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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1964年の関連文献・資料

1964
『ヤングレディ』第二巻第一号通巻十五号(1964年1月1日発行、講談社、158頁)

「先生!悲しいの、私を泣かせてください(手記・岩下志麻)」(78-80頁)
映画監督小津安二郎氏(60歳・芸術院会員)は、悪性腫瘍のためさる十二日なくなった。その日は奇しくも同氏の誕生日だった。これは、庶民生活のペーソスを描いて多くの名作を生んだ日本の代表的な巨匠の死に、生前、滋父のように慕っていた女優が、その心の通い合いを涙でつづった手記である。
「夢まくらに先生の笑顔のクローズアップが‥」「「志麻ちゃん」と先生はもういわない‥」(78頁)「教えられた演技」(79頁)「「小津先生!私、泣けて‥」「忘れえぬ感動」(80頁)

『小津安二郎作品選集』(1964年1月1日発行、銀座並木座、4頁)

上映期間’64 1月1日~1月28日
「小津安二郎監督の作品暦」(3頁)
ナミキ・トオル「”去りし人、新しき年”」(4頁)
「1963年、川島雄三監督につづいて小津安二郎監督を日本映画界は失った。小津監督の死を聞いた時、その悲しみを抑えることができなかった。残念だ、残念だ、と心の中でくり返しつぶやくより術がなかった。小津芸術は世界的に再評価される時期に来ていた。小津作品の素晴らしさが改めて認識され始めていた。時流の混濁にまぎれて、我々が見過ごしていた小津作品の美を、今度の機会に泌々と味わいたいと思う。」
支配人「ちょっと一言」(4頁)
「別掲の小津安二郎作品暦中より種々バラエティに富んだものをと考え配給会社に申し入れたところ、現在残っている最も古い作品が昭和三十一年の『早春』とのことでした。」

『週刊新潮』第九巻第一号通巻四百十一号(1964年1月6日発行、新潮社、152頁)

「小津安二郎監督の”幻の愛人”」(32-33頁)
※一部抜粋する。「お葬式にあらわれたMさんこそ、小津さんの愛人だったんですよ。新橋の芸者をしていた人で、今は人妻です。小津さんはそのMさんをいつまでも心に抱いていたかったんでしょう。」

『ヤングレディ』第二巻第二号通巻十六号(1964年1月10日発行、講談社、182頁)

「先生にお世話になりました-とつぜん逝った故小津安二郎監督に別れを惜しむ喪服の女優たち‥」(32-33頁)
「麦秋」に出演した淡島千景さん。はば広い演技をもつ彼女にとって、忘れることのできない小津監督。いい知れぬ虚脱感が‥。
「小早川家の秋」に出演した新珠三千代さん。演技派の彼女にとって小津監督の死は、耐えられぬほどの打撃‥。
「彼岸花」に出演した久我美子さん。数々の賞に輝いた彼女も、小津監督を師と仰いで畏敬していたが‥数珠を手に悲しみをこめて。(32頁)
「小早川家の秋」「秋日和」に出演した司葉子さん。慈父のごとき温顔をもつ小津監督は今はいない。数々の教えも今は思い出に‥。
「東京物語」に出演した香川京子さん。十年前の演技開眼を機に飛躍した彼女にとって、小津監督はまさに恩人‥足どりも重い。
「秋日和」「秋刀魚の味」に出演した岩下志麻さん。「秋刀魚の味」で一躍スターになっただけに悲しみもひとしお‥。(33頁)

『キネマ旬報』No.1171 第三五六号(1964年1月15日発行、キネマ旬報社、172頁)

表紙:ティッピー・ヘドレン
「小津安二郎監督逝く」(40―43頁)
岩崎「小津安二郎を永久に」(40―42頁)
「ありし日の小津さんをしのぶ」
城戸四郎「幸福な人・小津君」(42―43頁)
野田高梧「病床でも忘れぬ笑い」(43頁)
佐田啓二「父を失った気持ち」(43頁)
※スナップ「ありし日の小津さん」「『秋刀魚の味』のセットで」「北鎌倉の自宅に帰った遺体を前に悲しみの第一夜」「元気だったころの小津さん」
広告「キネマ旬報緊急増刊 小津安二郎・人と芸術」(47頁)
編集室「小津さんの逝去、巨星落つの感まことに深い。ついこの間、ここで小津さんの病状を書いたが僕のひいきめにみた間違いだろうか。それにしても、こんなに早く逝くとは、人生は朝露の如しというが、日本映画重大のこの時惜しい人をなくしてしまった。昨夜北鎌倉の小津家にお通夜のおまいりをしたぼくは、九月末ごろ同じ部屋で”げんきになって「大根と人参」を作ろう”と話し合ったことを思い出し、悲しみは胸をついて如何ともなしえなかった。思えば小津さんの日本映画における業績”小津さんより撮れない”作品の数々が瞼にうかんでくる。その大きな足あとはすべて本誌のベスト・テンが物語っているし、小津芸術の
香り高いあの格調は永遠に輝くだろう。(大橋)」(172頁)

『国民百科』第17号(1964年1月20日発行、平凡社、20頁)

飯田心美「今月の人 小津安二郎」(7頁)
1903~63 映画監督。
1923年(大正12)松竹蒲田入社。
大久保忠素監督についたが、時代劇《懺悔(ざんげ)の刃》(1927)で一本立になった。
初期は、短篇笑劇が多く、しだいに長編コメディに転じた。
蒲田の時代劇制作中止にともない現代劇に転じ、大学生活やサラリーマン生活の倦怠(けんたい)、無気力を描いた《大学は出たけれど》(1929)、《會社員生活》(1929)、《落第はしたけれど》(1930)をへて、《東京の合唱》(1931)、《生れては見たけれど》(1932)で蒲田の代表的監督になった。
小市民の生活を悲哀と感傷のうちに描く、いわゆる<小市民映画>は、《出来ごころ》(1933)、《浮草物語》(1934)、《東京の宿》(19359の後、トーキー第一作《一人息子》(1936)で頂点をなした。
動員帰還後《戸田家の兄妹》(1941)、《父ありき》(1942)を作り、第二次世界大戦後は、《長屋紳士録》(1947)、《風の中の牝鶏(めんどり)》(1948)、《宗方姉妹》(1950)のほかに、《晩春》(1949)、《麦秋》(1951)、《東京物語》(1953)、《早春》(1956)、《彼岸花》(1958)、《秋日和》(1960)、《秋刀魚の味》(1962)などを作り、《一人息子》以来、主題を家族関係におく、すぐれた映画をつくった。
 この間33年には《東京物語》で英国第一回サザランド杯を獲得、同年紫綬褒章、34年芸術院賞を受賞、37年映画人として最初の芸術院会員となった。1963年12月死去。

『シナリオ』1964年2月号「特集 小津安二郎・その人と作品」(1964年2月1日発行、シナリオ作家協会、160頁)

「思い出のアルバム」(8-9頁)
岸松雄「小津安二郎伝」(20-29頁)
野田高梧「『蓼科日記』抄」(30-34頁)
里見弴「小津君よ、さようなら」(35頁)
菅原通済「淋しい」(36-37頁)
緒方安雄「小津安二郎さん」(37-38頁)
池田忠雄「フィルムの詩人」(38-39頁)
長井登貴「発病の頃より」(40頁)
山内静夫・厚田雄春・清水富二・井上和男・佐田啓二・淡島千景 座談会「小津先生という人」(42-54頁)
伏見晃「思い出すこと」(56-57頁)
オリジナル・シナリオ「淑女は何を忘れたか」(57-74頁)

『東宝映画』通巻第54号(1964年2月1日発行、東宝映画友の会・本部、42頁)

表紙:大空真弓
フォトサロン「司さんと小津監督(香川京子さんの結婚式の日)」(29頁)

『松竹』No.166(1964年2月4日発行、松竹株式会社調査室、17頁)

「小津安二郎監督を偲ぶ」(12-17頁)
・日本映画界の支柱を失う。
・還暦を祝うべき日に
・お通夜
・築地本願寺で盛儀
・生い立ちと作風
・小津監督の作品
・死を悼むことば 大谷会長弔辞、作家里見弴氏の弔辞
・おやじ小津安二郎はもういない=佐田啓二さんの看護日誌から=

『キネマ旬報』増刊1964年2月号「小津安二郎<人と芸術>」(1964年2月10日発行、キネマ旬報社、180頁)

「特別グラビア アルバム・小津安二郎」(小津君と鎌倉と私:里見弴、撮影現場の小津安二郎、おもいでの中の小津安二郎、回想の小津作品スナップ・スチル集)(5‐36頁)
野田高梧「小津安二郎という男:―交遊四十年とりとめもなく」(38‐43頁)
八尋不二「祇園の一夜 *小津さんのこと」(44‐45頁)
佐田啓二「老童謡『高野行』 *小津さんのこと」(46‐47頁)
南部圭之助「小津安二郎の怒り」(48‐49頁)
伊藤大輔「石・紫蘇・など…」(50‐52頁)
野田高梧「『大根と人参』始末記」(53‐55頁)
岩崎昶「小津安二郎と日本映画」(56‐64頁)
関口英男「アメリカの小津映画支持者」(66‐67頁)
牛原虚彦「ヨーロッパは小津ブーム-海外での小津監督の評価」(68‐70頁)
新藤兼人「小津映画からなにを学ぶか:体験的小津安二郎論」(71‐79頁)
井沢淳「豆腐つくりの境地:縁なき衆生の小津安二郎小論」(80‐81頁)
厚田雄春「小津ロー・ポジションの秘密」(82‐83頁)
岸松雄「小津のごひいき俳優(スター)たち」(84‐88頁)
杉山静夫「回想の“小津サイレント”」(89‐91頁)
小津安二郎「自作を語る」(92‐99頁)
「小津安二郎監督作品一覧表」(100‐101頁)
シナリオ「出来ごころ」(102‐118頁)
シナリオ「父ありき」(119‐133頁)
シナリオ「麦秋」(134‐157頁)
シナリオ「東京物語:」(158‐180頁)

『映画評論』第二十一巻第三号(1964年3月1日発行、映画出版社、158頁)

表紙・目次デザイン:小林泰彦
滋野辰彦「小津安二郎の映画」(26‐37頁)
※一部抜粋する。「『若人の夢』の一部を、わたくしが今でも記憶に残しているのは、そのころ怠惰な学生だったわたくしの身にくらべて、このナンセンス喜劇がおもしろかったからであろう。そのなかで、はっきりおぼえているのは次のような場面である。主人公の大学生が、友人の恋人に会うためにアパートを訪ねる。かれはまだこの女に会ったことはないが、部屋の番号が9号だということを聞いている。ところが廊下をさがしているうちに、粗末な木造アパートの振動で、6号室の番号札がひっくりかえって9になる。そのため飛んでもないまちがいがおこることになる。この場面から受けた印象を一口に述べると、それは「アメリカ映画みたいだ」ということである。わたくしは今もそのことをよくおぼえている。すばらしいとか、うまいとかいう抽象的な印象ではない。わたくしははっきり、アメリカ映画という具体的な判断を、この映画から受け取ったのである。ショットの転換にリズミカルなテンポがあり、その明快な描写は、たしかにヨーロッパ的な演出とはちがって感じられたし、また当時の鈍重な日本映画では容易に見られない新鮮な描写であった。小津安二郎は、おそらくアメリカ映画の技術を早く消化しようとおもっていたのだろう。そのほかの國の影響をうけるのも自己の表現を作り出すのもその後のことである。」(26‐27頁)

『丸』第十七巻第三号通巻二〇二号(1964年3月1日発行、潮書房、240頁)

吉田一「銀幕の巨匠・小津安二郎との奇妙な交友記 若き日の小津安二郎監督を偲ぶ」(148-149頁)
※冒頭を引用する。
 私は、ペンをとるまえに、まず、亡くなられた小津さんの霊に対し、つつしんで弔意をささげます。
 昭和二年のデビュー作「懺悔の刃」いらい、昨秋の「秋刀魚の味」にいたるまでに、数々の映画を製作された彼ではあったが、私の知るかぎりでは、彼の作品のなかに、戦争の臭いさえかぎだすことはできなかったし、また、彼の人がらのなかに、戦争と結びつけるなにものも見いだせなかったが、彼もまた、日本の一国民として、まぬがれようもなかった宿命に、一兵士として、戦野をかけめぐっていた時代があったとしても、けっして不思議ではなかろう。
 昭和十四年三月、中支江西省の戦野で、私は、軍人としての彼と、苦渋の幾日かをすごした思い出がある。
 彼が死去されたと聞いた私の胸に、とっさに思い浮かんだのは、彼の作品でもなければ、巨匠小津監督の姿でもなく、江南の戦場で見かけた小津軍曹の面影であり、それは私の長い従軍生活のなかでも、もっとも忘れがたい思い出の数カットだ。

『SUGHT AND SOUND』Volume33 No.2(1964年SPRING、British Film Institute、104頁)

CHISHU RYU「YASUJIRO OZU」(92頁)

近藤日出造『にっぽん人物画』(1964年6月18日発行、オリオン社、236頁)

「スクリーンの花形(5)小津安二郎 病んでも衰えぬ大声」(189―191頁)
※一部抜粋する。「北鎌倉。山の腹をくりぬいた洞窟を抜けると、秋の陽を浴びた木々の葉の海。その葉がくれに、しおり戸などしつらえた住居点々。風雅な部落だ。巨匠はそこで病んでいた。持ちまえの大声に衰えはなかったけれど、言葉はちょっともつれる。「淋巴腺に腫れものができて、癌センターで手術をやって‥退院してから、こんどは血行障害で右手がきかなくなりましてね。 サクラから秋風まで‥。いまや能因法師の心境ですね。都をば霞とともに出でしかど‥」わたし、無言。枕もとにずらりと所蔵の絵をならべ、天井を見つめたまま、巨匠は大きなひとりごと。」

『シナリオ』通巻193号(1964年7月1日発行、シナリオ作家協会、158頁)

「追悼 池田忠雄」
5月12日胃癌のため永眠。明治38年2月5日生。東京出身、早大仏文科卒後、松竹脚本部に入り、昭和3年処女作「円タク坊ちゃん」を執筆、その後25年監督部に転じる。
新藤兼人「池田作劇術」(34-38頁)
柳井隆雄「往時茫々」(38-39頁)
 「昭和4年11月10日の日記にこうある。蒲田の試写室で『アスファルト』の試写を見る。よろしき写真、ベッティ・アーマンの性的魅力は悩ましきかな。皆興奮し、変に憂うつな気持ちになる。小津、清水(宏)、小松(北村)、池忠の四兄と大森海岸に散歩、喜久乃屋なる料亭に上る。芸者三名、十一時まで騒ぐ。詩人小津安二郎の面目、朗らかな池忠の面目、無邪気なる清水、善良で物分かりのいい、小松ちゃんの面目、そしてそれぞれのエネルギッシュな溌剌さ、羨ましく快き限りであった。独り頑なな、はにかみ屋の自分、その為に彼らを不快にさせなかったかと気になる。
荒田正男「よき東京人」(39-40頁)
津路嘉郎「江戸っ子忠先生」(40-41頁)
池田三郎「兄のこと」(41頁)

『週刊読売』8月30日号(1964年8月30日発行、読売新聞社、122頁)

表紙:有馬稲子
社会 佐田啓二 国道20号線に死す 日本映画にとって惜しい損失」(22頁)
※一部抜粋する。「鶴田浩二、高橋貞二ととに、”戦後の三大二枚目”とうたわれ、故小津安二郎、木下恵介の両巨匠に愛され、「喜びも悲しみも幾歳月」「秋日和」「二人で歩いた幾春秋」「あなた買います」などに出演、ブルー・リボン賞と、毎日映画コンクール男優出演賞を獲得している。甘さだけのメロドラマ・スターではなく、渋さと骨のある好演をみせ、和製ジェームス・ディーンともいわれていた。

『松竹』No.174(1964年10月6日発行、松竹株式会社調査室、17頁)

「佐田啓二の死を悼む」(16-17頁)
・不運なできごと
・無言でわが家へ
・青山斎場で葬儀
・生いたちと作品
・佐田啓二さんへの弔辞 城戸社長、木下恵介監督

菅原通済『裸天国ニッポン』(1964年10月31日発行、創思社、312頁)

「早春余慶」(154-157頁)
※「小津安二郎さんの遺族の方が、お形見を持参された。麻の蚊紋と茶羽織、それに掛軸が二本添えてあった。それが、かって私が記念に差し上げた古画なのだが異様に感ぜられた。こうした由緒のある品は、私たちが持つよりは、どうか元どおり御蒐集品の中に加えてください。との言い伝えだった。さすがは小津御一家らしい謙遜な態度と心温まる思いであったが、そのままに打ち過ぎた。ところがつい先頃その箱の中を調べてハッとした。‥」
「小津安二郎サン」(266-269頁)
※「最後の親友を失い、かくなにものにもない。数々の追憶談の出尽くした今日、つけ加えるなにもない。松竹で、社葬にはできないが、協会と合同葬にする、それをきいて味気なく、翌朝通りいっぺんの、素っ気ない黒枠広告を見て、益々その感を強め、葬式場で、形式的な、大谷君、大臣、院長等々の代理、代理の弔辞をきいて、人ごとのような思いにかられ、味も素っ気もない、そこらの安社長の社葬のような気がしてきたが、やっと里見弴先生の肉声で救われ、うら淋しい気持ちで引き上げた。‥」
「佐田啓二と保険」(278-279頁)
※「佐田啓二君の事故死で、どうしてあんな俳優稀に見る勤直な男が無残な死に方をせねばらなぬのか、木下監督の弔辞ではないが、神仏がにくらしくなったのは我のみではあるまい。その葬式が終わったら、高島忠夫君の幼児が十七娘に殺された。佐田とは異なり、告別式に行くほどの仲でもないのに、どうしても焼香がしたく、先約を断り、玉川迄暑い盛りを出かけた。奥さんは身も世もないほど打ちしおれ、うつぶせになって泣き伏している。‥」

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