全国小津安二郎ネットワーク

小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

1951年の関連文献・資料

全て見る(1376件)
書誌情報
1951
『キネマ旬報』復刊第8号(1951年2月1日発行、キネマ旬報社、104頁)

表紙:ヴィヴェカ・リンドフオルス
「日本映画No.7 宗方姉妹」(7頁)
「キネマ旬報1950年度ベスト・テン決定」(18-24頁)
※「宗方姉妹」は平均点76.2点で7位、1位は「今井正監督 また逢う日まで」

『アサヒ藝能新聞』通巻第二百六十三号(1951年6月3日発行、アサヒ芸能新聞社、15頁)

表紙:原節子(サイン)
「小津監督、半歳の構想熟す ”晩春”の姉妹篇 主演も同じく原」(3頁)
※冒頭を引用する。「麦秋 小津安二郎監督の”晩春”の姉妹篇としてすでに昨秋ごろから企画され、小津監督は野田高梧氏とともに茅ケ崎に引きこもって約半歳にわたり脚本を執筆にとりかかっていたが、このほどようやく脱稿 主役の原節子も”白痴”が上がったので、取りあえず、真夏にならない中に、背景になる奈良の風物を収めるべく、新緑の大和路ロケーションに出発した」
「今週の表紙 原節子」(4頁)

『映画ファン』第11巻第7号通巻第119号(1951年7月1日発行、映画世界社、94頁)

表紙:津島恵子
特集:松竹30周年記念
「スタジオ月報 ”麥秋”小津安二郎監督愈々撮影開始 原節子・淡島千景の初顔合せ」(50頁)
「蒲田大船よいところ 座談会 野口鶴吉、吉川満子、笠智衆、奈良眞養、中村登」(58―61頁)
三浦光雄「あの頃・あの時 蒲田の思い出」(62―63頁)

『新映画』第8巻第7号(1951年7月1日発行、映画出版社、84頁)

表紙:京マチ子
林勝俊「監督評伝 小津安二郎」(37頁)

『アサヒグラフ』第55巻第29号通巻第1404号(1951年7月11日発行、朝日新聞社、22頁)

表紙:加賀淳子
「名優小津の熱演ー映画-」(16頁)
※一部抜粋する。「スチール写真は映画の献立見本である。だからファン諸氏諸嬢の頭に或る幻想をうえつける魔力を潜ませていなくてはならぬ。ガラス越しに、某々スターの男性的な眼差しに心臓を射抜かれ、さては艶麗なる某々スターの媚態に「ツイ魔がさして」映画館にすいこまれるファンの数は少なくないそうだ。されば映画会社も人気スターの数奇をこらした扮装と歓喜、悲愁、希望、失意、あらゆる表情を撮り集めてああでもない、こうでもないと苦労しているのも無理からぬ話である。さてこれは松竹映画、小津安二郎監督「麦秋」の場合-鎌倉の某料亭の庭園を一日借り切り、小津監督が照明、結髪、小道具の面々、これに便乗する映画雑誌記者カメラマン数多を引具し、映画撮影ホンバンそこのけの細心な演出で「凝りに凝りまくった」スチール撮影風景である。」
グラビア7枚(全て小津監督)

『キネマ旬報』No.834 第十九号(1951年7月15日発行、キネマ旬報社、76頁)

表紙:ジイン・クレイン
グラビア「小津安二郎の麥秋」(1頁)
※「原節子、村瀬禅を演技指導する小津監督」、「笠智衆を演技指導する小津監督」
「内田岐三雄氏追悼」(29―32頁)
小津安二郎「古武士的な風格」(30頁)
※紹介しよう。「終戦の翌年の二月、僕が南方から還って来た時には、もう内田岐三雄はいなかった。南方には、十八年の六月に行ったのだが、最後に会ったのは、いつか、どこで、どんなふうに分かれたものか、今は、すっかり忘れている。これは、その前の日、ともに酒を飲んだ水町青磁の場合とちがってまた、頼りなく、はかない。内田岐三雄とは、僕が助監督の時分からの知合いだった。もう二十六七年も前のことになる。爾来、教えられるところ、甚だ多い。曲がったことの嫌いな男で、どこか古武士的な風格があった。何でもよく憶えていて、それがまた、まことに確かだった。大変惜しい男だった。」
「『麥秋』に慎重な小津監督」(40頁)
※「十四日クランク・インした『麥秋』は大和、鎌倉、大船近郊とロケを一応終了、七月三日よりセットに入った。クランクアップは八月下旬の予定であるが、消息通の予想では九月三日頃とのこと。脚本完成に約半歳を要している小津監督の慎重さを以てすれば、約三ヶ月の撮影日数も長いとは言えまい。上の写真は撮影開始前、小津監督の丁寧な注意に耳を傾ける出演者たち。左より佐野周二、小津監督、原節子、笠智衆、三宅邦子、高堂國典、野田高梧、山本武。」

『映画評論』第八巻第八號(1951年8月1日発行、映画出版社、122頁)

「特集:映画監督論」
津村秀夫「小津安二郎」(20‐23頁)
※一部引用する。「少なくとも戦争中の大活躍に引きかえ、戦後は急変して共産党に秋波を送ってみたり、かと思うとまたするりと逃げて見たりする人物にくらべると、人間的信頼がおける。彼と社会との間には確実にある一片の頑固な障壁はあろう。空気の流通は無論悪く、密室に彼は一人座している。彼を風俗作家などと思うのは大きな誤りで、風俗などには大して興味もないのである。ただ彼の趣味の窓を通してみた角度の中に入る世相風景の面白さが、ともすると風俗作家と錯覚させるのであろう。もし風俗作家というものを選ぶなら、故島津にしろ現代の黒澤明や吉村公三郎の方がより濃厚に風俗作家的資質を持っている。風俗作家というものは、おのが作物の中の人物にそう潔癖な好き嫌いを露骨にしては落第である。小津作品の人物を注意してみたまえ、どれもこれも似たりよったりで、小津好みの登場人物というもにはなかなかやかましい条件と規格が要るのである。(いや、ワン・カットの風景にすら小津好みの布置と条件が要るので、時として不自然に感じられることもある。」(22頁)

『映画ファン』第11巻第8号通巻第120号(1951年8月1日発行、映画世界社、94頁)

表紙:山口淑子
「花のパリーに花もう一つ」(15頁)
※花のパリにデコが行く。その送別会に集まった映画界のうるさがたから、デコの友達まで六〇人。森岩雄氏、川喜多長政氏、城戸四郎氏、高村潔氏、山本嘉次郎監督、小津安二郎監督、五所平之助監督、俳優、ジャーナリスト、等々、その外出席できなかった連中から電報、電話と大変な賑やかさ。小津監督と高峰秀子のショット。
「感激のおケイちゃん」(57頁)
※今や押しも押されもしない大スターの淡島千景にしてもこの感激とは、小津作品の魅力絶大というべきところ。「麥秋」の出演に際しての淡島千景について書かれている。
「特別映画物語 麥秋」(58―61頁)

『花椿』復刊第15号(1951年8月5日発行、東京銀座・資生堂出版部、20頁)

表紙:大谷伶子
「麥秋のお節ちゃん」(8―9頁)
※「間宮家の台所、原節子と三宅邦子、小津監督」「原節子、淡島千景、小津監督」、「村瀬禅君を演技指導する小津監督、原節子」、「出演者スナップ 右寄り笠智衆、三宅邦子、二本柳寛、原節子、佐野周二」

『毎日グラフ』第四年第二十三号通巻九十二号(1951年8月10日発行、毎日新聞社、26頁)

「麥秋のころの健康診断 話題の人 小津安二郎氏」(10-11頁)
※小津監督の写真4 「製作中は大船撮影所の中の監督部屋で暮している。その部屋はおびただしい書籍の氾濫で「これをこの前手にいれてね」といって見せてくれたのはフランスから届いたばかりの美術本3冊、絵は好きであるが、しかし「一番あなたに影響を与えたものは?」と聞いたら「やっぱり文学だ。音楽を聞いても、文学を通して音楽を理解しようとする。そういう習慣になっている。」

『キネマ旬報』第21號(1951年8月15日発行、キネマ旬報社、72頁)

表紙:Vivien Leigh
清水千代太「小津安二郎に悩みあり -『麥秋』のセットを訪れて」(22―23頁)
※冒頭を紹介する。「ステージに入ってみると、カットの間宮一家の記念写真を撮るので、小津安二郎は畳の上に坐ってスチル・キャメラを覗いていた。映画はもとよりのこと、すちる写真でも自分でのぞいて、注文を付けなければ気が済まないらしい。凝り性といえば凝り性、苦労性と言えるであろう。」

『新映画』第八巻第九號(1951年9月1日発行、映画出版社、84頁)

表紙:木暮實千代
グラビア「”麥秋”好調 小津安二郎、野田高梧の名コンビが描く」(3―5頁)
※「原節子」「小津安二郎、野田高梧」(3頁)、「佐野周二と原節子」(4頁)、「スチル写真の演出をする小津監督」他(5頁)
飯田心美「『麥秋』のシナリオ―小津と野田、再び力作を生む」(32―33頁)

『映画ファン』第121号(1951年9月1日発行、映画世界社、94頁)

表紙:角梨枝子
「『麥秋』の撮影始まる」(15―17頁)
※「原節子と佐野周二」、「スチル写真一枚撮るにしても小津監督は熱心である」、「ハンドバックの持ち方一つゆるがせにしない小津監督」、「明日に備えて音読みする右から野田、小津、原、二本柳」、「右から野田、小津、笠、三宅、二本柳、原、佐野さん達の勢ぞろい」他
「女優生活あれやこれや 座談会 杉村春子、原節子、淡島千景」(36―41頁)
「緊張の”麥秋”出演記 二本柳寛」(39―40頁)
「スタジオ月報 ”麥秋”鎌倉ロケ撮影快調 カットカットに慎重を期す小津監督」(65頁)
「皮肉な現象」(87頁)
※「麥秋」の料亭「多喜川」のセットでは、原節子さん、笠智衆さん、三宅邦子さんが食事を共にするところ‥」
「半面広告 麥秋」(裏表紙裏)

『キネマ旬報』No.837 第二十二号(1951年9月1日発行、キネマ旬報社、96頁)

表紙:リンダ・ダーネル
グラビア「麥秋 小津安二郎作品」(4―5頁)
※スチル「笠智衆、三宅邦子、原節子」「小津監督」、「高堂國典、笠智衆、東山千栄子、三宅邦子」「原節子、淡島千景、井川邦子」
「『晩春』は見合い結婚をする女性の話であった。こんどの『麥秋』は結婚の相手を自分で決める女性の話である。」

『SHOCHIKUZA NEWS』新装No.10(1951年9月14日発行、大阪・松竹座、8頁)

「麥秋☆人物紹介☆」(6頁)
「麦秋 十月五日封切迫る」(7頁)
※発行日がないので、今週の映画:「南風」の封切日を発行日とした。

『キネマ旬報』No.838 第23号(1951年9月15日発行、キネマ旬報社、80頁)

表紙:ジャネット・リイ
見開き広告「麦秋 名作「晩春」のスタッフ再び起つ!」(8-9頁)
「演出拝見 小津安二郎の巻」(29頁)
※冒頭を引用する。「小津安二郎の監督ぶりについて、様々な伝説的風評がある。セットの中は静かなることさながらお通夜の如くだ。NGがどれだけ出ようと気に入るまでは撮り直しをする、いつも低いアングルで撮るので、キャメラマンが寝そべりつづけ、お腹をこわしてしまう等々。本当だろうか?-幾分は本当である。ただ、小津監督の指揮が能率的なので余計なドタバタ騒ぎが起こらず静かなのであり、気に入るまで取り続けても俳優の粒が揃っているからNGの出ない本番だってあるのであり、たしかに低いアングルで寝そべりはするが何せ一番キャメラを覗くのは同監督であるからキャメラマンは腹をこわさずに済むだけのことなのである。」

『SHOCHIKUZA NEWS』新装No.12(1951年9月21日発行、大阪・松竹座、8頁)

「麥秋 キャスト、ものがたり」(4-5頁)
※発行日がないので、今週の映画『飛び出した若旦那』(瑞穂春海監督)の封切日とした。

『スクリーン・ステージ』第260号(1951年10月2日発行、スクリーン・ステージ新聞社、16頁)

表紙:原節子、淡島千景
「香り高き映画藝術の真髄 麥秋」(3頁)
出演者のことば(佐野周二、淡島千景、原節子、二本柳寛)
凝り屋の小津監督、珍しくクレーンを使用

『第八十一回都民映画 松竹作品麥秋 特別試寫會』(1951年10月2日発行、東京都教育廳、4頁)

「1951年10月2日(火)午後1時 於 神田共立講堂
 主催 東京都教育廳
 後援 毎日新聞社
 協賛 松竹株式会社
    映画世界社
 キャスト、解説、物語」

『松竹映画ウイークリー』No.159「麥秋・鞍馬の火祭」(1951年10月3日発行、松竹株式会社事業部、世界出版社、4頁)

「麥秋 スタッフ、キャスト、ものがたり」(2頁)

『麥秋』(縮刷シナリオ)(1951年10月3日発行、松竹株式会社、28頁)

三段組、発行日がないので、封切日とした。

『松竹映画PRESS』NO.188「麥秋」(1951年10月3日発行、松竹株式会社大阪支店映画部宣伝課、4頁)

「名匠小津安二郎監督作品 麥秋
香り高き小津映画藝術の華 待望一年有半玆に見事その眞髄を発揮した!!

 名作「晩春」の小津安二郎監督が最高のスタア陣を駆使して描く流麗感動の傑作!
 嫁ぐ日近く、乙女のこころに仄々とわく青春の感傷!
スタッフ、キャスト、解説、製作意図、ものがたり」(2-3頁)
「宣伝文案、放送原稿、カット」(4頁)

『SHOCHIKU EIGA PRESS』「麥秋」(1951年10月3日発行、松竹株式會社大阪支店映画部宣傳課、4頁)

「麥秋 宣傳文案 製作意図、スタッフ、キャスト、解説、放送原稿、物語」

『浅草国際劇場』No.66「GRAND REVIEW AKI no ODORI」(1951年10月7日発行、松竹株式会社事業部、14頁)

表紙:川路龍子
「麦秋 スタッフ、キャスト、物語」(9頁)

『キネマ旬報』復刊第25号(1951年10月15日発行、キネマ旬報社、96頁)

表紙:ルース・ローマン
滋野辰彦「日本映画批評 麦秋」(65-66頁)

『映画新潮』第2巻第6号(1951年11月1日発行、河童書房、42頁)

表紙:イングリッド・バーグマン
「名匠・小津安二郎」(8頁)
※麦秋を演出する小津監督のカット5、小津監督ポートレート
小津安二郎「映画への愛情に生きて」(15-17頁)
※一部抜粋する。「『麦秋』は『晩春』に一番よく似ているわけですが、自分としては、あの中で何を出してみたいかといえば、これは果たしてできるかできないかは分からないけれども。とにかく、劇的なものを減らして、表現されているものの中から余情というものが何となく溜ってきて、そういうものが、つまり一つの物のあわれになり、それがこの映画をみたあとで、たいへんあとくちのいいものになる-というようなできればいいと思って、やりはじめてみたのです。もっとも、それはでき上ってみて、写真にそれが出ていなくては何にもならないことだし、完成した上でないと何ともいえない話なのだけれども、狙いはそういったものなのです。つまり写真に十分芝居を盛りあげてゆくのでなくて、七分目か八分目をみせておいて、そのみえない所が物のあわれにならないだろうか、というのが狙いで。これが面白くゆけば、ぼくは将来そういったものを撮ってみたいし、またもし今度うまくゆかないならば、勉強し直して、どうやったら今後それがうまくゆくかを考えてみるつもりなのです。くり返していうようだが、つまり、小説なんかでいえば、行と行との間のニュアンスというか、とにかく感情をむき出しにして噛み合ってゆくというのでなしに、どこかで、何となく、そういうものを味わえるもの-ということなのです。だから、題材は、自分自身としては割合にぼうけんしているつもりなのです。もっともいままでにもそういうことが全然なかったとはいえないけれども、とにかく、もうそろそろそういうものを出してもいいのではないか、という気持でやっているのです。(考え考え、ぽつりと語り、またぽつりと語り、という調子。)(15頁)
※この「麦秋」の最後の追い込み時に、昼飯どき門前の食堂でインタビューした記事は、自分のこれからの映画について、小津監督がたいへん丁寧に質問に答えているものである。
「『麥秋』広告 憂愁ただよう人間詩情!貴品高き大傑作」(裏表紙裏)

『東京』第二巻第六号(1951年11月1日発行、東京出版、190頁)

表紙:原節子
「初顔合せ希望対談 美しきこころ 二本柳寛、原節子」(55-59頁)
※「麦秋」の一コマの原さんと二本柳さん(58頁)
桃栗三平「初秋の大船スタジオ漫歩」(124-125頁)
※「麦秋の3カット」

このページのトップへ

このホームページ内のテキスト・画像の無断使用はご遠慮下さい。