 昭和十八年五月二十日:井坂宛」(15頁)
「十、 昭和二十四年 元旦:置塩宛」(16頁)
「十一、 昭和二十五年 元旦:奥山宛」(17頁)
「十二、 昭和二十五年九月十日」(18頁)
「十三、 昭和廿六年十一月十六日:吉田宛」(19頁)
「十四、 昭和廿八年五月九日:吉田宛」(20頁)
「十五、 昭和二十八年十一月十日:奥山宛」(21頁)
「十六、 昭和二十八年十一月十日:置塩宛」(22頁)
「十七、 昭和三十一年三月十日:井坂宛」(23頁)
「十八、 昭和三十一年三月十八日:井坂宛」(24頁)
「十九、 昭和三十二年二月十日:吉田宛」(25頁)
「二十、 昭和三十二年春:奥山宛」(26頁)
「二十一、 昭和三十二年六月七日:奥山宛」(27頁)
「二十二、 昭和三十二年六月二十五日:奥山宛」(28頁)
「二十三、 昭和三十三年十一月五日:井坂宛」(29頁)
「二十四、 昭和三十四年六月十一日:置塩宛」(30頁)
「二十五、 昭和三十四年九月廿八日:吉田宛」(31頁)
「二十六、 昭和三十七年十二月七日:奥山宛」(32頁)
「二十七、 昭和三十八年一月十二日:奥山宛」(33頁)
「二十八、 昭和三十八年賀状:置塩宛」(34頁)
「中国行」
「一、 出発前夜 昭和十二年九月秋彼岸の頃」(35頁)
「二、 昭和十二年中秋名月翌日上海」(37頁)
「三、 昭和十二年十二月二日」(38頁)
「四、 昭和十三年三月二十四日 定遠」(39-41頁)
「五、 昭和十三年五月三日 蚌埠」(42-44頁)
「六、 昭和十三年六月六日 蚌埠」(45-47頁)
「七、 昭和十三年八月十三日 南京」(48-49頁)
「八、 昭和十三年八月十四日 南京」(50-51頁)
「九、 昭和十三年十月十八日 信陽」(52-53頁)
「十、 昭和十三年十一月十五日 漢口北西部」(54-57頁)
「十一、 昭和十四年元旦 応城」(58頁)
「付記」(59-63頁)
※頁数にはカウントされていない頁が十三頁ある。 二頁には、昭和33年12月23日の夜、京都祇園「加藤」で開いた紫綬褒章受章を兼ねた級会で撮影された写真が添付されている。 四から五頁には、級友諸兄にあてた文章がある。 一部抜粋する。「私たちが、彼に初めて逢ったのは、大正五年(一九一六年)三重県立第四中学校入学の春であった。 それより四十八年の長い交友の間に、多くの手紙を交わしたが、その大半を失ってしまった。今ここに、私たちの手許に残っている三十数篇を蒐めてみた。彼の手紙の文格文字は、今更言うべくもなく正確で美しい。 彼には走り書きと言ったものはない。 二年近くも中国の戦塵の中にあって、生死損亡の日々を送りながら、このような玉篇を綴り得るとは、彼はほんとうに文字の好きな人間であったような気がする。 しかし、私たちが彼の手紙を蒐めたのは、その文学的美さに酔うことは勿論であるが、それ以上に私たちの友情のきずなを強くするにある。 ほんの葉書の短信でさえも、想い出のよすがとなるのである」
 次に、九葉の葉書、手紙の写真が掲載されている。
 本の装丁は、小津監督自身が装丁した『戸田家の兄妹』と同じものが用いられている。

『小津映画の特集 1965年12月-1966年1月』(発行人:川喜多かしこ、発行所:フィルムライブラリー助成協議会、1965年12月3日発行、22頁)

津村秀夫「小津安二郎の芸術」(4‐6頁)
「小津安二郎監督作品目録」(6‐8頁)
野田高梧「小津君の横顔」(8頁)
かいせつ「東京の合唱」、「生まれてはみたけれど」、「東京の女」、「出来ごころ」、「浮草物語」、「一人息子」、「戸田家の兄妹」、「晩春」、「麦秋」、「東京物語」、「彼岸花」、「秋日和」、「秋刀魚の味」(9‐21頁)
川喜多かしこ「小津さんのこと」(22頁)

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