全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1959年の関連文献・資料

1959
『映画評論』第十六巻第二号(1959年2月1日発行、映画出版社、158頁)

表紙と扉:中原史人
岸松雄「続・現代日本映画人伝(7) 小津安二郎」(105―119頁)
※一部抜粋する。「大正十五年の夏、鎌倉で大久保組の『新婚時代』のロケーションがおこなわれていた。そのあと、一行は或る旗亭で一夜の宴を催した。この時には内田岐三雄がゲストとして招かれていたが、談たまたま大久保監督の前作『愛怨百面相』のことに及ぶとそれについて内田がキネマ旬報に書いた批評には「うちの者たちは不満なんだ。」と大久保が言った。不満と言われては内田も黙って引込むわけには行かない。大久保のほうに向けていた身体を助手たちのほうに稔じむけて、「不満なんですか」と内田が言うと、即座に「不満ですなァ」と肩幅の広い男が答えた。それが小津安二郎だった。『愛怨百面相』の議論はそれで打ち切りとなったが、この初対面の時以来小津と内田の交友は昭和二十年の七月末、敵機の爆撃を受けて内田が死ぬまで綿々とつづいた。事実、小津の処女作『懺悔の刃』をいち早く認めて、その良さを批評によって世にあきらかにしたのは、内田岐三雄その人であった。」(107-108頁)
「蒲田撮影所時代。山中貞雄と小津安二郎」(109頁)、「最近作『彼岸花』で佐分利信、田中絹代に演技をつける小津監督」の写真あり。

『第24回都民映画コンクール』(1959年2月7日発行、東京都教育員会・東京新聞社、8頁)

「彼岸花」(表紙)
「(金章)彼岸花 演出に当って 監督小津安二郎」(3頁)

『OFUNA TIMES』No.126~1 TOTAL No.10(1959年2月18日発行、松竹大船撮影所宣傳課)

無駄なような日常の言葉の一つ一つに、生活の潤いがある
名匠小津安二郎監督が描く、微苦笑の現代庶民風俗
スタッフ、キャスト、解説、ものがたり

『文藝春秋』第三十七巻第三號(1959年3月1日発行、文藝春秋新社、402頁)

「同級生 交歓 京都駅長 奥山正次郎 映画監督 小津安二郎」(グラビア)
「奥山とは、三重県立第四中学、のちの、宇治山田中学での同級である。爾来四十有余年、想えば、永い腐れ縁である。菅公は、流謫のみぎり、道すがら、「駅長驚く勿れ、花咲く春あれば、葉落つる秋あり」といましめたが、驚くのは、ひとり、駅長ばかりではない。映画の監督も、亦、驚くのである。耳は、秋声の梧葉にわたるのを聞きながら、いまだ、あつかましくも、二人とも、池塘春草の夢を見つづけている(小津安二郎)。」

『週刊明星』第二巻第十一号通巻三十四号(1959年3月22日発行、集英社、92頁)

表紙:淡島千景(撮影:早田雄二)
「対談 小津安二郎・戸塚文子 人生ひとり旅」(26―29頁)
※記載されている戸塚文子氏のプロフィールは、「大正二年、東京生まれ。日本女子大卒。雑誌「旅」の編集長として活躍中だが、随筆家、評論家としても名高い。著書に「しゃぼてん夫人」「ビルの谷間」などがある。」
※一部抜粋する。
小津「そのじぶんの中学生などは、親と一緒でも、活動写真を見るのを禁じられていました。私なんか、禁じられているから、きっと面白いものだろうと、隠れてみた傾向もあるんだな」戸塚「補導連盟というのがあって、先生が映画館をまわっている。二三度つかまると退校処分なんですね。そこにスリルを感じて観に行く」小津「中学生は、鳥打ちをかぶったり、敷島を吸ったりして」

『週刊新潮』第四巻第十二号通巻百六十三号(1959年3月23日発行、新潮社、86頁)

「現代の顔 監督三十年 芸術院賞の小津安二郎」(1-5頁)
※小津さんはいまだに独身。八十四歳のお母さんと二人で、北鎌倉駅に近い山の上に、ひっそり暮らしている。門を入ると、山をくりぬいたトンネルがある。墨絵でも見るような庭のつくり、そのすみにボタンの赤い芽が伸びていた。住まいもやはり、小津調である。庶民の哀歓と機微を描いて三十年。昨年の紫綬褒章に続いて、今年は、映画界初の芸術院賞を受けた。五十六歳の輝かしい早春である。

『週刊大衆』第2巻第12号通巻第49号(1959年3月23日発行、双葉社、86頁)

表紙:小山明子
「時に人あり 芸術院賞を受けた小津安二郎」(1-4頁)
※毎年の映画ベスト・テン選出の時に、かならず入賞する作品をつくるということは、大変なことである。昭和二年監督になった小津さんは、サイレントからトーキーへ、そして色彩へと、大きく移り変わった現在まで、つねに最高位を占める監督である。

日本芸術院編『日本芸術院要覧(昭和33年度)』(1959年3月25日発行、日本芸術院、92頁)

「昭和34・3・8
日本芸術院第十五回受賞者先の通り
恩寵賞(文学・美術)故木村荘八、日本芸術院賞(日本画)加藤栄三、(日本画)森田沙伊、(洋画)小山敬三、(洋画)林武、(工芸)井上良斎、(工芸)大須賀喬、(建築)中村順平、(小説)井上靖、(評論)吉田精一、(邦楽)中能島欣一、(演劇)小津安二郎)」(25頁)
※(演劇)日本芸術院会則第二条に各部に左の分科を置くとあり、第三部音楽、演劇、舞踏の第十二分科 演劇(人形劇及び映画を含む。)とある。
「日本芸術院賞 第三部 演劇(映画)「映画監督としての多年の業績」 小津安二郎」(44頁) 

『お早よう』TOTAL No.20(1959年3月29日発行、松竹大船撮影所宣伝課)

アグファカラー総天然色
映画界初の芸術院賞と紫綬褒章の栄誉に輝く
名匠・小津安二郎監督 三十有余年の足跡回顧
小津安二郎監督作品目録
※「お早よう」までの全作品のタイトル、製作年、原作、脚色、出演者、キネマ旬報順位等を掲載

野田高梧・小津安二郎『シナリオ文庫・59 松竹映画シナリオ お早よう』(1959年4月5日発行、映画タイムス社、36頁)

表紙:久我美子
裏表紙:スチル写真(上)「おでん屋の客は、小津作品におなじみの菅原通済、スチル写真(下)「スナップ・テレビのある丸山家のセット撮影」
中表紙
小津安二郎「『お早よう』の演出にあたって」(6頁)
「解説 小津監督が描く庶民生活の風刺的吟味」(7頁)
岸松雄「小津・野田コンビと『お早よう』」(8-9頁)
「『お早よう』ものがたり」(10‐11頁)
「スタッフ・キャスト」(11頁)
「オリジナルシナリオ 『お早よう』」(12―36頁)

『お早よう』(1959年5月発行、松竹株式会社九州支社、両面)

佐田・久我の二大スターを囲む最高配役!
名匠がつづる泌々胸うつ映画劇術の粋
裏面に文案、宣伝ポイント、放送原稿、スタッフ、キャスト、ショートストーリー、解説、配列表、ロゴが掲載されている。

プレスシート『お早よう』(1959年5月、松竹株式会社)

映画界初の芸術院賞受賞 小津安二郎監督の最高名作!
お早よう スタッフ、キャスト、かいせつ、宣伝ポイント

『婦人公論』第五百七号(1959年5月1日発行、中央公論社、390頁)

小津安二郎「もののあわれ映画論」(182-185頁)
 映画人として初の芸術院賞を受賞した監督が、そこはことない人生を賛美する。
※冒頭を引用する。
「★小市民ものの背景
僕は小市民映画を飽きずに撮っていると言われているが、僕自身「小市民映画」などと名付けたわけではなく、その昔、仲間の五所君も成瀬君も、亡くなった島津さんも、今から三十年前は皆同じような雰囲気の映画を撮っていた。と言うのは、当時、撮影所は蒲田にあったが、映画企業の機構が今と違って極めて貧弱で、セットもひどいし、ロケーションにも金をかけることができず、蒲田の近くでロケも大へん簡単に、粗末なセットでやることが多かった。そこで自然と、いわゆる小市民ものが、ボロが出なくて良いということになった。その結果、蒲田映画の主な作品系列が小市民ものになったのだと思う。二、三十年前は、そんな具合だったが、確かにそれを飽かずに現在もやっているとなると、僕だけかもしれない。」

『映画天国』第2巻第5号(1959年5月1日発行、千葉興業株式会社、10頁)

「お早よう」
都会の片隅に生きる庶民の生活感情とほのぼのとした童心の秘密を見事に描いてこみあげる笑い!こころよい感動!
かいせつ、出演者

『松竹ニュース』No.104 「お早よう 特集号」(1959年5月1日発行、松竹株式会社映画宣伝部、4頁)

「人情の機微と巧まぬユーモア 微苦笑の現代風俗 見事に描く興味深い童心の秘密」(1頁)
「変わらぬローアングル 緊張みなぎるセット 撮影を見る」「泌々とした愛の情感 佐田、久我の新しい魅力」「鬼よりこわい巨匠も無心な子役に参る 御褒美にお菓子を用意」「わたし達は演技派、グラマー泉、コメディアン大泉」「格調を重んじる小津作品に 珍しく型破り続出 オナラも主役で登場する‥」「全映画界をあげて 盛大な祝賀会 小津監督の芸術院賞受賞記念」(2-3頁)
「益々深み高まる小津芸術 処女作から最近作までの作品天望 小津安二郎作品年表」(4頁)

『キネマ旬報』No.1047 第二三二号(1959年5月1日発行、キネマ旬報社、154頁)

表紙:ドロレス・ミッチェル
グラビア「お早よう」(30-31頁)
※これは、昨年「彼岸花」で文部大臣賞を、また、長年にわたる映画作家としてはたして来た業績を認めあられて紫綬褒章を受けた、松竹大船撮影所の重鎮、小津安二郎監督が、かねていだいて来たアイディアを、よき協力者野田高梧とともに脚本化し、本年初の作品としてメガホンをとるものである。」(30頁)スチルは6カット、1カットに演出する小津監督。

『Shochiku Reports No.37』(1959年発行、松竹株式会社、11頁)

「お早よう スタッフ、キャスト、かいせつ、宣伝ポイント」(4頁)

完成記念特別招待試写会特別招待券『お早よう』(1959年5月8日発行、東京劇場)

「映画界初の芸術院賞に輝く 名匠小津安二郎監督作品
アグファカラー・総天然色
お早よう 特別招待券 1階席
とき・5月8日(金)
ところ・築地 東京劇場」

『芸術院受賞記念 小津安二郎作品展』(1959年5月8日、松竹株式会社)

芸術院受賞記念 小津安二郎作品展
1959年5月8日(金)~5月13日(水)
主催、松竹株式会社
会場 銀座松屋 8階催場

 小津安二郎監督は、昭和二年「懺悔の刃」を処女作としてデビュー以来、今度完成しました「お早よう」を以て、作品本数実に五十本を数えます。
 この間、数多くの名作を発表し、日本映画界の指導的立場を堅持しつつ、映画芸術の向上に不断の努力を傾けて参りましたことは、既に皆様がよく御存知の通りであります。
 監督生活三十有余年、昨年秋には多年の藝術活動の功労により紫綬褒章を、また今年は映画界初の芸術院受賞者に決定され、小津監督が日本映画史に印した偉大な足蹟は、広く各界から尊敬と賞賛を集めております。
 ここに芸術院賞受賞を記念し、小津監督の偉業を回顧し、皆様の映画に対する理解と愛情を、いよいよ深めて頂くことをきたいしてやみません。松竹株式会社

 小津安二郎監督作品総目録、小津監督とキネマ旬報

割引入場券『お早よう/惜春鳥』(1959年5月12日発行、尾花劇場)

アグファカラー総天然色 巨匠小津安二郎監督作品『お早よう』、12日堂々公開!
期間:5月12日より5月26日まで
尾花劇場
※尾花劇場とは、奈良県奈良市菩提町(席数892)にあった劇場である。尾花劇場の前身の尾花座は、明治30年代には開業していた奈良市の老舗劇場。明治42年(1909)の建物の大改修後は、当時人気の歌舞伎や演劇などを上演。大正9年(1920)からは、映画館「尾花劇場」として、昭和54年(1979)の閉館。(参考:http://www.city.nara.lg.jp/www/contents/1529800075854/index.html
奈良市ウェブサイト:教育委員会・文化財・文化財ニュース・史料保存館企画展示 尾花座‐芝居小屋から映画館へ(2019年9月16日アクセス))。

『お早よう』台本(1959年5月12日発行、松竹株式会社、96頁

スタッフ・キャスト:4頁、a-52,b-28,c-12
発行日がないので、封切日とした。

『お早よう』(縮刷シナリオ)(1959年5月12日発行、松竹株式会社、31頁)

二段組、発行日がないので、封切日とした。

『お早よう』(1959年5月12日、松竹株式会社、丸の内松竹、4頁)

「解説、ショートストーリー 12日松竹系一斉封切」

『松竹NEWS お早よう』(1959年5月12日発行、松竹株式会社、新宿松竹映画劇場、6頁)

「解説、スタッフ、キャスト」(1頁)
「物語」(2頁)

中吊り広告『お早よう』(1959年5月12日、近鉄会館・上六映劇)

映画界初の芸術院賞受賞に輝く 名匠小津安二郎監督作品
総天然色 お早よう 佐田啓二 久我美子

『お早よう』(1959年、合資会社奥商会)

お早よう
松竹作品全10巻 十八月貸付
合資会社奥商会 大阪本社 大阪市西区南堀江通1丁目2

『週刊読売』五月三十一日増大号(1959年5月31日発行、読売新聞社、106)

日出造見参「やァこんにちは」(256)映画監督小津安二郎(42-46頁)
※冒頭の一部を抜粋する。
「見ず知らずのアカの他人が、陰でうわするのにも「さん」づけする人は、よほど立派な人なんだな、と思う。そういう人が何人かいる。志賀さん、武者さん、そうして、この小津さん。これらの人たち、おれとどう違うんだろうか、と考えてみたら、みなさんそれぞれ、仕事に一本、筋を通していた。ある一点で、ガンとして妥協しなかった。対談業など相つとめ、だれとでも一応話を合わせるなどというお調子者は、やはりヒデゾーか。
近藤 東京に出るとバーですか、日本料理屋ですか。
小津 両方に行きます。
近藤 芸者遊びなんかお好きですか。
小津 好きだけれども、あまりしませんね。やはり、男ばかりで酒を飲んでいるより、ご婦人がいっしょの方が‥。
近藤 独身を通していらっしゃるので、ご婦人はおきらいかと思ったんですが‥。
小津 とんでもない。そんなもったいないこと。(笑声)
近藤 なのに、どうして独身を‥。
小津 なんとなく、ひとりはのんきだという気がしましてね。
近藤 全然結婚はなさらないんですか。
小津 一度もしないんです。
近藤 長井荷風さんの気持ちなぞ、よくわかるでしょうね。
小津 荷風先生は結婚をして‥。

以降、見出しのみ掲載。
昭和二年以来の野田コンビ
劇中人物の月給まで相談
”異質”でない新劇人の演技
”オナラの音”を千種も研究
会社をだますのも演出
チャンバラものはニガ手 

『映画評論』第16巻第6号(1959年6月1日発行、映画出版社、158頁)

秋山邦晴「映画音楽 お早よう:黛敏郎」(57頁)
岩崎昶「芸術院賞をもらった 小津安二郎」(58-59頁)
※一部抜粋する。「この席上、いちばん私を動かしたのは、八十四歳とかになられた母堂の挨拶であった。有名になった息子の晴れの日のために、小さな老婦人はマイクのそばに立って、短い言葉を述べた。その声は低くひかえめで、大分離れていた私のところまではとてもとどかなかった。が、幸福な母親の気持ちがとどくには声も何もいらなかった。小津安二郎は日本一の親孝行者として有名である。彼はこの時、老母の手を取るようにしてマイクのそばまで連れて行き、挨拶の間中その手をささえてそばに付き添っていたかというと、そうではなかった。彼は母の手を取りに行かず、そばにつきそいもせず、終始一貫して、一メートル半ほど離れたところに立っていた。このことは、八十四歳の母堂の挨拶以上に実は私を動かしたのである。そこに私は小津芸術の秘密、というよりもその原理を見た。最小表現の原理、とでもいおうか、古い日本語では、言わぬは言うにさる、泣かぬはホタルが身を焦がす、というやつである。‥」(写真三葉)
ドナルド・リチイ「小津安二郎と「お早よう」」(81-83頁)
※一部抜粋する。「小津監督の場合、戦後作品だけで彼を評価するのは妥当を欠いている。日本の若い世代の人は、彼を反動的、封建的、オールド・ファッションなどのレッテルで片付けてしまうのが現在常識のようになっているらしいし、例の独特な映画美学(畳ショットや据えっぱなしのキャメラ・ポジション)を非難するが、それではただしく小津作品を評価できない。私はこれは間違いだと思う。先日もある若い映画監督と話したが、彼も右のような点から小津作品をきわめて非難した。が、そのような非難は、小津作品の一部の欠点をつくことはできるが、作品全般の批評というわけにはゆかない。小津作品の全系列から見て、特に初期の作品をみてからのうえで、避難するならするがよいだろう。」

「特信A(映画ニュース)ノ一~四」(1959年6月7日発行)

小津監督、「浮草」を演出 大映の他社監督かつぎ出し
大作一本立てに製作方針を切替えた大映は、外部から優秀な演出家を招いて強力作品制作の準備を着々と進めている。
「一本立てにしたわ、作品内容が変わらぬわでは大映はつぶれる」という永田社長を陣頭に、名匠や才能ある監督に交渉、大映作品のメガホンをとってもらおうというわけだ。
△「浮草物語」の再映画化
その第一号は、松竹の重鎮小津安二郎監督。

『キネマ旬報』No.1051 第二三六号(1959年7月1日発行、キネマ旬報社、180頁)

表紙:
「日本映画六十年を代表する最高作品ベスト・テン」(68-77頁)
※第三位「生まれては見たけれど」(68点)
※「ベスト10に選ばれた作品 生まれては見たけれど」(75頁)

『キネマ旬報』No.1052(1959年7月15日発行、キネマ旬報社、152頁)

表紙:Sabine Sinjen
「Close up  芸術院賞を受賞した小津安二郎」(15頁)
銀座のたそがれどき、ソフトをあみだに、飄然と街を行く小津さんをよく見かける。明治三十六年生れ、五十六歳とは見えぬがっしりした体躯が、銀座の雑踏の中に悠然とそびえている感じである。最近作、「お早よう」で奇想天外な擬音で映倫の先生方を面くらわせた。そんな茶目っ気がうかがえる飄々たる足どりである。その小津さんが、三十三年度の芸術院賞を受賞した。映画界ではもちろんはじめてのことであるが、小津さんが-ということで、映画界の喜びはひときは大きかった。人柄のたまものである。-中略-過日開かれた受賞記念祝賀会で、小津さんは求められるままにマイクに向った。満場かたずをのむうちに、高らかに軍歌をうたったという。硬骨漢、小津安二郎の面目やくじょたるものがある。激動する日本映画界の中にあって、このガンコさは、ますます貴重なものといえよう。

『キネマ旬報』別冊「日本映画人大鑑」(1959年7月15日発行、キネマ旬報社、210頁)

「脚本 小津安二郎」(34頁)
「監督 小津安二郎」(52頁)

「大映東京撮影所ニュース」No.4(1959年7月24日発行、大映東京撮影所宣伝課)

大映東京撮影所ニュース特報  
18.5㎝×26.5㎝
名匠小津安二郎が大映で始(ママ)めて新境地を開く待望の名作
大映カラー・総天然色「浮草」準備中
八月十日頃よりクランクインするが、ロケーションは、志摩半島の港町を舞台に展開される予定である。

「大映東京撮影所ニュース」No.1(1959年7月31日発行、大映東京撮影所宣伝課)

大映東京撮影所ニュース特報
志摩半島に十日間のロケ撮影 衣装調べも慎重に
大映カラー・総天然色
小津安二郎監督「浮草」準備進む

『浮草』台本(1959年発行、大映株式会社、138頁)

キャスト:6頁 a-14,b-30,c-30.d-36,e-22
発行日がないので、便宜的に封切年とした。

スピードポスター『浮草』(1959年、大映)

名匠小津安二郎が愛と微笑の心でうたいあげた人生の真実!
胸打つ哀愁と感動で全篇を貫く文芸巨篇!
スタッフ、キャスト、物語、梗概、宣伝ポイント
文案、放送原稿、スタジオマイク、配列表

『大映写真ニュース 特報 浮草』(1959年、大映東京撮影所宣伝課)

最高の感動と溢れる詩情!小津芸術の華ひらく!
セットに見る小津演出の真髄
450×620

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.3(1959年8月8日発行、大映東京撮影所宣伝課、1頁)

芝居見学に扮装テストに準備慎重に進行中
名匠小津安二郎監督が今秋の映画界に最大の話題を呼ぶ大映カラー・総天然色「浮草」は、十日下田ロケよりクランク開始を目前に準備は着々と進んでいる。

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.1(1959年8月15日発行、大映東京撮影所宣伝課)

完璧なキャスト決る
名匠小津安二郎監督が今秋の映画界に最大の話題を呼ぶ大映カラー・総天然色「浮草」は、十二日、床屋”小川軒”のセットからクランクを開始した。

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.2(1959年8月22日発行、大映東京撮影所宣伝課、1頁)

相変わらずのローアングル ”床屋”のセットから撮影開始

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.3(1959年8月22日発行、大映東京撮影所宣伝課)

-ものがたり-その一

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.4(1959年8月22日発行、大映東京撮影所宣伝課)

その二

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.3(1959年8月28日発行、大映東京撮影所宣伝課)

炎天下にワン・カット 三時間ねばり 志摩半島ロケ

「大映東京撮影所スタヂオ・マイク」(1959年8月、大映東京撮影所宣伝課)

「浮草」志摩半島ロケ・特集
その一一四二 弱ったね
その一一四三 フグれ面
その一一四四 その通り
その一一四五 本当ですか?

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.1(1959年9月11日発行、大映東京撮影所宣伝課)

”南国土佐-”のメロディに合わせて 京、若尾らの町廻り
=志摩半島ロケ 第二報=

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.2(1959年9月11日発行、大映東京撮影所宣伝課)

珍しい小津式ラブシーン
若尾、川口キス十回やり直し

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.3(1959年9月18日発行、大映東京撮影所宣伝課)

十二年ぶりに合った夫婦の愛情
鴈治郎、杉村の演技合戦

『週刊サンケイ』第八巻第四十一号通巻四百一号(1959年9月20日発行、産経新聞社、110頁)

「特集:日本映画の巨匠たち」(49―62頁)
「小津安二郎 浮草」(52―53頁)
※「小津監督」、「若尾文子」それぞれのショット、特集としては、山村聰、市川崑、小津安二郎、木下恵介、稲垣浩、吉村公三郎、小林正樹、澁谷実が紹介されている。

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.1(1959年9月26日発行、大映東京撮影所宣伝課)

殴られたり、コブをと作ったり
若尾、川口、鴈治郎で親子喧嘩

『FILM QUARTERLY』Vol.ⅩⅢ、No.1-FALL1959(1959年発行、The Regents of the University of California、64頁)

DONALD RICHIE「The Later Films of Yasujiro Ozu」(18-25頁)
「Ozu and his favorite camera position」(19頁)
「Ozu directing Tokyo Story, with Chieko Higashiyama and Chishu Ryu」「the finished scene」(20頁)
「OHAYO:Masahiko SHImazu,Chishu Ryu,Koji Shida.Kuniko Miyake」(22頁)
「Ozu shooting LATE SPRING. Fater(Chishu Ryu) and daughter(Setsuko Hara) at Kamakura.」(23頁)
※「晩春」とあるが、「東京物語」の誤植、鎌倉は尾道の誤植。
「A script reading during shooting of TOKYO TWILIGHT.Ineko Arima,Setsuko Hara,Ozu」(24頁)

『大映グラフ』創刊・錦秋特集号NO.1(1959年10月1日発行、大映株式会社宣伝部、14頁)

表紙:叶順子、本郷功次郎
「特集 浮草」(8-9頁)
グラビア8枚(うち2枚小津監督)
京マチ子「小津先生との楽しいあけくれ」(8頁)

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.1(1959年10月3日発行、大映東京撮影所宣伝課)

京、四十日ぶりにセット・イン
小津監督も三スタアに任せきり

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.5(1959年10月9日発行、大映東京撮影所宣伝課)

監督お手製の氷いちご
島津坊やも名演技

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.2(1959年10月17日発行、大映東京撮影所宣伝課)

若尾”南国土佐-”の猛練習
島津マア坊も一緒に

『週刊実話特報』第1巻第28号通巻28号(1959年10月23日発行、双葉社、82頁)

表紙:筑波久子
「若尾文子七年目の浮気」(32-33頁)
※一部抜粋する。「小津作品に初出演ということが、女優としての芸に対する意欲を、大いにかきたてている。過去の若尾が演じてきた方から抜け出す、一つの足掛かりになるかもしれない。セット・インした当時は、さすがの彼女も、緊張してコチコチだったが、「君はキモノ姿がいいよ」と小津監督にほめられてから、シコリがとれ、しかも細かい親切な演出ぶりに、すっかり感激している。」

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.2(1959年10月28日発行、大映東京撮影所宣伝課)

京のお光に若尾のお染
賑やかな手打ちの楽屋風景

『映画ストーリー』第8巻第11号通巻第99号(1959年11月1日発行、雄鶏社、212頁)

表紙:ダイアン・ベイカー
「浮草 脚本野田高梧・小津安二郎」(154―162頁)
※スチル、ロケショット、演出する小津監督他6葉、解説「紫綬褒章に輝く名匠小津安二郎が、『宗方姉妹』(新東宝)以来ひさしぶりに他社演出をする問題作で、小津監督が中村鴈治郎はもとより、グランプリ女優の京マチ子をはじめ若尾文子、野添ひとみ、川口浩らの大映スター陣をどう使いこなすか、野田高梧との構想三年にわたる脚本とあいまって、大いに興味をそそられます。出演者はその他、笠智衆、杉村春子、田中春雄、三井弘次ら小津作品常連のベテランに、前作『お早よう』の人気者島津雅彦坊やも加えた多彩さです。撮影がいつもの名コンビ厚田雄春でなく、大映が誇る名手宮川一夫であることも注目され、小津監督が大規模のロケを行ったのも珍しいことです」(162頁)

『映画情報』復刊第八十八号、通巻第二十四巻第十一号(1959年11月1日発行、国際情報社、62頁)

表紙:団令子
「浮草 旅まわりの一座を中心に人生の哀歓を描く小津監督の野心大作に大映オールスタアが登場‥」(30-31頁)
スチル8枚(うち小津監督2枚)

『公開迫る 浮草』(1959年11月、大映東京撮影所宣伝課、1頁)

「浮草 ”この人がいたから「浮草」を撮る気になった”とすごい惚れ込み様の中村鴈治郎にメーキャップの注意を与える小津安二郎監督」

『公開迫る 浮草』(1959年11月、大映東京撮影所宣伝課、1頁)

「浮草 島津雅彦くん(「お早よう」のオナラ坊や)を相手に”南国土佐を後にして”の新舞踊を踊る若尾文子の娘島田に花かんざしの艶で姿」

『公開迫る 浮草』(1959年11月、大映東京撮影所宣伝課、1頁)

「浮草 ”赤城の山も今宵を限り‥‥”沢正ばりの口跡もあざやかに手甲脚半にむしりのかつら、京マチ子の颯爽たるグラマーな国定忠治ぶり。」

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.3(1959年11月6日発行、大映東京撮影所宣伝課)

沢正ばりの口跡で
京の素晴らしいグラマー忠治

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.4(1959年11月6日発行、大映東京撮影所宣伝課)

思いきり踊る若尾文子
マア坊も小坊主で御愛嬌

「大映東京撮影所ニュース 浮草」No.1(1959年11月14日発行、大映東京撮影所宣伝課)

精魂傾けた四ヶ月
小津作品ここに完成

『週刊文春』第一巻第三十一号(1959年11月16日発行、文藝春秋新社、94頁)

表紙:武次晴美
「グラビア ふとんに坐った巨匠 『浮草』を撮る小津安二郎」(2―3頁)
※一部抜粋する。「専売特許ざぶとん演出 仕事中の小津安二郎をセットにたずねると、かならずといっていいほど、床にどっかとあぐらをかいている彼をみかける。キャメラを低くかまえるので、そうしないとファインダーものぞけないし、芝居もつけられないからだ。」「50本目の浮草映画 かれはいま大映で『浮草』を撮っている。かぞえてみれば、二十四歳ではじめて監督した『懺悔の刃』以来ちょうど五十本目の映画である。」
小津監督の写真はカラーである。

大映東京撮影所ビルボールド『浮草』(1959年11月17日発行、大映東京撮影所宣伝課)

「大映カラー・総天然色
 泣き笑い愛し別れて旅を行く庶民のくらしを哀歓こめて描き抜いた感動の名作!
 浮草 監督小津安二郎 かいせつ、ものがたり」
※発行日がないので封切日とした。

『週刊宇都宮映画新聞』(1959年11月17日発行、宇都宮映画新聞社、8頁)

「最高の感動と溢れる詩情!小津芸術の華ひらく!」(1頁)

『浮草』(1959年11月17日発行、大映株式会社、2頁)

「物語、解説、スタッフ、キャスト」(1-2頁)
※発行日がないので、封切日とした。

『浮草』(1959年11月17日発行、大映株式会社、5頁)

「スタッフ、キャスト、解説、スタヂオ・マイク、梗概」(1-3頁)
「”南国土佐-”のメロディに合わせて、京、若尾らの町廻り」(4頁)

『荻窪大映パルナスニュース』No.144(1959年11月17日、荻窪大映)

大映スコープ総天然色 浮草
スタッフ、キャスト、物語

『週刊平凡』第一巻第三十三号(1959年12月23日発行、平凡出版、104頁)

表紙:ビンボー・ダナオ、淡路恵子
「今週のハイライト 貞二のこない誕生日 33才になった佐田啓二」(97―99頁)
※一部抜粋する。「12月9日夜、高橋貞二が死の5分前までいたという横浜の小さなバーで、ささやかな誕生パーティーがひらかれていた。この日あつまったのは、33回目の誕生日を迎えた佐田啓二と益子夫人、それに二人の結婚式の媒酌人をつとめた小津安二郎監督とたった三人だけ‥(写真は高橋貞二の墓標の設計図を見る小津監督と佐田啓二)」(97頁)、「夜になって小津先生が横浜のマスコットへこいというので、女房とでかけていった。貞二が好んでいったバーで、事故の起こる五分前までいたバーだ。僕は十二月九日生れ、貞二はたしか一月二十日で、彼と僕とは四十日ぐらいの年齢差だった。いつもきまってほろ酔機嫌でやってくる彼は、僕の誕生日と知ってきたくせに、「なーんだ貫ちゃんの誕生日か‥」などとトボケた顔で言っていたものだ。マスコットにいても、いまだに貞二が半身になってドアを押してくるんじゃないかと、そんな気がしてしょうがなかった‥」(98頁)
「ギターを弾く佐田啓二、マンドリンを弾く小津監督、益子夫人」、「シルクハットの小津監督と益子夫人」、「シルクハットを佐田啓二に被せようとする小津監督」、「誕生日ケーキの前の佐田啓二、益子夫人、貴恵子ちゃん」のショット

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