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小津監督を巡る文献・資料

小津安二郎を巡る関連文献・資料

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1942年の関連文献・資料

1942
『映画之友』第二巻第一號通巻第十三號(1942年1月1日発行、映画日本社、96頁)

表紙:原節子
「小津安二郎 台本を読むイラスト」(25頁)
「小津安二郎がんばる!松竹大船国民映画「父ありき」ロケ・スナップ」(57頁)
「父ありき」に対する全映画界の期待は大きいが、この作品の撮影進行状態はどうか。今ここに、期待の言葉にかえて、この作品が企画されてから今日(十二月一日)に至るまでの進行日程を記してみよう。
写真説明・伊豆ロケにおける、右から笠智衆、津田晴彦、小津監督、厚田撮影技師
「作品回顧 昭和十六年を振り返ってみよう!」「戸田家の兄妹」スチル(58頁)
「春の映画陣から」(62頁)「父ありき(4):小津安二郎が国民映画として烈々たる熱意を注ぐ一篇で‥」

『新映画』第二巻第一號(1942年1月1日発行、映画出版社、106頁)

表紙:「蘇州の夜」李香蘭
「最新製作ニュース 松竹 小津安二郎監督は、お正月映画が一斉に撮影を開始したので、「父ありき」の撮影を、お正月映画が上がるまで一時中止した。」(2頁)
「昭和十六年度最も印象強き演技を残す 水戸光子 写真は「父ありき」における水戸光子」(5頁)
「グラフィックス 新作品紹介 父ありき」(9‐11頁)
※「父ありき 小諸ロケーション」(9頁)、「父ありき 梗概」(10頁)、「父ありき演出スナップ三様」(10‐11頁)
「昭和十六年度最優秀八作」(60頁)
※昭和十六年度最優秀作品「戸田家の兄妹」、最優秀監督「小津安二郎・戸田家の兄妹」、最優秀脚本「小津安二郎・池田忠雄・柳井隆雄:戸田家の兄妹」、最優秀撮影「厚田雄春・戸田家の兄妹」
「七十二本を誰が作るか?」(91頁)
※一部抜粋する。「七十二本とは劇映画の新しい製作機構でつくられる製作本数である。-一流大家と目さるる演出家をもっともたくさん擁する会社はなんといっても松竹系である。小津安二郎、清水宏、溝口健二、内田吐夢、田坂具隆、伊藤大輔の六人。所謂巨匠六人が年一本の仕事をすると六本はこの人達にあてがはれるだろう。」

『神田松竹映画劇場』201號(1942年1月11日発行、神田松竹映画劇場)

「近日封切 父ありき
(演出)小津安二郎
(脚本)池田忠雄 柳井隆雄 小津安二郎
名匠小津安二郎の構圖遂に成り完璧の演技陣を揃へてここに登場!正に全映画界の視聴を集める待望の一篇!」

『神田松竹映画劇場』202號(1942年1月21日発行、神田松竹映画劇場)

「近日封切 父ありき
(演出)小津安二郎
(脚本)池田忠雄 柳井隆雄 小津安二郎
名匠小津安二郎の構圖遂に成り完璧の演技陣を揃へてここに登場!正に全映画界の視聴を集める待望の一篇!」

『新映画』第二巻第二號(1942年2月1日発行、映畫出版社、104頁)

表紙:「父ありき」佐野周二
裏表紙:一面広告「父ありき」
「年末から年始へ」(9頁)
※「②映画俳優のアトラクション出演もこのお正月が最後というので、各社とも強力なメンバーを編成して全国にその布陣を競ったこと今年ほど盛んなことはない。幾班にも分かれた大船の、大阪組はめづらしや小津安二郎が演出を担当した。佐野周二、高峰三枝子の二大スタアの一まくものである。」グラビア1枚
友田純一郎「想い出の名画」(30‐31頁)
※③「出来ごころ」、⑥「生まれては見たけれど」
「現代映画監督俳優名鑑 小津安二郎」(86頁)
※出生地が三重県と誤って記述されている。
「製作ニュース 松竹 小津安二郎監督は、「父ありき」を進行中。」(91頁)

『中劇だより』第拾七の六號(1942年2月11日発行、名古屋 中京劇場、4頁)

「本年度日本映画の運命を決す父ありき
 佐野周二・佐分利信・水戸光子・笠智衆・阪本武・津田晴彦の父ありき
 永遠の名画!「戸田家の兄妹」に次ぐ名匠・小津安二郎の父ありき
 戦争にゆく前から胸深く秘められていた父ありき
 戦場に於ても忘れ得なかった父ありき
 泣いても泣いても泣き切れぬ感動と憂愁の父ありき
 人間情愛の究極を貫く切々のちちありき」(表紙)

『映画』第二巻第二號(1942年2月1日発行、映画宣伝総合會、102頁)

「釣と小津安二郎」(グラビア)
「父ありき」信州ロケ
釣についてはいささか蘊蓄をもつ名匠小津が、太公望の心構えについて津田少年の手をとり盛んに演技指導をしています。
笠智衆「僕の一旗 「父ありき」に出演して」(48-49頁)

『雄大・明朗・健全 大松竹新春封切陣』(1942年3月、6頁)

1「蘇州の夜」(演出 野村浩将)
2「新たなる幸福」(演出 中村登)
3「風薫る庭」(演出 大庭秀雄)
4「父ありき」(演出 小津安二郎)
5「元禄忠臣蔵(後篇)」(演出 溝口健二)
※「新春の」とあることから、3月とした。

『新映画』第二巻第三號(1942年3月1日発行、映畫出版社、104頁)

表紙:「緑の大地」入江たか子・原節子
「昭和十六年度日本映画雑誌協会賞作品決る 劇映画では第一位が松竹小津安二郎氏の「戸田家の兄弟〔ママ〕」、第二位は東宝山本喜次郎氏の「馬」」両氏の写真。(4頁)
「第二回日本映画雑誌協会映画賞作品 第一位 戸田家の兄妹」(62―63頁)
「撮影所便り 松竹大船 小津安二郎監督は、「父ありき」の撮影を静かにすすめている。笠智衆、津田晴彦の幼年時代より、シーンは成長期にうつり、佐野周二、水戸光子でセット撮影に入った。」(98頁)
最終頁:父ありき一面広告

『映画之友』第二巻第三號(1942年3月1日発行、映画日本社、96頁)

表紙:「婦系図」山田五十鈴
「たのしく面白い映画を作れ 作家と語る 小津安二郎氏訪問」(22‐23頁)
「父ありき広告(半頁)」(24頁)
「出揃った春の映画陣 話題の新映画・場面特選集 父ありき」(62頁)
※小津監督の演出風景のスチル写真

『映画評論』第二巻第三號(1942年3月1日発行、映画日本社、118頁)

内田岐三雄「人物評傳 小津安二郎評傳」(50―53頁)
※巻頭グラビア4頁に、「父ありき」撮影中の小津監督の写真あり、また、76頁にも「父ありき」撮影中の小津安二郎の写真あり。
また、32頁には、「昭和16年度第二回日本映画雑誌協会映画賞作品・詮衡録」があり、日本劇映画第一位は『戸田家の兄妹』(本賞表彰状、賞牌・副賞金壹千圓也)である。45頁には、日本映画雑誌協会主催情報局後援国策映画脚本当選発表がなされている。応募総数251篇のうち、当選作は「雪」(黒澤明)。選者には、不破祐俊、松浦晋、伊奈信男、溝口健二、清水宏、島津保次郎、山本嘉次郎とともに小津安二郎がいる。
 内田論文の冒頭を引用する。「小津安二郎は、掘割と橋とが多い深川で生れた。時に明治三十六年十二月十二日。数え年で今年四十歳になる。ただし巷間、彼の生れを以てするに三重県となす者がある。これは彼が少年の日を伊勢にすごした事実から誤ってつたへたものであろう。正しくは、深川区亀住町となすべきである。」

『映画』第二巻第三號(1942年3月1日発行、映画宣伝総合會、102頁)

表紙:「緑の大地」池辺良・草鹿多美子
「ロケーションと監督さん 「父ありき」小諸ロケ」4スナップ(56―57頁)
水戸光子「随想 「父ありき」と私」(83―84頁)
「新映画紹介 父ありき」(99―100頁)

『澁谷松竹週報』第五十七號(1942年3月1日、澁谷松竹、4頁)

「名匠小津の父ありき
愛と信念の世界をこれほど克明に、微細に鋭いモラルの裏うちで描いた のはない。名匠小津の映画藝術への情熱は、遂に誇るべき最高傑作を生んだ!
笠智衆 老役の苦心
 私は、此の頃、他人の頭の型が気になって致方がありません。つくづく羨ましく思う。とても老役の頭にもってこいの良い型の頭をみかけるときがあります。そんなとき、その人の頭をむしりとって、自分の頭と据え換えたい衝動にかられます。ハッと気がいってヒヤッとすることも度々です。私など未だ一本の白髪さへない者が、平素友達仲間の、然も同年配の佐野周二君の父親になるんですから、容易なことではありません。舞台と違って写真は非常に正直です。人の眼は誤魔化せてもレンズはなかなか誤魔化せません。第一にまず扮装ですが、舞台ですと、絵具で皺を書けば一応老人にみへませう。所が、映画はさうは問屋が卸しません。髪で白毛頭にみせる所は、生の頭髪に白粉塗って工夫を凝します。」(3頁)
※佐野周二は、1912年生まれ、笠智衆は、1904年生まれで、8歳の違いである。

『昭和十六年度 優秀映画鑑賞會』(1942年3月13日、日本映画雑誌協會、4頁)

昭和十六年度 優秀映画鑑賞會 主催 日本映画雑誌協會
日本映画雑誌協會映画賞作品決定
昭和十六年度作品決定
劇映画
第一位 戸田家の兄妹
第二位 馬
第三位 みかへりの塔
第四位 藝道一代男
第五位 江戸最後の日
第六位 次郎物語
第七位 愛の一家
第八位 海を渡る祭禮
第九位 舞ひ上る情熱
第十位 指導物語

第一位 戸田家の兄妹
松竹大船映画 脚本 小津安二郎、池田忠雄
演出 小津安二郎 撮影 厚田雄治
主演 高峰三枝子、佐分利信、葛城文子
過去に「生れては見たけれど」「出来ごころ」、「浮草物語」、「一人息子」などの名作を持つ小津安二郎が、志那事変と共に応召して、征戦に従ふこと足かけ三年、帰還後、いろいろの事情から暫らくの沈黙の後に始めて贈るのがこの映画である。どこか麹町辺の大家の没落と、それにからまる一族間の頽廃した人情を凝視して、そうした階級が翳の如く負っているものを剰すところなく描破すると共に、それに鋭い鉄槌を加えて、その憎らしいまでに洗練された演出の巧緻、会話の妙に至っては、従来の日本映画にちょっと類例を見ないほどのものである。

「松竹直営札幌松竹座御案内」(1942年3月18日、札幌松竹座)

「父ありき 小津安二郎作品・完成迫る!
日本映画界の誇るべき名匠が「戸田家の兄妹」に次ぐ野心大作を陽春に放たんとす!
日本映画の前進!全日本の話題と期待は茲にその頂点に達す!
一人の父、一人のこの姿を東北の しい街に立たしめて小津はその影を鋭く彫り刻んだ!
迫真の情熱が した至純のエスプリは最高の映画を築き上げる!」

『邦楽座週報』第百十五号(1942年3月25日、丸ノ内邦楽座)

「父ありき」(1頁)
「映画界無比の名スタッフを以って松竹が世に問う日本映画最高の名作!
父ありき
四月一日公開予定」(3頁)

『朝日映画劇場』(1942年3月28日発行、朝日映画劇場)

橋本土地興行株式会社直営
父ありき 松竹映画野心大作(情報局國民映画参加作品)
小津安二郎演出
封切迫る!
公楽座いろは座に引続き皆様の朝日映画にて松竹大作公開
構想實に四年、名匠小津安二郎の藝術意欲は遂に昇華してここに結実す!日本藝術の至宝たる彼の演出技術が前進するところ、われらの夢は実現され、われらの歓びは約束される!

『松竹映画春の傑作集!父ありき 間諜未だ死せず、母子草」(1942年3月、松竹株式会社)

「「戸田家の兄妹」に続いて世に問ふ
名匠小津安二郎畢生の野心作!
情報局国民映画参加作品(帰還第二回作品)
父ありき
忘れていた人間心理の哀しい旋律をこの映画はとり戻した!
父親こそ我が子のすべてを知る!子こそ父親の心を知る!美しくも愁ひ多い父と子の運命行路に、切なき愛情が綾なす青春の横顔に、至純の愛情を築き上げた名匠小津安二郎の最高の精神は迫真の情熱を茲にもたらした!」

「迎春花/父ありき」(1942年3月)

「大封切迫る 父ありき
生きとし生けるものの魂をえぐる名画!
父と子の美しくも哀しき愛と運命を追求する日本映画界の至宝小津安二郎!」

『新映画』第二巻第四號(1942年4月1日発行、映画出版社、104頁)

表紙:「父ありき」水戸光子
グラビア「父ありき 水戸光子と佐野周二」(2頁)
グラビア「父ありき 演出する小津監督、水戸光子」(3頁)
グラビア「父ありき 笠智衆と佐野周二、厚田雄春と笠智衆・佐野周二、佐野周二」(6‐7頁)
グラビア「新しい松竹の布陣 監督陣 小津安二郎」
杉浦幸雄「セット撮影をみる 父ありきの撮影風景」(68頁)
「撮影所通信 松竹 小津安二郎監督は、「父ありき」の撮影を続行中。物語はすでに青年期に入り、佐野周二、佐分利信、水戸光子が主演している。連日セット撮影を続けていたが、さる四日より、伊豆湯ヶ島のロケーションにはいった。ここはさきに、少年期の魚釣場面撮影のため、笠智衆、津田晴彦がロケーションをしたところで、今度は笠智衆、佐野周二で、青年期の場面を撮影する。ロケーションからセットへ、セットからロケーションへ、「父ありき」の撮影の終局は近い。」(70頁)

『映画』第二巻第四號(1942年4月1日発行、映画宣伝総合會、102頁)

表紙:「第五列の恐怖」より轟夕起子
「陽春の松竹映画 父ありき(スチル2葉)」(14頁)
緒佐修「小津安二郎点描」(84―85頁)
※「父ありき」より、(1)スパイと間違えられた小津監督、(2)セットに只一人切り張りする小津監督、(3)親心を以て演出する小津監督でこうせいされている。

栞『父ありき』(1942年4月1日発行、銀座劇場)

佐野周二
クラブ乳液
裏面 「父ありき」が出来るまで

『父ありき』(1942年4月1日、松竹映画、12頁)

父ありき
松竹映画異色大作・情報局國民映画参加作品
南部圭之助「映画の技術と小津安二郎作品」(2頁)
「「父ありき」の脚本が出来るまで」(3頁)
「佐野周二・水戸光子」(4頁)
「佐分利信・笠智衆」(5頁)
「映画物語 父ありき 製作意図 演出性格 スタッフ 配役」(6‐7頁)
「撮影風景他」(8‐9頁)
「映画スチル他」(10-11頁)
「広告 ビタレイ錠 太陽製薬」(12頁)

横型のパンフレットで、「父ありき」のためだけの豪華版である。
清水宏監督作品「みかへりの塔」(1941年1月)も同サイズ(16頁)のパンフレットが作成されている。
参考までに、概要を掲載する。
「みかへりの塔とは何か」(2‐3頁)
筈見恒夫「『みかへりの塔』と清水宏」(4頁)
「ああ恩愛の絆!追慕の情に溢れる心の手紙!」(5頁)
「母を恋ふ歌」(6頁)
「院生両親生死調ほかデータ」(7頁)
「『みかへりの塔』に感激す」(9名)(8‐9頁)
「『みかへりの塔』場面集」(10-11頁)
「映画物語 みかへりの塔 配役 製作意図 梗概」(12頁)
「『みかへりの塔』の批評をお書きください。」(13頁)
「悩みの教育」(14頁)
「少年教護院現況一覧」(15頁)
「広告 芸道一代男 溝口健二作品」(16頁)

『映画旬報』第四十三號 特集號(1942年4月1日発行、映画出版社、94頁)

表紙:「父ありき」水戸光子・佐野周二
「撮影所通信 製作状況 松竹大船 情報局・国民映画参加作品の殿りを承はる小津安二郎監督「父ありき」は三月下旬には完成することとなった。」(45頁)

『銀座映画劇場観覧券』「父ありき」青版(1942年4月1日発行、銀座映画劇場)

「松竹映画異色大作 巨匠小津安二郎作品 父ありき」

『銀座映画劇場観覧券』「父ありき」茶版(1942年4月1日発行、銀座映画劇場)

裏には「日東紅茶直営 日比谷日東コーナーハウス」の広告があるが、当日限りのスタンプがある。17.3.27とある。封切日より前であるのが、謎。調査中。

『早稲田全線座』第101號(1942年4月1日、早稲田全線座)

「進め貫け米英に最後のとどめ刺す日まで!
父ありき 巨匠小津安二郎演出 近日上映」

『日本映画俳優新名鑑 映画新体制記念版』(1942年4月発行、日本映画俳優新名鑑刊行會)

附:劇映画三社陣営一覧、新撮影所案内図、現代二十大監督名鑑
※現代二十大監督名鑑として、右頁右から、溝口健二、小津安二郎、衣笠貞之助、清水宏、島耕二、熊谷久虎、田中重雄、成瀬巳喜男、阿部豊、内田吐夢。そして、左頁右から田坂具隆、島津保次郎、稲垣浩、吉村公三郎、山本嘉次郎、牛原虚彦、伊藤大輔、マキノ正博、豊田四郎、澁谷實が掲載されている。
小津安二郎の解説として、「松竹・大船、明治三十六年十二月、松阪市愛宕町(ママ)に出生。松竹蒲田撮影所技術部に入り、後大久保忠素監督に師事す、昭和二年十二月「懺悔の刃」を製作支那事變勃發と同時に應召同十四年春歸還。代表作は古く「一人息子」、近く「戸田家の兄妹」「父ありき」あり。」

『道玄坂映画劇場』No.71(1942年4月16日発行、道玄坂映画劇場、4頁)

「父ありきの笠智衆、津田晴彦」(1頁)
「ここに作家が作ったえいががある、快い映画の世界がある 父ありき」(2-3頁)

『新映画』第二巻第五號(1942年5月1日発行、映畫出版社、104頁)

表紙:「間諜未だ死せず」木暮實千代
「田中絹代作品集 ⑦「非常線の女」(小津安二郎監督作品)」(25頁)
「映画の中の子供 津田晴彦」(26頁)
「情報局委嘱國民映画受賞作品決定 情報局賞 「父ありき」演出小津安二郎松竹」(33頁)
南部圭之助「新映画評 父ありき」(44―45頁)
「演技よもやま」語る人:斉藤達雄、河津清三郎、岸松雄(68―78頁)

『日本映画』第七巻第五號 特輯 映畫の題材について(1942年5月1日発行、大日本映画協會、184頁)

表紙:青山二郎
中村武羅夫「国民映画作品総評」(5-12頁)
笠井信太郎「シナリオ作家研究 野田高梧論」(23―27頁)
吉田謙吉「映画美術時評 「父ありき」大映発足の日の多摩川撮影所を訪ふ」(28‐32頁)
「国民映画座談会 板垣鷹穂、飯田心美、飯島正、大塚恭一、津村秀夫、山根銀二、碧川道夫」(38―62頁)
上野耕三「『父ありき』評に名をかりて」(70―74頁)
渋川驍「洗練された描写力」(75―78頁)
古志太郎「父ありき」(78―83頁)

「弘前松竹大和館週報」No.129(1942年5月14日発行、弘前松竹大和館企画宣伝部、4頁)

「小津安二郎作品 父ありき
佐分利信・水戸光子・佐野周二・笠智衆
の魅力スターの息つまる最高演技を見よ!
文部省推薦・情報局賞獲得
一齣一齣に無限の感動を盛って小津安は遂にフ試合の真髄を握り映画藝術のすばらしき魅力を拓いた」(1頁)

『清水劇場週報』(1942年5月27日発行、清水劇場、4頁)

「愈々‥近日封切 映画界新発足の第一巨弾! 父ありき 名匠小津安二郎畢生の野心大作!}(表紙)

『都座ニュース』No.25(1942年5月28日発行、松竹直営七條都座、4頁)

「近日公開 文部省推薦映画 父ありき」(1頁)
「近日大公開 父ありき 巨匠 小津安二郎 演出」(3頁)

『日本映画』第七巻第六號(1942年6月1日発行、大日本映画協會、176頁)

「小津監督に物を聴く対談」(小津安二郎氏、上野耕三氏)(54―68頁)
※一部抜粋する。上野「『戸田家の兄妹』の主人公が最後の方で殴るところがありますね。私の聞いた範囲では大陸に一年やそこら行ったからとて、大陸風を吹かして殴るようないやなやつをそのまま出すということは、作家として怪しからぬじゃないかという意見が非常にあったのですね。そう言われて見ると、大陸風を吹かして殴る、成程、きざかな?という気も一寸したのですが、しかし、あれがあるので実は胸がすっとしたわけです。ああいう批評に対していろいろ考えて見た訳ですが、大陸風を吹かしてあそこで殴るというのではなしに、最初の場面で写真を撮るところからあの男があのまま殴ってもいいような人間として出されているじゃないか、そういうことを私は感じたわけです。それについて小津さんに何か語って貰うというのは、要求する方が無理かもしれませんが、ああいう風な一般の批評界の空気に対してどういう風にお考えておいでですか。」小津「やはり、大陸に一年言って来たから殴るというのでなしに、もともとあの男には、どこか一面に野性的なものを持たせたかったのです。これは僕の好みから云って、出て来る人間がどちらかと言えば、まあ欠点の少ない人間で、一見甚だ円満に見えて、努めてその円満なことを一つの処世術だと心得ているような、何と言いますか、昔小学校で級長をしていた、未だにまだその級長面の抜けない常識的な男を人間としてあまり好まないのです。」(54―55頁)
※現存する『戸田家の兄妹』のフィルムには、脚本にもある昌二郎が綾子の頬を打つシーンはカットされている。
他にも、小津「オーバーラップは嫌いですね。これはフェード・イン・アウトなどと較べて遥かに嫌いです。あの映画のオーバー・ラップはよかったという外国映画を見ても一向に感心しません。強いて言えば、無声時代のルービッチの『結婚哲学』の女同志の会話とか、チャップリンの『巴里の女性』での壁にかかった額などの使用法が最上のもので、僕も初期の『會社員生活』というのに一度使いましたが、使えば仲々便利で、まことにそれは簡単な方法ではあるけれど、どうも感心した技法ではないと思うのです。」(56―57頁)
伊丹万作「洛北通信」(74―78頁)
※「父ありき」の音声が聞き取りにくいことについて書いている部分がある。一部抜粋する。「私が、『父ありき』を観たのは、京都では一流の館であり、座席も一番上等の場所であったが、それでも聞き取れないせりふの方が多かった。声は絶えずわんわんと耳朶を打っているのであるが明瞭に意味の通じない場合が多いのである。そして一番判りにくいのが肝腎の父親のせりふであったため、私は非常に疲れてしまった。」「次に、口に合っていない部分が所々にあったことについては、これが日本で最も良心的な監督と言われる小津君の作品だけに私は非常に憂鬱なのである。」(77頁)
「父ありき」のフィルムの音の不明瞭さは現在でも際立っている(ゴスフェルモフォンド版はいささかましである)が、当時から、音声が聞き取りづらかったことが伊丹の指摘で分かるところである。伊丹は1900年1月2日生まれで、小津監督の学年で3年先輩である。
松浦晋「昭和十七年度春期 技能審査雑感」(102―105頁)
カット「左より佐分利、小杉、小津、一人置いて南部の各審査員」(103頁)
石川純「新聞映画欄側面月評 「父ありき」」(106―108頁)
樋口周一「観客の声」(109頁)※「最近見た数本の映画の中から、小津安二郎氏の力作「父ありき」を選出し、検討したいと思う。

『映画評論』第二巻第七號(1942年7月1日発行、映画日本社、118頁)

筈見恒夫「小津安二郎論」(26‐31頁)
「製作通信 東京 松竹大船映画 〇小津安二郎-次回作として、「未だ帰還せざるもの一機」が発表されているが、小津自身にはこれを制作する意思はないらしい。次回は、「ビルマ作戦」が本決まりとなるであろう。まだ、充分の資料もなし、具体的な進行はみていないが、小津監督は、出版物、新聞の切り抜き等で、大体の想をねっている程度である」(44頁)
※編集後記(118頁)に、以下の文章あり。「上海にある筈見恒夫氏から、『小津安二郎論』を寄せてきた。日本映画活躍の新天地上海に居を卜した筈見氏が、遠く故国日本の映画界に想いを馳せて、彼の畏友小津を論ずる。彼、東京にあった時と、今日上海における場合と、観点は自ら違うことだろう。ここにこの一文の意義があるといえよう。」

筈見恒夫『映画の傳統』(1942年7月15日発行、青山書院、377頁)

装填:小津安二郎
「小津安二郎断想」
「一、『戸田家の兄妹』」(「映画旬報」1941.2)(212―219頁)
「二、『父ありき』のシナリオ」(「映画旬報」1941.9)(219―226頁)
※218頁と219頁の間に、『戸田家の兄妹』のスチル写真あり。

『阿佐ヶ谷映画劇場・ニュース』(1942年7月23日発行、阿佐ヶ谷映画劇場、4頁)

「父ありきの佐野周二」(1頁)
「父ありき」(2-3頁)

『新映画』第二巻第八號(1942年8月1日発行、映画出版社、104頁)

表紙:「南の風」高峰三枝子
「製作ニュース 松竹大船 酷熱と悪疫に悩まされながら英蒋連合の大軍を撃滅、赫々たる武勲を樹てたビルマ作戦軍の偉勲を讃える小津安二郎監督の「ビルマ作戦」は小津監督自身脚本の執筆に当たっていたが、近く脚本も完成するのでいよいよ本格的準備に入ることになった。」(96―97頁)

『富士舘 戸田家の兄妹』(1942年9月26日発行、富士舘)

正に映画藝術の極致!名匠非凡の真価発揮
松竹大船豪華巨篇
戸田家の兄妹
愈々配給新規により紅系と決定! 第一回上映

『新映画』第二巻第十號(1942年10月1日発行、映画出版社、104頁)

表紙:高峰秀子
特集:海洋と映画
「小津安二郎放談 林勝俊」(16‐17頁)
※坊主頭の小津安二郎のカット
広告「演出佐々木康・構成小津安二郎 松竹映画魅力大作 美しい横顔」(28頁)
「製作ニュース(9月1日現在) 松竹大船 待機中であった小津安二郎監督の「ビルマ戦記」は、小津安二郎・斉藤良輔・秋山耕作の脚本も大体脱稿を見たので、十月中旬ごろ愈々現地出発と決定した。なお、脚本の決定稿は現地で組み立てる予定で、俳優も佐野周二が決定している。」(103頁)

『澁谷松竹映畫劇場週報』(1942年10月1日発行、澁谷松竹映画劇場、4頁)

「次週公開 美しい横顔 新女性風俗を描いて微笑と哀愁に彩る群像
 巨匠小津安二郎の校正の許に佐々木康が心魂を打込んでの演出」」(表紙)
「高田保作”シミヌキ人生”改題 美しい横顔 次週八日公開 構成小津安二郎」(2-3頁)

『日活直営八丁堀日活館』(1942年10月1日、八丁堀日活館、4頁)

表紙「美しい横顔」
松竹映画大船作品 「シミぬき人生」より『美しい横顔』
原作 高田保
構成 小津安二郎
演出 佐々木康
下町に描く仄々(ほのぼの)と温かい愛情の交流!大船ならではの芸達者たちが、独自の腕をふるって泪と爆笑に盛り上げる心嬉しい裏町人生!
※今秋上映の「鳥居強右衛門」(内田吐夢監督)の封切日とした。

『澁谷松竹映畫劇場週報』(1942年10月8日発行、澁谷松竹映画劇場、4頁)

「松竹映画 美しい横顔
 高田保原作「シミぬき人生」より
 構成 小津安二郎
 脚色 斎藤良輔
 同  長瀬喜伴
 演出 佐々木康
 配役 新田ユキ(暁美) 木暮實千代
    木内新兵衛    西村青兒
    息 邦夫     徳大寺伸
    娘 春江     春日英子
    長 どん     日守新一
 梗概 」2頁)

『映画旬報』第六十二號(1942年10月11日発行、映画出版社、54頁)

表紙:「英国崩るゝ日」紫羅蓮
「製作状況 東京 松竹大船撮影所 小津安二郎、斎藤良輔共同で執筆中の「ビルマ作戦」シナリオは未だ脱稿至らず、撮影班出発は十月末になる見込。正月映画は小津監督のビルマ行、野村監督の京都「京洛の舞」も年内に完成するかどうか未定にて結局、吉村公三郎か渋谷實の作品となる見込である。」(27-28頁)

『映画評論』第二巻第十一号(1942年11月1日発行、映画日本社、118頁)

「撮影所の動静」(70―73頁)
「松竹大船 小津安二郎は十月中にビルマ出発の予定であったが、依然、秋山耕作、齋藤良輔と慎重に脚本を推敲中で、どうやら十一月中には現地行きとなるだろう。彼の戦地より帰還第一回作品は、恐らく軍事映画だろうと云う我々の予想を見事裏切って、『戸田家の兄妹』、『父ありき』の一連の名作を発表した彼が、ここに始めて戦記映画を撮る。彼の戦線における体験が、彼の演出技法にプラスすれば、『ビルマ作戦』は蓋し軍事映画の圧巻となるであろう。」(71頁)

『映画評論』第二巻第十二號(1942年12月1日発行、映画日本社、118頁)

グラビア「ビルマへ行く小津安二郎」
※「遥かなり父母の国」作成のため遠くビルマへ立つ小津安二郎(中)、佐野周二(右)、笠智衆(左)は地図を前に打合せをしている
飯田心美「ビルマ戦線と小津」(29-31頁)
※冒頭を引用する。
 小津安二郎がビルマへ長期ロケして撮影するという「ビルマ作戦」は、ようやくシナリオ完成し、配役も決まって、近く制作関係者一行は内地を出発するとのことである。
 このシナリオは、斎藤良輔と秋山耕作の協力を得て小津が書いたものだそうであるから、いままでのシナリオとは幾分ちがったものを持っているのではあるまいか。ストオリーをよんだ感じでは、第一に戦場が舞台であるだけにまるでこれまでの小津作品とは別趣な雰囲気で満たされている。
 然し「ビルマ作戦」という題は、どうもこの映画にそぐはないように思われる。聞くところによれば、この映画は、「遥かなり父母の国」という題名が附せられているそうであるが、私などもそれには賛成である。この映画で作者小津が意図したものは、「作戦」ではなく、ビルマ作戦に従った兵たちの素描である。ここに描かれるものは競争に従うものの心であり、戦う兵たち一人一人の偽らざる姿だ。それゆえ、この狙いはそれほど大きな全貌的な題名を必要としないのである。云ってみれば、「麥と兵隊」その他一連の火野葦平の小説をそぞろに連想させるものであり、第一人章で描かれた小説体が映画に翻案された場合は、こうもなるであろうかと思わせる一種の心境的な従軍記なのである。
 人間の心境をキャメラにとらえることにかけては他にその比を見ざる小津の作である以上、たとえ主人公がどんな立場に置かれようとその角度に変化はないわけだが、こんどのこの作品において彼が意図する戦う兵の心にわれわれ民族の心理的特徴が日本的性格を持って的確に浮び出るならば、きっと興味ある映画になるにちがいないと私は思うのである。
河西二郎「小津安二郎の考察」(90-93頁)

『さあ!!二年目も勝ち抜くぞ 大東亜戦争勃発一周年』(1942年12月8日発行、松竹)

戦う松竹映画 南へ!大陸へ!躍進するこの偉容!!
「ビルマ作戦 遥かなり父母の国 
名匠小津安二郎の情熱がこの一作に爆発する
 日本映画界が生んだ最高の作家小津安二郎。彼は志那事変に欣然応召し、戦野に於て塁を犯し砦に迫ったあの感動を、帰還して三年のこんにち「遥かなり父母の国」に爆発させるのである。新生ビルマ再建とビルマ作戦の激烈さを劇化し、至高雄大の構想、完璧無類の配役陣を得てここに壮観の大劇映画を完成せんとす。ロケ隊一行は勇躍現地ロケに向かい、早くも全映画界期待の的となっている。
※ここに掲載されている4本のうち、「遥かなり父母の国」以外の「開戦の前夜」(吉村公三郎監督):1943年1月14日、「愛機南へ飛ぶ」(佐々木康監督):1943年9月10日、「戦いの街」(原研吉監督):1943年2月11日は公開されている。

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