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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

1964年の関連文献・資料

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書誌情報
1964
『小津安二郎作品選集』(1964年1月1日発行、銀座並木座、4頁)

上映期間’64 1月1日~1月28日
「小津安二郎監督の作品暦」(3頁)
マミキ・トオル「”去りし人、新しき年”」(4頁)
「1963年、川島雄三監督につづいて小津安二郎監督を日本映画界は失った。小津監督の死を聞いた時、その悲しみを抑えることができなかった。残念だ、残念だ、と心の中でくり返しつぶやくより術がなかった。小津芸術は世界的に再評価される時期に来ていた。小津作品の素晴らしさが改めて認識され始めていた。時流の混濁にまぎれて、我々が見過ごしていた小津作品の美を、今度の機会に泌々と味わいたいと思う。」
支配人「ちょっと一言」(4頁)
「別掲の小津安二郎作品暦中より種々バラエティに富んだものをと考え配給会社に申し入れたところ、現在残っている最も古い作品が昭和三十一年の『早春』とのことでした。」

『週刊新潮』第九巻第一号通巻四百十一号(1964年1月6日発行、新潮社、152頁)

「小津安二郎監督の”幻の愛人”」(32-33頁)
※一部抜粋する。「お葬式にあらわれたMさんこそ、小津さんの愛人だったんですよ。新橋の芸者をしていた人で、今は人妻です。小津さんはそのMさんをいつまでも心に抱いていたかったんでしょう。」

『キネマ旬報』No.1171 第三五六号(1964年1月15日発行、キネマ旬報社、172頁)

表紙:ティッピー・ヘドレン
「小津安二郎監督逝く」(40―43頁)
岩崎「小津安二郎を永久に」(40―42頁)
「ありし日の小津さんをしのぶ」
城戸四郎「幸福な人・小津君」(42―43頁)
野田高梧「病床でも忘れぬ笑い」(43頁)
佐田啓二「父を失った気持ち」(43頁)
※スナップ「ありし日の小津さん」「『秋刀魚の味』のセットで」「北鎌倉の自宅に帰った遺体を前に悲しみの第一夜」「元気だったころの小津さん」
広告「キネマ旬報緊急増刊 小津安二郎・人と芸術」(47頁)
編集室「小津さんの逝去、巨星落つの感まことに深い。ついこの間、ここで小津さんの病状を書いたが僕のひいきめにみた間違いだろうか。それにしても、こんなに早く逝くとは、人生は朝露の如しというが、日本映画重大のこの時惜しい人をなくしてしまった。昨夜北鎌倉の小津家にお通夜のおまいりをしたぼくは、九月末ごろ同じ部屋で”げんきになって「大根と人参」を作ろう”と話し合ったことを思い出し、悲しみは胸をついて如何ともなしえなかった。思えば小津さんの日本映画における業績”小津さんより撮れない”作品の数々が瞼にうかんでくる。その大きな足あとはすべて本誌のベスト・テンが物語っているし、小津芸術の
香り高いあの格調は永遠に輝くだろう。(大橋)」(172頁)

『シナリオ』1964年2月号「特集 小津安二郎・その人と作品」(1964年2月1日発行、シナリオ作家協会、160頁)

「思い出のアルバム」(8-9頁)
岸松雄「小津安二郎伝」(20-29頁)
野田高梧「『蓼科日記』抄」(30-34頁)
里見弴「小津君よ、さようなら」(35頁)
菅原通済「淋しい」(36-37頁)
緒方安雄「小津安二郎さん」(37-38頁)
池田忠雄「フィルムの詩人」(38-39頁)
長井登貴「発病の頃より」(40頁)
山内静夫・厚田雄春・清水富二・井上和男・佐田啓二・淡島千景 座談会「小津先生という人」(42-54頁)
伏見晃「思い出すこと」(56-57頁)
オリジナル・シナリオ「淑女は何を忘れたか」(57-74頁)

『キネマ旬報』増刊1964年2月号「小津安二郎<人と芸術>」(1964年2月10日発行、キネマ旬報社、180頁)

「特別グラビア アルバム・小津安二郎」(小津君と鎌倉と私:里見弴、撮影現場の小津安二郎、おもいでの中の小津安二郎、回想の小津作品スナップ・スチル集)(5‐36頁)
野田高梧「小津安二郎という男:―交遊四十年とりとめもなく」(38‐43頁)
八尋不二「祇園の一夜 *小津さんのこと」(44‐45頁)
佐田啓二「老童謡『高野行』 *小津さんのこと」(46‐47頁)
南部圭之助「小津安二郎の怒り」(48‐49頁)
伊藤大輔「石・紫蘇・など…」(50‐52頁)
野田高梧「『大根と人参』始末記」(53‐55頁)
岩崎昶「小津安二郎と日本映画」(56‐64頁)
関口英男「アメリカの小津映画支持者」(66‐67頁)
牛原虚彦「ヨーロッパは小津ブーム-海外での小津監督の評価」(68‐70頁)
新藤兼人「小津映画からなにを学ぶか:体験的小津安二郎論」(71‐79頁)
井沢淳「豆腐つくりの境地:縁なき衆生の小津安二郎小論」(80‐81頁)
厚田雄春「小津ロー・ポジションの秘密」(82‐83頁)
岸松雄「小津のごひいき俳優(スター)たち」(84‐88頁)
杉山静夫「回想の“小津サイレント”」(89‐91頁)
小津安二郎「自作を語る」(92‐99頁)
「小津安二郎監督作品一覧表」(100‐101頁)
シナリオ「出来ごころ」(102‐118頁)
シナリオ「父ありき」(119‐133頁)
シナリオ「麦秋」(134‐157頁)
シナリオ「東京物語:」(158‐180頁)

『映画評論』第二十一巻第三号(1964年3月1日発行、映画出版社、158頁)

表紙・目次デザイン:小林泰彦
滋野辰彦「小津安二郎の映画」(26‐37頁)
※一部抜粋する。「『若人の夢』の一部を、わたくしが今でも記憶に残しているのは、そのころ怠惰な学生だったわたくしの身にくらべて、このナンセンス喜劇がおもしろかったからであろう。そのなかで、はっきりおぼえているのは次のような場面である。主人公の大学生が、友人の恋人に会うためにアパートを訪ねる。かれはまだこの女に会ったことはないが、部屋の番号が9号だということを聞いている。ところが廊下をさがしているうちに、粗末な木造アパートの振動で、6号室の番号札がひっくりかえって9になる。そのため飛んでもないまちがいがおこることになる。この場面から受けた印象を一口に述べると、それは「アメリカ映画みたいだ」ということである。わたくしは今もそのことをよくおぼえている。すばらしいとか、うまいとかいう抽象的な印象ではない。わたくしははっきり、アメリカ映画という具体的な判断を、この映画から受け取ったのである。ショットの転換にリズミカルなテンポがあり、その明快な描写は、たしかにヨーロッパ的な演出とはちがって感じられたし、また当時の鈍重な日本映画では容易に見られない新鮮な描写であった。小津安二郎は、おそらくアメリカ映画の技術を早く消化しようとおもっていたのだろう。そのほかの國の影響をうけるのも事故の表現を作り出すのもその後のことである。」(26‐27頁)

『SUGHT AND SOUND』Volume33 No.2(1964年SPRING、British Film Institute、104頁)

CHISHU RYU「YASUJIRO OZU」(92頁)

近藤日出造『にっぽん人物画』(1964年6月18日発行、オリオン社、236頁)

「スクリーンの花形(5)小津安二郎 病んでも衰えぬ大声」(189―191頁)
※一部抜粋する。「北鎌倉。山の腹をくりぬいた洞窟を抜けると、秋の陽を浴びた木々の葉の海。その葉がくれに、しおり戸などしつらえた住居点々。風雅な部落だ。巨匠はそこで病んでいた。持ちまえの大声に衰えはなかったけれど、言葉はちょっともつれる。「淋巴腺に腫れものができて、癌センターで手術をやって‥退院してから、こんどは血行障害で右手がきかなくなりましてね。 サクラから秋風まで‥。いまや能因法師の心境ですね。都をば霞とともに出でしかど‥」わたし、無言。枕もとにずらりと所蔵の絵をならべ、天井を見つめたまま、巨匠は大きなひとりごと。」

『週刊読売』8月30日号(1964年8月30日発行、読売新聞社、122頁)

表紙:有馬稲子
社会 佐田啓二 国道20号線に死す 日本映画にとって惜しい損失」(22頁)
※一部抜粋する。「鶴田浩二、高橋貞二ととに、”戦後の三大二枚目”とうたわれ、故小津安二郎、木下恵介の両巨匠に愛され、「喜びも悲しみも幾歳月」「秋日和」「二人で歩いた幾春秋」「あなた買います」などに出演、ブルー・リボン賞と、毎日映画コンクール男優出演賞を獲得している。甘さだけのメロドラマ・スターではなく、渋さと骨のある好演をみせ、和製ジェームス・ディーンともいわれていた。

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